第20話:「S」狂騒曲編その8 昭和の恩寵と、S財団の誕生
1972年(昭和47年)、夏。
アメリカ合衆国を席巻した正体不明のゴースト・シンガー『S』のレコードは、弱小レーベルを通じた全米流通が開始されるや否や、音楽業界のあらゆる記録を物理的に破壊しながら売れ続けていた。
ベトナム戦争の深い疲弊と分断の真っ只中にあったアメリカ社会において、その歌声は単なる流行歌の枠を完全に超え、一種の「社会現象」へと昇華されつつあった。
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side スミス FBI(連邦捜査局)ロサンゼルス支局 特別捜査官
「……それで、資金の最終的な行き先は掴めたのか」
タバコの煙が充満する取調室のようなオフィスで、俺は部下に低く問い詰めた。
部下は、山のような財務資料を前に、絶望的な顔で首を振った。
「ダメです。販売元のインディーズレーベルが手にするのは売上の一割のみ。残りの九割という莫大な現金は、『OOGA(大賀)』という日本企業の米国法人が設立したペーパーカンパニーを経由し、スイスの銀行口座へと送金されています。マネーロンダリングの手法としては完璧すぎて、これ以上の追跡は不可能です」
俺は舌打ちをし、コーヒーを流し込んだ。
一枚のレコードが、全米で何百万枚も売れている。動いている現金は、すでに数千万ドル(数十億円)を下らない。
これほどの巨額の資金が、得体の知れない東洋の組織に流れているのだ。我々FBIやCIAが神経を尖らせるのも当然だった。
「これだけの資金だ。ソ連の手先か、あるいは過激な反体制派組織(ブラックダイガー党など)のテロ資金に流用される危険性が極めて高い。……アーティスト『S』の正体はどうなっている?」
「それも、完全に不明です。声紋分析では『十代後半から二十代のアジア系、あるいは白人男性』という漠然とした結果しか出ていません。録音されたスタジオの特定も不可能です」
見えない敵。姿なき扇動者。
『S』の歌は、確かにアメリカの若者や傷ついた大人たちの心を癒している。だが、国家の治安を預かる我々から見れば、この異常な熱狂は、いつ暴動や革命にすり替わってもおかしくない巨大な火薬庫だった。
「……どんな手を使ってもいい。OOGAの尻尾を掴め。必要なら非合法な手段(盗聴など)も許可する」
俺がそう命じた矢先のことだった。
オフィスに設置されたテレビのニュース速報が、我々のあらゆる疑惑と警戒を、根底からひっくり返す発表を報じたのだ。
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side デイビッド 音楽雑誌『ジャンピングストーン』記者
ロサンゼルスの高級ホテル・ビバリーヒルトンの大宴会場。
そこに集まった全米のメディアは、異常な熱気に包まれていた。
『アーティスト・Sの代理人による、重大な記者会見』。その一枚のFAXが、我々マスコミをこの場所に呼び寄せたのだ。ついに、あの幻のシンガーの正体が明かされるのか。
フラッシュの嵐の中、演壇に登ったのは、仕立ての良いスーツを着た日本人男性だった。
彼は『OOGA米国法人代表』と名乗り、流暢な英語で静かに語り始めた。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。皆様のご期待に反し、アーティスト『S』本人は本日ここにはおりません。彼はこれからも、その素顔や国籍を明かすつもりはありません」
会場から、一斉に落胆と不満のどよめきが上がった。
だが、日本人の代理人は、それを制するように片手を上げ、信じられない内容の声明を読み上げ始めた。
「『S』から皆様へのメッセージです。……『私の音楽を愛してくれたアメリカの皆様へ。皆様からいただいた莫大な愛(利益)は、私一人が抱えるには大きすぎます。ゆえに、この利益をアメリカ社会に還元するための組織を設立します』」
会場が、水を打ったように静まり返った。
「本日をもって、非営利の慈善団体『S財団(S Foundation)』を立ち上げます。『S』のレコード売上および著作権収入等の全純利益のうち、実に『四分の三(75%)』を、以下の三つの事業に均等に配分・寄付いたします」
代理人が背後のパネルを指し示した。
「第一に、利益の『四分の一(25%)』。これを、ベトナム戦争からの【帰還兵・退役軍人のためのPTSD治療および生活支援金】として無償提供します」
カメラマンの手が止まった。
当時のアメリカ政府ですら、帰還兵の心のケアに十分な予算を割けず、社会問題化していた領域だ。そこに、個人のアーティストが莫大な私財を投じるというのか。
「第二に、利益の『四分の一(25%)』。これを、【小児がん等の難病患者の医療費支援および研究基金】として寄付します。明日の未来を担う子供たちの命を救うためです」
どよめきが、驚愕へと変わっていく。
「そして第三に、利益の『四分の一(25%)』。これを、【カルフォルニア州の中小企業・個人事業主に対する、超低利子・長期間の融資支援金】として提供します。人種や国籍は問いません。真面目に働く人々が、不況を乗り越え、再び立ち上がるための資金です」
代理人は、最後に深く一礼をした。
「『S』が受け取るのは、残りのわずか『25%』のみです。……以上が、我々OOGAが『S』より託された、アメリカ社会への恩返しです。皆様、今後とも『S』の音楽をよろしくお願いいたします」
数秒の完全な沈黙の後。
会場は、割れんばかりの拍手と、記者たちの狂ったような怒号、そしてフラッシュの嵐に飲み込まれた。
歴史上、これほどまでに桁外れで、そして完璧な慈善活動を発表したアーティストなど、存在しない。
彼は神か、それとも本物の天使なのか。
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【ベトナム帰還兵 ジョン(二十四歳)の視点】
「……おい、嘘だろ……」
アナハイムの安アパートで、俺はテレビのニュースを食い入るように見つめながら、手からビールの空き缶を取り落とした。
『S財団設立。帰還兵支援に数百万ドルの拠出』というテロップが、画面の下を流れている。
俺たちベトナム帰還兵は、国のために血を流し、心を壊してジャングルから生還したというのに、政府からは見捨てられ、反戦活動家からは「人殺し」と罵られ、社会の底辺で泥水をすすって生きていた。誰も、俺たちの魂を救おうとはしてくれなかった。
あの深夜のラジオで『When You Leave』を聴き、俺は初めて涙を流すことができた。
そして今、顔も名前も知らないその歌手が、自らの身を切って、俺たちに「生きてくれ」と莫大な救いの手を差し伸べてくれたのだ。
「……あぁ……神様……」
俺は、テレビの前に膝をつき、両手を組んでむせび泣いた。
国が救ってくれなかった俺たちを、歌声と、圧倒的な行動で救済してくれた。
『S』は、俺たち退役軍人にとって、もはや単なる歌手ではない。命の恩人であり、絶対的な英雄となった。
もし『S』の正体が明らかになり、誰かが彼に危害を加えようとするならば、全米の数百万人の退役軍人が、彼を守るための盾となるだろう。その夜、全米の退役軍人病院や集会所で、俺と同じように涙を流し、空に向かって敬礼する男たちの姿が無数にあった。
* * *
side メアリー 三十歳 難病の子供を持つ主婦
病院の無機質な白いベッドで、白血病と闘う五歳の娘が、眠りについている。
莫大な治療費。保険も底をつき、私たちは家を手放す寸前まで追い込まれていた。
そんな絶望の淵で、ラジオから流れてきた『S』の歌声だけが、私たちが正気を保つための唯一の命綱だった。
『……S財団により、難病の子供たちの医療費が全額支援されることが決定しました……』
待合室のテレビから流れてきたニュースキャスターの声に、私は耳を疑った。
信じられなかった。でも、ニュースは、その申請窓口の電話番号を確かに映し出していた。
「……ジェーン。助かるの。あなた、助かるのよ……!」
私は、娘の細い手を握りしめ、ベッドに伏して声を上げて泣いた。
お金がなくて諦めかけていた最新の治療が受けられる。娘が、明日も生きていける。
『S』。あなたがどこの誰かは知らない。でも、あなたは私たちの命の光だ。この御恩は、一生、死んでも忘れない。
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side スミス FBI 特別捜査官
「……捜査は、即時打ち切りだ」
ロサンゼルス支局のオフィスで、俺は部下たちに苦渋の決断を下した。
テロ資金の疑い? 反体制派の資金源? 冗談ではない。
『S財団』の発表により、彼らの資金は完全にガラス張りの慈善団体へと流れ込むことになった。退役軍人への支援、小児がん患者への支援。
もし今、我々FBIが『S』や『OOGA』に強制捜査など入ろうものなら、どうなるか。
全米の退役軍人、難病の子供を持つ親たち、そして彼らを支持する数千万人の一般市民が暴動を起こし、ホワイトハウスを取り囲むだろう。政府も警察も、もはや彼らには手出し一つできなくなったのだ。
「……見事だ。完璧すぎる防弾チョッキ(世論の支持)を、たった一回の会見で着込みやがった」
俺は、負けを認めるように深くため息をついた。
正体不明の歌手は、アメリカという国家ですら、文字通りアンタッチャブルな存在へと昇華してしまったのである。
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side ケンジ ロサンゼルス・リトル東京 定食屋店主
「おい、ケンジ! 聞いたか! OOGAの融資の話!」
定食屋に駆け込んできた隣のクリーニング店の親父が、新聞を握りしめて興奮していた。
「ああ、見たよ。……信じられねぇよな」
利益の25%を、ロサンゼルスの中小企業に超低利子で貸し付けるという事業。
その融資の窓口は、他でもない、我々リトル東京に先日建設されたばかりの『大賀コミュニティセンター』に設置されるというのだ。
つまり、ロサンゼルス中の企業や店主たちが、金を借りるためにこのリトル東京に足を運び、日系人コミュニティに頭を下げる構造になる。
「OOGAは……いや、『S』は、本気でこの街の底辺の人間たちを救い上げようとしてるんだ」
我々日系人は、かつての戦争で強制収容所に送られ、財産を奪われ、辛酸を舐めてきた。白人社会の中で、常に二級市民として肩身の狭い思いをしてきたのだ。
だが、この『S』の莫大な資金と支援によって、カルフォルニアの経済の血流は、このリトル東京を中心に回り始めることになる。我々は、この街の誇りある一員として、再び力強く立ち上がることができるのだ。
「……天使だよ。俺たちの『S』は、本物の天使だ」
私は、厨房の奥のラジオから流れる『The Dawn's Grace』を聴きながら、涙を拭った。
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side 黒川 大賀ホールディングス代表取締役
日本の神田。大賀ホールディングスの社長室。
私は、アメリカのメディアがこぞって『S財団の奇跡』を称賛する新聞記事を眺めながら、深い震えを感じていた。
「……利益の75%を寄付。……それでも、残りの25%だけで、すでに数十億円という現金が我々の手元に残っていますがね。……将太君。あなたは本当に、恐ろしい子だ。私の想像など、遥かに超えている」
ソファでマンガ雑誌を読んでいる将太君に、私は話しかけた。
彼は、顔を上げてニカッと笑った。
「そんなことないですよ。僕はただ、親父たちと野球がしたいだけの、普通の中学生です」
将太君はマンガ雑誌を閉じると、「そろそろ帰りますね!」と元気に立ち上がり、社長室を出て行った。
1972年。
海の向こうのアメリカ合衆国で、『S』という名の天使が数百万人の魂と命を救い、絶対的な英雄として崇められていたその頃。
その張本人は、日本の下町で、弟と野球で遊ぶ一人の野球少年に過ぎなかったのである。




