第15章:「S」狂騒曲編その4 昭和のネズミ算と、崩壊する音楽利権
1971年(昭和46年)、秋。
ラジオから突然姿を消した正体不明の天才歌手『S』の幻影を追い求め、日本中の若者たちが枯渇感に喘いでいた一ヶ月後。
ついに、新曲二曲(『サンフラワー・エール』『黎明を追い越して』)を追加収録した五曲入りLP盤『初恋と追憶』が、百万枚という途方もない数でプレスされ、完成した。
神田の黒川税理士は、この百万枚を武器に、満を持して大手レコード会社や問屋連合という「正規ルート」の扉を叩いた。
だが、交渉は完全に決裂した。
「……連中の強欲さは、私の想像を超えていましたよ」
事務所のソファで、黒川先生は忌々しげに紅茶のカップを置いた。
向かいに座るボロボロのニッカポッカ姿の大神社長(32歳)と、ランドセルを置いたばかりの俺(大神将太・十歳)は、黙ってその言葉の続きを待った。
「彼らは『S』のレコードを自分たちの流通に乗せる条件として、売上の八割をよこせと言ってきました。さらには、『S』の正体を明かし、専属契約を結べと。原盤権も著作権もすべて会社に譲渡しろという、まるで奴隷契約です。インディーズの分際で、既存の流通を通してもらえるだけありがたいと思え、とね」
音楽業界の既得権益。それは、作り手の魂を吸い上げ、スーツを着た連中が肥え太るための鉄の城だ。
「それで、先生はどうしたんですか?」
「『ふざけるな』と席を蹴ってきました」
黒川先生は、冷たい、しかし燃えるような笑みを浮かべた。
「大神社長。連中の流通網など、もはや必要ありません。前回の『トラックゲリラ販売』の規模を、さらに拡張しましょう。この百万枚も、すべてトラックの運転手たちの手で捌きます」
「い、いや先生。いくらなんでも百万枚は……俺のツテで集められる運ちゃんの数じゃ、十年かかっちまいますよ」
親父が慌てて身を乗り出した。
だが、黒川先生の頭脳には、すでに恐るべき流通システムが構築されていた。
「大神社長。前回、運転手たちには一枚売るごとにマージンを渡しましたね。今回はそこに『紹介料』と『運搬料』というシステムを組み込みます。あなたの直接の知り合いの運転手が、彼らの同僚や、別会社の運転手にレコードを卸すことを許可するのです。その際、一枚につき二十円を上乗せした額で卸させる。つまり、あなたの知り合いは、自分が手売りしなくても、レコードを右から左へ流すだけで一枚二十円が懐に入る仕組みです」
「……っ!」
俺は、内心で舌を巻いた。
ネットワークビジネス、いわゆる『ネズミ算式(マルチ商法的)』の拡散システムだ。
当時はまだマルチ商法への法規制も緩く、そもそもこれは質の悪い商品を売りつける詐欺ではなく、「定価三千円で飛ぶように売れる超人気商品」の卸売権を分配しているだけなので、誰も損をしない。
「運転手たちは、小遣い稼ぎのために血眼になって全国の同業者にレコードを広めていくでしょう。トラック、ダンプ、長距離バス。日本の大動脈である物流網すべてが、我々の『営業マン』であり『動くレコード店』になるのです。……既存の音楽利権を、下町から根底からぶっ壊してやりましょう」
こうして、昭和音楽史に永遠に語り継がれる『百万枚トラック流通事件』の幕が上がった。
* * *
side 松山 四十五歳 長距離トラック運転手
「おい松山さん! 例の『S』の新しいレコード、入ったんすよね!? 俺に百枚、いや二百枚卸してくださいよ!」
深夜のサービスエリア。
俺の大型トラックの周りには、他社の若いトラック運転手たちが札束を握りしめて群がっていた。
大神の社長から直にレコードを卸してもらっている俺(一次卸)は、彼ら(二次卸)にレコードを流すだけで、一枚につき二十円の『運搬料』がピンハネできる。二百枚卸せば、それだけで四千円。何もしなくても一日分の給料が転がり込んでくるのだ。
「おうおう、慌てるな。順番だ。いいか、お前らも自分の知り合いの運ちゃんに卸していいんだぞ。その時はさらに二十円乗せて卸せ。みんなで儲けようぜ!」
無線を通じて、この『魔法のレコード』の噂は全国のトラッカーたちの間に瞬く間に広がった。
深夜の国道のドライブインや、港のコンテナヤード、トラックの給油所。あらゆる場所に段ボール箱が持ち込まれ、運転手から運転手へ、そして運転手から熱狂する若者たちへとレコードが手渡されていく。
俺たちはただのブルーカラーの労働者だ。普段は社会の底辺だと見下されることもある。
だが今、俺たちは日本中が熱狂する最高の音楽を、自分たちの手で直接届けている。どこに行っても「運ちゃん、ありがとう!」と神様のように感謝されるのだ。
日本の物流を担っているという誇りと、かつてない連帯感が、全国のトラック運転手たちを一つの巨大な組織に変えようとしていた。
* * *
side 牛島 五十歳 大手レコード会社制作部長
「ぶ、部長ぉぉっ!!」
本社のフロアに、若手社員の悲鳴が響き渡った。
「またか! 今度はなんだ!」
「お、オリコンの集計です! 既存のレコード店を通していないはずの『S』のアルバムが、オリコンの独自調査(口コミや有線放送へのリクエスト集計など)によって、実売数で他をぶっちぎって圧倒的トップに……!」
俺は持っていた万年筆をへし折った。
「馬鹿な……。百万枚だぞ。それをたかだか一ヶ月やそこらで、素人の運送屋どもが捌き切っているというのか……!?」
窓の外を見下ろす。銀座の街には、ラジカセを肩に担ぎ、『S』のアルバムから流れる『黎明を追い越して』を聴きながら歩く若者たちの姿があった。
もはや社会現象だ。
俺たちが築き上げてきた、問屋と小売店を結ぶ強固な流通網。何億円という宣伝費。テレビ局やラジオ局との癒着。
それらがすべて、得体の知れない税理士と、埃まみれのトラック運転手たちによって無力化され、嘲笑われている。
「くそっ……! 国税だ! 国税庁にタレ込め! あんな売り方、絶対に裏で巨額の脱税をしているに決まっている! あいつらを潰せ!」
俺は泡を飛ばして怒鳴った。音楽で負けたのではない、流通というルールの外から殴られたのだ。そう思わなければ、プロとしてのプライドが崩壊してしまいそうだった。
* * *
side 国税庁 査察部
「……というわけで、大手レコード会社からの強い要請もあり、『S』のレコード販売元である『K企画』に内偵を入れていたのですが」
霞が関の会議室。査察官の一人が、困惑しきった顔で報告書を読み上げた。
「結果から言うと、手出し無用です。完全に白です」
「白だと? あれだけ全国のトラック運転手を巻き込んで、数億円規模の現金が飛び交っているんだぞ!?」
「ええ。ですが、この『K企画』の顧問税理士……元国税局の『黒川』が、恐ろしいまでに完璧な帳簿を作っています。運転手へのマージンはすべて『業務委託費』や『運搬手数料』として合法的に処理され、源泉徴収の網も張り巡らされている。売上金は一円の狂いもなく計上され、莫大な法人税と所得税が、すでに期日前に自主申告で納付されています」
会議室が静まり返った。
脱税の意図が全くないどころか、超優良な高額納税者である。
「さらに言えば、この『ネズミ算式』の販売手法ですが……現在の商品取引法に照らし合わせても、違法性はありません。彼らは粗悪品を売りつけているのではなく、消費者が定価三千円でも喉から手が出るほど欲しいものを、適正価格で流通させているだけなのですから」
「……既存のレコード会社の既得権益を、法の枠内で完全に破壊したというのか」
上官が、深い溜息をついた。
新しい経済圏の誕生。
たった一枚のレコードが、昭和の流通構造と利権の壁に、決定的な風穴を開けた瞬間だった。
* * *
side 山崎 下町のレコード店 店主 & 買えなかった若者たち
「親父!! なんで今日も『S』のレコード入ってねぇんだよ!!」
「俺に怒鳴るな!! 欲しいなら、深夜の国道一号線に行って、デコトラの運ちゃんに頭下げてこい!!」
街のレコード店は、完全に機能不全に陥っていた。
店内には、既存のアイドルのレコードが山積みになっているが、若者たちは見向きもしない。彼らが欲しているのは、トラックの荷台でしか買えない『黒いジャケットのLP盤』だけだ。
深夜のパーキングエリアは、もはや野外フェスのような有様だった。
『S』のレコードを積んだトラックが到着するや否や、何百人という若者が歓声を上げて群がる。
ラジカセから大音量で流れる『サンフラワー・エール』の切ないメロディに、長髪の大学生も、暴走族の特攻服を着た不良も、トラック運転手も、誰もが皆、涙を流して聴き入っている。
「すげぇよ……『S』って、一体どんな人生送ってきたら、こんなすげぇ歌が歌えるんだ……」
音楽が、階級も立場も超えて、日本中の心を一つに繋いでいた。
* * *
荒川の土手。
秋の涼しい風が吹く中、俺(大神将太・十歳)は、コンクリートの壁に向かって、黙々と硬球を投げ込んでいた。
シュバッ! パァァァンッ!!
重く、乾いた音が響き渡る。
俺の投げる球は、すでに小学生の枠を完全に超え、大人のプロ野球選手にも引けを取らないほどのスピンと球威を帯び始めていた。
「にいちゃん! またそんな硬いボール投げてんの! 肩壊すよ!」
後ろから、江東ジュニアの練習を終えた直継(九歳・身長165cmの重戦車)が、心配そうに駆け寄ってくる。
俺はグローブを下ろし、ニヤリと笑った。
「平気だよ、直継。……それより、今日の練習はどうだった?」
「うん! なんか監督怒ってたけど、にいちゃんに教わったアッパースイングで、場外ホームラン打ってきた!」
直継が嬉しそうに胸を張る。
向かいの道路を、運送会社の巨大なトラックが土埃を上げて走り去っていく。その開け放たれた窓からは、大音量で『Citron』が流れていた。
(世間は大騒ぎだな)
何億円、何十億円という印税が親父の口座に雪崩れ込み、音楽業界の既得権益が悲鳴を上げて崩壊していようと。
俺の正体が、実は十歳の小学生で、この荒川の土手で壁当てをしている少年だとは、日本の人々は思わないだろう。
「よし直継、帰って力也兄ちゃんの飯食うぞ! 今日は焼肉だ!」
「やったー!!」
俺たちは土手を駆け下り、アパートへと家族が待つ、温かい下町へと帰っていった。
* * *
side 黒川 税理士
覆面歌手『S』の五曲入りアルバム『初恋と追憶』百万枚が、トラック運転手たちのネズミ算式ネットワークによって日本中に行き渡り始めた頃。
神田の黒川税理士事務所は、既存の音楽業界に対する「第二の矢」を放っていた。
「……これで、日本の街角は完全に我々のものになりますよ、大神社長」
事務所のデスクで、私は新たに作成した契約書の束を叩きながら、不敵な笑みを浮かべた。
ソファには、相変わらずボロボロのニッカポッカを着た大神社長と、その横で知恵の輪で遊んでいる将太君(十歳)がいる。
「先生、また何かとんでもねぇこと企んでるんですか?」
「ええ。レコードを売るだけでは、まだ既存の音楽利権を完全に破壊したとは言えません。音楽ビジネスのもう一つの巨大な柱……『楽曲の使用料(著作権ビジネス)』を根底からひっくり返します」
当時の音楽業界は、日本音楽著作権協会(JASRAC)などの団体が、放送局や店舗での楽曲使用料を厳しく管理し、莫大な利益を吸い上げていた。
喫茶店やスーパーマーケット、そして当時普及し始めていた有線放送(USEN)などが店内でレコードを流す場合、高い使用料を支払わなければならない。
「我々『K企画』は、著作権管理団体を一切通しません。そして、全国の有線放送事業者や、商店街、喫茶店、デパートに対して、こう通達したのです。『Sの楽曲の店舗でのBGM使用料は、事実上の無料(年間わずか百円の登録料のみ)とする』と」
「む、無料!? もったいねぇ! 先生、せっかく将太が作った曲なのに……」
「大神社長、損して得取れ、です。高い使用料を嫌がる全国の店舗は、こぞって『無料のSの曲』を店内でエンドレスで流すようになります。結果どうなるか。……日本中のあらゆる場所で、朝から晩まで、Sの曲しか聴こえなくなるのです。既存の歌手の曲は、完全に駆逐されます」
私は、眼鏡の奥で冷徹な光を放った。
ラジオやテレビといったマスメディアを金で牛耳る大手レコード会社に対し、我々は「街の空気(BGM)」そのものをジャックしたのだ。レコードの売上だけでも数十億円。もはや、端銭の使用料などかき集める必要すらなかった。
数日後。私の予言は、恐ろしいほどの現実となって日本列島を飲み込んだ。
* * *
side 田辺 三十五歳 専業主婦
夕方の買い物客でごった返す、ダイエーの食料品売り場。
今日の夕飯のおかずを悩みながら歩いていた私の耳に、天井のスピーカーから、静かなアコースティック・ギターの音色が降ってきた。
『♪……なぜ、巡り逢うのかを……僕達は、知らずに……』
ハスキーで、どこか泣き出しそうな、切ない男の人の声。
私は、大根を握りしめたまま、その場で立ち尽くしてしまった。
『♪……縦の絆はあなた……横の絆はわたし……
織りなす布は いつか誰かの……凍えた肩を 温めるでしょう……』
気がつけば、私の目から涙がこぼれ落ちていた。
毎日、夫と子供の世話に追われ、自分の名前すら忘れそうになっていた日々。この人と結婚したのは間違いだったんじゃないかと、何度も一人で泣いた夜。
でも、この歌は、そんな私の擦り切れた人生すら「結び」だと、優しく包み込んでくれたような気がしたのだ。
「……あ、あの! 店員さん! 今流れてるこの曲、誰のなんていう歌ですか!?」
私と同じように、売り場で涙を拭っていた主婦たちが、一斉にパートの店員さんに詰め寄っていた。
この日を境に、私は深夜の国道沿いに車を走らせ、トラックの運転手さんから『S』のレコードを買うための行列に並ぶことになった。
* * *
side 高橋 十七歳 高校生
新宿の純喫茶。
俺は、彼女にフラれたばかりの痛む胸を抱えながら、冷めたコーヒーを見つめていた。
店の有線放送から、その曲が流れてきたのは、そんな時だった。
『♪……失くしてから気づくなんて したくないから……
今の僕に 何ができるだろう……ひまわりのような
その真っ直ぐな光を......これからは僕が 守り続けていきたい』
「…………」
俺は、テーブルに突っ伏して、声を殺して泣いた。
俺の気持ちを、どうしてこの見ず知らずの歌手はこんなにも見透かしているのか。
喫茶店のマスターも、カウンターの常連客も、誰も俺を笑わなかった。店内ではただ、圧倒的な名曲が、傷ついた若者たちの心を慰めるように流れ続けていた。
『S』の歌は、間違いなく昭和四46年の日本人の「魂のサントラ」になっていた。
* * *
side ヒットマン 凄腕の殺し屋 年齢不詳
「……ターゲットは、神田に事務所を構える税理士、黒川。ただの税理士じゃねぇ、あの『S』の元締めだ」
暴力団と密接な繋がりを持つ、音楽業界のフィクサー。その男からの依頼は、極めてシンプルだった。
『S』の異常なビジネスモデルによって、既存の音楽業界は数百億円規模の損失を出していた。レコードが売れない。有線放送で曲が使われない。焦燥に駆られた既得権益のトップたちは、ついに「物理的な排除」という最も黒い手段に打って出たのだ。
「殺すのか?」
「いや。両手の指を全部へし折り、二度と契約書にサインできない体にしてやれ。それから、『S』の正体を吐かせろ」
深夜の神田。
俺は、仕事を終えて一人で帰路につく黒川の背中を、暗い路地裏で尾行していた。
周囲に人影はない。雨がしとしとと降り出し、街灯の光がアスファルトに反射している。
俺は懐からサイレンサー付きのトカレフと、鋭いサバイバルナイフを抜き出した。銃で脚を撃ち抜き、ナイフで指を切り落とす。簡単な仕事だ。
黒川が、路地の角を曲がった。
俺は音もなく背後に忍び寄り、トカレフの銃口を黒川の背中に向けた。
その瞬間だった。
シュバッ!!!
闇夜を切り裂くような、異様な風切り音。
直後、俺の銃を構えた右の手首に、視認できないほどの速度で飛来した何かが激突した。
「ガァッ!?」
メキィッ!という骨の砕ける音と共に、俺の手首が完全にへし折れ、トカレフが宙を舞って水たまりに落ちた。
痛覚よりも先に、何が起きたのか理解できず、俺は呆然と立ち尽くした。
足元に転がっていたのは、赤い縫い目のある「硬式野球ボール」だった。
なぜそんな物が飛んできたのか考える間もなく、今度は俺の耳元で地を這うような低い声がした。
『……次はない』
その声を聞いて俺の全身の毛穴から、一気に冷や汗が噴き出した。
本能が、全力で警鐘を鳴らしていた。これは人間の仕業じゃねえ。逆らえば、消される。
俺はナイフを捨て、折れた右手を押さえながら、悲鳴すら上げられずに闇夜の中へと逃げ去っていった。
* * *
覆面歌手『S』のレコードは、最終的に実売三百万枚という、当時の日本記録を軽々と塗り替える金字塔を打ち立てた。
その巨額の富と、日本の音楽業界を根底から作り変えてしまったという事実を背負いながらも。
その張本人の愉快犯は相変わらず、江東区の荒川の土手で、汗を流しながら次なる「暇つぶし」に思いを馳せていた。




