第43話 癒しと眼福 ~メイドのアン視点~
腕の中に抱いているリリア様が、「あうあう」と言いながら私に手を伸ばしてきている。
何が楽しいのかは、よく分からない。
しかし私のほっぺを触りながら笑う姿が、とても、とても可愛くて。
「はぁーう、癒される……」
その手がほっぺを通り過ぎて私の髪を握ってツンツンと引っ張り始めたけど、そんなのまるで気にならない。
リリア様のお世話は普段、主に王妃様がなさっている。
普通貴族は乳母を雇って世話を任せ、たまに愛でたり散歩に出たりする程度だと聞いていたけど、王妃様はそれを望まなかった。
「いい事も大変な事も、この子との経験はどんなものでも、なるべくたくさんしたいと思っているの」
そう言った王妃様はとても美しかった。
同じく王妃様の側仕えメイドをしているルリゼさんは、王妃様がいない時に「本来ならば使用人がするような事なのに、王妃ともあろう方が……」と、呆れとも非難とも取れるような事を言っていた。
お貴族様の常識に照らせば、そういう評価になるのだろうか。
私にはとても気高く愛のある母の姿に見えたのだけど。
王妃様の体調を心配した私に、ルリゼさんは「どうせ気が済めば『乳母を雇う』と言い始めるだろう」と言っていたけど、そうはならなかった。
彼女は自分の言葉を裏切らず、夜泣きの対応や、食事の世話、下のお世話だって自分でなさる。
流石に連日昼も夜もなく世話をしていたのを見かねたルリゼさんが、「夜間の世話は私やアンに任せてください」と彼女を止めた。
王妃様も「仕方がないわね」と言って譲歩した。
夜起きている分、ルリゼさんは昼間に仮眠を取っている。
お陰で日中、王妃様方の身の回りを世話するメイドが私だけになる時間ができた。
責任重大だ。
そもそもが、最近召し上げてもらえたばかりで高貴な方の側仕えをさせてもらえる事自体が特別なのに。
まさか私の人生が、こんなふうに転ぶとは。
あの階段から転げ落ちた日、私はすべてが「終わった」と思ったのだ。
だって、王妃様の事をまったくと言っていい程知らなかった私には、あれが王妃様のお気に入りかどうかなんて知る由もなかった。
いやもし知っていたとして、貴族上がりのあの方に逆らうような物言いなど、できやしない。
養う対象の、私の家族。
あの子たちを奴隷に堕とす原因を作ってしまうくらいなら、壺を割ってしまったあの時に転げ落ちて死んでしまった事にした方がずっといい。
あの時私はそう思っていたし、あの後そういう自分を演出する覚悟もできていた。
身近で見ていれば、王妃様がどれだけお子様方を大切にしているのかが、よく分かる。
でも私だって自分の家族を思う気持ちは負けていない。
そう思えるくらいには、私も家族が大切だから。
だから奇跡だと思う。
今ここで自分が息をしている事は。
もしかしたら、時の神ウールに毎日部屋でお祈りしていた成果が出たのかもしれない。
母の影響で昔から癖のような日課を毎朝続けていだだけだけど、今後はきっともっと真剣に祈れる。
ウール神と王妃様に感謝と敬愛を!
そんなふうに、毎朝ね。
最近、その敬愛の対象である王妃様が、昼食後に取っている昼寝時間に、大好きなお子様たちを置いてコッソリと外出していく。
王妃様曰く「用事がある」との事だけど、何をしているのかは知らない。
これまでに三度、同じ理由で部屋を出て行った事がある。
帰ってくるまでの時間はまちまちだけど、ちょうどルリゼさんの仮眠時間と被っているので、ルリゼさんはこの事をまったく知らないだろう。
私には、王妃様のなさる事を詮索する気もなければ、ルリゼさんにこの話をするつもりもない。
これまで一度もこの件に関してルリゼさんがお小言を言っているところを聞いた事がないから、多分知らないのだと思う。
だから話題に出さずにいる。
もしこれがルリゼさんに言っておいた方がいいと王妃様が思うのならば、本人から直接言っているだろう。
言わない事にも、何か理由があるのだと思うから。
私は私にできる事をすればいい。
王妃様はそう示してくださった。
私の食べれる草の知識を一蹴せず、価値あるものとして評価してくれて、ロディス様共々楽しそうに、私の説明を聞いてくださる。
おっちょこちょいでよく失敗をするけど、そんな私を見てロディス様もリリア様も笑ってくれるし、王妃様は心配しつつも、笑いながら許してくれる。
そんな優しい人たちの役に、私も立ちたいと思っている。
だから、王妃様がしてほしい事を、私はする。
この件をルリゼさんには話さないし、王妃様が戻るまで、お二人の様子をよく見ておく。
王妃様が戻る前にお二人が起きてしまったら、お二人が不安に思ったり寂しく思ったりしないように、心を尽くす。
だってそれが、王妃様直々に任せてくださった事だから。
今日はリリア様だけ、少しお早くご起床された。
ロディス様はまだベッドでスヤスヤと眠っている。
起きてしまったリリア様をあやしながら、王妃様の帰りを待っている。
それが今なのだけど、私が笑えばリリア様も笑う。
これほどまでに心からの幸福と仕事とが両立する仕事が他にあるだろうかと、デレデレしながら考える。
リリア様の笑顔は、もしかしたら世界を救うのではないか。
だって皆笑顔になら、きっと争いは起こらない。
争いが起きない世界なら、皆楽しく平和な筈だ。
だとしたら、実はリリア様ってものすごい人なのでは……?
いやまぁもしそうでなかったとしても、リリア様は王妃様の娘。
この国のお姫様なのだから、すごい人には変わりないけど――などと考えていると、背中越しに「リリア……?」という声が聞こえてきた。
振り返ると、眠気眼のロディス様がリリア様を探すようなそぶりを見せている。
「ロディス様、起きたのですね」
「うん……」
「リリア様なら、こちらに」
先に起きていらっしゃったので、抱っこしていたのですよ。
そう言いながら彼の方に歩みを進めると、彼もまたベッドを出てこちらに歩いてきた。
ロディス様に合わせて中腰になると、彼がリリアを見てふわりと笑う。
「おはよう、リリア」
「あぅ!」
返事なのだろうか。
彼の出した手の指を、ギュッと握って彼女が声を上げた。
嬉しそうなロディス様を見て、「お可愛らしい~!」と内心で悶える。
表では、ニコニコ笑うだけだ。
口に出さなかった事を褒めてほしい、などと思っていると。
「アン、何か楽しい事でもあったの?」
ロディス様から疑問顔をされてしまった。
もし両手が開いていたら、頬辺りをマッサージしながら少なからず取り繕っていたかもしれない。
しかし今は生憎……というか、幸せな事に愛らしい姫を両手に抱えている訳で。
「アンは毎日が楽しいですよ」
代わりに取り繕わない本音を言う。
実際に、最近は特に毎日が楽しい。
王妃様に拾っていただいて以降、仕事にもやりがいを感じている。
王妃様もいい人だし、前の職場では他のメイドから意地悪される事もあったけど、ルリゼさんは私にそういう事はしない。
何でも知っている彼女から、最近はよく色々な仕事を教えてもらっている。
この間は「ご自覚が足りない」と、リリア様の子育てで体力的に無理をされている王妃様に、漏らすようにポロリと愚痴……というには厳密には違うのかもしれないけど、そういうような言葉を漏らしてくれりもした。
それ程込み入った話まではしないものの、いい関係を築けているのではないだろうか。
しかし、やっぱり一番は。
「あっ! お母さま!!」
開いた廊下との出入り口に、王妃様の姿があった。
その姿をいち早く見つけたロディス様は、テテーッと走っていってそのままギュッとスカートに抱き着く。
「ただいま、ロディス。リリアとアンも」
「おかえりなさいませ、王妃様」
「お母さま、今日はもうどっか行ったりしない?」
「えぇ、ずっとロディスたちと一緒よ」
そう答えながら、王妃様は私からリリア様を受け取った。
傍のソファーに腰を下ろせば、隣にロディス様がピョイッと座る。
「よかったね、リリア。もうお母さまいなくならないって」
「あうっ」
ロディス様が、言いながら王妃様の腕に抱かれたリリア様の頬を、ツンと突き嬉しそうに笑う。
リリア様もそれに応えるように、あの天使のような笑みを浮かべて――その二人を愛でる王妃様。
慈愛に満ちたその世界は、いつまでも見ていられると思える程の美しさで。
「なんという眼福……」
そんな感想が口からまろび出た。
すると、どうやらこちらは王妃様の耳まで届いてしまったらしい。
「そうでしょう? うちの子たちは、いつどんな姿を見たって眼福なのだから」
言いながら、言葉の意味が理解できていない様子のロディス様の頭を撫でる王妃様の手つきの、優しい事。
自慢げに語る王妃様の、お可愛らしい事。
この方は、『眼福』に自分も含まれている事に、おそらく気が付いていないのだろう。
強くて聡明で慈愛に満ちた方なのに、こういう所は無自覚で。
それがまた微笑ましくて、私は思わず笑ってしまった。




