第2話:昭和の家庭事情と、肉体改造
1963年(昭和38年)、夏。
日本中が熱に浮かされていた。十月に控えた東京オリンピックに向けて、首都の景色は日を追うごとに劇的な変化を遂げている。東海道新幹線の開通、首都高速道路の整備、そしてあちこちで立ち上がる真新しいコンクリートのビル群。泥と埃に塗れた戦後からの完全な脱却を証明するかのように、凄まじいエネルギーがこの国全体を覆っていた。
建設ラッシュの煽りを受け、腕の立つ大工である父・大神将は、文字通り殺人的な忙しさの中にいた。朝は太陽が昇る前に現場へ向かい、夜は俺たちが寝静まった頃に泥のように疲れて帰ってくる。稼ぎは格段に良くなっているはずだが、父は相変わらず安アパートに住み続け、俺と直継を向かいの鈴木家に預ける生活を続けていた。全ては、妻を亡くした悲しみを仕事で紛らわせているようにも見えたし、不器用な男なりに俺たちの将来のために少しでも銭を貯め込もうとしているようにも見えた。
そんな世間の喧騒を余所に、二歳になった俺は、鈴木家の縁側で麦茶の入ったプラスチックのコップを両手で握りしめながら、蝉時雨を聞いていた。
庭では、鈴木家の三男・三郎(小学二年生)と四男・四郎(五歳)が、ゴムボールとプラスチックのバットでけたたましく野球ごっこに興じている。その横で、五男の五郎(三歳)が泥団子を作っては潰すという遊びを無限に繰り返していた。
ヨシエ母ちゃんは台所で夕飯の支度をしつつ、時折「こら四郎! そこは三塁じゃないよ! 便所の扉だよ!」と怒号を飛ばしている。相変わらず騒々しく、そして生命力に溢れた家だ。
「しょーちゃん、お茶、こぼさないでね」
中学生になり、少し大人びてきた鈴木家の長女・恵子が、縁側に座る俺の口元をタオルで優しく拭ってくれた。彼女は本当に甲斐甲斐しく俺と弟の世話を焼いてくれる。前世の記憶を持った84歳の精神からすれば、中学生の少女にオムツを替えられたり涎を拭かれたりするのは少々いたたまれないものがあるが、二歳児の身体では甘んじて受け入れるしかなかった。介護とはこんな感じだろうか?
「ありあと」
「ふふっ、しょーちゃんは本当にお利口さんねぇ。直継ちゃんは今日も元気いっぱいだけど」
恵子の視線の先、座敷の畳の上では、一歳半になった弟の直継が、次郎の置いていったグローブをかじりながらよだれを垂らし、手足をバタバタとさせて暴れていた。
俺は麦茶を飲み干すと、コロンと縁側に寝転がった。
傍目には昼寝を始めた二歳児にしか見えないだろうが、俺の意識は深く、自らの肉体の内側へと潜行していく。
(よし、今日も日課の『調整』をやるとするか)
勇者の力は、極力使わないと決めている。魔法で球を速くしたり、物理法則を無視した変化球を投げたり、ありえない打球を飛ばしたりするのは、なんか違う。そんなぶっ飛んだイカサマをしてメジャー選手になったところで、己の魂は一ミリも満たされない。
だが、である。
技術や身体能力の向上は己の血のにじむような努力で勝ち取るとしても、その土台となる『器』、つまり先天的な才能とされる骨格や容姿については、話が別だった。
(……人生を豊かにするための肉体改造は、努力の範疇だよな?)
俺は心の中で都合の良い言い訳を並べ立てながら、勇者時代に極めた『肉体強化魔法』と『治癒魔法(細胞操作)』を繊細に加減して発動させた。
魔力を毛細血管の隅々まで行き渡らせ、成長ホルモンの分泌を最適化する。目指すのは、前世のようなずんぐりむっくりした体型でも、大工の父のような小柄で筋肉質な体でもない。
身長190センチメートル。
無駄な脂肪の一切ない、しかし強靭でしなやかな筋肉を纏ったマッチョな肉体。
そして顔立ちは、汗と泥に塗れても涼やかさを失わない、鋭さのある清楚系美形イケメン。
ついでに、男としての威厳と自信を保つため、男の勲章の規格も最大サイズに設定して細胞分裂を誘導する。
もちろん急激に変えたりしない。あくまで「成長期に理想の形へと育つように」という予約プログラムを細胞に刻み込むレベルでゆっくりとである。前世ではちょいブサな容姿で苦労もした。今世、メジャーの舞台に立つからには、ハリウッドスターにも引けを取らない見栄えの良さも必要不可欠である。全ては将来のスター選手としてのセルフプロデュースの一環だった。
「……んー……だー」
座敷の奥から、直継がズリバイで縁側へと近づいてきた。
父親似の、少し鼻の低い平凡な顔立ち。バカという前世の記憶通り、どこかぼんやりとした、しかし人懐っこいアホそうな顔で俺を見上げている。
俺は寝転がったまま、直継の頭をぽんぽんと撫でてやった。
(直継……お前には前世、本当に苦労させられたからな)
前世の直継は、出来の良い(とはいえ俺も大したことはなかったが)兄に対するコンプレックスと、父の放任主義、そして生来の要領の悪さが災いし、思春期に入るや否や絵に描いたような不良へと一直線に転落した。
暴走族に入り浸り、警察の世話になること数知れず。挙句の果てには、定職にも就かず甲斐性もないくせに、あちこちの女に手を出して婚外子を三人こさえるという、どうしようもないクズ男に成り果てていた。その後始末に、当時の俺や、ケガして満足に働けなくなっていた老いた父がどれだけ頭を下げ、金を払ったことか。
(バカでアホでどうしようもない奴だと思って、前世の俺はコイツを遠ざけていた。それが余計にコイツの孤独を深め、不良に走らせた原因の一つだったのかもしれないな)
だが、今世では同じ轍は踏まない。
俺は兄として、このぼんやりした顔の弟を精一杯愛し、優しく可愛がるつもりだ。彼が家庭や兄弟の間に確かな「居場所」を感じていれば、外の不良仲間に承認欲求を満たしてもらう必要もなくなるはずだ。多感な時期の非行は、たいてい寂しさと自己肯定感の欠如から来るのだから。
とはいえ、愛情や精神論だけで全てが解決するほど、俺も人間を信用してはいない。
前世で婚外子を三人作ったという決定的な『害悪』に対しては、既に抜本的かつ物理的な対策を講じてあった。
俺は直継のおむつの膨らみをチラリと見た。
生後一ヶ月を過ぎた頃、俺は直継に対して密かに強力な『成長阻害の呪い』をかけたのだ。もちろん、全身ではなく、局所的に、である。
直継の男の勲章は、現在のおむつの中に収まっている可愛らしい三センチの慎ましやかな状態のまま、これから一生、一ミリたりとも成長しない。前世で彼がやらかした数々の女性問題への、完全なる予防策(物理)であった。
(許せよ、直継。お前は女関係で身を滅ぼす星の下に生まれている。これも兄としての慈愛なのだ)
恨みがましい少々サイコパスじみた発想であることは自覚していたが、あの前世の地獄の尻拭いを思えば安いものだ。彼は今世、女にうつつを抜かすことなく、清く正しい趣味に没頭する平和な一生を送るのだ、きっと弟に取ってもいいことに違いない。
「あー! うー!」
直継が俺の胸の上にのしかかってきて、よだれまみれの口で俺のシャツを噛み始めた。
俺は苦笑しながら、直継の背中に手を当てた。
(だが、俺だけが190センチのマッチョに育って、お前が小柄なままでは不自然すぎるからな。遺伝的な言い訳として、お前もデカくしてやる)
俺は手のひらから微量の魔力を流し込み、直継の肉体にも『成長促進』と『筋力増強』の魔法陣を深層に刻み込んだ。
身長193センチ。骨太で、少しの運動で異常な量の筋肉がつく、重戦車のような身体。容姿は平凡なままだが、体格だけはプロレスラー並みに育つように設定してやった。
これなら、「うちの家系は突然変異で体がデカくなる」という父親への強引な言い訳も立つ。直継自身も、その体格があれば不良に絡まれることもないだろうし、何かスポーツに打ち込めば、良い成績を残せるかもしれない。勲章のコンプレックスも、圧倒的な肉体の強さでカバーできるはずだ。
「しょーちゃん、直継ちゃん、お昼寝の時間よ」
恵子が、押し入れから年季の入った座布団を二枚引っ張り出してきた。鈴木家では昼寝布団の代わりに座布団を繋げて寝るのが日課だった。
俺は直継を抱き寄せるようにして、並んで座布団に横になった。恵子が薄いタオルケットをかけてくれる。
「けえねえ、ありあと」
二歳児特有の舌足らずな言葉で言うと、恵子はぱっと顔を輝かせ、俺の頭を優しく撫でた。
「どういたしまして。将太くんは本当に天使みたいねぇ」
自分の肉体をチート改造している還暦越えの元勇者だが、この時代の人々の温かさには素直に感謝していた。
鈴木家の人々が注いでくれる愛情。夜遅くまで泥だらけになって働く父の背中。
前世では当たり前すぎて気づかなかった、昭和という時代の泥臭くも力強い繋がり。
(待っていろ、世界。俺はこの時代から、自分の足と腕だけで、駆け上がってみせる)
耳をすませば、庭で野球遊びをする子供たちの声と、遠くで新築のビルを打ち立てる重機の音が重なって聞こえる。
昭和38年。
俺の肉体は着実に、そして完璧に、未来への準備を始めていた。




