第1話:目覚めは昭和37年(1962年)
視界を覆っていた眩い光が収束し、焦げたような匂いが鼻腔を突いた。いや、焦げた匂いではない。これは……埃と、微かなカビ、そして畳の井草が混ざり合った、酷く懐かしい匂いだ。
魔王の心臓に聖剣を突き立てた感触は、つい先程のことのように両手に残っている。65歳で突如として異世界に召喚され、幾多の死線を潜り抜け、ようやく果たした世界救済。その対価として、女神は望みを一つ叶えると言った。
『勇者の能力を持ったまま、地球の自分の人生をやり直したい』
それが、勇者であった俺の願いだった。剣と魔法の世界はもう十分だ。願いを変えてくれるというなら、もう一度、あの頃に戻りたい。それも出来ればチート付きで。というか努力して手に入れた力なのだからもうチートじゃなくて俺の血と涙の結晶だよね?
ゆっくりと重い瞼を開ける。
視界に入ってきたのは、煤けた木目の天井板だった。ところどころ雨漏りの染みができている。首を巡らせれば、土壁と、破れた箇所をセロハンテープで無造作に補修された障子が見えた。部屋の中央には四角いちゃぶ台が置かれ、その上には吸い殻が山盛りになったガラス製の灰皿と、飲みかけの湯呑みが転がっている。
天井からは傘のついた裸電球がぶら下がり、寒々しい光を落としていた。
「……あぁ、ん、あぁ……!」
声を出そうとして、自分の喉から出た音に驚愕した。ひどく高く、舌足らずな音の羅列。
視線を落とすと、そこには見慣れた傷だらけの無骨な手ではなく、ぷくぷくと肉のついた、紅葉のような小さな手があった。布団の重さすら、今のこの体にはずっしりと応える。
(そうか、戻ってきたのか……)
大神将太、1歳。1962年(昭和37年)二月十二日。
女神との契約通りなら、今日は俺のちょうど一歳の誕生日のはずだ。窓の隙間から入り込む風は、二月の東京の底冷えする寒さをはらんでいる。
「オギャア! オギャアアアアッ!」
不意に、すぐ隣から劈くような泣き声が上がった。
顔を向けると、俺と同じような、いや、俺よりもさらに小さな赤ん坊が、真っ赤な顔をして泣き叫んでいた。薄い毛布に包まれたその小さな命は、必死に何かを求めている。
(……直継か)
弟の大神直継。俺とは年子で、1962年1月25日生まれ。計算が正しければ、弟はまだ生後18日目ということになる。
そして、俺の記憶が確かならば。
俺たちの母、大神幸子は、この直継を産んだ翌日に、産後の肥立ちが悪く亡くなっているはずだ。
「……くそっ、泣くな! 頼むから泣かないでくれ……!」
襖が乱暴に開き、一人の男が転がり込んできた。
寝癖で髪を爆発させ、無精髭を生やした落ち窪んだ目の男。どてらを羽織ったその姿は、疲労と絶望で一回り小さく見えた。
父、大神将。まだ23歳という若さでありながら、愛する妻を亡くし、残された乳飲み子二人を抱えて途方に暮れている俺の父親だ。20歳で上京し、腕一本で食っている大工だが、この時代、妻を失った男が乳飲み子を抱えて働くことなど不可能に等しい。
「ミルクか? オムツか? ああもう、幸子……俺ぁどうすりゃいいんだ……」
父は泣き叫ぶ直継を不器用な手つきで抱き上げ、揺すりながら嗚咽を漏らした。その頬を伝う涙を見て、俺の胸の奥がギュッと締め付けられる。
前世の記憶では、俺は一歳で小さすぎたため、この時期の父さんの苦悩を覚えてはいなかった。だが、65年と18年を生きた大人の精神を持った今なら痛いほど分かる。翌年には東京オリンピックを控え、日本中が建設ラッシュに沸いているこの時期、大工である父はいくらでも仕事があるはずだ。しかし、子供を放って現場に出るわけにはいかない。蓄えも、底をつきかけているのだろう。
俺は、勇者としての能力ステータス画面を念じて……なんてそんなものは無いが、
もしあったなら、俺の視界の隅にはこんな感じの半透明の文字が浮かび上がるだろう。
【大神将太:Lv985】
【筋力:S】【敏捷:S】【体力:S】【魔力:SSS】
【スキル:限界突破、超回復、全属性魔法……】
確かに、異世界で鍛え上げた力はそのままこの小さな体に宿っていた。今ここで回復魔法をかければ、父さんの疲労を取り除くことなど造作もない。
だが、俺はそっと心のステータスを閉じた。
この世界で、この時代で生きていくと決めたのだ。魔法やチートスキルなど ”つまらない”。俺は、俺の肉体と努力だけで、あのマウンドに立ちたい。メジャーリーグという、遠く高い頂きに、自分の足で登りたいのだ。あ、でもやばくなったら使うよ? 縛りプレイは余裕があるから楽しいんだし。
「ごめんくださいよ! 将さん、いるかい?」
ガラガラッと、玄関の引き戸が遠慮なく開け放たれる音がした。
ドタドタという足音と共に部屋に顔を出したのは、割烹着姿のふくよかな女性だった。向かいに住む、鈴木ヨシエ。38歳にして、男ばかり五人(上に娘が一人)の子供を育てる肝っ玉母ちゃんだ。
「将さん、また泣かせてるねぇ! ほら、貸しなさい!」
「ヨ、ヨシエさん……」
ヨシエは父から直継をひったくるように抱き上げると、慣れた手つきで背中をポンポンと叩き始めた。
「あんた、顔色が死人のようだよ。飯は食ってんのかい? 大工の頭領が現場にも出ねぇで、家の中で子供と泣いててどうすんだい!」
「でも、俺は……幸子が……」
「幸っちゃんのことはあたしも悲しいよ。でもね、死んだ人間は返ってこない! この子たちは生きてんだよ! 将さんが倒れたら、このチビ二人はどうすんだい!」
ヨシエの叱責は容赦なかったが、その底には深い愛情と世話焼きな下町の気質が溢れていた。昭和の時代、近所付き合いは良くも悪くも濃厚だ。隣の家の晩ご飯のメニューまで把握しているのが当たり前の世界。
「将さん、今日からこのチビ二人は、うちで預かるよ」
「えっ……?」
父が呆然と顔を上げる。
「うちには暴れん坊の男が五人もいるんだ。赤ん坊が二人増えたところで、どうってことないさ。それに、恵子もいるしね」
ヨシエの後ろから、ひょっこりと顔を出したのは、中学生になったばかりの長女、恵子だった。セーラー服の上からカーディガンを羽織り、少し大人びた顔立ちの彼女は、俺に向かってニコッと笑いかけた。
「将おじさん、心配しないで。私がちゃんと面倒見るから。ね、将太くん」
恵子は俺の頬を指でツンと突いた。前世の記憶でも(実際は前々世だけど異世界はノーカン)、鈴木家の面々、特にこの恵子にはどれだけ世話になったか分からない。男兄弟の中で育ったせいか芯が強く、それでいて驚くほど面倒見の良い「鈴木家の聖母」だ。
「ヨシエさん……恵子ちゃん……でも、ご迷惑じゃ……」
「迷惑もヘチマもあるかい! その代わり、将さんはしっかり働いて、きっちり月謝は払ってもらうからね。月一万円! それでオムツ代からミルク代、全部ひっくるめて面倒見てやる!」
月一万円。当時の物価からすれば決して安い金額ではないが、乳飲み子二人を朝から晩まで預かることを考えれば、破格の安さだ。
「……ありがとうございます。ありがとうございます……!」
父は、ヨシエの足元に崩れ落ちるようにして頭を下げ、声を上げて泣き始めた。妻を失った悲しみと、張り詰めていた糸が切れた安堵が入り混じった、男の号泣だった。
こうして、一歳の俺と生後18日の弟は、向かいの鈴木家に預けられることになった。
木造モルタル二階建て。男の子五人が暴れ回るため、常に床が軋み、障子や襖は穴だらけ。ヨシエ母ちゃんの怒号が響き渡る、エネルギーの塊のような家。
(ここから、俺の新しい人生が始まるのか)
恵子に抱き上げられ、鈴木家の敷居を跨ぐ。
家の中からは、すでにプロレスごっこでもしているのか、ドタバタというすさまじい足音と、子供たちの叫び声が聞こえてきた。
「こら次郎! 三郎を泣かすんじゃないよ! 一郎、ちょっと次郎を大人しくさせな!」
ヨシエの雷が落ちる。
昭和37年。埃っぽく、騒がしく、それでいてどこまでも温かい、日本の下町。
俺は心の中でそっと転生させてくれた女神に感謝を捧げた。
(女神様、ありがとうございます)




