第23話:昭和の入試採点と、第四位のバケモノ
1974年(昭和49年)、二月。
凍てつくような寒風が吹きすさぶ新宿区・富稲田。蔦の絡まる伝統と格式の富稲田実業学校高等部の校舎内では、数日前に実施された入学試験の採点業務が、連日徹夜の突貫作業で行われていた。
この時代、難関私立校の入試採点は、教師たちが総出で一枚一枚赤ペンを走らせる、神経をすり減らす泥臭い手作業である。特に早実の入試問題は、重箱の隅をつつくような難問と、深い思考力を問う記述問題が多く、採点者にも高い集中力が要求された。
だが、その張り詰めた採点室の空気を、一人の数学教師の戸惑うような声が破った。
* * *
side 佐久間 四十代 豊稲田実業学校 数学教諭 入試担当
「……なんだ、この答案は」
私は、手元の一枚の答案用紙をまじまじと見つめ、眉間を深く揉みほぐした。
受験番号『0524』。
豊実の数学の入試問題は、大問1が「基本的な計算問題や小問集合(五問)」であり、ここで確実に点を稼がせる構成になっている。基礎学力があれば誰でも解ける、いわばサービス問題だ。
だが、この『0524』の答案は、その大問1の問1から問5までが、見事に真っ白なのだ。
計算の跡すら一切ない。完全に意図的に飛ばしている。
緊張で頭が真っ白になり、基礎問題すら解けなくなった悲惨な受験生か……と、私は最初はそう思った。
しかし、視線を下に移した途端、私の赤ペンを持つ手は完全に硬直した。
「……正解。これも正解……。嘘だろ、あの捨て問題まで完璧な記述で解き切っているのか!?」
大問2以降の、大学受験生でも頭を抱えるような複雑怪奇な空間図形の切断問題、そして何十行にも及ぶ論理的思考を要求される証明問題。
それらがすべて、まるで模範解答をそのまま写し取ったかのように、一切の無駄のない美しい数式と論理展開で完璧に記述されていたのだ。
私は急いで採点基準と照らし合わせた。
大問1の失点(約十点分)以外は、すべて満点。
極度のアンバランス。明らかに異質な知性。
「……おい、佐久間先生。ちょっといいか」
隣のデスクで国語の採点をしていた同僚が、青ざめた顔で立ち上がった。彼の手にも、一枚の答案用紙が握られている。
「この答案なんだが……大問1の、一番簡単な漢字の読み書き五問だけが白紙なんだよ。だが、後半の長文読解の記述は、大人の評論家顔負けの完璧な文章で書かれている。……受験番号『0524』だ」
「なっ……!」
私は立ち上がり、採点室を見回した。
英語の担当教諭も、理科の担当教諭も、社会の担当教諭も、皆一様に、狐につままれたような顔で手元の答案を見つめていた。
「まさか……英語も、最初の単語問題五つだけが白紙か?」
「ええ。ですが、後半の長文和訳は、ネイティブすら舌を巻くような見事な意訳です」
「理科も社会も同じです……。基礎の基礎である最初の五問だけを、全教科で意図的に白紙にして提出している」
採点室に、凍りつくような静寂が降りた。
五教科すべてで同じ現象が起きている。これはもう、偶然やケアレスミスでは絶対にあり得ない。
この『0524』という受験生は、豊実の入試問題の難易度を完全に俯瞰し、自らの実力を100%コントロールした上で、あえて「最初の五問を捨てる」という奇行に及んだのだ。
「……合計得点を出せ。全教科だ」
主任の指示で、急遽『0524』の得点が集計された。
結果は。
「五百分満点中……四百五十点。……順位は、全体の『第四位』です」
合格は間違いない。それどころか、豊実の歴史に残る超高得点だ。
だが、我々教師陣の背筋を凍らせたのは、その『四位』という数字の裏にある、恐るべき事実だった。
もし、この生徒が、小学生でも解けるようなあの「最初の五問(各教科約十点、計五十点分)」を普通に解いていれば。
「……五百点満点。……今年の首席合格者である西園寺君(四百八十点)を遥かに凌ぐ、前代未聞の『完全満点でのダントツの首席』だったということか……」
誰かが、震える声で呟いた。
十四歳の少年が、入試という極限のプレッシャーの中で、自らの得点と順位を自在に操作してみせた。
豊稲田実業学校の入試問題が、一人の少年に「遊び半分」で弄ばれたのだ。我々教師陣のプライドはへし折られ、ただ、得体の知れないバケモノがこの伝統校の門をくぐろうとしていることへの、底知れぬ畏怖だけが残った。
* * *
side 内田 五十五歳 豊稲田実業学校 教頭
「……教頭先生。今年の合格者の成績一覧です。特待生枠の最終確認をお願いします」
校長室での最終判定会議。
私は、入試担当の主任から渡されたリストに目を通し、小さく息を吐いた。
【第一位:西園寺秀明】
【第二位:……】
【第三位:……】
【第四位:大神将太】
「大神将太……。やはり、彼ですか」
私は、リストの四番目にあるその名前に、赤ペンで丸をつけた。
昨年の秋。日本の財界を裏から牛耳りつつある巨大企業『大賀ホールディングス』の黒川社長と、この応接室で交わした密約。
数億円規模の室内練習場と特注バス、ナイター設備の寄付。その見返りとして、大神将太の入学と、来年受験するであろう頭の悪い弟・直継の「スポーツ推薦枠」の確約。
しかし、黒川社長は言っていた。「兄の将太は特待生として、正規のルートで余裕で合格しますから、何の配慮も不要です」と。
その言葉通り、彼は自力でトップ層に食い込んできた。
だが、入試担当の主任は、青ざめた顔で私に耳打ちをした。
「教頭先生。この大神という生徒ですが……気味が悪いです。全教科、最初の五問を意図的に白紙にして、点数を調整しています。まともに受けていれば、彼がダントツの首席でした。……なぜ、わざわざ順位を落とすような真似を?」
私は、その報告を聞いて、一瞬だけ思考が停止した。
十四歳の中学生が、入試の得点を自在に操作する? そんな馬鹿な。
だが、すぐに一つの「強烈な理由」が脳裏を閃いた。
「……首席合格者の、新入生代表挨拶、か?」
「え?」
「我が校では伝統的に、入学式において首席合格者が新入生を代表して宣誓の挨拶を行います。……彼は、それを嫌がったのでしょう。主席になれば、学校中の、いやメディアの注目すら浴びる可能性がある。彼は、大賀ホールディングスのオーナー一族(という噂のある)。目立つことを極端に避け、平穏な学校生活を送るために、あえて『四位』という、優秀だが注目されない絶妙なポジションを狙撃したのですよ」
私がそう推測を口にすると、主任は「ひっ」と短い悲鳴を上げて後ずさりした。
「そ、そんな……。入試本番で、自分の順位をそこまで正確にコントロールできる人間など、いるはずがありません!」
「だが、結果として彼は四位に収まっている。……恐ろしい少年です。彼を怒らせれば、我が校など一捻りで消し飛ぶかもしれない。彼が入学してきても、教師陣はこの事実を口外せず、彼を『普通の優秀な生徒』として扱うように徹底してください」
私は、額に滲んだ脂汗をハンカチで拭った。
大賀ホールディングスという巨獣の資金力だけでも恐ろしいというのに。その中枢にいる少年は、頭脳の面でも、我々大人の想像を遥かに超えるモンスターだったのだ。
* * *
和泉 四十歳 豊稲田実業野球部 監督
「……和泉監督。例の大神将太君ですが、入試の結果は全体の四位でした。堂々の特待生合格です」
職員室で、内田教頭から声をかけられた俺は、持っていたスポーツ新聞を取り落としそうになった。
「よ、四位!? あの将太君がですか!?」
昨年の秋。教頭から見せられた、あの八ミリフィルムの映像。
河川敷のグラウンドで、中学生が軽く投げて145キロを計測する、人間離れした剛球。そして、来年入ってくるという弟の、バックスクリーンを破壊するような圧倒的なアッパースイング。
大賀ホールディングスからの莫大な寄付により、我が野球部はプロ顔負けの室内練習場と、トイレ・シャワー完備の大型バスを手に入れた。
その見返りとして入部してくる、超高校級の怪物ピッチャー。
それが、学業においてもトップクラス……いや。
「……和泉監督。ここだけの話ですがね」
内田教頭が、周囲を気にしながら声を潜めた。
「彼は、全教科の最初の五問をわざと白紙にして提出しました。本気を出していれば、ダントツで首席でしたよ。……新入生代表の挨拶を回避するための、彼なりの『手加減』だと思われます」
「…………は?」
俺の脳が、理解を拒絶した。
スポーツ推薦で入ってくる、野球しか脳のない野球バカなら、俺の熱血指導でどうにでも扱える。
だが。
140キロ近い剛球を投げ、大賀ホールディングスという何百億円も動かす巨大企業のバックを持ち、おまけに入試の得点を自在に操作して首席を回避するほどの、冷徹で完璧な頭脳を持った14歳。
「……教頭。俺は、あんな化け物を……『指導』できるんでしょうか」
俺は、震える声で絞り出した。
あんな完成された、いや、次元の違う生き物を前にして、俺に何が教えられるというのだ。うさぎ跳びをさせろとでも? 水を飲むなと説教しろとでも? そんな昭和のシゴキなど、彼の前では単なるピエロの滑稽な踊りにしかならないだろう。
「和泉監督。彼を『生徒』だと思わないことです。彼は、我が豊実野球部を甲子園で優勝させるために派遣された、『救世主』だと思いなさい。彼のやりたいようにやらせる。それが、我々ができる最大の指導ですよ」
内田教頭の言葉に、俺は深く首を垂れるしかなかった。
歓喜よりも先に、絶対的なプレッシャーと恐怖が、俺の胃をギリギリと締め付けていた。
今年の春。豊実野球部のグラウンドに、日本野球の歴史を根底から書き換える『黒船』が到来するのだ。
* * *
side 西園寺秀明 十五歳 首席合格者
春。
俺は、豊稲田実業の重厚な門をくぐり、入学式の行われる講堂の最前列に座っていた。
『新入生代表・西園寺秀明』。
司会に名前を呼ばれ、俺は胸を張って演壇に登り、堂々たる宣誓を読み上げた。
俺は、都内の超難関校である開成高校にも、筑波大附属駒場にも合格していた。
だが、俺はあえて、この豊稲田実業への進学を選んだ。
理由は一つ。昨年の全国模試で突如として五位に現れ、俺のプライドを酷く傷つけた得体の知れない伏兵――『大神将太』を、この三年間で完全に叩き潰すためだ。
入学式の後、教室に戻る廊下で、俺は懇意にしている大手進学塾のトップ講師から耳打ちされていた「ある噂」を思い出していた。
『……西園寺。お前は豊実で首席合格を果たした。立派だ。だが、気をつけろ。お前と同じ学年に入学した大神将太……あいつは、全教科の基礎問題を意図的に白紙にして、あえて四位に順位を下げたという情報が、我々塾業界の裏ルートに入ってきている』
『なっ……!? わざと点数を下げただと!?』
『ああ。もしあいつが満点を取っていれば、お前は首席の座を奪われていた。あいつは、入学式での宣誓という『目立つ舞台』を、お前に譲ったんだよ』
その言葉を思い出すたびに、俺の全身の血が沸騰し、屈辱で歯が砕けそうになった。
譲られただと? この俺が、あの下町出身の無名の男に、首席の座を「恵んでもらった」というのか。
「……ふざけるな。ふざけるなッ!!」
俺は、誰もいないトイレの個室で、壁を激しく殴りつけた。
許さない。絶対に許さない。
学業の成績はもちろんのこと、校内でのあらゆるカーストにおいて、俺が絶対的な頂点であることを思い知らせてやる。
春。
満開の桜が舞い散る早稲田の杜に、四位という「計算し尽くされた手加減」を引っ提げて、ついに最強の怪物が降り立った。
大賀ホールディングスの莫大な裏金で買い上げられた最新鋭の設備と、教師陣の畏怖を背景に。
大神将太の、栄光の未来へ向けた「高校野球編」の幕が、静かに開かれようとしていた。




