第22話:昭和の三者面談と、豊稲田の杜の密約
1974年(昭和49年)、十一月。
落ち葉が舞い散る江東区立並田奈中学校の校舎は、高校受験を控えた三年生たちのピリピリとした熱気と、特有の重苦しい空気に包まれていた。
オイルショックによる狂乱物価の嵐が過ぎ去り、日本社会が再び安定成長へと舵を切り始めたこの時代。学歴こそが将来の安定を約束する絶対のパスポートであるという信仰は、より一層強固なものとなっていた。
そんな受験戦争の最前線において、三年B組の担任であり進路指導教諭でもある田島は、これまでの教師人生で最も胃の痛くなる、そして最も理解不能な「三者面談」に臨んでいた。
* * *
side 田島 四十歳 江東区立〇〇中学校 進路指導教諭
「……それで。本当に、この志望校で間違いないんだな、大神」
暖房の効きの悪い放課後の教室。
私は、机の上に置かれた『進路希望調査書』を、穴が開くほど見つめながら、目の前に座る長身の教え子に問いかけた。
大神将太、14歳。
身長はすでに175センチを超え、詰め襟の学生服が窮屈そうに見えるほど、しなやかで均整の取れた体格をしている。顔立ちは大人びて端正であり、誰に対しても愛想が良く、教師からの信頼も絶大。
そして何より、先日の全国進学模試において、五教科中すべて「最初の二問(超基本問題)」を白紙で提出するという奇行に走りながら、それでも堂々の『全国第五位(偏差値78.5)』を叩き出した、本物の天才である。
「はい、田島先生。第一志望は『豊稲田実業学校高等部』。これでお願いします」
大神は、人懐っこい、しかしどこか底の知れない爽やかな笑顔でハッキリと答えた。
隣には、彼の父親である大神将さんが座っている。ペンキと泥の跳ねたボロボロのニッカポッカに地下足袋という、いかにも下町の大工といった風体だ。
「お父さん。将太君の成績なら、開成でも、国立の筑波大附属駒場でも、灘でも、全国の超一流進学校に特待生で受かるんですよ? 豊稲田実業が名門校であることは間違いありませんが、彼の頭脳からすれば、明らかにレベルを落としすぎています」
私が必死に説得を試みると、父親は肩をすくめて、土にまみれたゴツい手で頭を掻いた。
「いやぁ、先生。俺は学がねぇ大工なもんで、偏差値とかそういうのはよくわからねぇんです。将太が行きたいって言うんなら、俺はどこでも……。金なら、なんとか出せますんで」
父親は、息子の意思を完全に尊重(あるいは丸投げ)しているようだ。
私は再び、大神の方に向き直った。
「大神。なぜ豊実なんだ? 大学の附属校だからか? お前なら、東大だって現役で余裕で受かる頭があるのに、なぜ高校で進路を狭めるような真似をする?」
「先生、理由はいろいろあるんです」
大神は、行儀良く膝の上に手を置き、指を折って数え始めた。
「第一に、家から近いこと。江東区から新宿区の豊稲田なら、東西線一本で通えます。通学で体力を消耗したくありませんから」
「体力……? お前、帰宅部じゃないか」
私のツッコミをスルーし、大神は二本目の指を立てた。
「第二に、豊実は『男子校』だからです。……先生もご存知の通り、うちの中学では少し女子生徒の皆さんが熱心すぎて……。高校生活は、学業と自分のやるべきことに、静かな環境で専念したいんです」
「……」
私は絶句した。確かに、去年のバレンタインデーに大神の靴箱がチョコレートの重みで崩壊した事件は、職員室でも伝説になっている。女子を避けるために男子校を選ぶというのは、ある意味で切実な理由かもしれない。
「そして第三に。豊実は、野球の伝統校だからです」
大神の目が、スッと鋭く細められた。
「野球……? お前、高校で野球をやるつもりなのか!? あんなに熱血の鬼瓦先生が野球部に誘っても、断り続けていたじゃないか!」
「ええ。でも、高校からは本格的にやろうかと。豊実の野球部は、あのスターを輩出した古豪ですが、最近は少し甲子園から遠ざかっていますよね。強豪すぎるわけではなく、かといって弱小でもない。甲子園に出るか出ないかというギリギリのラインにある伝統校。……そこで僕が活躍すれば、海の向こうのスカウトの目にも留まりやすいでしょうから」
私は、目眩を覚えた。
「海の向こうのスカウト」? 何を言っているんだ、この生徒は。
全国模試五位の頭脳を持ちながら、わざわざ甲子園の当落線上にある高校を自ら選び、そこで野球をやってメジャーリーグ(当時はそんな言葉すら日本では一般的ではなかった)を目指すと言うのか。
狂っている。だが、その狂気を帯びた言葉が、なぜか彼が口にすると、恐ろしいほどの現実味を持って私の胸に迫ってきた。
「……それに、私立なら『色々と融通が利く』のも良いところですからね」
大神は、最後にぼそりと、中学生らしからぬ意味深な言葉を呟いた。
融通? 何のことだ?
私はその言葉の真意を測りかねたまま、ただ圧倒的な威圧感に気圧され、ついに進路希望調査書に『豊稲田実業学校高等部』と書き込むことしかできなかった。
* * *
side 内田 五十五歳 豊稲田実業学校 教頭
新宿区豊稲田。
伝統ある豊稲田の杜に抱かれた我らが豊稲田実業学校の応接室は、かつてないほどの異様な緊張感に包まれていた。
「……さて。黒川社長。我が校への『多額の寄付』のお申し出、大変ありがたく存じます。しかし……」
私は、額に浮かんだ脂汗をハンカチで拭いながら、目の前のソファに座る男を見据えた。
大賀ホールディングス代表取締役、黒川彰。
この数年で、スポーツ飲料、野球用具、そしてついには日本海での油田開発まで成し遂げ、オイルショックのパニックを横目に天文学的な利益を叩き出している、日本の財界に突如現れた謎の巨大コングロマリットのトップである。
その大賀ホールディングスが、我が早実に「室内練習場の全額寄付」と「野球部専用の特注大型バス(冷暖房・トイレ完備)の提供」、さらに「グラウンドのナイター設備の寄贈」を申し出てきたのだ。
総額にして、数億円規模というとんでもない額である。私立学校の経営陣としては、喉から手が出るほど欲しい話だった。
「ですが、寄付の見返りとして提示された条件が……どうにも不可解なのです」
私が言い淀むと、黒川社長は分厚い眼鏡を中指で押し上げ、冷徹な笑みを浮かべた。
「不可解、ですか? 私はただ、来年の春に貴校を受験する一人の生徒の『確実な合格』と、さらにもう一年後に受験する彼の弟の『スポーツ推薦枠での確約』をお願いしているだけですが」
「兄の大神将太君については、全く問題ありません。彼の全国模試の成績(五位)を見ました。寄付金など一円も頂かなくとも、我が校は彼を特待生として三顧の礼でお迎えします。……問題は、来年受験されるという、弟の大神直継君の方です」
私は、手元にある内申書のコピーを指差した。
「失礼ながら、直継君の学力は……我が校の合格ラインには遠く及ばないどころか、足切りにも満たない絶望的な数値です。いくら私立とはいえ、これほど学力のかけ離れた生徒を、寄付金と引き換えに裏口で入学させるとなれば、他の生徒や保護者への示しがつきません」
昭和の時代、私立学校における多額の寄付金による「配慮」は、公然の秘密として存在していた。だが、それにも限度がある。豊実というブランドを守るためにも、最低限の学力は必要なのだ。
「内田教頭。学力など、彼ら兄弟にとっては些末な問題です。……これを、ご覧ください」
黒川社長は、アタッシュケースから小型の八ミリ映写機を取り出し、応接室の白い壁に映像を投影し始めた。
「……っ!?」
私と同席していた野球部の監督が、同時に息を呑んで立ち上がった。
映し出されたのは、どこかの河川敷のグラウンド。
そこで投球練習をしている、長身の少年――大神将太君の姿だった。
ワインドアップから放たれた白球が、凄まじい土煙を上げてキャッチャーミットに突き刺さる。映像からでも伝わってくる、尋常ではないボールの伸びと、重い破裂音。
「な、なんだこの球は……!? とても中学生の投げる球じゃないぞ! スピードガンはないのか!?」
「測らせましたが、軽く投げて135キロは出ていますね」
「ひゃくさんじゅうご……!?」
当時の高校野球で140キロを出せば、超高校級の怪物として騒がれる時代だ。それを、中学三年生が「軽く投げて」出しているというのか。
「驚くのはまだ早いです。キャッチャーをしている、あの巨漢の少年に注目してください。彼が、来年貴校にお世話になる予定の弟、大神直継君です」
映像が切り替わり、今度は直継君のバッティング練習の様子が映し出された。
小学六年生(13歳)だというのに、身長はすでに170センチを優に超え、体重は90キロ近くあるだろうか。丸太のような腕でバットを構え、下からすくい上げるような、日本の野球の常識から外れたアッパースイングで球を捉える。
カァァァンッ!!
打球は、ピンポン玉のように空高く舞い上がり、河川敷の遥か後方の土手を軽々と越えて消えていった。
「……推定飛距離、130メートル。当たればどこまでも飛んでいく、規格外の重戦車。弟の直継君は、甲子園のバックスクリーンを破壊しうる大砲、という訳です」
黒川社長が、映写機を止めた。
応接室は、水を打ったような静寂に包まれていた。
野球部の監督は、額から滝のような汗を流し、ワナワナと震えている。
「き、教頭先生……!」
「わ、わかっている、監督……」
私立の伝統校である豊実は、文武両道を掲げている。だが、野球部に関しては、大隈 定春という偉大なOBを輩出しながらも、ここ数年は甲子園に出場できず、後援会からも厳しい突き上げを食らっている状況だった。
そこに、数億円という桁違いの寄付金による練習環境の超絶アップグレードと、甲子園優勝、いや、高校野球の歴史を塗り替えるレベルの「怪物兄弟」の独占入部が、パッケージで持ち込まれたのだ。
弟の頭が悪い? そんなことはどうでもいい。
野球で学校の名前を全国に轟かせてくれれば、志願者は何倍にも膨れ上がり、学校の利益は寄付金の何十倍にもなって返ってくる。
「……黒川社長」
私は、震える手でハンカチを握りしめ、ゆっくりと頭を下げた。
「……大神将太君、そして直継君の入学。我が校の総力を挙げて、必ずや『手配』させていただきます。……寄付金の件、謹んでお受けいたします」
「賢明なご判断です、内田教頭。彼らが貴校のユニフォームを着てグラウンドに立つ日を、大賀ホールディングスは全力でバックアップさせていただきますよ」
黒川社長は、底知れぬ恐ろしさを秘めた笑みを浮かべ、アタッシュケースを閉じた。
昭和49年、秋。
全国模試五位の天才であり、下町の裏番長であり、そしてアメリカを熱狂させる『S』の正体でもある大神将太は。
自らの圧倒的な才能と、大賀ホールディングスの莫大な裏金(賄賂)の力を使い、自身の輝かしい高校生活と、弟をねじ込むための強固な「豊稲田の杜の土台」を、いとも容易く買収し、完成させたのであった。




