第40話 真面目な文官
彼の名は、べトナー卿。
少し長い前髪を七対三で分け、落ちないように綺麗に固めているお陰で、机に向かっている彼の視界を邪魔する物はない。
彼の目は一心に机に注がれており、机上ではカリカリカリカリと彼のペンが走っている。
勤勉すぎて、鬼気迫っている。
そういう感じだった。
どうやらまだ彼は、閑職に追いやられる前らしいけど、何故そこまで一心不乱に……?
最初こそそんな疑問を持った私だけど、観察しているうちにその理由も分かってきた。
室内には、彼の他に四人の姿がある。
しかし書類が積み上げられているのは、べトナー卿の机だけ。
そして残りの者たちは、明らかに手が遅い者が一人。
背もたれに背を預け、顔に開いた本を乗せて腕組みし、微動だにしない者が一人。
優雅にティータイムを過ごしている者が一人。
手のひらサイズの女の姿絵を見てニヤニヤしている者が一人。
彼を除けば、ものの見事に仕事に不真面目な者たちばかりだった。
おそらくは、終わらない仕事を躍起になって片付けるべトナー卿を見た他の三人が、味を占め自分の仕事もやらせている。
そんなところなのだろう。
私の記憶が正しければ、あの中で一番偉いのは、女の姿絵にニヤニヤしているあの男だった筈だ。
時戻り前に、べトナー卿を閑職に追いやった人物でもある。
彼曰く、たしか『財務部長という立場を利用して、王城の金を使い込んだ横領犯』。
そういえば、時戻り前のべトナー卿が「横領した金は妻への散財に使っていた」と言っていた。
という事は、あの姿絵の女こそが、あの男の妻なのだろうか。
だとしたら、いい年をして仕事をそっちのけにしてまで姿絵に目が釘付けだなんて、余程お熱い仲だと見える。
妻にとっては、夫はいい財布なのだろう。
まぁでもその夫は、国庫を財布代わりにしている訳で。
私でさえ、夫――ひいては国庫を子どもたちの財布代わりに思っている事を決して口にはしていないし、割り当てられた予算以上に使うつもりも勿論ないのだ。
一文官の身でそんな事、もちろん決して許される事ではない……というのは、今はとりあえず置いておいて。
さぁ、これからどうするか。
私は少し考える。
このまま入室し彼を呼ぶか、彼が出てくるのをここで待つのか。
……いや、待つのはない。
子どもたちを部屋に残してきている。
可能な限り、早く戻りたい。
彼らの目覚め前に戻れるのが、最善だ。
となると、いつもの昼寝時間を考慮して、あと三十分くらいしか時間はない。
しかしだからといって突然彼を訪ねるのも、警戒心を抱かれないだろうか。
一応一つ取っ掛かりは持っているけど、それだってこの部屋じゃあ明かせない。
彼をここから連れ出して、警戒心を抱かせる前に取っ掛かりのカードを切る。
それができれば最善だけど……。
ほんの一瞬、兄の真似をすればよかったかと考えるけど、事前に調査し日々の行動習慣の情報を仕入れ、調べつくした個人情報を駆使して一度の邂逅で味方に引き入れる……なんていう芸当は、私にはできない。
まず純粋に、時間が足りない。
次に、根掘り葉掘り調べる事ができるような人材に心当たりは一つもない。
一応時戻り前にロディスとリリアに関するすべての情報を洗ったけど、あの時に使ったのは闇組織の情報網だ。
それこそ私に与えられた王妃の予算、そのすべてを宛がった大金で行った依頼で、金相応の納得できるだけの量と精度のある情報を手に入れるに至ったけど、アレは一種の捨て身行為。
子どもたちのために王妃という地位にまだ居なければならない現状では、闇組織と繋がるのは、あまりに浅はかだ。
でも、じゃあどうする……?
「結局、三十分以内に彼が部屋の外に出て来てくれるのを祈るしかないかしら」
そう呟いた時である。
べトナー卿が席を立った。
幾らかの書類束を手に、おあつらえ向きにこちらにやってくる。
まるで神様が私の言葉を聞いて采配してくれたかのような絶妙なタイミングに、驚き少し慌てて隠れる。
実は今回も着いてきている木偶の坊にも手振りで指示をして、ダルそうにしながらも身を隠させる事に成功する。
お陰で部屋を出てきた彼は、こちらに気がつく事はなかった。
おそらく明確な目的地があるのだろう。
迷いのない足取りで歩みを進める。
もしかしたら持っている書類たちを、他部署に持っていくのかもしれない。
そんなふうに彼の用事の当たりをつけながら、暫くの間、後をつける。
部屋から十分離れたところで、深呼吸。
そして満を持して声をかけた。
「経理文官、アラン・ベトナー。少しよろしい? 貴方に話があるのです」
と。
今回に関しては、失敗しても直接的に子どもたちに影響はない。
それでもここで勧誘に失敗すれば、また候補者を探さなければならなくなるだろう。
子どもたちとの時間を、それだけそちらに割かねばならなくなる。
そう思えば、やはり失敗したくない。
それが懸命に平静を装いながらも、内心では「ちゃんと余裕があるように見えているだろうか」と不安になる要因を作っているように思えた。
そんな私の内心を知らない彼に、私はどのように見えているだろうか。
一応私の後に付いて人気のない小さな庭までついてきはしたものの、警戒……というよりは、おそらく呆れだ。
早く仕事に戻りたそうに「御用とは何でしょうか」と尋ねてくる。
「貴方に、仕事の話をしに来ました」
「仕事……? 私は一介の文官です。王妃様に仕事上関係するような事はないと思いますが、人違いでは?」
「いいえ。私が探していたのは、間違いなく貴方です」
そう言えば、私の確信に面食らったのか、彼は「そ、そうですか」と答えて口を僅かにへの字に曲げた。
「では、王妃様が私などに一体何の御用事で?」
心象はものすごく悪そうだ。
その現実を前に、考える。
今回も一種の賭けが続いている。
まずは、彼に会えるかどうか。
そして彼と如何にして二人で話す状況を作るか。
それらには勝てた訳だけど。
本来ならば、相手の警戒心を解いてから本題――ロディスとリリアの味方になってくれないかと打診するのがいいのだろう。
なるべく穏やかに、穏便に、関係を築いて。
しかし問題が一つある。
それは時間がない事だ。
今日に至っては、あと十分。
戻る時間を考えれば、私がここで使える時間の限界はそこだ。
この時間で、如何に相手をこちら側に引き込むか。
そう考えた時に、元々考えていた正攻法では到底無理だと見切りをつける。
詳しい話は次回にして、今日のところはその約束だけ……という選択肢は存在しない。
せっかく子どもたちの可愛い寝顔を眺める時間を削ったのだ。
それ如きの成果では、満足できない!
だから!!
「経理文官長の汚職について、ご存じですか?」
「何故それをっ!」
ニコリと微笑みながら大きな爆弾を落とせば、私が張った大きな賭けに、彼がパクリと食いついた。
相手が王妃だという事も忘れたように、ズイッと問い詰めるべく距離を詰めてくるベトナー卿。
因みに今も一応近くにいる護衛騎士《木偶の坊》は、やはりと言うべきか、こうなっても尚私を助けに入るふりさえしない。
他に私の護衛がいないのをいい事に、おそらく私が危険な目に遭って「先日の件は謝罪するから、ちゃんと仕事をしてほしい」と泣きついてくるでも待っているのだろう。
薄々気がついてはいたけど、彼はもう何かがあって自分の職務放棄を陛下から咎められる事など度外視してまで、自分を蔑ろにした私への報復がしたいらしい。
自意識ばかりが高い騎士の末路に、ため息が出る。
が、まぁ今彼の事は大分どうでもいい。
それよりもベトナー卿の方だ。
私がここでした賭けは、彼がこの話に食いつくかどうかだけではない。
食いついた上で、協力関係になる事。
そこまで成して、やっと今日の賭けに勝つ事ができる。
だから落ち着け。
そう、自分に念じる。
ここでボロを出してしまってはいけない。
証拠を持っている訳ではない事を。
時戻り前の彼が語った後日譚を知っているだけの、汚職の詳細にそれほど詳しくない自分を。
ここで彼に知られては、会話の主導権を握られる。
なればこそ、きっとここが強気のブラフの張り所だ。
「文官長の家は、特に領地収入がいい訳でもないのに羽振りがいい。社交場で夫人と話した事があって疑問に思い少し気にかけていたところ、そういう疑惑の痕跡を見つけたのです。『何故それを』という事は、べトナー卿も何か知っているのですね?」
「それは……」
「彼の行いを止めるために、貴方に協力してほしいのです」
この賭けに勝つために私が今回ベットしたのは、この件に関する《《すべての》》情報だった。
これ以上の情報を、私は知らない。
だからもし詳細を問われたり確認されたりした場合、私はこの賭けに負ける事になる。




