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昭和転生~異世界帰りの勇者、昭和の球児に転生する~  作者: 熊族騎士団長


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25/25

第25話:昭和の便利屋の美学と手加減

 1976年(昭和50年)、五月。

 ゴールデンウィークの暖かな日差しが降り注ぐ、豊稲田実業学校野球部のグラウンド。

 大賀ホールディングスの莫大な寄付によって新設されたプロ顔負けの室内練習場や、最新鋭のピッチングマシンが唸りを上げる中、新入部員たちは泥にまみれて白球を追っていた。

 だが、その最新設備以上に、部員たちや首脳陣の精神を激しく揺さぶり、根底から狂わせていたのは、一人の新入生の存在だった。


 * * *


 side 和泉 四十一歳 豊稲田実業野球部 監督


「……おい、村上。また大神はあそこを守っているのか」


 ベンチからシートノックを見守っていた俺は、隣に立つ三年生の主将・村上に、こめかみを押さえながら問いかけた。


「は、はい、監督。さっきまでファーストで軽快に捌いていたかと思ったら、今はサードに入って、その前はブルペンでキャッチャーの防具をつけてボールを受けてました」

「そして、今はライトか」


 俺の視線の先、ライトのポジションで、180センチ、85キロのギリシャ彫刻のような肉体を躍動させている一年生――大神将太が、ふわりと上がったフライを余裕の足取りでキャッチし、内野へふんわりと山なりの送球を返していた。


 入部初日。俺は、大神が軽く投げた球が、三年生のキャッチャーをミットごと吹き飛ばすのを見た。あの時、球速は間違いなく140キロに迫っていたはずだ。

 超高校級、いや、歴史に名を残す大エースの誕生を確信し、俺は武者震いした。

 ところが、いざ本格的な実戦練習が始まると、大神は俺の期待を(悪い意味ではなく、あまりにも奇妙な形で)完全に裏切ったのである。


 マウンドに上がった大神が投げるストレートは、せいぜい120キロ台。高校生としても「ちょっと遅いかな」というレベルの球威に成り下がっていた。

 その代わり、彼は打者の手元で鋭く落ちるフォーク、右へ左へと曲がるスライダーやシュート、さらには大きく縦に割れるカーブといった、多彩すぎる変化球を精密機械のようなコントロールで投げ分け、上級生の打者たちをいとも簡単に手玉に取ってしまったのだ。


『……大神。お前、入部初日のあの剛球はどうした? 肩でも痛いのか?』


 数日前、俺はたまらず大神を監督室に呼び出し、問い詰めた。

 大賀ホールディングスの御曹司(という噂)であり、豊実のアイドル(男子校だが)彼を指導するのは恐ろしかったが、野球人の血が疼いたのだ。


『いえ、肩は絶好調ですよ、監督』


 大神は、あの誰にでも好かれる爽やかな笑顔で、こともなげに答えた。


『俺、球遅いじゃないですか。だから、変化球で散らして打たせて取るスタイルが合ってると思うんですよね』

『お、遅い!? 馬鹿野郎、お前が入部初日に投げた球は……!』

『あれは、マウンドの傾斜でたまたま勢いがついただけの「まぐれ」です。それに、ずっと全力で投げてたら疲れちゃいますし』


 たまたまでキャッチャーを吹き飛ばせるわけがない。だが、大神の目は「これ以上は詮索するな」と静かに告げていた。

 俺は話題を変えた。


『百歩譲って、ピッチャーのスタイルはお前の好きにしろ。だが、なぜお前は色々なポジションを転々とするんだ? ファースト、サード、外野、おまけにキャッチャーまで……。お前なら、マウンドに専念すれば間違いなく大エースになれる。エースで四番。それが高校野球の花形だろうが!』


 昭和のこの時代、野球といえば「一つのポジションを泥臭く極めること」が美徳とされていた。あちこちのポジションを守る選手は「器用貧乏」や「便利屋」と呼ばれ、レギュラーになれない半端者というレッテルを貼られがちだったのだ。


 だが、大神は困ったように眉尻を下げて笑った。


『監督のおっしゃることはわかります。でも、俺、飽き性なんですよ。ずっとマウンドにいると景色が変わらなくて退屈しちゃうっていうか……。それに、まだ一年生ですし、自分の可能性を色々探してみたいんです。どこでも平均的に守れる「便利屋」の方が、俺の性に合ってるかもしれません』


 便利屋、だと。

 180センチの彫刻のような肉体を持ち、他校の女子が校門に列をなし、全国模試で意図的に手加減をして四位に食い込むような底知れぬ頭脳を持つ男が、か?


「……監督。大神は、手加減をしているんでしょうか」


 隣の村上主将が、恐ろしいものを見るような声で呟いた。


「手加減、かはわからんが、あいつが必死になったところ見た事が無い。あいつは、野球という競技そのものを『盤上のゲーム』のように俯瞰して、遊んでるのかもしれんな」


 俺は呻くように言った。

 本気を出せば、一人でチームを全国制覇に導けるかもしれない怪物。それが、あえて爪を隠し、「器用で、ちょっと変化球の巧い、どこでも守れる便利屋の一年生」という絶妙なポジションを演じている。

 なぜそんな真似をするのか、俺には到底理解できなかった。だが、彼が一年生にして背番号をもらい、初の対外試合となる今日の練習試合でベンチ入りすることは、誰一人として異論を挟めない絶対的な事実だった。


 * * *


 side 権田 十八歳 練習試合対戦校 帝都大付属高校野球部 三年生 四番打者 


「……おい、聞いたかよ。今日の相手の豊実、一年坊主がベンチ入りしてるらしいぜ」


 一塁側ベンチでスパイクの紐を結びながら、俺はチームメイトの噂話に鼻を鳴らした。

 俺たち帝都大付属は、都内でもベスト8の常連である強豪校だ。対する富実は、大隈 定春を輩出した名門とはいえ、ここ数年は甲子園から遠ざかっている。

 しかも、体格至上主義のこの時代に、ひよっこの一年生を春の練習試合でベンチに入れるなど、豊実の首脳陣もよほど人材不足に陥っているのだろう。


「名前は大神って言うらしい。なんか、ものすげぇイケメンで、他校の女が毎日出待ちしてるとか……」

「ケッ、顔だけの優男かよ。俺の打球で泣かしてやるぜ」


 俺はバットを掴み、グラウンドを睨みつけた。

 試合は五回裏を迎え、2対1で俺たちがリードしていた。富実のピッチャーは三年生のエースだが、そろそろ球威も落ちてきている。

 ツーアウト、ランナー二塁。打席には四番の俺。追加点の絶好のチャンスだ。


「タイム! 選手交代!」


 豊実の和泉監督がベンチから身を乗り出し、審判に告げた。

 ピッチャーの交代かと思いきや、交代を告げられたのはライトの選手だった。

 そして、豊実のベンチから、背番号二桁の真新しいユニフォームを着た選手が、小走りでライトの守備位置へと向かっていく。


「……なっ」


 俺は、ネクストバッターズサークルでその姿を見た瞬間、言葉を失った。

 デカい。

 遠目からでもわかる、その異常なまでの肩幅と胸板の厚さ。太ももは丸太のように太く、ユニフォームの生地がはち切れんばかりに張っている。

 顔はヘルメットの影で見えにくいが、その歩く姿勢から放たれるオーラは、到底15歳の少年が発していいものではなかった。


「……あれが、噂の一年坊主かよ。大の大人じゃねぇか」


 背筋に冷たいものが走ったが、俺はすぐにそれを振り払ってバッターボックスに入った。

 デカいだけの大根役者だろう。外野守備なんて、経験と判断力がすべてだ。

 豊実のピッチャーが投げた初球。少し甘く入ったカーブを、俺は力一杯フルスイングした。


 カァァァァンッ!!


 完璧な手応え。

 打球は、ライト線のギリギリ、ファウルライン際を強烈なライナーで飛んでいく。

 抜けた。長打コースだ。二塁ランナーは余裕でホームに還れるし、俺もツーベースは固い。


「回れ、回れェッ!!」


 三塁コーチャーが腕をぐるぐると回す。

 だが、俺が一塁ベースを蹴ろうとした瞬間、信じられない光景が視界に飛び込んできた。


 ライトに入ったばかりのあの巨大な一年生――大神が、あり得ないほどの俊足でライト線の打球を追いかけていたのだ。

 歩幅が異常に広く、まるでチーターが獲物を追うような滑らかで爆発的なスプリント。

 そして、ファウルラインを割るか割らないかのギリギリの地点で、大神はスピードを一切緩めることなく、左手のグローブを逆シングル(バックハンド)で差し出した。


 パァンッ!!


「……捕った!? あの弾丸ライナーを、走りながらバックハンドで!?」


 ベンチから悲鳴のような声が上がった。

 昭和の高校野球で、外野手が走りながらバックハンドキャッチを試みるなど「基本に忠実でない怠慢プレー」として監督から鉄拳制裁を食らうのがオチだ。両手で確実に捕りに行くのが常識である。

 だが、大神のそのキャッチは、あまりにも流麗で、まるでプロ野球のハイライト映像を見ているかのような洗練された動きだった。


 ツーアウト。だが、打球は犠牲フライには十分な深さだ。

 捕球を確認した二塁ランナーの先輩が、三塁ベースを蹴って猛然とホームへ突っ込む。


「刺せるわけがねぇ! そこからホームまでは距離がありすぎる!」


 俺は一塁ベース上で足を止め、そう叫んだ。

 ライトの深い位置。体勢は逆シングルで捕球した直後であり、完全に崩れているはずだ。ここからホームへ正確な送球など、プロの強肩外野手でも至難の業だ。


 しかし。

 大神は、捕球したその反動を一切殺すことなく、右足を踏み込み、テイクバックを極端に小さくした、まるで内野手のようなコンパクトな腕の振りでボールを投じた。


 ヒュッ!!


 風を切り裂くような、甲高い音が球場に響いた。


「…………え?」


 俺の目は、その送球の軌道を完全に捉え損ねた。

 普通の外野からのバックホームは、大きな放物線を描くか、途中でワンバウンドさせるのが定石だ。

 だが、大神の右手から放たれた白球は、まるで重力を無視したかのように、地上から約二メートルの高さを、一直線にホームベースへと向かっていったのだ。

 しかも、信じられないことに、そのボールはホームベースの数メートル手前で「フワッ」とホップするようにわずかに浮き上がり、そのままノーバウンドでキャッチャーのミットに、寸分の狂いもなく突き刺さった。


 ズバァァァァンッ!!!


「ア、アウトォォォォォッ!!!」


 球審の絶叫が響き渡った。

 ホームに滑り込んだ二塁ランナーは、ボールがミットに収まってから一秒以上遅れてベースに触れていた。完全なるタッチアウト。

 スリーアウトチェンジ。


「……な、なんだよ、今の送球……」

「バケモノか……? あんな体勢から、ノーバウンドで……しかも、あのボール、最後浮き上がらなかったか!?」


 敵味方問わず、グラウンドにいる全員が、ライトの定位置で「ふぅ」と軽く息を吐いている怪物一年生を、畏怖の目で見つめていた。


 * * *


 五月下旬。

 初夏の陽光が照りつける神宮第二球場。春季東京都高等学校野球大会の予選二回戦は、強豪ひしめく東京において、いわば夏のシード権を懸けた前哨戦として独特の熱気を帯びていた。


 豊稲田実業学校野球部は、初戦の練習試合で鮮烈なデビューを飾った一年生の「便利屋」――大神将太を、この公式戦でもスタメン(六番・サード)で起用していた。

 この時代、一年生が春の公式戦でスタメンに名を連ねることは異例中の異例である。だが、富実のベンチに座る三年生たちの中に、それを不満に思う者は一人としていなかった。

 彼らはすでに、グラウンドで躍動するその180センチ、85キロの彫刻のような肉体が放つ、圧倒的な「格の違い」を本能レベルで刷り込まれていたからだ。


 そしてこの日、対戦相手である城南工業のナインと、バックネット裏を埋め尽くした観客たちは、日本の野球史において数十年先を行く「未知の技術」と「洗練」を目の当たりにすることになる。


 * * *


 side 木崎 三年 17歳 城南工業高校野球部 正捕手


「……おいおい、豊実の連中、一年坊主をスタメンで使ってきやがったぜ。舐められたもんだ」


 三回表、豊実の攻撃。俺はホームベースの後ろでキャッチャーマスクを被りながら、舌打ちをした。

 ツーアウト、ランナーなし。バッターボックスに向かってくるのは、背番号『15』をつけた一年生だ。

 名前は大神と言ったか。確かに体格は大人顔負けで、顔もやけに整っている。だが、高校野球の恐ろしさを知らないひよっこだ。俺のリードで、うちのエースのインコース攻めで腰を抜かさせてやる。


「初球、インハイのストレートだ。思い切り抉ってやれ!」


 俺がサインを出し、ミットを構える。

 マウンド上のエースが大きく振りかぶり、渾身のストレートを投げ込んだ。

 内角高め、打者の胸元をえぐる厳しいコース。普通の一年生なら、のけぞって尻餅をつく球だ。


 だが。

 バッターボックスの大神は、微動だにしなかった。

 いや、のけぞるどころか、その完璧な姿勢を一切崩すことなく、まるで飛んできたハエを払うかのように、信じられないほどコンパクトで鋭いスイングを繰り出したのだ。


 カァァァァンッ!!


「……なっ!?」


 甲高い金属音。

 打球は、俺が立ち上がる間もなく、三遊間を弾丸ライナーで真っ二つに割っていた。

 レフトが慌てて前進してボールを処理する。記録はクリーンなレフト前ヒット。


「バ、バカな……あの厳しいインコースを、あんな軽く振って……」


 俺は唖然として一塁ベース上を見た。

 大神は、全く力んだ様子もなく、涼しい顔でファーストコーチャーと軽く言葉を交わしている。

 フルスイングしたわけではない。ただ、ボールの軌道にバットの芯を正確無比に合わせただけのように見えた。だが、その打球の速さは異常だった。スイングスピードそのものが、次元が違うのだ。


「……気にすんな! 次は七番だ、下位打線だぞ! ゲッツー狙うぞ!」


 俺はエースに大声で発破をかけた。

 ツーアウトとはいえ、ランナーは一塁。豊実は大隈 定春を輩出した伝統校だが、機動力(盗塁)をガンガン仕掛けてくるタイプのチームではない。

 それに、あの巨大な体格の一年生だ。長打力はあっても、足はそこまで速くないはずだ。俺の強肩なら、仮に走ってきても余裕で刺せる。


 次打者への初球。

 エースがモーションに入った瞬間。


「走ったァッ!!」


 俺の視界の端で、一塁ランナーの大神がスタートを切った。

 俺はミットで球を捕球するや否や、素早く立ち上がり、二塁ベースへ向かって矢のような送球を放った。

 完璧なタイミング。送球のコントロールも、ショートのグラブにピタリと収まるストライク送球だ。


「もらった!!」


 俺はアウトを確信し、拳を握りしめた。

 ショートがベースカバーに入り、ボールを捕球してタッチにいく。ランナーの大神は、まだベースの手前だ。完全に俺の肩の勝ちだ。


 その時だった。

 俺の目に、信じられない光景が飛び込んできた。


 通常、昭和の高校球児の盗塁といえば、土煙をもうもうと上げてベースに頭から突っ込むヘッドスライディングか、あるいは泥だらけになってベースを蹴り上げるような猛烈なスライディングが相場である。

 だが、大神のスライディングは、そのどちらでもなかった。


 彼は、トップスピードのまま二塁ベースに到達する直前、左足をスッと前方に伸ばし、右足を折りたたむような姿勢をとった。

 そして、グラウンドと身体が接触する摩擦を極限まで殺すかのように、お尻から太ももにかけて滑らかに土の上を滑ったのだ。

 まるで、氷の上を滑るアイススケート選手のように。あるいは、重力を無視して地面を低空飛行する忍者のように。

 土煙は、驚くほど少なかった。


「な、なんだあの滑り方は!?」


 ショートがタッチにいくが、大神の伸ばされた左足のスパイクは、送球が届くよりもコンマ数秒早く、スルリとベースの角を捉えていた。

 それだけではない。

 大神は、ベースに到達したその強烈な勢いと推進力を全く殺すことなく、グラウンドに『手をつくことすらなく』、折りたたんでいた右足のバネを利用して、スライディングの軌道のまま、スッ……と直立姿勢へと立ち上がったのだ。


「セーフッ!!」


 塁審の両手が大きく広げられる。

 俺は、キャッチャーマスク越しに、その流麗すぎる一連の動作を見て、全身の鳥肌が総毛立つのを感じた。


 減速しないスライディング。

 手をつかずに、滑った勢いのまま立ち上がるスマートさ。(※のちにメジャーの俊足選手が見せることになる、ポップアップ・スライディングの極致である)。

 昭和の泥臭い高校野球において、それはまるで異星人のテクノロジーを見せつけられたかのような、強烈なカルチャーショックだった。


「……なんなんだ、あいつは。気味が悪いほど滑らかじゃねぇか……」


 ショートの先輩も、タッチを空振りしたグラブを見つめたまま、呆然と二塁ベース上の大神を見上げていた。


 * * *


 side 村上 三年 十七歳 豊稲田実業野球部 主将・


「……おい、見たかよ今の」


 三塁側ベンチ。俺は、手すりを握りしめたまま、隣に座る和泉監督に震える声で話しかけた。

 和泉監督も、完全に言葉を失い、目を見開いたまま二塁ベース上の大神を凝視していた。


「あんなスライディング……見たことがない。スピードが全く落ちていなかった。それに、あの立ち上がり方だ。ユニフォームの膝が、ほとんど汚れていないぞ」


 昭和の野球界では「ユニフォームを真っ黒にしてナンボ」「ヘッドスライディングこそが気迫の証」という精神論がまかり通っている。

 だが、大神の今のアメリカ仕込み(実際には未来のメジャーリーグ仕込みだが)のスライディングは、そうした精神論を「非効率な泥遊び」として一蹴するような、極めて合理的かつ洗練された技術の結晶だった。


「……あいつ、本当に全力で走っていたのか?」


 俺は、ポツリと漏らした。

 あのスライディングのあまりの滑らかさと、直立した後の涼しい顔。息一つ切らしていないその姿を見ていると、まるで「まだ七割程度の力しか出していませんよ」とでも言われているような、得体の知れない余裕を感じてしまうのだ。

 初戦のレーザービームの時もそうだ。あいつは常に、己の圧倒的な身体能力を「手加減」というオブラートに包み隠し、周囲を幻惑しているのではないか。


 だが、俺たちが技術的な驚愕に囚われている間、バックネット裏の観客席では、全く別の次元の「事件」が起きていた。


 * * *


 side 由美 十六歳 他校の女子高生


「キャアァァァァァッ!! 将太くぅぅぅんッ!!」

「かっこいいーッ!!」


 神宮第二球場のバックネット裏は、豊実の生徒ではなく、私を含めた他校のセーラー服やブレザーを着た女子高生たちによって、完全に占拠されていた。

 目的はもちろん、豊実の背番号15。あの、奇跡のような美貌と完璧なスタイルを持つ一年生、大神将太くんを一目見るためだ。


 彼がヒットを打ち、二塁に盗塁を決めた瞬間。

 その流れるような、まるでダンスのステップのように美しいスライディングと、スッと立ち上がる姿に、私たちはすでに黄色い悲鳴を上げていた。

 泥臭くて汗臭い高校野球のイメージが、彼一人の存在によって、まるで海外の青春映画のワンシーンのように塗り替えられていく。


 でも、私たちが本当に雷に打たれたようにノックアウトされたのは、その直後のことだった。


 二塁ベース上に立った大神くんは、普通なら顔の汗をユニフォームの袖や、帽子を脱いで腕で乱暴に拭うところだ。それが昭和の男子高校生の普通の仕草だ。

 だが、彼は違った。


 大神くんは、真っ白なユニフォームのズボンの後ろポケットから、スッ……と、折りたたまれた『純白のハンカチ』を取り出したのだ。

 そして、帽子を少しだけ浮かせると、その清潔な白い布で、額に浮かんだ汗を、ポンポンと上品に、そして優雅に拭ったのである。


「…………ッ!!」


 一瞬、バックネット裏の女子たちの呼吸が止まった。

 炎天下のグラウンド。砂埃の舞うベース上。

 そこに立つ、一八二センチの筋骨隆々たる巨体の青年が、まるで社交界の貴公子のように、純白のハンカチで汗を拭うそのアンバランスな美しさ。

 その所作には、泥臭さなど微塵もない。圧倒的な「清潔感」と「気品」が溢れ出していた。


「ハ……ハンカチ……! 将太くん、ハンカチで汗拭いてる……ッ!!」

「嘘でしょ、素敵すぎる……! どうしよう、鼻血出そう……ッ!!」


 次の瞬間、球場が割れるほどの、絶叫に近い悲鳴の嵐が巻き起こった。


「将太くぅぅぅんッ!! こっち向いてぇぇぇッ!!」

「そのハンカチ私にちょうだいィィィッ!!」


 女子たちの熱狂は、もはや暴動の一歩手前だった。

 当時の高校野球で、試合中に私物のハンカチで汗を拭う選手など、前代未聞である。(※のちに「ハンカチ王子」として社会現象を巻き起こす投手が現れるのは、ここから三十年も先のことだ)。

 グラウンドで戦っている城南工業の選手たちも、豊実の先輩たちも、球審すらも、バックネット裏の異様な熱狂にドン引きして、完全にペースを乱されていた。


 * * *


 side 城南工業高校野球部 監督 五十歳 


「……なんだ、あの騒ぎは。ここはコンサート会場か!」


 三塁側ベンチで、俺は怒鳴り声を上げた。

 だが、俺の怒りの矛先は、女子高生たちの嬌声よりも、二塁ベース上で涼しい顔をしてハンカチをポケットにしまっている、あの豊実の一年生に向いていた。


 あの盗塁。そして、あの立ち上がり方。

 素人目には「泥がついていない、綺麗なスライディング」としか映らないだろうが、長年野球を見てきた俺にはわかる。

 あれは、肉体のバネ、体幹の異常な強さ、そしてグラウンドとの摩擦係数すら計算し尽くされた、極めて高度な身体操作の賜物だ。

 それを、15歳の少年が、息一つ乱さずに「平然と」やってのけたのだ。


「……豊実の和泉の奴、とんでもないバケモノを隠し持っていやがったな」


 俺は、マウンドで完全に顔面蒼白になっているうちのエースを見て、この試合の敗北を予感した。

 ただの野球のエリートではない。あいつの存在自体が、グラウンドの空気を支配し、敵の戦意を根こそぎ奪っていく。


 昭和50年、春。

 日本の高校野球に、土煙と汗臭さを嘲笑うかのような「白亜のハンカチ」と「スマート・スライディング」が持ち込まれた。

 大賀ホールディングスの影の支配者であり、アメリカを熱狂させた覆面歌手『S』の正体でもあるその少年は。

 自らの圧倒的なスペックを「手加減」という名のベールで覆い隠しながらも、その隠しきれない異次元の洗練度によって、昭和の泥臭い野球界を、容赦なく、そして華麗に蹂躙し始めていた。


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