第14話:「S」狂騒曲編その3 昭和の深夜放送と、正体不明の「S」
1971年(昭和46年)、夏。
神田にある黒川税理士事務所がダミー会社として設立した『K企画』が借り上げた、江東区の薄暗い貸倉庫。
その空間には、真新しい段ボール箱が天井に届くほどの高さまで、文字通り山のように積み上げられていた。
「……黒川先生。これ、全部レコードですか」
ボロボロのニッカポッカ姿の父(大神将・32歳)が、圧倒されたように口を開けた。
黒川税理士は、分厚い黒縁眼鏡を光らせながら、誇らしげに頷いた。
「ええ。大神社長の資産から捻出した資金で、十万枚プレスしました。タイトルは『追憶の欠片』。アーティスト名は、ただ一文字『S』です。ジャケットは黒地に白抜きでタイトルが書かれているだけの、極めて簡素なものです」
「じゅ、十万枚……!? レコードってのは、普通千枚とか二千枚から作るもんじゃねぇんですか!?」
「普通のインディーズならそうでしょう。ですが、これは普通ではありません。私はあの録音を聴いて確信しました。十万枚でも、あっという間に市場から消えると」
黒川先生は、積み上げられた段ボールをポンと叩いた。
俺(大神将太・十歳)は、大人しく父の横に立ちながら、内心で『さすが黒川先生、わかってる』と感心していた。未来で数十億回再生されるメロディの詰め合わせなのだから、十万枚などすぐに捌ける。
「でも先生。十万枚も作ったのに、レコード屋には全然並んでねぇじゃないですか。これじゃ売れないんじゃ……」
「大神社長、商売の基本は『飢餓感を煽る』ことです」
黒川先生の目が、獲物を狙う鷹のように鋭くなった。
「この十万枚は、あえて今は一枚も市場に流しません。私が行ったのは、全国の主要な深夜ラジオの『放送枠』の買い占めです。今夜から一ヶ月間、毎晩深夜の特定の時間帯に、番組のパーソナリティの紹介も一切なく、ただ唐突にあの三曲を流し続けます。リスナーの耳に強制的にあのメロディをねじ込み、『この神曲は誰が歌っているんだ!?』『レコードはどこで買えるんだ!?』という爆発的な渇望を作り出すのです」
「渇望……」
「ええ。問い合わせが殺到し、世間の熱狂が最高潮に達した時、この倉庫の扉を開けます。……さあ、大神社長、将太君。今夜のラジオを楽しみにしていてください」
黒川先生の冷徹な、しかし情熱に満ちた笑みに、俺はニヤリと口角を上げた。
昭和46年の深夜放送ブーム。テレビがまだ一日中放送していなかったこの時代、深夜のラジオは若者たちや夜働く大人たちにとって、世の中と繋がる唯一の、そして最も濃密な情報源だった。
そこに、未来のオーパーツ(バケモノ楽曲)を放り込むのだ。どうなるかなど、火を見るより明らかだった。
* * *
side 小林 十八歳 高校三年生
深夜一時半。
大学受験を控えた俺は、四畳半の勉強部屋で参考書と格闘していた。
蒸し暑い夏の夜。唯一の気晴らしは、机の脇に置いたトランジスタラジオから流れる深夜放送だけだ。
お気に入りのパーソナリティの軽快なトークが終わり、CMに入るかと思われたその時。
――チャッ、ドンッ! ジャカァッ……!!
「……ん?」
シャープペンシルを動かす手が、ピタリと止まった。
ラジオの粗いスピーカーから、聴いたことのない、凄まじくパーカッシブなアコースティック・ギターの音が飛び出してきたのだ。
なんだこの音は? ギターのボディを叩きながら弾いているのか?
『♪……嘘ならばどれほど 救われたことでしょう……』
ハスキーで、哀愁を帯びた、年齢不詳の男(少年?)の歌声。
俺は、参考書から完全に顔を上げ、ラジオのスピーカーに耳を近づけた。
『♪……今だにあなたの 影を追いかけてしまう……
二度と戻らない 平穏な日常のなか……』
心臓が、鷲掴みにされたような感覚に陥った。
フォークソング特有の湿っぽさはある。だが、コードの進行も、言葉を細かく刻むようなリズムも、俺が今まで聴いてきた日本のどの音楽とも違っていた。圧倒的に新しく、それでいて、どうしようもなく日本人の心の柔らかい部分を抉ってくる。
『♪……雨が降っても 風が吹いても……
あの日と同じ 香りがしている……』
気がつけば、俺の目から涙がこぼれ、参考書のページにシミを作っていた。
誰なんだ、これは。
曲が終わり、俺はパーソナリティの曲紹介を待った。しかし、ラジオからは「この時間は、一部協賛スポンサーの提供でお送りしました」という無機質なアナウンスが流れただけで、すぐに次のコーナーへと移ってしまった。
「嘘だろ……誰の曲だよ、今の……!」
俺は慌ててラジオ局の電話番号を調べ、受話器を取った。
ツーツーツー。
話し中だった。何度かけても、回線がパンクしているかのように全く繋がらなかった。
この瞬間、日本中の四畳半で、俺と同じように深夜ラジオを聴いていた若者たちが、一斉に電話をかけていたのだと知ったのは、少し後のことである。
* * *
side 松山 四十五歳 長距離トラック運転手
深夜三時。東名高速道路を、大型トラックでひた走っていた。
隣には誰もいない。キャビンの中には、エンジン音と、ノイズ混じりの深夜ラジオの音だけが響いている。
妻と別れて五年。娘にもずっと会っていない。俺の人生は、ただ夜のハイウェイを走り続けるだけの、空っぽなものになっていた。
ラジオの音楽番組で、ふと、静かなギターのアルペジオが流れ始めた。
『♪……なぜ、巡り逢うのかを 僕達は、知らずに……』
透き通るような、しかし深い悲しみを知っているような歌声。
『♪……震える指で……手繰り寄せた……』
俺は、ハンドルを握る手に力が入るのを感じた。
別れた妻の顔が浮かんだ。幼かった娘の笑い声が耳の奥で蘇る。
すれ違い、傷つけ合い、離れ離れになってしまった俺たちの糸。
『♪……縦の絆は あなた……横の絆は わたし……
巡り逢う不思議を 人は……結びと呼ぶのでしょう……』
「……うっ……うぅぅぅっ……」
ダメだった。
涙でフロントガラスが滲み、前が見えなくなった。俺は慌ててハザードランプを点灯させ、路肩にトラックを停車させた。
深夜の高速道路の片隅で、俺はハンドルに突っ伏し、声を上げて泣きじゃくった。
「誰だ……誰が歌ってやがる……。俺の人生、見透かしてんのかよ……」
俺は泣きながら、この『結』という曲(後で局に問い合わせて知ったタイトルだ)のレコードを、絶対に手に入れると心に誓った。そして、娘に会いに行こうと思った。
この歌声は、荒みきった中年男の人生すら、変えてしまうほどの力を持っていた。
* * *
side 某深夜ラジオ局ディレクター
「おい! 電話線抜いとけ! クレームじゃない、全部『今の曲はなんだ』っていう問い合わせだ!!」
深夜のラジオ局のサブ(副調整室)は、完全にパニック状態に陥っていた。
電話のオペレーターたちが悲鳴を上げている。回線はすべてパンクし、局の代表電話すら繋がらない状態だった。
「ディレクター! レコード店からも問い合わせが殺到してます! 『お客さんが朝から並んでる、あの謎の三曲のレコードを卸してくれ』って!」
「だから、こっちも知らねぇんだよ!!」
俺は頭を掻きむしった。
営業部が持ってきた、謎のスポンサーからの持ち込みテープ。『S』というアーティストの、『Citron』『結』『蒼い衝動』という三曲。
条件は「曲名とアーティスト名以外は一切アナウンスしないこと」。
ただそれだけを深夜にゲリラ的に流した結果、放送局始まって以来の異常事態が引き起こされていた。
「営業の連中に、スポンサーの正体を吐かせろ! こっちだって誰の曲か知らねぇなんて、リスナーが納得するわけねぇだろ!」
だが、いくら営業を問い詰めても「代理店を通した匿名の契約で、違約金が莫大だから絶対に明かせない」の一点張りだった。
得体の知れない天才『S』の存在は、音楽業界全体を巻き込む巨大な台風の目となろうとしていた。
* * *
「しょーちゃん、早く起きないと学校遅刻するわよ!」
「はーい、恵子ねえちゃん、今行くー」
翌朝。向かいの鈴木家の台所で、目玉焼きと納豆ご飯をかき込みながら、俺は居間の白黒テレビに目を向けた。
朝のワイドショーで、アナウンサーが興奮気味に語っている。
『昨晩から、全国の深夜ラジオ局に問い合わせの電話が殺到する異常事態が起きています! 正体不明のアーティスト『S』が歌う謎の三曲。……若者から大人まで、その魂を揺さぶる歌声の主は一体誰なのか、日本中が騒然としています!』
俺は味噌汁をすすりながら、内心でほくそ笑んだ。
(黒川先生のマーケティング、完璧だな。完全に飢餓感が醸成されてる)
レコードの発売はまだ先だ。この一ヶ月間、毎晩少しずつ、じわじわと日本中を『S』の音楽の麻薬で侵食していく。そして、熱狂が頂点に達した瞬間に、十万枚のレコードを一斉に市場に放つ。
即日完売は間違いない。追加プレスも必要になるだろう。
莫大な印税が、俺の、いや大神家の口座に雪崩れ込んでくる未来が見えた。
「将太、早くしろ! 今日は学校終わったら、直継のチームと練習試合見に行くんだろ!」
「わかってるよ、兄ちゃん!」
作業着姿の力也が、玄関で笑っている。
彼らも、ラジオの反響に驚愕しつつ、俺の才能(というより未来の曲の力)にただただ恐れおののいているようだった。
「よし、行ってきます!」
俺はランドセルを背負い、鈴木家を飛び出した。
* * *
一ヶ月間、毎晩のように全国の深夜ラジオの電波をジャックし、若者や深夜労働者たちを熱狂の渦に巻き込んでいた正体不明のアーティスト『S』の曲が、突射としてラジオから完全に姿を消した。
前触れのない沈黙。
それは、音楽という麻薬を突然断たれた中毒患者のような、猛烈な「飢餓感」と「Sロス」を日本中に引き起こした。ラジオ局への問い合わせはさらに激増し、電話回線が物理的にショートする局まで出た。
だが、そのレコードは、既存のレコード店にはただの一枚も卸されてはいなかった。
代わりに起きたのは、日本の流通史、いや音楽史に残る前代未聞の「ゲリラ販売」だった。
* * *
side 牛島 五十歳 大手レコード会社制作部長
「ふざけるなッ!! どういうことだ、たった数日で十万枚のレコードが『トラックの運転手』の手によって捌かれただと!?」
銀座にある大手レコード会社の本社会議室で、俺は机を力任せに叩きつけた。
灰皿から吸殻が飛び散るが、気にする余裕などなかった。目の前に立つ若手プロデューサーたちは、青ざめた顔でブルブルと震えている。
「は、はい……。我々も独自に調査したのですが、『S』のレコードは既存の問屋ルートを一切通さず、全国の長距離トラックのネットワークを『動く小売店』として利用し、深夜のパーキングエリアやドライブインで直接販売されたようです。手売りにも関わらず、爆発的な口コミで若者が殺到し、すでに十万枚すべてが完売したと……」
「馬鹿な……。そんな流通、聞いたこともないぞ」
俺は頭を抱え、革張りの椅子に深く沈み込んだ。
音楽業界は、俺たち大手レコード会社と、巨大な芸能プロダクション、そして音楽著作権を管理する団体がガッチリとスクラムを組み、莫大な利益を分配し合う「既得権益の要塞」である。レコードを作るにも、宣伝するにも、売るにも、絶対に俺たちの作ったレールを通らなければならない。それがこの世界の絶対のルールだ。
だが、この『S』という得体の知れないバケモノは、その要塞をいとも容易く、しかも合法的に飛び越えてみせた。
ラジオの深夜枠を金で買い占めて宣伝し、トラック野郎という毛細血管のような物流網を使って直接消費者に届ける。中間マージンを既存の業界に一円も落とさず、すべての利益を自分たちの懐に入れる、悪魔的で完璧なビジネスモデル。
「……牛島部長。現在、巷では『S』のレコードが、定価の五百円から五倍、十倍のプレミア価格で闇取引されています。手に入れられなかったファンが暴動寸前です。うちの会社にも『お前らのところから出してるんだろう、早く売れ!』と抗議の電話が鳴り止みません」
「ええい、知るか! こっちが教えてほしいくらいだ!」
俺は苛立ち紛れにネクタイを緩めた。
俺自身、あの深夜ラジオで『S』の歌声を聴いた時、全身の鳥肌が立ち、プロの音楽人としての敗北感すら味わった。あのコード進行、あのメロディ、あの魂を揺さぶるハスキーボイス。間違いなく時代を創る天才だ。
だが、俺たちが一切関与できないところで、その天才が莫大な富を生み出しているという事実が、腹立たしくてならなかった。
「……どんな手を使ってもいい。その『トラック運転手にレコードを卸している元締め』を探り当てろ。興信所を使え。もし見つけたら、億の契約金を用意してでもうちの会社に引き抜け。……このままじゃ、日本の音楽業界の秩序が崩壊するぞ!」
* * *
side 山崎 四十五歳 下町のレコード店 店主
「だから、ないって言ってるだろ! 『S』のレコードはうちには入荷してねぇんだよ!」
今日もまた、俺はレコード店のカウンター越しに、目を血走らせた大学生を追い返していた。
これで今日だけで五十人目だ。
電話も鳴りっぱなしで、ノイローゼになりそうだ。
「おやじ! なんで置いてないんだよ! 隣町のツレは、昨日の夜、国道一号線沿いのドライブインで、デコトラの運ちゃんから買ったって言ってたぞ!」
「そんなこと俺に言われたって知るか! 問屋に何度電話しても『ウチも探してるんだが、見つからねぇんだ』って泣きつかれる始末だ。……頼むから帰ってくれ、他のレコードが見えねぇだろ」
大学生が舌打ちをして店を出て行くのを見送りながら、俺は深い溜息をついた。
街のレコード屋にとって、十万枚も売れるヒット曲というのは、本来なら店に莫大な利益をもたらす恵みの雨である。それが、すべてトラックの運転手たちに持っていかれているのだ。
「……一体、どこの誰がこんな無茶苦茶な売り方を考えついたんだ」
商機を完全に逃した悔しさと、未だ聴くことのできない「幻のレコード」への好奇心が入り混じり、俺自身も仕事終わりに車を飛ばして、深夜のパーキングエリアを彷徨うようになってしまっていた。
* * *
side 佐竹刑事 四十歳 警視庁公安部
「……それで? 深夜の東名高速のパーキングエリアに、連日数十人の若者が集結していると?」
薄暗い取調室のような会議室で、俺は所轄から上がってきた報告書に目を通していた。
昭和46年。二月に起きた「あられ山荘事件」の記憶も新しく、警察組織は若者たちのゲリラ的な集会や、反体制派の不穏な動きに極度に神経を尖らせていた。
「はい。暴走族の集会とも違うようです。彼らは一様に、特定の長距離トラックが来るのを待ち構えており、トラックが到着するや否や、荷台に群がって『黒い紙袋』を現金と引き換えに買っていくそうです」
「黒い紙袋……。間違いない、ヒロポンの密売か、あるいは過激派の活動資金集めだな。……よし、今夜、私服警官を動員してその現場を押さえるぞ」
深夜二時。海老名パーキングエリア。
俺たち捜査員は、一般車両を装って張り込んでいた。
やがて、一台の大型トラックがエンジン音を響かせて駐車スペースに入ってくる。途端に、暗がりにたむろしていた若者たち――長髪の大学生や、若い作業員、さらにはセーラー服を着た女子高生までが、トラックに向かって駆け寄っていった。
「今だ! 踏み込め!」
俺の合図で、捜査員たちが一斉にトラックを取り囲んだ。
警察手帳を突きつけ、トラックの運転手を取り押さえる。
「動くな! 警察だ! その段ボールの中身を見せろ!」
「ひっ!? け、警察!? 俺、なんか悪いことしましたか!?」
俺は運転手を壁に押し付け、若者たちが群がっていた段ボール箱を乱暴に開けた。
中には、覚〇剤のパケも、過激派のアジビラも入っていなかった。
「……なんだ、これは」
入っていたのは、真っ黒なジャケットに『追憶の欠片/S』と書かれた、大量のEPレコードだった。
「お、お巡りさん。俺たち、ただレコード買ってただけっすよ……。これ、どこの店にも売ってない『S』のレコードだから……」
若者の一人が、おずおずと声を上げる。
俺は呆気に取られながら、押収したレコードの一枚をパトカーの再生機にかけた。
深夜のパーキングエリアに、アコースティック・ギターの静かな音色と、魂を揺さぶるようなハスキーボイスが響き渡る。
『♪……縦の絆はあなた……横の絆はわたし……
巡り逢う不思議を人は……結びと呼ぶのでしょう……』
「…………」
捜査員たちも、取り押さえられていた運転手も、若者たちも、その場にいた全員が、夜の静寂の中でただその歌声に聴き入っていた。
反体制派の資金源でも、〇薬でもなかった。ただの、極上のラブソングだったのだ。
「……佐竹警部。これ、どうしますか?」
「どうするも何もあるか。……ただの手売りだ、法律(道路交通法や行商の条例違反程度)にはギリギリ触れるかもしれんが、我々公安が出る幕じゃない。……撤収だ」
俺は苦々しく舌打ちをし、部下たちを引き揚げさせた。
だが、内心では(こっそり一枚押収品からくすねて、娘にプレゼントしてやろうか)などという誘惑と必死に戦っていた。
* * *
side 黒川 税理士
「……ふふっ。警察が動いたようですが、空振りに終わったようですね」
神田の事務所で、私は独自の情報網から得た報告書を読み、満足げに笑みを浮かべた。
大手レコード会社の血眼の捜索も、警察の介入も、私はすべて想定内だった。
トラック運転手たちには「個人間の譲渡」という名目で書類上処理させ、マージンも「荷役の手伝い代」として合法的に経理処理している。私の作った法的な防波堤を、そう簡単に崩せるものか。
「黒川先生、すげぇな。俺のダチの運ちゃんたち、みんなホクホク顔ですよ」
向かいのソファに座る大神社長が、ボロボロのニッカポッカ姿のまま、豪快に笑った。
大神社長は、十万枚の売上(数千万円)をすでに手にしているというのに、相変わらず昼飯はコッペパン一つで済ませているらしい。「嫉妬を避ける」という亡き妻の教えを、狂気的なまでに守り抜いているのだ。
「ですが、大神社長。十万枚はあくまで『前菜』です。市場の渇望は、今まさに最高潮に達しています。……ここで、メインディッシュを投下します」
私は、机の上の引き出しから、新しくプレスされたLP盤のテスト盤を取り出した。
「将太君に歌ってもらった新曲二曲を追加した、五曲入りのフルアルバム。……タイトルは『初恋と追憶』。価格は三千円。これを、今度は一気に『百万枚』プレスするよう、工場に手配を済ませました」
「ひゃ、ひゃくまん……!? ちょっと待ってください先生! いくらなんでも、百万枚をまたトラックの手売りで捌くのは無理ですよ! 運ちゃんの数が足りねぇ!」
大神社長が慌てて身を乗り出した。
私は、分厚い眼鏡を中指で押し上げ、冷酷な資本主義者の笑みを浮かべた。
「ええ。ですから、次は『正規のルート』を使います」
「正規のルート?」
「大手レコード会社と、全国の問屋網です。彼らは今、『S』のレコードを自分たちのルートで流したくて、喉から手が出るほど欲しがっている。そこに、この百万枚のアルバムを『卸してやる』のです。ただし、こちらのダミー会社『K企画』が主導権を握り、マージンは向こうの言い値ではなく、こちらが指定する強気なパーセンテージで、ね」
既存の既得権益を無視してゲリラ戦で圧倒的な需要を作り出し、相手が屈服して膝を折ったところで、最も有利な条件で正規ルートに乗り込む。
これぞ、ビジネスの究極の定石である。
大神社長の莫大な資産は、この百万枚のヒットによって、さらに天文学的な数字へと跳ね上がることになるだろう。
* * *
(新曲二曲も、いい感じに仕上がったな)
向かいの鈴木家の縁側で、俺(大神将太・十歳)はカルピスを飲みながら、昨日スタジオで録音した自分の歌声を反芻していた。
追加の一曲目。佐和 奏の『サンフラワー・エール』の昭和フォークアレンジ版。
アコースティック・ギターの温かいアルペジオに乗せて、無償の愛と、不器用ながらも大切な人を守りたいと願う決意を、優しく包み込むようなハスキーボイスで歌い上げた。昭和の人情味あふれる土壌に、これほど見事にハマる曲はない。男も女も、大切な人の顔を思い浮かべながらこの曲を聴いて泣き崩れる姿が目に浮かぶ。
二曲目。月詠みステラ『黎明を追い越して』のアコギ弾き語りアレンジ。
恐るべきテンポの高速ストロークと、息継ぐ間もない細かなメロディラインを、アコギ一本という極限のアコースティック・アレンジに落とし込んだ一曲。十歳の少年の口から「迷わずに その空へ飛び込んで」という、どこか危うい影を纏った言葉が出ることのアンバランスさすら、覆面歌手『S』の神秘性を高めるスパイスになるだろう。
父や力也、そしてエンジニアの矢島のおっさんは、俺の歌を聴いてスタジオで拝むように泣いていた。
「……にいちゃん、どうしたの? ニヤニヤして」
隣で、どろだらけのユニフォームを着た弟の直継(九歳・身長165cm・体重80kgの重戦車)が、俺の顔を覗き込んできた。
直継は、今日も江東ジュニアの四番バッターとして、昭和特有の狂気的なシゴキに耐え、泥にまみれてきたらしい。俺が夜に回復魔法をかけてやらなければ、とっくに膝と肩がぶっ壊れているかもしれない。
「なんでもないよ。直継、素振りのフォーム、ちょっと見せてみろ。ダウンスイングになってないか?」
「うん! 監督には内緒で、にいちゃんが教えてくれた下からカチ上げるやつ、こっそり練習してるよ!」
直継が、嬉しそうにバットを構える。
昭和46年、秋。
日本中が「S」の正体を探し求めて熱狂する中。
その張本人は土手で楽しく野球で遊んでいた。




