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昭和転生~異世界帰りの勇者、昭和の球児に転生する~  作者: 熊族騎士団長


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第10話:昭和の後妻対策と、無骨な新入社員

 1965年(昭和40年)の冬。

 大神建設の社長として、表向きはボロボロのニッカポッカで貧乏を演じている俺の父・大神将(27歳)だが、その裏では、銀座や赤坂のネオン街に時折出没するようになっていた。

 死んだ女房(俺が降霊で演じた幸子の霊)から、「たまには外で遊んでいいわよ」という明確な許しを得たからである。


 もちろん、父さんは根が真面目な職人なので、酒に溺れたり、家庭を顧みなくなるようなことはない。週に何度かの高級食材の買い出しのついでに、馴染みのクラブで少し酒を飲み、ホステスの話を聞いて帰ってくる程度の、健全な「ガス抜き」だった。

 だが、それが逆に俺(大神将太・四歳)の危機感を激しく煽っていた。


(……父さんは、金払いが良すぎる上に、人が良すぎる)


 株の莫大な含み益と配当金を手にした父は、財布の紐の感覚が一般のそれとは桁違いになっていた。銀座のクラブで気前よくチップを弾み、ホステスの愚痴を優しく聞き、おまけに顔立ちも大工仕事で引き締まった精悍な男前である。

 水商売の海千山千の女たちが、こんな「極上のカモ(しかも妻帯者ではなく、若いやもめ)」を放っておくはずがない。

 もし、どこかの腹黒い女が父さんに色仕掛けで接近し、後妻として大神家に転がり込んできたらどうなるか。前前世の社畜時代に、遺産目当ての後妻打ちや、連れ子がいびられるドロドロの愛憎劇を散々見聞きしてきた俺にとっては、悪夢でしかなかった。


(俺の栄光に満ちた人生には、この家の平和と、親父からの無尽蔵の資金の提供があってこそ成り立つ。変な女に家の中を荒らされてたまるか)


 女の嫉妬や執念は、魔法よりも恐ろしい。

 ならばどうするか。

 答えは一つだ。女がダメなら、「絶対に俺たちをいびらない、安全で無害な男」を父のパートナー(新しい母?)にしてしまえばいいのだ。

 当時は同性愛など世間では全く認知されておらず、偏見も強い時代だったが、そんなことは俺の知ったことではない。父さんが精神的に満たされ、かつ俺たちの育成環境が守られるなら、常識など犬にでも食わせておけばいい。


 そんな俺の思惑を知ってか知らずか、絶好のタイミングで大神建設に「十人目の社員」が入社してきた。


「社長! 今日からお世話になります、新井力也です! 一生懸命働きますので、よろしくお願いします!」


 鈴木家の縁側で直継(三歳)とおもちゃの車で遊んでいた俺の前に、父に連れられて一人の青年がやってきた。

 新井力也、20歳。

 東北の農家から集団就職で上京して数年、いくつかの現場を渡り歩いた後、父さんの「奇跡の勘」の噂を聞きつけて、ぜひ大神建設で働かせてほしいと弟子入りを志願してきた男だ。

 当時の20歳といえばまだ線が細い若者が多い中、力也は身長175センチと大柄で、農作業と肉体労働で鍛え上げられた分厚い胸板と丸太のような腕をしていた。角刈りで無骨な顔立ちは、決してイケメンではないが、どこか大型犬を思わせる愛嬌と誠実さが滲み出ている。


「おう、ヨシエさん! こいつが今日からウチに入った新井だ。ちょっと不器用だが、力だけは人一倍あるんで、よろしく頼むわ」

「あらあら、立派な体格だこと! よろしくね、新井さん」


 ヨシエおばちゃんが挨拶すると、力也は顔を真っ赤にして直角に頭を下げた。寡黙でシャイな性格らしい。

 その時、直継が「あー!」と叫んで縁側から転げ落ちそうになった。


「っと、危ない!」


 力也は咄嗟に大きな手を伸ばし、直継の体をふわりと抱き止めた。

 普通なら、見知らぬ大男に抱き抱えられれば子供は泣くものだが、力也の太い腕の中はよほど居心地が良かったのか、直継はキャッキャと笑って力也の鼻をつまみ始めた。


「こら、直継。お兄ちゃんに失礼だぞ」

「い、いえ社長! 俺、田舎じゃ近所の子供の面倒も見てましたんで、子供の相手は慣れてますから! へへっ、めんこい坊主ですねぇ」


 力也は、本当に嬉しそうに目を細めて直継をあやし始めた。その手つきは、荒くれ者の大工とは思えないほど優しく、愛情に満ちていた。

 俺は、その様子をじっと観察し、心の中でガッツポーズをした。


(決まりだ。こいつを、父さんのパートナーにする)


 体格良し、性格良し、子供好き。おまけに口が堅そうで、父への忠誠心も高い。これほど「安全な後妻」にうってつけの人材はいない。

 俺は立ち上がり、ペタペタと力也の足元に歩み寄った。


「りきや、にぃちゃん。よろしくね」


 俺が最高に愛くるしい上目遣いで微笑みかけると、力也は「うおっ! 社長、上のお子さんはなんか、天使みたいに綺麗な顔してますね!」と驚き、俺の頭を大きな掌で優しく撫でてくれた。


(よし。ターゲットはロックオンした)


 俺は力也に頭を撫でられながら、魔力を指先に集中させた。

 魔族の魔法の一つ、『思慕の種子チャーム・シード』。

 これは対象の精神を完全に操るような下品な洗脳魔法ではない。相手の特定の人物に対する「長所」や「魅力」を無意識下で増幅させ、触れ合った時に胸の高鳴りや安心感を生じさせる、いわば「恋のきっかけ」を強制的に作り出す魔法だ。

 俺は、力也の掌から魔力を流し込み、彼の深層心理に『大神将への強い好意』の種を植え付けた。

 そして、横で笑っている父の影もこっそりと踏みつけ、父には『新井力也への強い好意』の種を植え付けた。


(許せ、父さん、力也兄ちゃん。すべては俺たち家族が、銀座の悪い女に騙されず、平和に暮らすためだ。それに、男同士の純愛も、今の時代はアレだが、悪いもんじゃないはずだ)


 俺の心の中で、一瞬だけ社畜としての倫理観がチクリと痛んだが、すぐに「栄光ある人生のための必要悪」としてゴミ箱に放り投げた。

 魔法の種は蒔かれた。あとは、これが芽吹くための「きっかけ」があればいい。


 * * *


 side 大神 将


 新しく入ってきた新井力也は、本当に真面目な男だった。

 不器用で、細かいかんながけや寸法の計算などはからきしダメだが、セメントの袋を一度に三つも担いで階段を駆け上がったり、誰よりも早く現場に来て掃除を済ませていたりと、その実直な働きぶりは他の職人たちからもすぐに認められた。

 何より、俺はあいつの「目」が好きだった。

 黙々と働くその背中と、時折見せる素朴な笑顔には、裏表というものが一切ない。銀座で会う、香水の匂いをさせた女たちの作り笑いとは真逆の、土の匂いがするような誠実さだった。


「社長。こっちの廃材、全部一階に下ろしときました!」

「おう、ご苦労さん、力也。お前、本当に力だけは底なしだな。ちょっと休んで、水でも飲め」

「はいっ!」


 十二月の、凍てつくような寒さの現場。

 俺は、額に汗を浮かべて笑う力也に、缶入りの温かいお茶を投げてやった。

 力也がそれを受け取った時、なぜか俺の胸の奥が、トクンと奇妙な跳ね方をした。

 なんだ? 今のは。


 俺は自分の胸に手を当て、首を傾げた。最近、力也と目が合ったり、あいつの分厚い胸板を見るたびに、妙に意識してしまうというか、変に落ち着かない気分になるのだ。

 俺は男だ。しかも女房を亡くしたとはいえ、女の温もりを知っている男だ。いくら最近、銀座通いを控えているからといって、野郎相手に変な気を起こすはずがない。疲れているのだろうか。


「……社長? 顔色悪いですけど、風邪ですか?」


 力也が、心配そうに顔を近づけてきた。

 顔が近い。

 角刈りの髪から、埃と汗、そして男特有の熱気が立ち上ってくる。俺は思わず、後ずさりしてしまった。


「お、おう。なんでもねぇよ。ちょっと冷えただけだ」

「そうですか? 無理しないでくださいよ。社長に倒れられちゃ、俺たち路頭に迷っちまいますから」


 力也の真っ直ぐな瞳に見つめられ、俺はなぜか顔が熱くなるのを感じた。


 その日の午後。

 俺たちの現場に、資材を搬入しにきた別の業者のトラックが到着した。

 乗っていたのは、この辺りでもガラの悪さで有名な、とびの連中だった。彼らは工期が遅れているらしく、酷く苛立っているようだった。


「おいコラ! 大工の兄ちゃん! そこに積んである木材、邪魔なんだよ! さっさとどかせや!」


 鳶の頭らしき男が、咥えタバコのまま、資材を整理していた力也に向かって怒鳴りつけた。

 それは言いがかりに近いものだった。そこは本来、俺たち大工が資材を置くための正規のスペースであり、彼らのトラックが無理な場所に停めているだけなのだ。


「すみません。でも、ここは元請けさんの指示で、俺たちの資材置き場になってるんです。トラックをもう少し向こうに……」

「あぁん!? 口答えすんのか、田舎モンが! こっちは急いでんだよ!」


 ドカッ!

 鳶の男は、突然力也の胸ぐらを掴み、思い切り突き飛ばした。

 力也の巨体がよろめき、背後に積んであった足場用の単管パイプの山に激突する。ガラガラと大きな音を立ててパイプが崩れ、力也の腕や肩に容赦無く打ち付けられた。


「痛っ……」

「チッ、とろくせぇ野郎だ。いいからさっさとどかせって言ってんだよ!」


 男がさらに力也に蹴りを入れようと足を振り上げた、その瞬間。


「……てめぇ、ウチの若い衆に何してくれとんじゃ、コラ!」


 俺は、気がつけば男の蹴り足を空中で掴み、ギリギリと骨が軋むほどの力で握り潰していた。

 頭に血が上っていた。「奇跡の大神」「生き神様」なんて呼ばれて大人しくしていたが、元は俺も、喧嘩っ早い下町の大工だ。大事な家族同然の社員に手を出されて、黙っていられるはずがなかった。


「あ、痛ぇ痛ぇ痛ぇ!! な、なんだお前!」

「大熊組あがりの、大神だ。文句があるなら元請けに言え。それと……二度と、俺の社員かぞくにその薄汚ぇ手を触れんじゃねぇぞ」


 俺が凄みのある低い声で睨みつけると、男は「ひっ」と短い悲鳴を上げ、足を振り解いてトラックへと逃げ帰っていった。


「力也! 大丈夫か!」


 俺はすぐに振り向き、崩れたパイプの下敷きになりかけている力也に駆け寄った。

 急いでパイプをどかし、力也の手を引いて立ち上がらせる。


「し、社長……すみません、俺がトロいばっかりに……」

「馬鹿野郎、お前は悪くねぇよ。……腕、擦りむいてるじゃねぇか」


 力也の太い腕に、パイプで擦れた生々しい傷から血が滲んでいた。

 俺は咄嗟に自分の首に巻いていた手ぬぐいを取り、力也の腕に巻き付けて強く縛った。


「っ……」

「痛むか? 少し我慢しろよ」


 俺が力也の腕に触れ、顔を見上げた時だった。

 至近距離で、力也と視線がぶつかった。

 力也の瞳が、驚きと、そして何か別の熱を帯びて大きく見開かれている。俺の手を通して、力也の力強い脈動と、異常なほどの体温が伝わってくる。


「……しゃ、ちょう」

「……りきや」


 ドクン、ドクンと、俺自身の心臓も、狂ったような早鐘を打っていた。

 冬の冷たい風が吹く現場の片隅で。

 俺たちは、吸い込まれるように互いの目を見つめ合ったまま、しばらくの間、動くことすら忘れていたのだった。


 十二月中旬。

 鳶の連中と一触即発のトラブルになったあの日から、大神建設の社長である大神将と、新入社員の新井力也の間には、明らかに周囲の職人たちとは違う「奇妙な空気」が漂い始めていた。


(……おかしい。俺は、どうかしてしまったのか)


 冬晴れの現場で、俺は釘を打つ手を止め、無意識のうちに力也の姿を目で追っていた。

 力也は、半纏はんてんを脱ぎ捨てて白いダボシャツ一枚になり、白い息を吐きながら重いセメント袋を次々と運んでいる。盛り上がった肩の筋肉、汗ばんだ太い首筋、そして無骨だが誠実さの滲み出る横顔。

 それを見るたびに、俺の心臓は高校生のようにドクンと跳ね、下腹部の奥に説明のつかない熱が宿るのを感じていた。


 あの日、力也の腕の傷を手当てした時。

 互いの視線が絡み合い、息がかかるほどの距離で見つめ合ったあの瞬間から、俺の中で力也という存在が、単なる「可愛い部下」から「どうしようもなく気になる男」へと変貌してしまったのだ。

 だが、ここは昭和の建設現場だ。「男らしさ」が何よりも尊ばれる職人の世界で、野郎が野郎に惚れるなど、絶対に知られてはならない異常なことだ。俺には将太と直継という二人の息子がいるし、亡き女房(幸子)への純愛を貫いているという自負もあった。


「……社長。あの、ここ、どう組めばいいんでしょうか」

「あ……お、おう。そこはな、ホゾをこう合わせて……」


 力也が図面を持って近づいてくるだけで、俺は声が上ずってしまう。

 力也の方も様子がおかしい。以前は人懐っこく俺の顔を見て話していたのに、最近はどこか照れたように視線を逸らし、耳まで真っ赤にして俯いてしまうのだ。

 俺が図面を指差そうとして二人の手が触れ合うと、力也は「あっ……」と小さく声を漏らし、火がついたように手を引っ込めた。


「す、すんません! 俺、あっちの資材片付けてきます!」

「お、おい力也……」


 逃げるように小走りしていく力也の広い背中を見つめながら、俺は深い溜息をついた。

 このままでは、仕事にならない。だが、この感情にどう蓋をすればいいのか、俺には全くわからなかった。


 * * *


 side 新井 力也


 冷たい水道水で顔を洗いながら、俺は激しく自己嫌悪に陥っていた。

 俺は、大神社長に拾ってもらった恩知らずの馬鹿野郎だ。

 田舎から出てきて、右も左もわからない俺を、社長は「家族だ」と言って温かく迎え入れてくれた。鳶に絡まれた時は、自分の身を挺して俺を守ってくれた。あの時の、怒りに燃えた社長の恐ろしくも頼もしい横顔が、俺の脳裏から離れない。


 傷を手当てしてもらった時、社長のゴツゴツした手が俺の肌に触れた瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。

 社長の大きな瞳に吸い込まれそうになり、俺はあやうく、社長の体にすがりついて泣き出してしまいそうになったのだ。


(俺は、男なのに……社長のことが、好きだ……)


 それは、尊敬や憧れといった生ぬるいものではなかった。

 社長のボロボロのニッカポッカ姿を見るたびに、その背中を抱きしめてやりたくなる。社長の不器用な笑顔を独り占めしたくなる。銀座の女の話なんて聞きたくない。社長の隣にいるのは、他の誰でもない、この俺でありたい。


 そんなおぞましい(と、当時の俺は思っていた)感情を抱いていることがバレたら、即座にクビになるだろう。軽蔑されるに決まっている。

 だから俺は、必死に社長から距離を置こうとしていた。顔を見ると、感情が爆発してしまいそうになるからだ。


「……力也、大丈夫か? 顔、赤いぞ。熱でもあるんじゃねぇか?」


 背後から、心配そうな社長の声がした。

 振り向くと、社長が眉を寄せて俺を覗き込んでいた。その顔が近くて、俺は心臓が口から飛び出しそうになった。


「い、いえ! なんでもねぇです! 元気いっぱいですから!」


 俺は慌ててその場から逃げ出した。

 苦しかった。社長に触れたい。でも、触れてはいけない。純朴な農家の次男坊には、この複雑すぎる感情を処理するキャパシティなど、どこにもなかった。


 * * *


 鈴木家の温かい居間で、俺(大神将太・四歳)はみかんの皮を剥きながら、魔法による遠隔視で現場の二人の様子を観察していた。


(……中学生の初恋かよ)


 俺が植え付けた『思慕の種子チャーム・シード』の魔法は、完全に発芽し、立派に根を張っているようだ。

 だが、二人とも昭和の凝り固まった常識と倫理観に縛られ、ウジウジと距離を測るばかりで一向に進展しない。このままでは、銀座の百戦錬磨のホステスが親父にモーションをかけてきた時、親父が押し切られてしまう可能性がある。


(お膳立てが必要だな。男同士の壁をぶち破るには、極限状態での吊り橋効果が一番だ)


 俺はみかんを一口で頬張ると、両手をこっそりとこすり合わせた。

 神代魔法、『天候操作ウェザー・コントロール』。

 といっても、日本中の天気を変えるような大規模なものではない。江東区の、親父たちがいる建設現場の上空数キロの範囲にだけ、強烈な寒気団を局地的に発生させるのだ。


「……あれ? 急に冷えてきたねぇ。雪でも降るのかい?」


 ヨシエおばちゃんが、縁側のガラス戸をガタガタと閉めながら空を見上げた。

 俺は「さむーい」と可愛らしく言いながら、恵子ねえちゃんの膝に潜り込んだ。

 これでいい。

 さあ親父、力也兄ちゃん。冷たい雪の中で、存分に熱い愛を語り合ってくれ。


 * * *


 side 大神 将


 午後三時を回った頃。

 東京の空は不気味なほど真っ黒な雲に覆われ、突然、猛烈な吹雪に見舞われた。

 十二月の東京でこれほどのドカ雪が降るなど、異常気象としか言いようがない。あっという間に現場は真っ白になり、視界は数メートル先も見えなくなった。


「ダメだ、作業中止! お前ら、早く上がれ! 資材のシート掛けは俺と力也でやるから、他の奴らは急いで帰れ!」


 俺は吹雪の中で大声で指示を出した。電車が止まれば、遠くから通っている職人たちは帰れなくなってしまう。

 若い衆を全員帰らせた後、俺と力也は凍える手でブルーシートを引っ張り、積み上げられた木材に被せて回った。


「しゃ、社長! 風が強くて……っ!」

「飛ばされんなよ力也! こっちのロープ引け!」


 二人で必死に作業を終えた頃には、俺たちをプレハブの仮設小屋に閉じ込めるように、雪は膝の高さまで積もっていた。

 薄暗いプレハブ小屋に転がり込み、俺はガタガタと震えながら石油ストーブに火をつけた。

 狭い小屋の中には、俺と力也の二人きり。

 外の轟音のような風の音が、世界から俺たち二人だけを完全に隔離してしまったかのような錯覚を覚えさせた。


「はぁ、はぁ……死ぬかと思ったぜ。力也、大丈夫か?」

「は、はい……でも、社長、手が真っ青ですよ」


 力也の言う通り、手袋を忘れて作業した俺の指先は、凍傷になりそうなほど白く変色していた。

 俺がストーブに手をかざそうとした、その時だった。


「社長……ダメです、急に温めちゃ」


 力也が、俺の両手を自分の大きな両手で包み込んだ。

 ビクッ、と俺の肩が跳ねた。

 力也の手は、あれだけ雪の中で作業していたにも関わらず、驚くほど温かかった。その分厚い掌が俺の指先をこすり、ゆっくりと体温を分け与えてくれる。


「り、りきや……」

「俺の手、体温高いんで。……冷たかったでしょう、社長」


 力也が俺の手を包んだまま、顔を上げた。

 ストーブの赤い炎に照らされた力也の顔は、雪のせいか、それとも別の理由か、赤く上気していた。その真っ直ぐな瞳が、逃げ場のない距離で俺を射抜いている。


「お前……」


 俺は、息を呑んだ。

 力也の瞳の奥に燃えている感情。それは、どう見ても上司に向ける尊敬の眼差しではなかった。

 一人の男が、どうしようもなく別の一人の人間に焦がれ、愛おしむ、そういう熱情の籠もった目だった。


「……社長。俺……」


 力也の声が震えていた。

 俺の手を包む力也の指に、ギュッと力がこもる。


「俺、おかしくなっちまったみたいです。……社長の顔を見ると、胸が苦しくて。社長が他の誰かと笑ってるのを見るだけで、頭がおかしくなりそうで……。俺は、社長のことが……」

「……言わなくていい」


 俺は、力也の言葉を遮った。

 そして、力也に包まれていた手をスルリと抜き、逆に、力也の角刈りの頭を、両手で抱き寄せた。


「社長……っ?」

「俺も、同じだ。……俺も、どうにかなっちまいそうだった」


 力也の無骨な顔が、俺の胸元に押し付けられる形になった。

 力也の体から、汗と雪の匂い、そして若く力強い生命の匂いが立ち昇ってくる。俺は、もう自分の感情に嘘をつくのをやめた。

 死んだ女房への罪悪感はあった。だが、幸子は言ったのだ。「再婚してもいい」「遊んでもいい」と。

 銀座の綺麗な女たちには何も感じなかった俺の心が、この泥臭い田舎者の青年の前では、こんなにも激しく泣き叫んでいる。


「力也……お前、本当に馬鹿野郎だ。こんな子持ちの、しかも男相手に……」

「社長……社長……っ!」


 力也の太い腕が、俺の背中に回り、折れるほどの力で抱きしめ返してきた。

 力也の顔が俺の肩口に埋もれ、くぐもった嗚咽が聞こえた。張り詰めていた感情の糸が切れたのだろう。


 外の吹雪は、さらに激しさを増している。

 だが、ストーブの熱と、互いの体温で満たされたこの小さなプレハブ小屋の中だけは、信じられないほどに熱く、そして甘く溶け合っていた。


「……泣くな。俺が、お前を一人前にしてやる。……仕事も、それ以外もな」


 俺は力也の頭を撫でながら、力也の耳元で低く囁いた。

 力也が顔を上げ、濡れた瞳で俺を見た。

 ストーブの炎が揺れる中、俺たちは磁石に引き寄せられるように顔を近づけ、そして、互いの不器用な唇を、静かに重ね合わせたのだった。


 昭和40年、十二月。

 猛烈な吹雪に見舞われたあの日、プレハブ小屋の中で互いの想いを確認し合った大神将(27歳)と新井力也(20歳)だったが、雪が止んで現実世界に戻った後、二人の間には甘い空気と同時に、重苦しい葛藤がのしかかっていた。


 * * *


 side 大神 将


(……俺は、なんてことをしてしまったんだ)


 深夜。四畳半のアパートで、直継と将太が寝静まった後、俺は安酒を煽りながら一人頭を抱えていた。

 力也の温かい唇の感触は、今も生々しく残っている。あの時の俺は、どうかしていた。力也の真っ直ぐな瞳に見つめられ、俺の中の理性が完全に吹き飛んでしまったのだ。

 だが、冷静になってみれば、これはとんでもないことだ。

 俺は男で、力也も男だ。ましてや俺は子持ちのやもめで、会社の社長。力也はまだ20歳の、前途ある若者じゃないか。

 この昭和の世の中で、男同士が愛し合うなんてことは「変態」か「病気」だと後ろ指を指されるのがオチだ。もし世間に知れ渡れば、力也の人生を台無しにしてしまうし、将太や直継までいじめの標的にされかねない。


(それに、幸子……お前になんて顔向けすればいいんだ)


 「再婚していい」「遊んでいい」と言ってくれた幸子だが、まさか相手が『角刈りの大柄な男』だなんて、あの世で卒倒しているに違いない。

 俺は罪悪感と、それでも力也を想うと抑えきれなくなる熱情の板挟みになり、ため息をついて畳に寝転がった。


 その時だった。


 すぅっ……と、部屋の空気が急激に冷たくなった。

 ストーブを消したとはいえ、異常な冷え込みだ。吐く息が白くなる。

 嫌な予感、いや、馴染みのある冷気に俺が体を起こすと、布団の上に正座していた将太が、暗闇の中でゆっくりと顔を上げた。

 その目は白目を剥き、小さな口からは白い冷気が漏れている。


「しょ、将太……っ!?」


 俺が息を呑むと、将太は――いや、将太の体を借りた幸子は、静かに俺の手を握った。


『……あなた』

「幸子……! 幸子、すまねぇ! 俺は、俺はとんでもないことを……っ!」


 俺は畳に額を擦り付けるようにして謝った。銀座のクラブ通いがバレた時の比ではない、根源的な罪悪感だった。


『……見ていたわよ、あなた』


 幸子の落ち着き払った声が、静かな部屋に響いた。俺の心臓が早鐘を打つ。


『流石に、男の人は予想外だったけれど……ふふっ』

「わ、笑い事じゃねぇんだ! 俺はおかしくなっちまったんだ、あいつの顔を見ると……胸が苦しくて……!」

『あの人、新井力也君って言ったかしら。……いい人ね』


 俺は、弾かれたように顔を上げた。

 白目を剥いた将太(幸子)は、俺の顔を優しく撫でた。


『不器用だけど、嘘がなくて、真っ直ぐで。それに、何より将太や直継にすごく優しく接してくれる。子供好きの、本当にいい男じゃない』

「幸子……怒って、ねぇのか?」

『怒るわけないでしょう。私は、あなたに幸せになってほしいの。あなたが心から安らげる相手なら、男でも女でも構わないわ。……私は、あなたと力也君のこと、応援するわ』


 幸子のあまりにも深く、海のように広い愛情に触れ、俺の目からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。

 本当に、俺には勿体ない女だ。死んで幽霊になっても、俺の幸せを一番に考えてくれるなんて。


「幸子ぉ……ありがとう……ありがとう……っ!」

『でもね、あなた。一つだけ、厳しく言っておくわ』


 幸子の声が、スッと温度を下げた。俺は居住まいを正した。


『今の世の中は、あなたたちが惹かれ合うことを、絶対に許してくれないわ。もし他人に知られたら、あなたも力也君も、石を投げられる。将太と直継も、いじめられてしまうかもしれない』

「……わかってる。俺も、それが一番怖いんだ」

『だから、外では絶対にボロを出さないで。会社では今まで通り、厳しい社長と新入社員のままでいなさい。鈴木のヨシエさんや鉄男さんにも、絶対に内緒よ。……二人だけの秘密の場所で、大切に愛を育みなさいね』

「ああ……ああ、わかった! 絶対に誰にも知られねぇようにする。命に替えても、あいつと、子供たちを守る!」


 俺が力強く頷くと、幸子はようやく満足そうに微笑んだ(ような気がした)。


『あなた。……力也君と、四人で幸せになってね』


 その言葉を最後に、冷気がスッと引いていき、将太の体がカクンと俺の腕の中に倒れ込んだ。


「……んぅ? とーちゃん、おしっこ……」


 本来の四歳の将太の声に戻り、俺はホッと息をつきながら、将太を抱き上げて便所へと連れて行った。

 胸の中にあった重い鉛のような葛藤は、完全に消え去っていた。

 俺には、幸子という最強の味方がついている。明日、力也に会ったら、このことを伝えよう。そして二人で、誰にも知られない、強固な絆を築いていくんだ。


 * * *


(……完璧だ)


 俺(大神将太・四歳)は、父に抱き抱えられて便所で用を足しながら、内心で高笑いしていた。


 父の性格上、力也と一線を越えた後は「男同士という罪悪感」と「世間体」でウジウジ悩むことは目に見えていた。そこで、死んだ妻(俺)からの『公認・後押し』と『世間への隠蔽工作の指示』を与えることで、父の精神的負担をゼロにし、さらに情報の漏洩を完全に防ぐという一石二鳥の策である。


 翌日からの父と力也の態度は、見事なものだった。

 現場では、父さんはわざと厳しく力也を怒鳴りつけ、力也も「はいっ! すみません社長!」と直立不動で謝っている。周囲の職人たちは「社長、新井には特に厳しいな。期待の裏返しだろうが」と微笑ましく見守っているだけだ。

 だが、俺の『探索』魔法による索敵範囲内では、誰もいない資材置き場の陰で、父が力也のゴツい手を握りしめたり、互いに熱っぽい視線を交わしているのを、俺はしっかりと把握していた。


(これで、父さんの貞操は完全に守られた。銀座のホステスも、近所の世話焼きおばさんが持ってくる見合い話も、すべて無力化できる)


 男同士の秘密の恋愛は、障害が大きい分だけ燃え上がり、結束も固くなる。力也の父への愛は絶対的なものとなり、彼がこの大神家を裏切ることは万に一つもないだろう。

 直継も力也によく懐いているし、俺としても、変な女に家事の主導権を握られるより、時折「しゃ、社長から言われて……すき焼きの肉、買ってきました!」と顔を真っ赤にして高級肉を届けてくれる力也の方が、数万倍ありがたい。


「りきやにぃちゃん、おにく、ありがと!」

「お、おう将太。いっぱい食って、でっかくなれよ!」


 俺がニコニコと笑いかけると、力也は太い指で頭を掻きながら、照れくさそうに笑った。

 昭和40年、冬。

 大神家の「新しい母(概念)」は、身長175センチの角刈りの大男に決定した。

 俺の肉体改造(将来の190cmイケメンマッチョ化)と、ブルジョワな食生活は、この奇妙だが温かい家族の形によって、盤石なものとなったのである。


 栄光に満ちた人生ロードは、時に常識を打ち破ることで切り拓かれるのだ。俺はすき焼きの肉を頬張りながら、己の采配の完璧さに酔いしれていた。


 * * *


 1966年(昭和41年)の初春。

 吹雪のプレハブ小屋で、親父(大神将・27歳)と新井力也(20歳)が互いの想いを確認し合ってから数ヶ月。

 二人の関係は、世間の目を誤魔化しつつ、順調かつ極秘裏に愛を育んでいるようだった。現場では相変わらず「厳しい社長」と「怒られてばかりの不器用な新入社員」を演じているが、俺(大神将太・四歳)の探索魔法の網には、誰もいない資材置き場でこっそりと弁当の卵焼きを「あーん」して食べさせ合っている微笑ましい二人の姿が度々引っかかっていた。


(よしよし。これで父さんの貞操と、俺たちの育成環境は完全に守られた。あとは、この関係を法的に強固なものにするだけだ)


 当時はもちろん、男同士の結婚など法的に認められていない。

 だが、抜け道はある。「養子縁組」だ。

 俺は事前に『広域情報探査』魔法で力也の身辺を洗っていた。彼は東北の農家出身と言っていたが、実は彼が上京した直後に実家が土砂崩れに遭い、天涯孤独の身となっていたのだ。彼がそれを誰にも言わず、いつも明るく振る舞っていたのは、彼の持ち前の強さと優しさゆえだった。

 天涯孤独ならば、しがらみはない。父の戸籍に入れるにはこれ以上ない好条件だ。


 俺は夜更けの四畳半で、いびきをかく直継(四歳目前)の横でむくりと起き上がり、いつものように室内の気温を下げた。


「……んぅ……う、寒い……」


 父が身震いして目を覚ます。

 俺は白目を剥き、亡き母・幸子の声を響かせた。


『……あなた。私よ』

「幸子……! 今日も来てくれたのか」


 父は、すでに幸子の降霊に完全に慣れきっており、怯えるどころか嬉しそうに身を乗り出してきた。


『ええ。あなたと力也君が、仲良くやっているようで安心したわ。……おめでとう、あなた』

「あ、ありがとよ。でも、外じゃ誰にもバレねぇように、死ぬ気で隠してるぜ」

『それでいいのよ。……でもね、あなた。形のない関係は、いつか不安になるものよ。特に力也君は、天涯孤独の身だわ』

「えっ? あいつ、そうなのか……」

『ええ、ああ見えて、気丈に振る舞っているだけなの、実家の家族はもう……』


 俺が力也の事情を(幸子の声で)説明すると、父はポロポロと涙をこぼし始めた。


「そうだったのか……あいつ、一人でそんな重いもん抱えて……馬鹿野郎が……っ」

『だからね、あなた。力也君を、本当の「家族」にしてあげてほしいの。……あなたの、戸籍に入れてあげて』

「こ、戸籍に!? でも俺たち、男同士だぞ?」

『養子縁組という手があるわ。大人の男同士でも、あなたが年上なら養親になれるはずよ。……神田の、黒川先生に相談してごらんなさい。あの先生なら、きっと上手くやってくれるわ』


 父は、目から鱗が落ちたような顔をした。


「養子……そうか、その手があったか! それなら、あいつは大神力也として、胸を張って俺たちと一緒に生きていける……!」

『ええ。将太と直継の、新しいお兄ちゃん……ううん、新しい家族としてね。頼んだわよ、あなた』


 俺は役目を終え、スッと魔力を霧散させて眠りについた。

 これで、法的な囲い込みも完了だ。


 * * *


 side 黒川(税理士)


「……大神社長。あなたが突然、血の繋がらない20歳の社員を『養子にしたい』と言い出した時は、さすがの私も耳を疑いましたよ」


 神田の事務所で、私は眉間を揉みながら目の前の男を睨みつけた。

 ボロボロのニッカポッカ姿の大神社長は、照れくさそうに頭を掻いている。


「いやぁ、すんません先生。でも、あいつは身寄りもねぇし、ウチの会社の大事な跡取りみたいなもんですから。早めに身内にしておいたほうが、色々都合がいいかと思いまして」

「……なるほど。事業承継の観点から言えば、確かに理にかなっています。あなたの莫大な個人資産を、将来信頼できる右腕に譲渡する際にも、養子縁組をしておけば相続税の面で圧倒的に有利になりますからね」


 私は、大神社長の底知れぬ計算高さに、内心で舌を巻いていた。

 表向きは貧乏社長を演じながら、莫大な株の利益を隠し持ち、さらに自らの死後の資産防衛(相続対策)のために、身寄りのない純朴な青年を法的な身内として囲い込む。

 27歳にして、恐ろしいまでの深謀遠慮である。あるいはこれも、彼の言う『勘』の成せる業なのだろうか。


「わかりました。手続きは私がすべて代行しましょう。ただ、七歳差の養親子というのは少し目立ちます。役所から何か聞かれたら、『大工の師弟関係を強固にするための、昔ながらの家長制度の延長だ』とでも説明しておいてください」

「ありがとうございます、先生! 助かります!」


 大神社長は、顔をくしゃくしゃにして喜んだ。

 その純粋な笑顔を見ていると、私の勘ぐりすぎなのだろうかとも思えてくる。まあいい、私の仕事は顧客の財産を守ることだ。


 * * *


 数週間後。

 黒川先生の尽力もあり、手続きは滞りなく完了した。

 向かいの鈴木家で、父が「実は、力也をウチの養子にしたんだ。身寄りがないって聞いてな。大工の跡取りみたいなもんだ」と報告すると、ヨシエおばちゃんも鉄男おじさんも「将さん、あんたって人は本当に情に厚いねぇ!」と涙ぐんで喜んでくれた。


 その日の夕方。

 鈴木家の縁側で、一人で木端を削っていた力也……いや、「大神力也」に、俺はペタペタと歩み寄った。


「りきやにぃちゃん」

「おう、将太。どうした?」


 力也は、本当に幸せそうな、凭き物が落ちたような穏やかな顔をしていた。天涯孤独だった彼にとって「大神」という自分の居場所(戸籍)ができたことは、何よりの救いだったはずだ。


 俺は、力也の太い腕にギュッと抱きつき、そして彼の耳元で、幼児らしからぬ、どこか意味深なトーンで囁いた。


「よろしくね、”おとー”さん」


 ビクッ、と。

 力也の巨大な体が硬直した。

 男同士の秘密の関係。そして、父と結ばれたことで、実質的に俺たちの「新しい親」の立場になったこと。それを、この四歳の幼児が見透かしているかのような、核心を突く一言。


「し、将太……お前、今……」

「とーさんのこと、よろしくね!」


 俺はすぐに無邪気な四歳児の笑顔に戻り、パタパタと座敷へと走っていった。

 背後で、力也が真っ赤な顔をして立ち尽くしているのがわかった。

 これでいい。彼にも「俺たち家族を守る責任」を、無意識のうちに強く自覚させることができたはずだ。


 * * *


 大神家の地盤が岩盤のように強固になったその翌月。

 父と力也が参加していた、江東区の湾岸部で行われていた巨大な倉庫群の合同建設現場で、事件は起きた。


 その日、現場には複数の業者が入り乱れ、巨大なクレーン車が何台も稼働して、数トンはある鉄骨やコンクリートパネルを次々と吊り上げていた。


「おい力也! そっちのワイヤーのテンション、しっかり見とけよ!」

「はい、社長!」


 父と力也は、地上で資材の誘導を行っていた。

 その時。

 父の脳内に、俺が仕込んでおいた魔法『限定的未来視』の強烈なアラートが鳴り響いた。

 背筋を凍らせるような悪寒。そして、亡き幸子の『あなた! 上よ!!』という幻聴。


「……ッ!!」


 父が弾かれたように上空を見上げた。

 地上二十メートルの高空。別の業者が操縦するクレーン車が吊り上げていた、巨大なコンクリートパネルの束。その玉掛け(ワイヤーの掛け方)が甘かったのか、あるいは突風のせいか。

 バランスを崩したパネルの束が、ズルリとワイヤーから滑り抜けようとしていた。


「落ちるぞォォォッ!!! 全員退避ィィィッ!!!」


 父の、現場全体を震わせるような腹底からの咆哮が響き渡った。

 その声の異常なまでの切迫感に、周囲にいた他業者の職人たちも反射的に動きを止めた。

 直後、バツンッ! という音と共にワイヤーが外れ、数トンのコンクリートパネルが、まるで巨大なギロチンのように落下を始めた。


「うわああああっ!!」


 落下地点の真下には、逃げ遅れた若い鳶の作業員が腰を抜かしてへたり込んでいた。

 間に合わない。誰もがそう思った瞬間。


「力也ァッ!! 引けェェェッ!!」


 父は、近くにあった別のクレーンの誘導用ロープ(太い麻縄)を力也と共に掴み、火事場の馬鹿力で、落下してくるパネルの端に向かって渾身の力で叩きつけた。

 バチィィィンッ!!

 通常なら何の意味もない抵抗だ。だが、父の火事場の馬鹿力と、力也という175センチの巨漢のパワーが合わさり、空中のパネルの軌道をほんの数十センチだけ逸らしたのだ。


 ズドゴォォォォォンッ!!!


 大地が跳ね上がった。

 もうもうと舞い上がる粉塵。

 だが、土埃が晴れた後、そこにあったのは、腰を抜かした鳶の作業員のわずか三十センチ横に突き刺さったコンクリートパネルと、息で肩を上下させる父と力也の姿だった。


「…………助かった」

「奇跡だ……また、大神が助けてくれた……!!」


 現場は一時騒然となり、やがて父への嵐のような拍手と歓声に包まれた。

 この事件を機に、「大神建設の社長がいる現場では、絶対に死人が出ない」という伝説は、もはや信仰に近いレベルで業界内に定着することとなった。


 かくして。

 世間からの嫉妬を躱し、強固な戸籍という「身内」を手に入れ、現場での絶対的なカリスマまで確立した父。

 俺の育成環境は、もはや誰にも脅かされることのない、完璧な要塞と化していた。


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