第36話 陛下の来訪
手を止め入り口に向かったルリゼが、特に私の断りを待つ事もなく扉を開いた。
普段は、流石に勝手に扉を開ける事はない。
今回がそうでない理由に何となく思い当たるものの、内心「そんな筈はない」とその可能性を否定する自分がいる。
もしあの男なら。
時戻り前にはなかった事だから。
だから、あり得ない。
そんな気持ちと、それ以上に「出産直後のこの疲れている時に、信頼の置けない人間と会いたくない」「そんな元気もなければ、煩わしいだけ」という気持ちとが交錯する。
しかしそれらの気持ちを整理し切る前に、来客の姿が視界に入った。
「生まれたか」
「陛下……」
今まで滅多に来なかったくせに。
ロディスの父でありながら、この前ここに来た時にも、まったくと言っていい程興味を示さなかったくせに。
なのに、何故、今……。
感情が奔流し、混乱する。
それでも一つ思い当たるところが浮上してきて、私はチラリとルリゼを見やった。
「私が知らせを頼みました」
平然とした声がそれに応える。
こうなって初めて、私はこのメイドを切り捨てた気でいて、まだ僅かに期待していたのだと気付かされた。
たしかに私は出産前、彼女をこの部屋から追い出す際に「本人が来るなら拒まない」というような主旨の事を言いはした。
しかしそれは、売り言葉に買い言葉。
嫌味だと言い換えてもいい。
彼女にはどうかそれを察して、知らせるなどという事は止めてほしかった。
そう思った自分に、呆れてしまった。
――このメイドはずっとそうじゃない。
私に対しては必要最低限の事しかしない、陛下至上主義。
彼女が一体何を「陛下のためになる」と思ったのかは分からないけど、彼女がそう思って伝言をしたのだろう事は、ほぼ確実だ。
「呼んでいると聞いた」
「呼んではいません。『来るなら拒む理由はない』と言っただけです」
尖った返しになったのは、歪曲して伝わっていた事実だけが理由ではない。
あれからもう裕に六時間は経つ。
既に出産時の立会いには遅い。
伝え聞いた「呼んでいる」がもし事実だったとして、すべてが終わった今来ても遅すぎる。
どうやらルリゼは、私の態度が不服だったらしい。
平然としていた筈の表情が、僅かに怪訝そうに歪む。
一方、陛下は相変わらず、私自身には関心がないのだろう。
「用事があったのではないのか」
「いえ、何も」
本当は「陛下の通常業務を中断させてまで、わざわざこちらに足を運んでいただくような用事などこの世に存在しないでしょう?」という、皮肉を言ってやりたい程だった。
事実、リリアよりよほど難産で、母子共に危険だったロディスの出産中にも後にも、彼は一度も様子見に来なかった。
私がどんなに懇願しても、だ。
その時にあったのは通常業務だと、ルリゼ自身の口から聞いた。
あの時は健気にも「それでも手紙にて、ロディスの名付けをしてくださった」と喜んだけど、陛下に何の感情も希望も抱かなくなった今、それはただの『親としての怠慢』だとしか思えない。
それでもここで必要以上に陛下を突っぱね、要らぬ反感を買うのは得策ではない。
今の私は、まだ王妃という肩書があればこそ、最低限の防衛力を持つ身。
だから、どんな人間でも利用する。
それが私の、母としての矜持だ。
苦い気持ちと「一刻も早く帰ってほしい」という感情を腹の底に飲み下した。
私の願いとは裏腹に、彼は「そうか」と言い室内を歩き進んでくる。
怖いのか、リリアに指を握られたままのロディスが、空いている方の手でギュッと私の服を握る。
その手の上から手を重ね微笑めば、少し安心したように表情が綻んだ。
「小さいな」
言いながら、陛下がリリアを覗き込む。
ジッと顔を見るものの一向に触れようとはしないのが、何だか厭に気に食わない。
今更触れてほしいとは思わない。
むしろ触れてほしくない。
にも拘らず、「ここまで来てその態度はどうなのか」とか、「普通は我が子に触れたくなるものではないのか」などと思ってしまっている自分がいるのが奇妙だった。
――これも、一種の期待なのかしら。
だとしたら、すべて砕いて捨てたと思っていた筈の期待の欠片を見つけてしまった事になる。
我ながら矛盾しているなと、思わず自嘲が零れてしまう。
そんな私には目もくれず、陛下は短くこう告げた。
「娘か。なら、名前は『リリア』だ」
「はい」
短い言葉に、短い応答。
それで陛下は満足したようだ。
用事は済んだと言わんばかりに、部屋を後にしていった。
結局何がしたかったのか。
名前なんてロディスの時と同じように、人伝にすればいいというのに。
時戻り前のロディスと同じく、顔も見ずに決めた名と同じ名を付けた。
それを知っているから猶の事、今の一幕の必要性がまったく分からない。
ただの私への嫌がらせだ、とさえ思っている私の隣で、ロディスが「変なの」と呟いた。
「リリアは、最初から『リリア』だったもん」
その声にどこか不満げな色が混ざっていた事は、おそらくその小さな呟きが聞こえた私だけが知る事だ。
フッと、いつの間にか強く握っていた手の力が抜けた。
そう、リリアはもっとずっと前から『リリア』だった。
私が時戻り前のリリアの名を教えたから、『リリア』は陛下が無機質に付けた名前ではなく、私たちが先に呼び始めた名になった。
ふと「私たちの名呼びを、ルリゼは報告しなかったのだろうか」と考える。
もしかしたら「私たちがお腹の中の子を何と呼んでいても、それは些事だ」と思い報告を上げていなかったのかもしれないし、私たちが使っている呼び名を聞いて「考える手間が省けた」と言わんばかりに、陛下がそのまま使う事にしたのかもしれない。
もしくはたまたま思い浮かんだ名が今回も『リリア』だったのかもしれなけど、よく考えれば、そんな事はどうでもいい。
リリアは元気に生まれて来てくれて、私たちは今後も、リリアを『リリア』と呼んでいく。
これからはロディスとリリアと三人家族で、人生を歩んでいく事ができる。
「リリア、はやくお兄さまと遊ぼうね」
言いながら、ロディスがリリアの握った指を、嬉しそうに優しく上下させた。
ロディスの瞳は、既に兄を思わせる優しい色を灯している。
時戻り前のいつも二人で手を繋いでいる彼らの姿が脳裏に蘇り、何故かじんわりと涙が滲んだ。
溢れんばかりの感情のままに、腕の中にリリアとロディスを同時に閉じ込める。
ギュッと抱きしめた二人からは、温かくて、柔らかくて、いい匂いがした。
ひどく安心した私は、そのまま疲れからくる眠気に引っ張られ、ゆっくりと幸せな夢に落ちていった。




