第50話 再会
――ん……あれ?
重くのしかかった瞼を開けると、見知らぬ天井で大きく紙に書かれた『絶対安静』の文字を目にする。わざわざ夜光塗料で文字を塗り、即興なのかテープで雑に貼られていた。
よくある二本並びの蛍光灯は消えたままで周囲も薄暗かったから今は深夜なんだなと認識。で、ここはドコかと身体を傾けようとすると、全身から拘束具に縛り付けられたような痛みの妨害を受ける。何事かと下を向けば両手両足がギブスで固定され、更には点滴が打たれていた。そんな満身創痍に心当たり有り。
そっか、ここ病院だ。ってか生きてたんだった……。
私、水嶋翠は寝起きで朦朧とした意識のなか気を失う前の出来事を思い起こす――。
『助かるぞ』
リリカの手に抱かれながら死へと旅立つ私に、その男は雑に救いの言葉を吹いた。
『この状態から蘇生したことがある。待ってろ、いま縫ってやる』
そう言うと私の身体をリリカから引き離し、制服を下着ごと無造作に破り散らかして傷口と肌を露出させた。
『ちょっ……』
猛獣のような男だったから、このまま辱めを受けてしまうのかと覚悟したが、奇々怪界にも口に含んだ酒を吹き付けられる。
げぇっ……。
気色悪い飛沫の感触が遠退きかけていた私の意識を冴えさせる。
『お前のような泥臭い戦いをする奴は嫌いじゃねえ。絶対助けてやるから安心しとけ』
助かるのか……いっそ死なせてほしかったんだけど。
薬師寺は腰に掛けていた巾着袋から針と糸を取り出すと、天才外科医のような手捌きであっという間に刺し傷を縫合して出血を止めてしまう。次いで見覚えのある塗り薬を患部に塗られ一分とかからず処置を終えた。応急処置とは正にこのことか。
『ありがとうございます……』
目に涙を浮かべながら男に何度も謝礼の言葉を述べるリリカ。閉ざされていた表情に明るさが戻ったことで私は生への執着を取り戻した。
また……死に損ねちゃったな――。
後から聞いた話だが、薬師寺の処置は私を担当した医師が弟子入りしたくなるほど見事な縫合だったらしい。鞭打ち刑の時にマキナから貰った塗り薬も奴の手が入ってたらしく、人は見かけによらないものだなとつくづく思った。
いつか借りを返さなくちゃいけないかなと男のニヤけた髭面を思い出すも、やっぱ無理と頭の中から投げ捨てた。
申し訳ないけど生理的に無理だわ……獣臭いし。
思い返せば執行者になってから自慢の素肌は傷だらけだ。刀で斬られ鞭で打たれ、あげく八つ裂き寸前のタコ殴り。全部自分で招いた結果だから文句は言えないけどね。
何をすることもなく何もできず、どうしようもなく無心で天井にある誰が書いたか『絶対安静』の文字を見つめていたら紙の擦り切れる音が聞こえた。その方向に向けて辛うじて動く首を動かすと、絶世の美女が私の視界を支配した。
少し離れた隣のベッドで上体を起こしていた大人の女性が窓際から漏れる月明かりを頼りに本を読んでいる。
この人……マキナのお母さん? こんなに綺麗だったっけ……。
部長の支部で会った時は、まぁそこそこかな……程度にしか思ってなかったし、手配書の顔写真もここまで映りが良くなかった。ってか、あの手配書集めてる物好きいたな……。
深夜の病院で化粧してるはずないし、きっとこの姿がこの人の素なんだろう。同性の私ですら見惚れるほどの美人が自分を下げる装いしていたことが何より衝撃的で、常に自分をより良く魅せようとしていた自分が恥ずかしくなった。才神という管理者が執着するのも今なら頷ける。
私の憧れる未来がそこにはあった。いつかこの人みたいになりたいと、呆けたように口を半開きにして幻想的な横顔に羨望の眼差しを送っていると、三回呼吸した辺りで美女と目が合った。
「あ……」
「翠ちゃん?」
「ふぁい……」
顔全体を晒しニコリと微笑み返す美の極致が私を委縮させる。見てはいけないものを見てしまったと縮むように情けない返事を飛ばしたら、美人は優しく本を畳み膝元に置いた。
「私のことは判る?」
「……は、はぁい」
そういえば何で指名手配犯が隣にいるんだろう。患者衣を着ているけど私のようなギブスや点滴も無い。
あ。確か負傷してたって通知が来てたっけ。私と同室ってことは、危険性が無いと判断されたのかな。
この時点で私は作戦が上手くいったのだと察した。
「あの……マキナやリリカは……」
「二人とも無事だよ」
嬉しさのあまりつい口元が緩ませていると、窓際の美女は私に優しく顛末を語りかけてくれた――。
どうやら私は丸二日間寝込んでいたらしい。事の結末がどうであれ誰も犠牲にならなかったことが何より嬉しくて、自分の怪我のことすらどうでもよくなり完治する予測日すら聞き逃した。
「身体……大変なことになってるけど、あんまり無理しちゃだめだよ」
「あはは……こんなのかすり傷ですよ……」
何言ってんの私。情けないことに昔から上位存在とはまともに会話ができず畏まってしまう。
「そうなの? ふふっ。良かった、元気そうで。みんな心配してたよ」
「みんな……?」
「マキナとリリカちゃん。友達なんでしょ?」
「え……」
「ありがとね。マキナと友達になってくれて」
「あ……いや……、別に……友達じゃないし……」
「え? 二人とも友達って言ってたけど……?」
「……」
言葉に詰まった。ハッキリと友達と言い返せない自分が憎たらしい。あっちはそう思ってくれてるみたいだけど、私は未だに自分が納得できなかった。
「私、そんな資格無いですよ……。貴女の娘さんを鞭で傷つけたり、罵ったり。リリカに至っては中学で虐めてたので……多分……死んでた方がいいんじゃないかって……思われてるかも……」
私は目を合わせられず怯えるように細い声で伝えた。二度と娘に近づくなと罵倒されても仕方ない。寧ろ、そう軽蔑された方が心も楽になると淡い期待を寄せていた。
「下を見て」
相手の目を見ていなかった私は自分の身体を確認した。しかし違ったらしく、彼女は言葉を言い直した。
「ベッドの下」
私達の間には入院ベッド一つ分の隙間があった。その死角になって見えない所に何があるのかと、動きにくい身体をシーツを擦らせながらベッドの端まで仰向けのまま擦り寄った。
「あ……」
そこには付き添い用の簡易ベッドで寝息を立てているリリカがいた。十センチくらい浮かせた低い高さと寝がえりのうてない狭い横幅の寝にくそうな台の上で、幸せそうな顔で仰向けに寝ていた。
もしかして……ずっと……。
「あの貼り紙はね、マキナが貼ったんだよ」
天井にある『絶対安静』の注意書きだ。いかにもマキナが貼りそうだなと思えるくらいに私は彼女のことを深く知っていた。
「死んでた方がいいだなんて寂しいこと言わないで。二人がそんなこと思うはずないって、貴女も解ってるんじゃない?」
「でも……」
「自分を許してあげて。それが……二人に対しての贖罪になるはずだから」
私は何で……この人に弱音を吐いちゃったんだろう。
拒絶して欲しかったのか、許しを貰いたかったからか、叱られたかったからか、返ってきたのは何よりも厳しい言葉。二人を大切に思えば思うほど、私は過去に締め付けられる。
どうしようもない感情が溢れ、拭う手の無いまま涙が横から伝っていく。
「二人とも良い子だから。でも、良い子過ぎて……時々心配になっちゃうの。だから……貴女のような子が友達だと私も安心できるの」
「それは……どういう……」
「リリカちゃんの弟の仇、討ってくれたんでしょ?」
言葉の意味を理解した。マキナやリリカに仇討ちは向いていない。私や才神にすら慈悲を向けるような甘い連中だから。だけど――。
「違う……あんなの……私じゃなくても変わんなかった……」
無力な自分が声を震わせる。私が何もしなくても薬師寺が安藤を討っていた。その確定していた未来に対し、私の存在意義は皆無に等しい。
「そんなことないよ。少なくともリリカちゃんにとっては、私やあの男が手を下すより心が晴れるはずだから」
違う。そんなの……ただの私の自己満足。
再び目を背けていると、暖かい手が散らかった髪を撫でた。いつの間にか近くに寄られていたのだ。あっちは普通に動けるらしい。
「マキナが言ってたよ。貴女のおかげで立ち直れたって。あの子もリリカちゃんの記憶のことで負い目を感じてるから、一緒に支え合って欲しいの」
優しい感触と言葉が自責の念で固められた氷塊を溶かしていく。
――いいのかな……私でも。
撫で方も力も匂いも違うけど、昔懐かしいあの人との記憶が蘇る。いつだろうか、会話に棘を混ぜ出したのは。いつからか、強がり出したのは。今でも希薄なまま雑に扱っていた母親が恋しくなった。
遠い遠い、泣き喚いていたほど小さい頃の私。かつての温もりが重なる――。
小学生に上がる前、私は負けず嫌いを拗らせていた。ま、子供なんてみんな負けず嫌いなんだけど、私のは特に酷いヤツだった。
最後の運動会のかけっこで負けそうになった私は、咄嗟に前の子の袖を引っ張って転ばせ一位をもぎ取った。ママは転ばされて怪我をした子供と両親にひたすら謝ってたけど、相手は子供のすることだからと特に咎めもしなかったため、私はママの裏に隠れてただ事が過ぎるのを待っていた。自分勝手な私は何が悪いのかも判らないどころか、泣き叫ぶ相手の子が慰められているのを羨んだ。
その後はこっぴどく叱られたけど、いつもの如く適当に流したらケロッと忘れてその日を過ごす。変化が起きたのは寝る前だった。
偶然なのか、添い寝していたママが背を向けて寝ていた。夜というのは子供にとって心細いもので、そんな小さな変化が私に途方もない不安を齎した。もしかして私はママに嫌われてしまったのではないかと、昼間の出来事が鮮明に浮かび上がり、取り返しのつかないことをしてしまったとすすり泣く。
『ママ……ごめんなさい……』
『どうしたの?』
そりゃ解るわけないよね。急に泣き出したんだもの。
かけっこでズルをしたことを謝ると、ママは私を責めることなく嬉しそうに私の頭を撫でた。
『翠ちゃんは偉いね』
なぜ褒められたのか理解できなかった。子供の成長、罪悪感の芽生え――。
そう。結局、私はあの頃と何も変わっていなかったんだ……。
リリカを起こさないように、私はまた……母親に縋り付くように嗚咽を漏らした――。
◇
私の処刑日から三日が経つ。
公に出された情報については、私の処刑を中止とする中で指名手配されていた母の死亡が報じられた。
犯罪者相手とはいえ子を利用して制裁を加えるとは何事かと、関係各所から大いにバッシングを受けたが全ての責任は指揮を執っていた才神が負うとして、彼を除名処分することで執行庁は強引に事を収める。当の本人はCHAOSのメンバーであろう築地さんだった人に殺されたらしく、それを利用したらしい。
イマイチ腑に落ちないけど、これ以上私に出来ることは何も無い。残った管理者とどう連絡を取るのか、この後の対処は全て諸田さんと紅露さんたち一級が責任を持って取り組むとのこと。
私はと言うと、関係各所への説明もとい言い訳で昼夜引っ張られていたが、今日から長期療養休暇を頂いている。今は親子水入らずで休めと、紅露さんが気を遣ってくれたのだ。
なので本日は母と翠の見舞いのため研究棟へと足を運んでいた。
当然ながら死んでいるはずの母がここに居るのは秘匿事項。外出制限と研究所で働くことを条件に保護を約束されたんだ。私はウキウキで入り口の自動扉を跨ぎ、堂々と顔パスで上階へのエレベーターへと乗った。
翠が目を覚ましたと本人から連絡が来てたんだ。『起きたよ』と味気ないメッセージだったが、それがまた彼女らしい。
四階への扉が開かれると、私は療養室の扉を遠慮なく開いた。
「翠、だいじょ……」
安静にしてって言ったのに……。
以前にも増して包帯だらけで髪を下している少女は母のベッドに寄りかかり、リフティングテーブルにずらりと化粧品を並べていた。私の来訪など気にせずコスメの話を続けている。
「翠!」
再会の第一声が怒号になるなんて思いもしなかった。
「絶対安静って書いたでしょ! 何で立ってるの!?」
ピクリと身体を震わせた翠は動き辛そうに振り向くと、悪態で返す。
「煩い。いま真奈さんに美の秘訣を伝授して貰ってるの。あっち行っててよ」
いつの間に仲良くなってるのこの二人……。
母も満更ではなさそうだ。あまり接点のない二人だし気まずいかなと心配してたのに、こうなっては別の意味で不安になる。
「あのね、私は翠の為に言ってるの。後遺症が残ったらどうするの?」
「母親みたいなこと言わないでよ。私の体なんだから私の勝手……あっ!」
問答無用。翠のベッド横に掛けられたスタッフコールボタンを押した――。
一分も経たず現れた看護師たちに取り押さえられ、「鬼、悪魔」と叫びながら翠は拘束される。今度は拘束具で完全に固定され、暫くベッドへ釘付けされることになった。看護師たちが去って行くと、翠はわざとらしく溜息を漏らす。
彼女は安藤との戦いの後、紅露さん達と合流し小長谷と共に緊急搬送されたらしい。小長谷の方は大したことなかったらしいけど翠は見ての通り重傷で、その凄惨たる内容を聞いたとき耳を疑った。肋骨が折れて四肢の筋繊維もズタボロ、刃物による裂傷は応急処置で出血を押さえられていたが、ここまで酷い症状は聞いたことが無い。
あの戦いで翠の応援が無かったことに少し違和感を抱いていたけど、まさかそんなことになっているなんて想像もしなかった。才神が逃げた後、無理の限界を迎えていた母は気が抜けたように倒れ、同時にリリカも高熱で倒れたため深追いはせず師匠を除いた全員で二人をこの研究棟に運んだ。
リリカの方は命に別状は無いらしく博士に対処を委ねたが、問題の二人は重傷で直ぐに緊急治療室に入れられた。
あの時は生きた心地がしなかった……。大切な人を二人も失うなんて私には耐えられない。何回神様に祈りを捧げたことか――。
「まったく……どんだけ心配したと思ってんの」
「別に……。あ、いや……その……」
「ん?」
「……ありがと」
恥ずかしがっているのか、顔を背けたまま消え入りそうな声で呟く。
一応、反省してくれてるのかな。
「何て言ったの?」
「もう、いいからあっち行け!」
勿論聞こえていたけど、意地悪して顔を覗き込んだら再び顔を横に振られた。素直じゃないところが可愛くてつい揶揄っちゃうけど、こんなに心配させたんだから今ぐらいはいいよね。
そんな私達のやりとりに母は微笑ましそうに眺めていた。あんな風に笑っているのも久しぶりに見た気がする。
「お母さんは大丈夫?」
「うん。だいぶ良くなってきたよ」
いつもの母の声。それを聞くと戻って来たんだなと実感する。
内臓の損傷は翠より酷くはなかったらしいけど、能力を限界を超えて使ったため丸一日目を覚まさなかった。博士曰く、後遺症が無いどころか進化の兆しが見えるらしい。彼は大層喜んでいたけど私は複雑だ。もう能力なんか使わないでほしい。
見舞いの品として水やフルーツを近くのテーブルに置くと「エナドリじゃないの?」と揶揄われ、紅潮しながら「もう……忘れてよ」と返す。
不貞腐れる翠を横目に、かつての日々の様に談笑する二人。当たり前だったあの日常が帰ってきたことが嬉しくて、これまで以上に母へ甘えた。
「それじゃあ、私は用事があるからもう行くね。翠、ちゃんと安静にしててよ」
「はいは~い」
絶対聞いてないな。声色から全く信用を抱けない。
「待ちなさい」
引き戸に手を掛けようとしたところで背筋が凍り、手が止まる。その声だけで怒りが混じっているのを認識。振り向けば穏やかだった母の表情は険しくなっていた。
「リリカちゃんに会わないの?」
そう、私はリリカを避けていた。昨日は偶然博士の検査で居なかったから顔を合せなかった。どうやら一週間は決まった時間に検査を受けなければならないらしく、今日も同じ時間に検査へ行っている。
「用事って何?」
「あ……えっと……」
「まだ会ってないの!? 信じらんない!」
もじもじしてたら翠から罵声を浴びる。
だってしょうがないじゃん。今更どんな顔して会えばいいのか判んないんだから。
向こうは記憶を失っている。だから実質、初対面なのだ。最初の挨拶はどうしようとか、どう接していいのか解らず気まずくなりそうで。
それに、私の顔を見て「誰?」って言われようものならショックで寝込みそう。
「その……心の整理がまだ……」
「マキナ……」
「馬っ鹿じゃないの」
冷ややかな二人の視線が刺さる。
「あうぅ……」
まずい。二人に責めたてられてる場合じゃない。
ギリギリまで会話していた所為でリリカが戻って来る時間が迫っていた。逃げるのは無理。最初の一声を考えなければと頭をフル回転させる。しかし、グルグルと回りすぎて「早くしないと」の言葉しか出て来ずパニックに陥っていた。
――ガラリ。背後の扉が開く。失礼しますの一言が無いから開けたのは看護師ではないことだけは判った。
恐る恐る振り向くと、やはりポニーテールの少女がキョトンとした顔で待っていた。
検査を受けながら付き添いで寝泊まりしているからか、薄ピンクで縁に濃色ラインの簡素な半袖とショートパンツを着ている。ここに来るまではクミミンが付き添ってくれたみたいだから、きっと彼女が用意してくれたのだろう。
見た目はほぼ変わらない親友の姿なのに、喧嘩別れした同級生に会ったような気まずい空気が流れる。
親友との距離ってこんなに遠かったっけ……?
気軽に触れ合える仲だったのに、今では触れたら跳ね退けられそうで怖い。本当に記憶を失ってしまったという実感が急に襲ってきた。
それでも第一声は私からじゃなくちゃいけないんだ。不安なのは向こうも同じ。「あんた誰?」と言われる前に先手を打とう。
「み、御代マキナと申します……! 今後ともよろしくお願い致します」
部長直伝の最敬礼だ。その美しい直角は記憶すらも呼び起こす――わけもなく。
「何やってんの、このバカは」
やはり翠からヤジが飛ぶ。
「ふふっ、柚原リリカです。こちらこそよろしくね」
顔を上げると、膝に手を乗せながら腰を落として明るくはにかむリリカがいた。
「あの……やっぱり……」
「うん。まだ何も思い出せなくて……」
「そう……なんだ」
覚悟はしていたけど、気が重くなる。私の顔を見ても何も思い出せなかったらしい。
煮え切らない私たちに業を煮やしたのか、翠が一言。
「休暇なんでしょ、せっかくだし二人で思い出の場所でも巡ったら?」
その考えはあった。だけど――。
「それなら……翠ちゃんも一緒がいいな」
翠ちゃん?
「へ~。随分とお仲がよろしいようで」
「ち、違っ……リリカが勝手に言ってんの」
「訂正しないんだ?」
「うっざ」
ニヤつく私と目を離し、そっぽを向く翠。顔を赤らめているのか、可愛らしいところがある。
私も翠の同行は同意見だ。だって気まずいし……。
「なんかゴメンね……、ずっと翠の付き添いさせちゃったみたいで」
「ううん、リリカが好きでしてるだけだから気にしないで」
一人称がリリカになっている。なんだか小さい頃を思い出すな。
かつてもこんな風に明るかった。トラウマが無ければこうなっていたのかと、少し寂しげな気持ちになる。
「ねえ、記念撮影してもいいかな?」
そう提案したのはリリカだ。もっと記録や写真を残していけばよかったと、記憶を失う前のリリカが後悔していたらしく、これからアルバムを作っていくらしい。
「お母さんも是非」
「え?」
遠くから子供を見守るように私たちのやり取りを微笑みながら眺めていた母が不意を突かれたのか、驚きの表情を見せる。
「私も?」
「はい、お願いしま――」
「無理っ!」
言葉を遮ったのは翠だ。
「こんな酷い格好でなんて嫌なんだけど! しかもスッピンだし!」
あからさまに可哀想な格好だ。それはそれで記念にもなりそうだけど。
「じゃあ私がメイクしてあげるね」
「するっ!」
早いよ……。
ここまで露骨な掌返しも清々しい。
母は机に並べてあった化粧道具一式を翠のリフティングテーブルに運ぶと、子供のように目を輝かせている翠の上半身を起こしメイクを始めた。
私はその様子を翠のスマホで録画させられている。後で動画を見て参考にするそうだ。そのやる気を少しでも身体の回復に分けてほしいけどね。
メイクを終えると、翠は手鏡を見つめたまま自分の顔に魅入られている。普段のように髪はツインテールに束ねられ、無駄にマニュキュアまで塗っていた。
「どうやって撮る? ボタン押す?」
「お願いだからこれ以上迷惑をかけないで」
翠がスタッフコールに手を伸ばしていたので止めに入る。看護師を何だと思ってるのか。
ならばテーブルにスマホを置いてタイマーで行おうとしたら翠が「自撮り棒なら私の鞄に入ってるよ」というので黒の可愛くない鞄を漁る。これ仕事で使ってた鞄だよね。何でそんなものを常に携帯しているのかと問いただしたくなるが、やめておいた。中には凡そ業務に関係の無い化粧品やお菓子、アクセサリーやイヤホン、雑誌まで詰められていて、もう注意する気力が失せてしまったのだ。せめて筆記用具とメモ帳は入れておいて。
「あったよ。誰が持つ?」
「リリカでしょ」
言われた通りに取り出した自撮り棒をリリカへ渡すと、翠が彼女に使い方を説明した。記憶関係なく使ったことないもんね。私も使ったことは無い。
動けない翠を中心に私とリリカで挟むと、母が私の傍に寄り添った。
記念撮影か。卒業式以来でそんなに日は経ってないけど、あの時はこんなことになるなんて思いもしなかったな。
「いくよー。3、2、1……」
これから先、新しい思い出のページを作る。時には過去を思い返しながら、一生懸けてでも、リリカの記憶を取り戻すんだ。私たちで……。
そんな決意を抱いた日を境に、お母さんは私たちの前から姿を消した――。




