第34話 産気
時戻り前に私がリリアを生んだ日まで、あと約半月。
ロッキングチェアに座って庭で遊ぶロディスを眺めながら、紅茶を飲んでいた。
外にはロディスとアンがいる。
ロディスの家庭教師ではあるけど私付きのメイドでもある彼女は、今はロディスの追いかけっこの鬼役を務めているのだが。
「はぁ、はぁ、ま、待ってくださぁーい……ふべしっ」
走ってヘロヘロになっているかと思えば、何もない芝生で躓いて転んで顔から地面に着地した。
アンが来て数日経ったけど、その数日で彼女の運動神経がかなり悪い事は、この目で見て実感し通しだ。
仕事ができない訳ではない。
メイドの仕事はそれなりに熟すし、何より楽しそうにこなしているので、おそらく天職の部類に入ると思う。
それでも尚、こうしてたまにドジを踏む。
あの時階段からダイナミックに転がり落ちたけど、アレは「急に後ろから押されたから」という理由だけでは、おそらくなかったのだろうと思う。
ヘロヘロになりながら追いかけてくるアンから嬉々として逃げていたロディスだったが、転んだ彼女を見て走り寄り、小さな手を差し出し「大丈夫?」を眉尻を下げる。
アンも「はい……」と言いながらその手を取り立ち上がっている辺り、萎縮せず、かといって邪険にするような事もないのだろう。
アンとロディスとの相性が悪いとは最初から思っていなかったけど、予想以上にうまくやっているようで、私としてもホッとした。
やはりアンを引き抜いてきて正解だったな、なんて改めて思う。
実はアンの異動については、後宮を管理するメイド長から「勝手な事をするのは止めていただきたい」という意訳の言葉を一度言われた。
このメイド長の事は、知っている。
時戻り前は殆ど眼中に入っていなかった人だけど、今思えば彼女も間接的な加害者であり、職務怠慢の人だった。
たとえば、後宮内で行われていた数々の嫌がらせ――私たちだけの行動範囲になり得るところの掃除をサボったり、物を隠したり。
生花を新しい物に入れ替えなかったりという、側妃に命じられたメイドたちの所業に、目を瞑っていた。
……いや、事実として彼女が気付いていたのか、気付かなかったのかは分からない。
しかし前者なら『仕事をしないメイドたちを、取り纏めの身でありながら咎めない怠慢』があったのだろうし、後者なら『メイドたちの仕事をの監督不行き届きという怠慢』があったのは間違いない。
それらの嫌がらせで私たちが命を直接的に脅かされた事はなかったけど、嫌がらせについて一度だけ相談した際に、キッパリ「そのような嫌がらせを、私の統制下にあるメイドがしている事実はありません」と言われた。
だから彼女は、信用ならない。
為人も、仕事も。
そんな相手にだから、躊躇なく言えた。
「後宮内の選定を含む人事権は、そもそも後宮を管理する役割を担う正妃が持つべき物であり、今回に先立ち陛下にもきちんとお伺いを立て許可を得ています。それに異議を唱えるのなら、陛下に直接申し立てしなさい」
彼女が自分の仕事にプライドを持ち、そんな仕事場を荒らされた事に怒りを抱いているのなら未だしも、彼女は絶対にそうではない。
だから彼女の言葉を突っぱねる事に、まったく心は痛まない。
結局、その後に告げたあの側妃のメイド――階上にいたメイドが私を騙った事に対する後宮メイドの、解雇処分に関する事諸共、あの場でそれ以上の反論が出る事はなかった。
お陰で今こうして私付きとして、アンの異動は滞りなく成立している。
「穏やかな日々なのは、いい事ね。リリア」
お腹をさすりながら、娘に話しかける。
答えるように、胎動の気配が返ってきた。
今日も元気にお転婆している彼女の様子が、微笑ましい。
さて。
私の周りには今、アンという時戻り前の因果がない人がいるけれど、他にも人は欲しいところである。
先程からずっと後ろで静かに控えている『陛下の目』は頭数から除いて、可能であれば側仕えのメイドがあと一人と、信用のおける騎士。
今後の事を考えれば、文官も一人欲しいところだ。
その中で、私が今すぐに当たりを付けられる人間といえば……彼だろうか。
時戻り前、私の下を一度だけ、訪れた事がある文官。
その時の私は既に力も削がれ、そうでなくても陛下に『家族』の愛を求める事に一杯一杯だった。
そのせいで、王城の財政を嘆き改善しなければと動きたかった彼の言葉など大して耳にも入らなかったけど。
今思えば、彼は正義の人だった。
頭はやや固いものの、その分清廉潔白で実直な人だった。
その人なら、私がこれからやりたい事にも協力してくれそうな気がしている。
時戻り前の私が彼と初めて会ったのは、たしかリリアが一歳になる頃だっただろうか。
もう少し先の話だけど、それは「彼が私を訪ねたのはいつか」という話だ。
私の方から彼に会いに行く事は、誰にも止められない筈である。
あの時は、過去に一度上司の不正を見つけて指摘した事で上司から嫌われ、理不尽にも城内の閑職に追いやられた後だったと思うけど、今はどうしているだろ――ジワリ、と股下に違和感が生まれた。
え、と思っていると、今度はすぐに下腹部辺りにキューッと痛みが生まれる。
「っい……!」
痛い。
ロッキングチェアで楽にしていた体を、思わず前のめりにするくらいには劇的な痛みが、私を襲う。
近くに置いてあったテーブルの上のティーカップが、カチャンと音を立てて落ちた。
その音に気が付いたアンたちが、こちらを見て顔を青くする。
「王妃様?!」
「お母さま!」
走ってくる二人、後ろから肩に添えた手の正体は、おそらく『陛下の目』のメイドだろう。
「あわわわわわわわ! 王妃様!!」
「王妃様、陣痛が始まったのでしょう。ベッドに横になってください。すぐに医者を呼んできますので」
この時ばかりは、冷静な『陛下の目』のメイド――ルリゼに感謝の念が生まれた。
一方ロディスが隣にやってきて、小さな両手で私の手をキュッと握りしめる。
「お母さま! リリア、お母さまの事、食べちゃわないよね?!」
「えっ?!」
涙目の彼に意表を突かれて、ほんの一瞬痛みを忘れた。




