第18話:「S」狂騒曲編その6 昭和の幻のテープと、天使の街の都市伝説
1972年(昭和47年)、四月。
アメリカ合衆国は、深く、重苦しい疲労感に包まれていた。一月に調印されたパリ協定により、泥沼化していたベトナム戦争からの米軍完全撤退が始まったものの、社会に刻まれた分断の傷跡は深く、若者たちを熱狂させたヒッピー・ムーブメントも、すでに薬物と暴力の影にまみれて終焉を迎えようとしていた。
そんな「喪失の時代」の真っ只中。
ニューヨークとロサンゼルスという東西の巨大都市の、それぞれ一つのローカルラジオ局の深夜枠においてのみ、一ヶ月間だけ放送された「三つの弾き語り楽曲」があった。
アーティスト名『S』の正体不明のシンガー。
その電波は、四月に入ると同時に、まるで初めから存在しなかったかのように、突如としてプツリと沈黙した。
だが、その一ヶ月という短すぎる期間は、アメリカの音楽業界と若者たちの間に、決して消えることのない深い爪痕を残すには十分すぎた。
* * *
side アーサー・ローゼンバーグ 四十五歳 ニューヨーク・大手レコード会社A&R(発掘担当)
「……それで? まだスポンサーの尻尾は掴めないのか!」
マンハッタンの高層ビルの一室。俺は、デスクの上にカセットテープの山をぶちまけながら、部下の調査員に向かって怒鳴りつけた。
調査員は、憔悴しきった顔で首を横に振った。
「申し訳ありません、アーサー。ラジオ局の局長にも直接プレッシャーをかけましたが、スポンサー契約はスイスの銀行口座を経由したペーパーカンパニーから行われており、完全な匿名契約です。違約金が天文学的数字に設定されているらしく、局側も口を割ろうとしません」
「クソッ……! どこのどいつだ、こんなふざけた真似をしやがるのは!」
俺は、机の上のカセットテープレコーダーの再生ボタンを、乱暴に押し込んだ。
ノイズ混じりの荒い音質。だが、そこから流れてくるアコースティック・ギターの旋律と、魂を削り取るようなハスキーボイスは、何度聴いても俺の背筋を凍らせた。
『♪……The flash of light captures the pain we share...』
(瞬く閃光が、僕らの分かち合う痛みを切り取る)
『♪……But it's the only proof that we existed here...』
(でもそれは、僕らがここに存在した唯一の証明なんだ)
『♪……When the bitter wind bites, you know the cold will break us down...』
(冷たい風が噛み付く時、その寒さが僕らを壊してしまうと君は知っている)
ジェームス・テイラーやボブ・ディランとは全く違う。
この男のコード進行は、現代の音楽理論から数歩先を行っているように洗練されており、それでいて、信じられないほどにエモーショナルだ。
『♪……Folded in my pocket, the paper holds our frozen smiles...』
(ポケットに折り畳まれた紙片が、凍りついた僕らの微笑みを抱きしめている)
『♪……We lock away the warmth, so the winter can't touch us anymore...』
(温もりを鍵で閉じ込めよう、もう冬の寒さに触れられないように)
「……天才だ。百年に一人の天才だぞ、こいつは」
俺は頭を抱えた。
この素性不明のシンガー『S』が歌った『When You Leave』『Until the Daylight』『A Piece of Us』の三曲は、現在ニューヨークの音楽関係者の間で、ダビングを繰り返された粗悪なカセットテープという形で、一種のオーパーツとして出回っている。
どこのスタジオで録られたのか。どこのレーベルが隠し持っているのか。
あらゆるレコード会社が血眼になってこの『S』を探し求めているが、手がかりは完全にゼロだった。
「一ヶ月だけ放送して、わざと消えたのか……? 大衆の渇望を煽るための、悪魔のようなマーケティング・トリックなのか? もしそうだとしたら、このシンガーの背後には、我々の想像を絶する頭脳を持ったフィクサーがいることになる」
俺は冷めたコーヒーを胃に流し込み、摩天楼の夜景を見下ろした。
このゴースト・シンガーが姿を現した時、アメリカの音楽産業の勢力図は完全に塗り替えられる。その震源地に一番乗りできなければ、俺のプロデューサーとしてのキャリアは終わりだ。
* * *
side キャロル 十九歳 ロサンゼルス・UCLA(カリフォルニア大学)女子大生
「ねえ、キャロル。またそのテープ聴いてるの?」
キャンパスの芝生の上で、友人のジェーンが呆れたように声をかけてきた。
私は、ポータブルのカセットレコーダーにイヤホンを繋ぎ、膝を抱えたまま小さく頷いた。
「うん……だって、ラジオでやらなくなっちゃったから。この、ノイズだらけのテープしか残ってないんだもん」
イヤホンから流れてくるのは、切なくも力強い、あの声だ。
『♪……The shadows pull me deep, and the lifeboat is nowhere to be found...』
(暗い影が僕を深く引き摺り込み、救命ボートはどこにも見当たらない)
『♪……The sun surrenders, pouring its last red drops into the dark...』
(太陽は降伏し、その最後の赤い滴を闇の中へと流し込む)
この『Until the Daylight』を聴くたびに、私の胸の奥に空いたぽっかりとした穴が、少しだけ埋まるような気がした。
ベトナム戦争の反戦デモに熱中していた日々。でも、戦争が終わりかけている今、私たちに残されたのは「何も変わらなかった」という強烈な虚無感だけだった。
世界を愛で変えられると信じていたヒッピーたちは、ドラッグに溺れて消えていった。
『♪……I was just starting to believe the illusion that I had a place in your heart...』
(君の心の中に僕の居場所があるという幻想を、信じ始めていたところだったのに)
今、UCLAの学生たちの間で、この『S』のテープは、まるで非合法の鎮痛剤のようにダビングされ、広まっている。
「イギリスの無名アーティストのデモテープが流出したらしい」「いや、ベトナムで死んだ兵士が残したテープだ」などと、様々な都市伝説が囁かれている。
「本当に、誰なんだろうね……」
「どこかのレコード屋でアルバムが出るって噂、ずっと待ってるんだけどね」
ジェーンも、私の隣に座って片方のイヤホンを耳に入れた。
カリフォルニアの青い空の下で、私たちはただ、姿の見えない天使の声に救いを求めていた。一ヶ月間の奇跡のような電波は、私たちから去ってしまった。その事実が、たまらなく悲しかった。
* * *
side ケンジ 五十五歳 リトル東京 定食屋店主
ロサンゼルスのダウンタウンの一角。
我々日系アメリカ人の魂の拠り所である『リトル東京』は、今、かつてない活気に包まれていた。
「おう、ケンジ! 今日のランチも大繁盛だな!」
「ああ、おかげさまでな。新しいコミュニティセンターの工事関係者も食べに来てくれるから、仕込みが追いつかないくらいさ」
数ヶ月前まで、この街は不況のどん底にあった。私の定食屋も、あと数ヶ月で店を畳む覚悟を決めていたのだ。
それを救ってくれたのが、日本から突如として現れた『大賀ホールディングス』という巨大企業だった。
彼らは、我々日系人コミュニティに対して、莫大な無償の寄付と出資を行った。見返りは一切求めず、ただ「遠い未来、この街にやってくる『真のオーナー』を温かく迎えてやってほしい」という、謎めいた言葉を残しただけだった。
店の中のラジオからは、地元のFM局のDJが興奮気味に喋る声が聞こえていた。
『……今週も、あの名もなきシンガー『S』へのリクエストが殺到しています! 放送が終了して数週間が経つというのに、熱は冷めるどころか加熱する一方です! 今日は特別に、リスナーが録音したテープの音源を放送しましょう……!』
ラジオから、あの『When You Leave』の美しいイントロが流れ始めた。
「……また、この曲か」
カウンターでうどんを啜っていた日系二世の若者、タカシが顔を上げた。
「ケンジおじさん。俺たちの間じゃ、ちょっとした噂になってるんだよ。あの『S』とかいう謎のシンガー、もしかして『OOGA』と何か関係があるんじゃないかって」
「なに? 日本の大企業と、アメリカのラジオの謎の歌手がか?」
「ああ。だって、あの曲がピンポイントで流れたのって、ニューヨークと、俺たちのいるロサンゼルスだけだろ? 時期も、OOGAがこの街に巨額の投資をした時期とピタリと重なってる。それに……」
タカシは、ラジオから流れる完璧なネイティブの英語の歌声に耳を傾けた。
「……発音に訛りは一切ないし、どう聴いても白人か黒人の声に思える。でも、あの歌に込められた『悲しみとの向き合い方』とか、感情の乗せ方に……どこか、俺たち日系人にも通じるような、東洋的な深い精神性を感じるんだよ」
私は、カウンターを拭く手を止めた。
確かに、そう言われてみれば、あの歌声には、派手な自己主張ばかりのアメリカン・ポップスとは違う、静かで、内に秘めた燃えるような情念があるように思えた。
「OOGAの黒川という社長が言っていた、『真のオーナー』。……そいつがもし、ただのビジネスマンじゃなくて、とんでもないカリスマを持った人物だったとしたら。俺たちを救ってくれたのは、神様か、それとも天使だったのかね」
タカシの都市伝説のような言葉に、私は苦笑しながらも、胸の奥で奇妙な胸騒ぎを覚えていた。
リトル東京のメインストリートでは、OOGAの資金で建設中の真新しい病院が、太陽の光を浴びて輝いている。
日本の裏社会や経済界を飲み込みつつある謎の巨大企業。
そして、アメリカの深夜に突如として現れ、若者たちの魂を奪って消えた幻のシンガー『S』。
この二つの点と点が、遠い未来、この天使の街でどのように交差し、どのような巨大な嵐を巻き起こすことになるのか。
1972年の春。その壮大な計画の全貌を知る者は、海の向こうの極東の島国で、硬式野球のボールを握っている一人の少年を除いて、まだ誰もいなかった。




