第19話:「S」狂騒曲編その7 昭和の屈辱的契約と、天使の街の狂騒
1972年(昭和47年)、初夏。
アメリカの音楽業界は、春先に東西のローカルラジオ局でわずか一ヶ月だけ放送され、忽然と姿を消した「名もなきゴースト・シンガー(通称『S』)」の幻影に完全に振り回されていた。
ダビングを繰り返され、ノイズだらけになったカセットテープが、若者たちの間で高値で取引されている。
全米のレコード会社が、この得体の知れない天才シンガーを自社のレーベルに引き入れようと、血眼になってその正体を探っていた。
そんな中、ロサンゼルスに本社を構える全米トップクラスのメジャーレーベルの社長室に、一人の東洋人の男がアタッシュケースを持って現れた。
* * *
side リチャード・ハミルトン 五十五歳 大手メジャーレーベルCEO
「……ふざけるな。もう一度言ってみろ」
俺は、最高級のマホガニーのデスクを拳で叩きつけ、目の前に座る小柄な日本人の男を睨みつけた。
『大賀(OOGA)ホールディングス・米国法人代表』と名乗ったその男は、全く顔色を変えることなく、分厚い契約書を指差した。
「ですから、ハミルトン社長。我々が抱えるアーティスト『S』のレコードの、全米における流通・販売を貴社に委託したいと申し上げているのです」
「俺が怒っているのは、その『条件』だ!」
俺は契約書を掴み上げ、男の顔に投げつけんばかりの勢いで怒鳴った。
「原盤権も、著作権も、すべての権利をそっちが保持する? うちのレーベルはただレコードをプレスしてレコード店に並べるだけの『運送屋』になれと? おまけに、利益の配分が『S側が八、うちが二』だと!? 寝言は寝てから言え、イエローモンキー! 新人の契約はレーベル側が九割持っていくのが、この業界の絶対のルールだ!!」
我々メジャーレーベルは、宣伝、プロモーション、流通、すべてにおいて莫大なコストとリスクを背負っている。だからこそ、アーティストから権利を搾取し、巨万の富を築き上げているのだ。
それを、たかだかラジオで話題になった程度の正体不明のシンガーが、八対二という、アントラーズやE.P. Rockですら提示できないような屈辱的な条件を突きつけてきたのだ。
「ハミルトン社長。これは交渉ではありません。『通達』です」
日本人の男は、氷のように冷たい声で言った。
「我々は、貴社の流通網という『インフラ』だけを必要としています。プロモーションなど一切不要です。ただ棚に並べるだけで、何百万枚、いや何千万枚というレコードが勝手に売れていく。二割という数字が、いかに途方もない巨額の利益を生み出すか、経営者であるあなたならお分かりになるはずですが」
「舐めるな! 素人の作ったテープが何千万枚も売れるか! 大体、どこの馬の骨ともわからない覆面歌手のレコードを、うちのような由緒あるレーベルから出せるわけがなかろう! とっとと出て行け!!」
俺はセキュリティを呼び、その東洋人をビルからつまみ出させた。
音楽ビジネスのルールを冒涜するような契約だ。あんな条件を飲む馬鹿なレーベルなど、全米中を探しても絶対に存在しない。そう高を括っていた。
だが、俺はその数週間後、自分のその傲慢な決断を、血の涙を流して後悔することになる。
* * *
side デニス・カーター 四十歳 弱小インディーズレーベル社長
「……つまり、うちの取り分は『一割(10%)』。あなた方『S』側が『九割(90%)』。……こういうことですね?」
ハリウッドの裏通りにある、家賃も滞納しがちな薄暗いオフィス。
俺は、目の前に座る日本人の代理人が突きつけてきた契約書を見て、冷や汗を拭った。
大手レーベルが『八対二』の条件を蹴ったという噂は聞いていた。それを知った上で、この『OOGA』の代理人は、崖っぷちの俺たち弱小レーベルの足元を見て、さらに凶悪な『九対一』という暴挙とも言える分配条件を突きつけてきたのだ。
「ええ。その代わり、このマスターテープに収録された全五曲のアメリカ国内における販売権を、貴社に独占的にお任せします」
代理人は、アタッシュケースから一本のオープンリールテープを取り出した。
「聴いてみても?」
「どうぞ」
俺は震える手でテープを再生機にセットし、ヘッドホンを耳に当てた。
ラジオで流れたという三曲(『When You Leave』『Until the Daylight』『A Piece of Us』)は、ダビングされた粗悪なカセットで聴いたことがあった。だが、マスターテープから流れるその音質は、まるでギターの弦の震えや、シンガーの息遣いまでもが直接脳内に響くような、恐ろしいほどの生々しさだった。
そして、テープには、ラジオでは流されなかった『新曲が二曲』追加されていた。
一曲目。
Adeleの『Someone Like You』(未来の楽曲)のアコギ弾き語りアレンジ。
ピアノの代わりに、静かなギターのアルペジオが刻まれる。
『♪……They tell me you’ve finally anchored your heart in a quiet harbor……』
(君がついに静かな場所に心を繋ぎ止めたと聞いたよ)
ハスキーで、張り裂けそうな悲しみを内包したボーカル。
失った愛への未練と、相手の幸せを願う強がり。その矛盾した感情が、完璧なメロディに乗せて叩きつけられる。
『♪……Go on. I’ll spend my days searching for a soul that rhymes with yours……』
(行って。僕はこれからも君の様な魂で通じ合える誰かを探して生きていくよ)
『♪……Let it be. may your path be paved with only the brightest stars……』
(それでいい。君の歩む道が最高の輝きだけで満たされますように……)
俺は、息をするのも忘れていた。
涙腺が崩壊し、ヘッドホンの中に涙がボトボトと落ちていく。
さらに、続くもう一つの新曲。
Sam Smithの『Stay With Me』(未来の楽曲)のアコギ・ゴスペルアレンジ。
孤独な夜、愛していないとわかっていながら、ただ誰かにそばにいてほしいという痛切な叫び。
『♪……Would you linger in this silence a little longer?……』
(この静寂の中に、もう少しだけ留まってくれないか?)
『♪……The dark is too loud alone.……』
(一人の闇は、うるさすぎるんだ......)
テープの再生が終わった時、俺は自分が激しく嗚咽していることに気づいた。
目の前の日本人の代理人は、表情一つ変えずに座っている。
「……カーター社長。一割です。どうされますか?」
「…………やる。やらせてくれ。いや、俺に売らせてくれ!!」
俺は契約書にペンを走らせながら、狂ったように叫んだ。
九対一の屈辱的条件? どうでもいい。こんな神の啓示のような音楽を、俺のレーベルの名前で世に出せるなら、魂だって売り渡してやる。
それに、一割だろうがなんだろうが、このレコードが全米で何百万枚売れるか、俺には正確な予測すらできなかった。一割というパーセンテージが、俺の会社を一夜にしてハリウッドの頂点に押し上げるだけの爆発力を持っていることだけは、確信できた。
* * *
side ケンジ 五十五歳 リトル東京 定食屋店主
1972年、六月。
ロサンゼルスのリトル東京は、文字通り『狂騒の渦』の中にあった。
数日前、我々日系コミュニティの恩人である『大賀(OOGA)』の米国法人から、リトル東京のすべての商店――定食屋、床屋、クリーニング店、八百屋、果ては金物屋に至るまで、信じられない依頼が舞い込んだのだ。
『皆様の店頭で、この黒いジャケットのレコードを販売していただきたい。価格は五ドル。売上の何割かは、そのまま皆様のお店の利益にして構いません』
持ち込まれたのは、真っ黒なジャケットに『The Ghost / S』とだけ白字で印字されたレコード盤の山だった。
既存のレコード店には一切卸さず、最初の『一ヶ月間』だけ、このロサンゼルスのリトル東京という、音楽とは全く無縁のコミュニティの中だけで独占販売するというのだ。
「いらっしゃい! レコードかい!? 一人三枚までだよ!」
俺の定食屋のカウンターには、うどんやカツ丼のどんぶりと一緒に、黒いレコードが山積みになっていた。
店の外には、早朝から何百メートルという異常な長さの行列ができている。並んでいるのは、日系人ではない。白人、黒人、ヒスパニック。カリフォルニア中の若者たちが、ラジオで流れたあの『幻のテープの完全版』を求めて、このリトル東京に殺到したのだ。
「オーマイガー……! ついに手に入れたぞ! 『S』のレコードだ!!」
金髪の長髪の若者が、俺の定食屋で買ったレコードを胸に抱きしめ、店の前で天を仰いで泣き叫んでいる。
隣のクリーニング店の親父も、向かいの雑貨屋のおかみさんも、本業を放り出してレコードの対応に追われ、顔を真っ赤にして札束を数えていた。
「ケンジおじさん! すげぇよ! リトル東京に、アメリカ中の若者が金落としていってるぜ!」
近所の若者タカシが、ダンボール箱を運びながら興奮して叫んだ。
OOGAの狙いはこれだったのだ。
彼らは我々に巨額の出資や寄付をしてくれただけでなく、この『幻のレコードの独占販売権』という最強の集客ツールを使って、寂れていたリトル東京の経済を、一瞬にして全米の注目の的へと押し上げた。
レコードを買いに来た若者たちは、ついでに我々の店でメシを食い、買い物をし、日系人の文化に触れて帰っていく。
「OOGA……いや、大賀の社長さん。あんたらは本当に、魔法使いか何かなのかい」
俺は、忙しさで悲鳴を上げる腰を叩きながら、空を見上げた。
大賀ホールディングスへの、そして彼らが口にしていた『いずれやってくるオーナー』への恩義と忠誠心は、この日系人コミュニティの中で、もはや宗教的な信仰に近いレベルにまで高まりつつあった。
* * *
side アメリカの音楽ファン&レーベル関係者
最初の『リトル東京限定販売』の一ヶ月間。
全米中の音楽ファンは、西海岸の小さな日本人街でしか買えないそのレコードを求めて、飛行機に飛び乗り、ヒッチハイクで大陸を横断した。
運良くレコードを手に入れた者たちが、それぞれの地元に帰り、プレイヤーに針を落とす。
『♪……Would you linger in this silence a little longer?……』
追加された『Finding Your Echo』と『The Dawn's Grace』の破壊力は凄まじかった。
ベトナム戦争の深い傷跡を抱えたアメリカ社会の隅々に、正体不明の東洋のレーベルから放たれた名もなきシンガーの魂の叫びが、圧倒的な癒しと浄化をもたらしていく。
ラジオ局には、今度は『S』の五曲すべてに対するリクエストが、滝のように殺到した。
そして二ヶ月目。
リトル東京での販売制限が解除され、全米のレコード店で正式に『The Ghost / S』の流通が開始された。
「……社長。一週間で……ミリオン(百万枚)を突破しました。現在も追加プレスの工場が二十四時間フル稼働ですが、全く追いつきません!」
ハリウッドの弱小レーベルのオフィスで、デニス・カーター社長は、報告を受けるなり膝から崩れ落ちた。
彼らが手にする利益は、全体のわずか『一割』。
だが、その一割ですら、彼らのレーベルをハリウッドの中心にそびえる巨大ビルへと移転させるのに十分すぎるほどの、莫大な大金となっていた。
一方、八対二の契約を「イエローモンキー」と吐き捨てて蹴り飛ばした大手メジャーレーベルのハミルトン社長は、連日連夜テレビから流れる『S』の社会現象のニュースを見ながら、社長室でひっそりと精神安定剤を酒で流し込んでいた。
彼は後に、世紀の大魚を逃した責任を問われ、株主総会でCEOの座から引きずり下ろされることになる。
そして、顔も名前も国籍すら明かさない『S』のレコードは、最終的に全米で一千万枚という、当時の音楽史を塗り替えるダイヤモンド・ディスクの大記録を打ち立てることになる。
そして、その売上の『九割』という天文学的な莫大な現金は、スイスの口座を経由し、極東の島国で大工の真似事をしている家族の金庫へと、音もなく還流していくのだった。




