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昭和転生~異世界帰りの勇者、昭和の球児に転生する~  作者: 熊族騎士団長


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第21話:昭和の完璧な中学生と、空白の二問

 1973年(昭和48年)。

 海の向こうのアメリカ合衆国で、正体不明のゴースト・シンガー『S』の放った楽曲が、ウォーターゲート事件に揺れる国家の精神的支柱となり、数千万枚のセールスと社会現象を巻き起こしていたその頃。

 『S』の正体であり、大賀ホールディングスの真の支配者である大神将太は、日本の下町にある公立中学校で、13歳の中学二年生としてごく平穏な(?)学生生活を送っていた。


 高度経済成長の総仕上げと狂乱物価の余波が交差する昭和の学校社会において。

 大神将太という少年は、教師からも、女子生徒からも、そしてツッパリ(不良)たちからも、一種の『生きた伝説』として扱われていた。


 * * *


 side 佐藤 弓子 中学二年生 図書委員の女子生徒 


「……大神くん、また今日もあの調子ね」


 放課後の図書室。窓から見える中庭の風景に、私はため息をつきながら頬杖をついた。

 中庭の掃除当番をしている大神将太くんの周りには、他学年の女子生徒までが数人、ほうきを持ったまま群がっている。


「本当に、大神くんってカッコいいよね……。背は高いし、足は長いし、おまけにあの笑顔だもん」

「顔だけじゃないよ。この前の期末テスト、また全教科満点で学年トップだったらしいよ」


 隣で本を整理していた友人の言葉に、私は深く頷いた。


 昭和48年。校庭を駆け回る男子中学生といえば、その大半が校則に縛られた無骨な丸坊主か、伸びかけの無様なスポーツ刈り、あるいは色気づき始めた者が隠れて整髪料を塗りたくる、そんな時代。教室にはニキビ面に泥と汗がこびりついた少年たちが溢れ、埃っぽい放課後の空気の中には、彼ら特有の野性味のある、むせ返るような臭いが充満しているのが普通だった。


 でも、大神くんだけは、その澱んだ日常から完全に隔絶された次元に存在していた。


 まず、その圧倒的な体躯が周囲を黙らせる。中学二年生にして身長はすでに175五センチを超え、詰め襟の学生服の上からでもはっきりと分かるほど、胸板は厚く、肩幅はがっしりと広い。それでいて、アスリートのようなしなやかさを兼ね備えたその肢体は、まるでギリシャの神殿に鎮座する大理石の彫刻か、あるいは劇画の誌面からそのまま現実の世界へと抜け出してきたかのような、黄金比に近い完璧なプロポーションを誇っているのだ。


 そして、何よりも異彩を放っていたのが、そのあまりに洗練された髪型。

 当時の街の床屋では到底注文すら通じないであろう、清潔感に溢れる「ソフトツーブロックのスポーツ刈り」。耳周りから襟足にかけては、地肌が青白くならない絶妙な短さで丁寧に刈り込まれ、頭頂部へと向かっていくにつれ、指を通せばさらりと流れるような、柔らかな毛束の重なりが作られている。それは、画一的な丸刈りこそが中学生らしさとされた昭和の教室において、あまりにも先鋭的で、かつ計算し尽くされた都会的な美意識を感じさせるものだった。


 彼が横を通り過ぎるたび、汗臭い少年たちの喧騒を切り裂くように、ふんわりと石鹸の良い匂いが漂う。それは春の陽だまりのような、あるいは天日で干し上げたばかりのリネンのような、どこまでも清らかで凛とした香りだ。

 泥にまみれて暴れ回ることが勲章であったこの時代の学び舎で、大神くん、彼一人だけが、まるで別の高潔な物語から迷い込んできた主人公のように、静謐な光を纏って見えるのだ。


「……ねえ、大神くん」


 中庭で、先輩の女子生徒がモジモジしながら大神くんに話しかけている。


「俺っすか? どうしました、先輩。ゴミ袋、手伝いましょうか?」

「あっ、ううん、違うの。あのね……放課後、ちょっと裏庭で……」

「あー、ごめんなさい! 俺、この後すぐ塾に行かなきゃいけなくて。本当に申し訳ないです!」


 大神くんは、相手を決して傷つけない、人懐っこくも完璧な爽やかな笑顔で頭を下げ、足早に去っていった。

 誰に対しても優しく、気易く話しかけてくれるのに、決して誰か一人のものにはならない。

 彼が「塾に通うため」という理由で帰宅部を貫いているのは有名な話だ。あんなに頭が良くて、実家も(表向きは)普通の大工さんなのに、毎日遅くまで塾で猛勉強しているなんて、なんて真面目で努力家なのだろう。女子たちの評価はうなぎ登りだった。


「……そういえば、今年のバレンタインデー、凄かったわよね」


 友人が、思い出したように身震いした。

 二月十四日。昭和のこの時代、バレンタインデーにチョコを渡すという風習は、女子中高生の間でようやく定着し始めたばかりだった。

 だが、大神くんの靴箱(下駄箱)は、朝の時点で完全に物理法則を無視した状態になっていた。


 詰め込まれすぎたチョコレートの箱が、靴箱の扉を内側から破壊し、廊下に雪崩を引き起こしていたのだ。

 その数、ざっと百個以上。他校のセーラー服の女子までが、校門の前で待ち伏せしていたほどだ。

 さらに恐ろしいことに、その日一日だけで、大神くんはなんと『十二人』の女子から直接告白されていた。休み時間のたびに、屋上や体育館裏に呼び出される大神くん。

 それでも彼は、その十二人全員に対して、一人一人丁寧に、誠実に頭を下げて断っていた。「今は勉強(塾)に集中したいから、ごめんなさい」と。

 その誠実な対応が、逆に女子たちのハートにさらに火をつける結果となっていることに、彼は気づいているのだろうか。


「大神将太……。私たち凡人には、眩しすぎる星ね」


 私は、窓の外を足早に歩き去る彼の広い背中を見つめながら、憧れと諦めが入り混じったため息をもう一度こぼした。


 * * *


 side 鬼瓦 三十五歳 熱血体育教師 野球部顧問 


「クソッ……! なぜだ! なぜあいつは野球部に入らんのだ!!」


 職員室で、俺は頭を抱えて唸り声を上げていた。

 隣の席の数学教師が、苦笑しながらコーヒーをすする。


「また大神の件ですか、鬼瓦先生。諦めなさいよ、彼は塾通いで忙しいんです。実際、学年ダントツのトップなんですから、親御さんも部活なんかで怪我をさせたくないんでしょう」

「勉強ができるのはわかっとる! だが、あいつのあの『肉体』を見たことがあるか!? あれは、勉学などというチャチなものに浪費していい器じゃないんだ!!」


 俺は、先日の体力測定の記録用紙をバンバンと叩いた。


 五十メートル走、六秒台前半。

 ハンドボール投げ、測定不能(グラウンドのフェンスを軽々と越えて民家の屋根まで飛んでいった)。

 垂直跳び、驚異の75センチ超え。

 背筋力、握力、どれをとっても、中学生はおろか、プロのアスリートに迫る数値を叩き出している。


 特に、体育の授業でソフトボールをやらせた時のことは、一生俺のトラウマだ。

 大神が軽く振ったバットから放たれた打球は、ピンポン玉のように空高く舞い上がり、校舎の三階の窓ガラスを粉砕したのだ。「すみません、ちょっと力んじゃいました」とニコニコ笑って謝るあいつの腕の筋肉は、中学生のそれではなかった。


「あいつを俺の野球部に入れれば、間違いなく全国制覇できる! いや、数年後には甲子園のスターだ! なのに、なぜ帰宅部なんだ! 放課後は毎日、いそいそとカバンを持って帰りやがって……!」


 俺は何度も大神を体育館裏に呼び出し、「男なら汗と泥にまみれて白球を追え! 塾なんてやめちまえ!」と昭和特有の熱血指導で説得を試みた。

 だが、大神は常に涼しい笑顔で、暖簾に腕押しだった。


「先生の熱いお気持ちは嬉しいんですが、俺、将来は親父を楽させるために、いい大学に入って一流企業に就職しなきゃいけないんで。うさぎ跳びで膝を壊したら大変ですし......」


 ぐうの音も出ない正論(おまけに昭和の非科学的なシゴキを暗に批判されている)を突きつけられ、成績優秀、素行不良も一切なしの大神に、教師の権力で強制することなど不可能だった。


「ああ……神よ。なぜあんな完璧な肉体と運動神経を、野球に興味のない帰宅部に与え給うたのだ……!」


 俺は、グラウンドで泥まみれになりながらウサギ跳びをしている凡庸な野球部員たちを見下ろしながら、血の涙を流して天を仰いだ。


 * * *


 side 矢沢 中学三年 十五歳 地元の不良ツッパリグループのリーダー 


「……おい、矢沢ぁ。あの『大神』って二年の生意気な野郎、いつシメに行くんだよ」


 放課後の薄暗いゲームセンターの裏路地。

 リーゼントに短ラン、ドカンという当時のツッパリの正装に身を包んだ俺の取り巻きの一人が、タバコをふかしながら凄んできた。


「バカ野郎、声がでけぇよ! あいつの名前を軽々しく出すんじゃねぇ!」


 俺は慌てて取り巻きの頭をはたいた。

 大神将太。

 表向きは「成績優秀、スポーツ万能、誰にでも優しい爽やかな優等生」。教師からの信頼も厚く、女子からの人気は絶大。

 俺たちのようなツッパリ(不良)とは対極にいる、絶対に交わらない世界の住人のはずだった。


 だが、この江東区の中学校周辺を仕切っている不良たちの間で、大神将太の名前は、一種の『禁忌タブー』として恐れられていた。

 あいつは、この下町一帯の『裏番長』なのだ。


 事の発端は半年前。

 隣の区から遠征してきた、高校生交じりの凶悪な暴走族の下部組織が、俺たちの中学校の生徒をカツアゲし、シマを荒らしに来たことがあった。

 俺たち地元のツッパリ数十人が鉄パイプや木刀を持って立ち向かったが、多勢に無勢、あっという間にボコボコにされ、空き地に転がされた。


『ギャハハハ! 江東区のガキ共もだらしねぇな! 今日からここは俺たちのシマだ!』


 他校のアタマが、俺の顔を踏みつけながら高笑いした、その時だった。


『……おい。そこ、うちの親父が資材置くための空き地なんだけど。汚さないでもらえるかな』


 塾の帰りらしき、マジソンバッグをさげた優等生――大神将太が、ふらりと路地裏に現れたのだ。

 制服のボタンは一番上までキッチリ留められ、顔にはいつもの爽やかな笑みが浮かんでいる。


『あぁん? なんだてめぇ、優等生ぶったガキが。引っ込んでろ!』


 暴走族の一人が、木刀を振り上げて大神に襲いかかった。

 次の瞬間。

 ドゴォッ!! という鈍い音が響き、襲いかかった不良の体が、まるでボールのように宙を舞い、数メートル先のブロック塀に激突して白目を剥いた。


『……は?』


 俺を含め、その場にいた全員の思考が停止した。

 大神は、さげたマジソンバッグを揺らさず、右足のハイキックを振り抜いた姿勢で静止していた。ブレザーの裾すら乱れていない。


『暴力は良くないな』


 大神の笑顔が、スッと消えた。

 その目を見た瞬間、俺は全身の産毛が逆立つほどの絶対的な『死の恐怖』を感じた。人間がライオンやヒグマと対峙した時に感じる、根源的な生物としての格付けの差。こいつは、怒らせてはいけない本物のバケモノだ。


『や、やっちまえ!!』


 パニックになった暴走族三十人が、一斉に大神に飛びかかった。

 だが、それは一方的な蹂躙劇だった。

 大神は、人間離れした身のこなしで宙を舞い、鉄パイプを素手でへし折り、拳の一振りで巨漢の不良を気絶させていく。わずか三分後、空き地には三十人の他校の不良たちが、文字通り「ゴミの山」のように積み重なって呻いていた。


『……ふぅ。制服に血がつかなくてよかった』


 大神は、息一つ切らさず、マジソンバッグを持ち直すと、へたり込んでいる俺たち地元のツッパリを一瞥した。


『お前ら。俺は面倒なヤンキーごっこに付き合う気はない。でも、この街の治安が乱れんのも困るんだわ。……だから、お前らがこの街のゴミ(他校の不良)を掃除して、平穏を保て。わかったな? あと、つっぱんのは良いけど、ダセえ事すんなよ』


『は、はいッ!! 大神さんッ!!!』


 俺たちは、無意識のうちに土下座をして、その圧倒的な暴力とカリスマの前にひれ伏していた。

 それ以来、俺たち地元の不良グループは、大神将太の「非公式な自警団」として、街の治安維持に努めるハメになったのだ。他校の不良が攻めてくれば死に物狂いで追い返し、カツアゲなどの真似も一切やめた。大神に「治安が悪い」と判断され、あの笑顔でシメられるのが一番恐ろしいからだ。


「なんすかね『ダせえ』って?」

「黙れッ……いいか、お前ら」


 ツッコみを入れて来る取り巻きを無視して、俺は、ゲームセンターの裏でタバコを吹かす取り巻きたちに、声を潜めて言った。


「大神さんには、絶対に逆らうな。あのお方は、表向きは優等生だが、怒らせたらダンプカーより恐え。俺たちは、あのお方が快適に『塾』に通えるように、この街の裏の道を綺麗に掃き清めておくのが仕事なんだよ!」

「う、うっす! 矢沢さん!」


 * * *


 1974年(昭和49年)、秋。

 第一次オイルショックの狂乱物価からようやく日本経済が落ち着きを取り戻しつつあったこの時期。だが、中学生たちを取り巻く環境は、かつてないほどの熱を帯びていた。

 「四当五落(睡眠時間四時間なら合格、五時間なら落ちる)」という言葉がもてはやされ、高校受験戦争が本格的な過熱を見せ始めた時代である。各地で進学塾が乱立し、自身の偏差値と全国での立ち位置を測るための「全国公開模擬試験」の受験者数は、年を追うごとにうなぎ登りに増え続けていた。


 そんな中、日本最大規模の受験データを持つ『全国進学模試センター』の電算室で、一つの「異常値」が発見されていた。


 * * *


 side 佐々木 四十五歳 全国進学模試センター データ管理部長


 ガチャガチャガチャガチャ……ッ!


 冷房の効いた電算室に、大型ラインプリンターの凄まじい稼働音が鳴り響いていた。

 全国から集まった数十万人分の中学三年生のマークシート答案が、OMR(光学式マーク読取装置)で読み込まれ、大型コンピュータの磁気テープに記録されていく。そして、偏差値、志望校判定、全国順位といったデータが、連続用紙に次々と印字されて吐き出されていた。


「佐々木部長。今回の『第三回・全国中学生学力判定テスト』のトップ層の集計が出ました」


 パンチカードの束を抱えた若手社員が、インクの匂いが染み付いた出力用紙を私のデスクに置いていった。

 私は分厚い黒縁眼鏡を押し上げ、赤ペンを片手にそのリストに目を通した。

 全国の頂点に君臨する、上位十名の名前。

 彼らは我々模試業者にとってもお馴染みの「常連」だ。東京の有名国立大学附属中学や、関西の超難関私立中学の生徒たち。幼い頃から英才教育を受け、開成や灘、ラ・サールといった頂点を目指す、いわば「受験マシーン」の最高傑作たちである。


「なるほど、今回の一位はまた東京の西園寺君か。二位は関西の……ん?」


 私の赤ペンが、五位の欄でピタリと止まった。


 【全国第五位 大神将太オオガミ・ショウタ 偏差値:78.5】

 【在籍校:東京都・江東区立並田奈中学校(公立)】


「……なんだ、この生徒は?」


 私は眉間に皺を寄せた。

 公立中学校の生徒が上位に食い込むこと自体は、稀にある。だが、上位十名の常連リストの中に、全く見たことのない無名の生徒が、突然第五位という位置にランクインしてくることなど、統計学的に極めて異常なのだ。

 しかも、志望校の欄は「白紙」。


「おい、佐藤君。この『大神将太』という生徒の、各教科の得点内訳を出してくれ。それと、もし可能なら彼の答案用紙マークシートの原本も探して持ってきなさい。……何か、採点ミスかマークミスの匂いがする」


 数十分後。

 私のデスクの上に、大神将太の全五教科の得点データと、マークシートの原本が並べられた。

 私はそれを見た瞬間、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。


「……あり得ない。こんなことが……」


 横にいた若手社員の佐藤君も、息を呑んで絶句している。

 大神将太の得点は、五教科すべてが『九十六点』だった。

 それだけなら、ただの優秀な生徒だ。問題は、その「失点」の箇所である。


「部長……これ。全教科、見事に『大問1の、問1と問2』だけが空欄です。マークミスではありません。意図的に、全く塗られていません」


 佐藤君の震える声が、電算室の騒音の中でやけに響いた。

 全国模試の大問1の問1と問2。それは、計算問題や漢字の読み書き、英単語の基礎など、最も配点が低く、全国の受験生の九割以上が正解する「サービス問題(各二点)」である。

 大神将太は、国語、数学、英語、理科、社会の全教科において、その最も簡単な最初の二問(計四点)だけを『完全に白紙』のまま提出していたのだ。

 そして、正答率が数パーセントにも満たないような、後半の思考力を問う超難問、複雑怪奇な図形問題や長文読解などは、すべて完璧に正解している。


「……佐々木部長。もし、彼がこの最初の二問を全教科で答えていたら……」

「……ああ。五教科すべて満点。五百分満点だ」


 私は、震える手で赤ペンを置いた。

 五教科満点。そんな生徒は、我々が全国模試を始めて以来、過去に一人たりとも存在しない。今回全国一位になった天才・西園寺君でさえ、合計得点は四百八十八点なのだ。

 もし大神将太が、最初の二問を解いていれば。

 彼は、偏差値80を優に超え、二位以下に歴史的な大差をつけての、ぶっちぎりの全国一位だった。


「……なぜだ。なぜ、こんなことをしたんだ、この生徒は」


 私はマークシートの氏名欄の『大神将太』という文字を、穴が開くほど見つめた。

 ケアレスミスなどではない。五教科すべてで同じ箇所を空欄にするなど、明確な意図がなければ不可能だ。

 考えられる理由は一つしかない。


「『満点を取って、悪目立ちするのを避けた』……? 全国一位になるのを嫌がり、意図的に点数を調整して、五位という『目立たないが優秀な位置』に潜り込んだというのか……?」


 中学生に。たかだか十四歳の子供に、そんな真似ができるというのか。

 自分の実力を完全に把握し、テストの難易度を俯瞰し、全国のトップ層の得点分布すらも推測した上で、寸分違わぬ「点数操作」を行う。それは、テスト問題を解くという次元を超えた、テストというシステムそのものを弄ぶような、悪魔的な所業だ。


「……佐々木部長。このデータ、どうしますか? 上位者の冊子に、このまま名前を載せますか?」

「……載せるしかないだろう。ルール違反をしたわけではないのだから」


 私は、こめかみに滲んだ汗をハンカチで拭った。

 日本のどこかの下町に、こんなバケモノのような中学生が潜んでいる。教育業界の常識を根底から覆すような天才が。

 だが、その底知れぬ意図に気づいているのは、この採点室でデータを覗き見た我々だけだ。


 * * *


 西園寺秀明 十四歳 開成高校志望・全国模試一位


 東京都内の高級住宅街にある自室。

 俺は、分厚いマホガニーの机に向かい、郵送されてきた『全国進学模試』の結果冊子を広げていた。


「……よし。今回も全国一位だ」


 小さくガッツポーズをする。

 医者の家系に生まれ、幼い頃から家庭教師をつけられ、睡眠時間を削って勉強に打ち込んできた。俺にとって、全国の頂点に立つことは義務であり、アイデンティティそのものだった。

 二位や三位の奴らの名前も、いつもの顔ぶれだ。関西の灘を目指している連中だろう。俺のライバルと呼べるのは、こいつらだけだ。


 だが、上位者の氏名リストをなぞっていた俺の指が、『第五位』の欄でピタリと止まった。


「……大神、将太? 江東区立の公立中学?」


 俺は思わず眉をひそめた。

 聞いたこともない名前だ。俺たちのようなトップ層は、塾の特別講習や様々な模試で、互いの名前を嫌というほど意識し合っている。突然、無名の公立中学の生徒が、偏差値78を叩き出して五位に食い込んでくるなど、あり得ない。

 まぐれか? それともカンニングか?


 俺は、同封されていた「各教科の正答率と出題分析」のページをめくった。

 そして、数学の『大問5・空間図形の切断問題(正答率1.2%)』の解説に目をやった。俺自身、この問題には三十分以上悩み、最後に勘で書いた答えがたまたま当たっていただけの、凶悪な超難問だった。


「……公立の授業しか受けていない奴に、この問題が解けたっていうのか?」


 俺の胸の奥に、得体の知れない焦燥感と、黒い嫉妬のようなものが渦巻いた。

 もし、この大神という奴が、俺と同じように塾に通い、俺と同じように睡眠時間を削って勉強しているのならいい。

 だが、もしこいつが、大した努力もせずに、天賦の才だけで俺の領域に足を踏み入れてきたのだとしたら。

 俺は、結果冊子の大神将太という名前を、シャープペンシルの先でギリギリと黒く塗りつぶした。

 どんな手を使っても、次の模試では絶対にこいつを叩き落としてやる。俺のプライドが、この得体の知れない伏兵の存在を絶対に許さなかった。


 * * *


 side 田島 四十歳 江東区立並田奈中学校 進路指導教諭


「……おい、田島先生。これ、何かの間違いじゃないのか?」


 放課後の職員室。

 学年主任が、顔面を蒼白にして私に一枚のプリントを突きつけてきた。それは、先日三年生全員に受けさせた全国模試の、学校別の成績一覧表だった。


「どうしました、主任。……えっ!?」


 私は、そのプリントの一番上の行を見て、持っていた湯呑みを取り落としそうになった。

 学年一位。いや、そんなレベルではない。

 『全国順位:五位』。


「お、大神将太……? 大神が、全国で五位ですか!?」

「ああ。偏差値78だ。開成だろうが灘だろうが、どこでも特待生で受かる異常な数値だ。うちのような普通の公立中学から、こんな化け物みたいな成績が出るなんて、創立以来初めてのことだぞ!」


 私は、震える手でプリントを受け取った。

 大神将太。三年B組の生徒だ。

 確かに、彼の成績は常に学年トップだった。だが、公立中学の定期テストで満点を取るのと、全国の猛者たちが集う進学模試で全国五位になるのとでは、次元が全く違う。


 大神の顔が脳裏に浮かぶ。

 身長はすでに175センチを超え、大人びた端正な顔立ち。誰に対しても愛想が良く、授業態度は極めて真面目。体育の授業では、陸上部のエースを軽くぶっちぎるほどの運動神経を見せる。

 だが、彼は部活動には一切参加せず、「家計を助けるために、夜は塾で勉強している」と言って、放課後はいつも真っ直ぐに帰宅していた。(実際に彼が通っている塾がどこなのか、私は知らなかったが)。


「……田島先生。大神の親御さんは、大工さんだったな。三者面談で、彼の進路をどうするか、至急確認してくれ。これほどの逸材だ、下手に都立高校に行かせるより、全国の有名私立に特待生で送り込めば、うちの中学の箔がつくぞ!」


 学年主任は、興奮で鼻息を荒くしている。

 だが、私はその成績表の「志望校」の欄が、すべて「未記入」になっていることに気づき、背筋に冷たいものを感じていた。


 普通、これほどの成績の生徒なら、自分の実力を誇示するように、最難関校の名前をズラリと並べるものだ。

 なのに、彼は何も書いていない。

 まるで、「高校受験など、どうでもいい」とでも言わんばかりの、奇妙な空白。

 彼ほどの頭脳があれば、自分が全国のどの位置にいるかなど、テストを受けた瞬間にわかっていたはずだ。それなのに、彼はいつも通り、あの人懐っこい笑顔で「先生、さようなら」と挨拶をして帰っていくのだ。


「……大神将太。お前は一体、何を見ているんだ……?」


 私は、職員室の窓から、夕日に染まる下町の景色を見下ろした。

 この埃っぽい町から、とんでもない怪物が生まれようとしている。教師としての喜びよりも先に、彼がこれから歩むであろう常軌を逸した未来に対する、えも言われぬ畏怖が、私の胸を占めていた。


 * * *


 side 矢沢 同級生のツッパリ 中学三年生


「おい、聞いたかよ矢沢! 大神さんが、全国模試で五位になったらしいぜ!」

「マジかよ!? 全国五位って、どんだけ頭いいんだよ!」


 放課後の神社裏。

 俺たち地元の不良グループ(自称・大神さんの非公式自警団)は、タバコを回し飲みしながら、その噂に震え上がっていた。


「……やっぱりな。あのお方は、喧嘩が最強なだけじゃねぇ。頭脳でも日本一(五位だけど)なんだよ」


 俺は、深く紫煙を吐き出しながら、半ば神でも拝むような気持ちで呟いた。

 一年前、他校の暴走族三十人をたった一人で壊滅させた、あの圧倒的な暴力。そして、普段の温厚で爽やかな笑顔。

 そこに「全国トップクラスの天才頭脳」という称号まで加わったのだ。もはや、俺たちのような底辺のツッパリが同じ空気を吸っていることすらおこがましいレベルである。


「いいか、お前ら! 大神さんは、夜は塾で猛勉強して、日本のトップを走ってるんだ! 俺たちがこの街で喧嘩なんか起こして、警察沙汰になったりして、あのお方の勉強の邪魔になったらどうなるか……わかってんだろうな!?」

「う、うっす!! 絶対に騒ぎは起こしません!!」


 取り巻きたちが、恐怖と尊敬の入り混じった顔で直立不動になる。

 大神さんが全国五位になったというニュースは、教師たちを狂喜させただけでなく、俺たち下町の不良たちをさらに深く震え上がらせた。


 昭和49年、秋。

 全国模試という土俵に、意図的な「空白の二問」を残して五位に降り立った、大神将太。

 彼が巻き起こした小さな波紋は、教育業界、同世代の天才たち、そして下町の不良たちをも巻き込み、彼という存在の異常性を、日本中に静かに、しかし確実に知らしめた。


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