第44話 あり得なかった客
兄に調査を願ってから、今日で約一週間。
私はロディスに言った通り、あれから特に外出する事もなく、子どもたちとの時間を謳歌している。
『家族』を守る力を手に入れるために、やれる事が何もない訳ではない。
しかしそちらに固執するあまり、『家族』を蔑ろにしては意味がない。
だから、やれる事と、やりたい事。
それらのちょうどいいバランスを考えて、動くべき時にはきちんと動き、待っていていい時間は子どもたちと過ごす。
そういう時間の使い方をすると決めたのである。
その成果が。
「お母さまー!」
大好きな庭遊びに興じているロディスが、こちらに振り向いて手を振ってきた。
嬉しそうな彼の鼻頭には、手に付いたまま擦ったのか、泥汚れが付いてしまっているが、その姿が実に微笑ましい。
汚れを微笑ましさに変えられるなんて、ロディスの可愛さは本当に偉大だ。
そして、こんな時間を享受する事ができて、私は幸せだ。
彼に手を振り返し、遊びに戻った彼の背中を見ながらルリゼの淹れた紅茶を口に含む。
この穏やかな時間を安心して過ごす事ができるのは、兄のお陰。
そう考えると、何だか少し複雑な気持ちにもなるけれど。
兄が調査を進めてくれるから。
兄の仕事を信用しているから。
兄の狡猾さを信頼しているから。
そう思っている事は事実で。
何もしなくても勝手に事はいい方向に進むだろうと、ある種の高を括っている事ができるのは、楽ができていい。
だから、この複雑な気持ちも甘んじて受け入れなければならない――。
コンコンと、部屋の扉がノックされた。
ルリゼが応対に出る。
しばらくの後戻ってきた彼女は、明らかな緊張の面持ちだった。
「王妃様、お客様です」
声も硬い。
「誰?」
陛下ではないだろう。
陛下なら、このメイドは「夫が妻の部屋を訪れるのは当たり前」とでも言わんばかりに、すまし顔でまた「既にお通ししております」などと言うのだろうから。
では誰なのか。
「側妃様です」
ソーサーに置きかけていたティーカップが、カチャンと小さく鳴ってしまった。
今までにない展開だ。
それは、時期など関係ない。
時戻り前に側妃が私の部屋に来訪してきた事など、ただの一度もありはしなかったのに、何故今。
こちらから、そのような事を誘発した覚えもない。
辛うじて夜会での一件が尾を引いた結果という可能性もあるけれど、それだけであの気位の高い側妃が自ら出向く事などあるだろうか。
――もしかして、そろそろ時戻り前と違う動きをする私のところにも、ついに『歪み』が来たのかしらね。
そう、静かに独り言ちる。
時の神、ウール。
彼の教えを記しているという経典には、時に関する概念的な教えが幾つか存在している。
その内の一つが、『時の流れは変えられない』という事。
経典曰く。
―――
時の流れは過去から未来への一方通行で、未来から過去には戻れない。
もし神の采配で過去に戻る事があったとしても、戻る前と行動を変えてはならない。
それを犯した人間は、果たして元の自分と同じ自分なのだろうか。
あった筈の事が、いた筈の人が、存在しなくなってしまった世界にいる自分は、果たして本当に『自分』なのか。
―――
つまり何が言いたいのかというと、『過去のすべてが今の自分を作っており、過去の辛い事も苦しい事も、今その場に存在する自分には必要不可欠なものだったのだ』という事らしい。
少なくとも経典の意訳書にはそう綴られていた。
私もそれを、そっくりそのまま信じていた。
『過去に戻る事があったとしても』なんて、到底ある筈のない事だと思っていたから。
しかし今は、少し違う。
私は実際に時戻りと説明する他ないような事を経験しているし、その上で起こりうる未来が、子どもたちを守れなかった未来の自分が嫌で、変わりたくて、変えたくて、行動した。
その結果、何かが変わるというのなら、私が予期していない変化が起きる事もあるのだろう。
だって私は、既に時戻り前に起きた幾つかの事を変えているのだ。
誰でもない、自分自身の行動で。
行動次第で、過去は変えられる。
そう自ら実証したのだから。
守るべき『家族』のために行動した自分を、私は決して後悔しない。
それによってなかった筈の問題や衝突が生まれたとしても、私は真っ向から立ち向かう。
子どもたちを守る母の矜持を以って。
「応接室に通しなさい」
そう告げて、私は椅子から立ち上がった。
一礼をしたルリゼは側妃を隣の部屋に通すべく、少し早足で先に部屋を出ていく。
「アン!」
「はい?」
少し声量を大きくすれば、ロディスと一緒に庭で遊んでいたアンが「どうしました?」と振り返った。
手招きをして傍に寄らせ、彼女にコソリと耳打ちをする。
「側妃が来たから応接室に通して、私とルリゼが対応するわ。ロディスには言わないで、いつも通りにさせておいて。ただし、こちらにだけは来させないでね。念のため」
私の言葉に、アンは目をパチクリとさせた。
目に見えて驚いていたけれど、私が「お願いね」と念を押すと、我に返って元気よく「お任せください!」と答えてくれる。
パタパタと戻っていく彼女に、ロディスが「どうしたの?」と尋ねていた。
アンは「な、何でもナイデスヨー」と、分かりやすく誤魔化すけれど、どうやら無垢で純粋なロディスは、無事に信じてくれたようだ。
「じゃあ、続き!」
そう言って、アンに食べられる草の話をせがむ息子の、可愛い事。
「あう!」と呼ばれて傍に寝かせていたリリアに目をやると、こちらに両手を伸ばしてきている娘の、可愛い事。
「もしかしたら、私の子どもは心の荒みを取る魔法でも備えて生まれてきたのかもしれないわね」
言いながら、リリアを抱き上げる。
親バカだという自覚はあるけど、これからおそらく楽しくはならない会話に興じなければならないのだ。
少しくらいは息子や娘で、癒しの前借りをしても罰は当たるまい。
そう思いながら、抱き上げたリリアに頬ずりをした。
リリアが嬉しそうに、キャッキャと笑った。




