第11話:昭和の硬球と、万能選手への決意
1966年(昭和41年)二月十二日。
日本経済は「いざなぎ景気」の真っ只中にあり、街にはカラーテレビが普及し始め、どこもかしこも活気に満ち溢れていた。そんな昭和の熱気の中、俺、大神将太は無事に五歳の誕生日を迎えた。
向かいの鈴木家の居間は、相変わらずの人口密度と騒々しさだった。
ちゃぶ台の上には、ヨシエおばちゃんが腕によりをかけたハンバーグ(最近は俺のタンパク質要求に応えて、肉の比率が極端に高い)や、ケチャップたっぷりのナポリタンが並んでいる。
そして今年は、俺たち家族の輪の中に「大神 力也(20歳・元新井 力也)」が当たり前のように座っていた。父さん(大神 将・27歳)との秘密の愛を育みつつ、法的には養子縁組を済ませたことで、彼は俺と直継(四歳)にとっての「兄」であり、実質的な「新しい親」としての地位を確立していた。
「ほら将太、誕生日おめでとう! これ、俺と社長……いや、親父からのプレゼントだ!」
力也兄ちゃんが、少し照れくさそうに大きな包みを差し出してきた。
包装紙を破り捨てると、中から現れたのは真新しい革の匂いがする少年用のグローブと、白木の綺麗な木製バット。そして、小さな箱に入った「硬式野球ボール」だった。
「おおーっ! かっこいい!」
俺は、五歳児の無邪気さを全力で装いながら歓声を上げた。
だが、内心の興奮は決して演技ではなかった。
特に、この硬球だ。赤い縫い目と、ズッシリとした質量。ゴム製の軟式ボールやおもちゃのカラーボールとは全く違う、本物の「野球」の感触。
五歳の子供に硬球は危険すぎるとして、父も力也も最初は渋ったのだが、「どうしてもこれがいい!」と駄々をこねて買わせたのだ。もちろん、俺の肉体は魔法による度重なる細胞調整によって、すでに並の小学生以上の筋力と骨格の強度を得ているため、怪我の心配など皆無である。
「将太、絶対に人に向けて投げちゃダメだからな? 怪我するからな」
「はーい!」
父の注意に元気よく返事をしながら、俺は硬球の縫い目に指をかけ、その感触をじっくりと確かめていた。
(よし。ついに道具は揃った。ここからが、メジャーへのスタートだ)
その日の深夜。四畳半のアパート。
誕生日の興奮も冷めやらぬまま眠りについた父の枕元に、俺はいつものように正座した。
父の資産は、証券不況の底値で仕込んだ株のおかげで莫大なものになっている。だが、俺の栄光の未来には金はいくらあっても困ることはないわけで。
スゥッ、と室内の気温を下げ、俺は白目を剥いた。
『……あなた。私よ、幸子よ』
「んぅ……お、幸子。今日も来てくれたのか」
父は、もう幽霊現象に対する恐怖心など完全に麻痺しており、寝ぼけ眼をこすりながら嬉しそうに微笑んだ。
『将太の五歳の誕生日、お祝いしてくれてありがとう。……力也君とも、仲良くやっているようね』
「ああ。あいつがウチの戸籍に入ってから、毎日が本当に楽しいよ。幸子のおかげだ」
『ふふっ、よかった。……それでね、あなた。今日はお祝いのついでに、もう一つプレゼントを持ってきちゃったの』
「プレゼント? まさか……」
『ええ、お馬さんよ。今週末の東京競馬場のメインレース。枠連の2-6。……今手元にある会社の現金、全部突っ込んでちょうだい』
父が「ぜ、全部!?」と目を丸くしたが、幸子が憑依した俺は間髪入れずに畳み掛けた。
『信じて。私たち家族の、もっともっと大きな未来のために必要なのよ』
「わ、わかった。幸子がそう言うなら、間違いねぇ。明日、黒川先生にバレねぇようにこっそり買ってくるよ」
『ありがとう、あなた。……愛してるわ』
適当な愛の言葉で父を骨抜きにし、俺はスッと魔力を霧散させた。
これでまた、数百万円単位の小遣いが手に入るはずだ。(もちろん、後で黒川税理士にバレてこってり絞られる父の姿が目に浮かぶが、そこは俺の知ったことではない)。
* * *
数日後。
近所の空き地で、俺は一人、買ってもらったばかりのグローブをはめ、ボールを壁に向かって投げ続けていた。
パァァァンッ! という、硬球特有の乾いた破裂音が響く。
(……悪くない。魔法による肉体改造のおかげで、五歳児の小さな手でもボールがしっかり握れるし、肩の関節も滑らかだ)
俺の今の目標は「ボールに完全に慣れること」だ。
そして、将来のプレースタイルについても明確なビジョンがあった。
目指すのは『ユーティリティプレイヤー』である。
この昭和四十年代の日本野球において、複数ポジションを守れる選手というのは「器用貧乏」「便利屋」「レギュラーになれない控え」というネガティブなレッテルを貼られがちだ。「男なら一つのポジション(特にエースか四番サード)を極めろ」というのが美学とされる時代である。
だが、メジャーリーグの近代野球において、高度なユーティリティプレイヤーの価値は計り知れない。内野も外野も、どこを守らせてもゴールドグラブ級の守備を魅せ、マウンドに上がれば百マイルを投げ、打席に立てばホームランを量産する。そんな、ベースボールという競技そのものを一人で支配してしまうような『万能選手』。それこそが、俺の目指す野球選手の姿であった。
「にいちゃん! あーそーぼ!」
壁当てに夢中になっていると、背後から鼻水を垂らした直継がドタドタと走ってきた。俺がかけた魔法の恩恵により、四歳になったばかりの直継はすでに幼稚園の年長クラスほどの立派な体格をしている。バカっぽいぼんやりした顔立ちだが、力也にたっぷり可愛がられているおかげで、前世のような捻くれた不良の気配は微塵もない。
「直継か。よし、キャッチボールしてやる。そこらへんに落ちてるゴムボール持ってこい」
俺が言うと、直継は嬉しそうにゴムボールを拾い、十メートルほど離れた場所に立った。
俺はもちろんグローブを外し、素手で構える。
「いくよー! えいっ!」
直継が、全身の力を使ってゴムボールを放ってきた。
ビュッ! という、四歳児が出していいはずのない風切り音が鳴り、ボールが俺の胸元に突き刺さる。
バチィッ!
(……痛ぇな、おい。なんだこの威力は)
俺は素手でボールを受け止めながら、内心で舌を巻いた。
直継にもかけておいた「重戦車化(肉体改造)」の魔法。その効果が、予想以上に凄まじいことになっている。技術も何もない手投げでこれだけの球威が出るなら、こいつを鍛え上げれば最高の練習相手(壁)になるかもしれない。
「すげーぞ直継! もう一丁こい!」
「えへへー!」
兄弟二人で、空き地で延々とキャッチボールを続ける。
その様子を、少し離れた土管の陰から、じっと見つめている視線があることに、俺は魔法を使わずとも気づいていた。
* * *
side 大神 力也
休憩時間。現場を抜け出して近所の空き地を覗きに来た俺は、土管の陰から信じられない光景を目撃していた。
「……嘘だろ。あいつら、本当に五歳と四歳かよ」
俺は思わず、持っていた缶ピースを落としそうになった。
空き地でキャッチボールをしている将太と直継。
直継の投げるゴムボールの威力も異常だったが、それ以上に俺を戦慄させたのは、将太の「身のこなし」だった。
直継の荒れ狂うノーコンの剛球を、将太はいとも容易く、まるで踊るように軽やかなステップで正面に入り、素手でパシィッ!と受け止めているのだ。下半身の重心移動、腕の使い方、ボールへの反応速度。どれをとっても、近所の中学生が裸足で逃げ出すレベルの洗練された動きだった。
「おら直継、ステップがデカすぎる! もっと左足のタメを作れ!」
「わかんなーい!」
将太が直継に指導している言葉すら、素人の俺には何のことやらさっぱりだが、どう見ても只者の子供ではない。
(……社長の血なのか? いや、それにしても異常だ)
将太は、時折見せる大人びた表情といい、俺と社長の秘密の関係を見透かしているような発言といい、底知れぬ恐ろしさを秘めた子供だ。
だが、同時に俺は、激しい身震いを覚えていた。
「あの才能……もし本当に野球をやらせたら、とんでもない選手になるんじゃねぇのか?」
天涯孤独だった俺に、社長は戸籍を与え、本当の「家族」にしてくれた。
なら、俺がこの家族のためにできることは何か。
大工の仕事で社長を支えるのは当然だ。そしてもう一つ。この底知れぬ才能を持った将太と、無尽蔵のパワーを秘めた直継が、思い切り野球に打ち込める環境を作ってやること。それが、新しい「父親(法的には兄だが)」としての、俺の使命なんじゃないか。
「……よーし! 俺も混ぜろ、お前ら!」
俺は土管の陰から飛び出し、作業着のまま空き地へと駆け出した。
将太が少し驚いた顔をした後、ニヤリと生意気な笑みを浮かべた。
「りきやにぃちゃん! いいよ、ノック打ってあげる!」
「おう! 来い!」
俺は落ちていた木の枝を拾い、バット代わりに構えた。
将太が、五歳児の小さな手でゴムボールを握り、振りかぶる。
シュバッ!!
風を裂くような音と共に放たれた球は、俺の顔面すれすれを恐ろしいスピードで通過し、後ろの土管に「パーン!」と激突した。
「…………えっ?」
「りきやにぃちゃん、ぼーっとしないでよ! 次いくよ!」
俺は顔面から滝のような冷や汗を流しながら、木の枝を握り直した。
これは、ただの遊びじゃない。俺が命がけでこの怪物たちを育て上げなきゃならないんだと、腹の底から覚悟を決めた瞬間だった。
* * *
side 大神 将
「……というわけで、黒川先生。先週末の競馬でまた当たっちまいまして。はい、これが帯封です」
神田の税理士事務所。
俺は、ボロボロのニッカポッカのポケットから、銀行の帯封が巻かれた札束をドサリと机の上に置いた。
「…………大神社長」
黒川先生は、分厚い眼鏡の奥の目を吊り上げ、ワナワナと震えていた。
「あなたという人は……! あの『目立つ真似はしたくねえんです』と仰ってたのは何だったんですか! そもそもこんな大穴の万馬券に大金を突っ込むなど、狂気の沙汰だ! 税務署に目をつけられたらどうするおつもりですか!」
「す、すんません。でも、どうしても買わなきゃいけない気がして……勘です。これも俺の勘ってやつです」
俺が幸子の霊のお告げだと言えるはずもなく、苦し紛れにそう言い訳すると、黒川先生は深く深くため息をつき、頭を抱えた。
「……わかりました。この現金の処理と納税申告は、私がなんとかします。あなたが何したいのか、もう私にはわかりませんよ」
「先生には一生恩に着ます。……あ、そうだ。この金の一部で、将太と直継の食費、もう少し贅沢に経費で落とせませんか? あいつら、最近よく動くもんで、ものすごい量を食うんですよ」
「……経費にはなりませんが、個人資産からいくらでも食わせてやりなさい。......あなたなら、国ごと買えるほどの金持ちになれるかもしれませんね」
黒川先生の皮肉に苦笑しながら、俺は事務所を後にした。
俺は別に、国なんて買えなくてもいい。
力也という愛するパートナーがいて、将太と直継という可愛い息子たちがいて。あいつらが、お腹いっぱい美味い肉を食って、笑顔で野球をしてくれれば、それで十分なんだ。
昭和41年。
俺たち大神家は、狂ったような莫大な資金と、誰にも言えない秘密の愛と、そして規格外の才能を抱え込みながら、明るい未来へと確かに歩みを進めていた。




