第32話 目的の獲得
私の言葉に、アンは言葉を詰まらせる。
その姿を見て、安心した。
彼女は目の前に降ってきた安易な甘言に、考えなく縋りつくような人ではないのだと。
「……洗濯場兼掃除のメイドお仕事は、とても好きです。やりがいもあると思っています。何よりも、家族に仕送りをしなければならないんです。だから職が無くなると、途方に暮れるしかありません」
応えているようで答えになっていない彼女の返答には、明らかな葛藤が見て取れた。
おそらく彼女は、「仕事がなくなっては困るけど、今の場所に居続けるという事は、階上のメイドから虐められ続ける事になる。そうなれば、長期的に仕事をする事は望めない」と、きちんと理解しているのだろう。
実際に、時戻り前にした調べによれば、階上のメイドは伯爵家の出だ。
側妃に重用されるメイドであればこそメイドになる事を許容したような人間で、そもそも側妃が妃に上がる時に、声を掛けられてメイドになった経歴の持ち主である。
元々の高飛車な性格も相まって、『側妃のメイド』という立場を使い、後宮内でも好き勝手にしていたらしかった。
今後は未だしもこれまでは、少なくとも時戻り前の調べと酷似した日々を送っていたに違いない。
他のメイドと、自分は違う。
自分は特別で、後宮メイドの中では頂点。
そんな内心をひた隠す必要を、彼女はまったく感じていない。
そんな彼女が、自分と同じメイド服を着て仕事をし楽しく充実した生活を送っている平民の存在を、嫌わない理由はないだろう。
その上、だ。
今回、私がアンをかばった。
そのついでに彼女の言葉の上げ足を取った。
自分の顔に泥を塗られたも同然の彼女は、実際にそれをした私ではなく、こうなった原因の一端を作った……というふうに歪曲した解釈をし、アンに一層つらく当たるだろう。
私に直接、嫌がらせができないから。
しようとしても、まだ私が自分の後ろ盾である側妃より、立場上の権力を持っているから。
だからその分苛立ちは、立場的に弱いアンに向かう。
アンとしては、今までの何倍もの虐めに身を晒す事になる将来に、不安を抱かずにいられない。
意図して作り上げた構図ではないけれど、結果として現状はそうなってしまう。
ならば。
「貴女を助けたい。家族のために真面目に楽しく仕事をする才能を持ち、状況を正確に判断し自分の頭で物事を考えられる貴女を。だから」
彼女の不安を払しょくするように、さも慈愛に満ちたような言葉をアンに向ける。
他の勢力の手垢がついていない、私を裏切らない側仕え。
私が欲しかったのはソレである。
しかしそのためには、人の好さと自分で考える頭を持ち合わせている必要がある事は、嘘じゃない。
候補ではあったけど、適任とするには若干、情報が足りていなかったアン。
しかし今回話をしてみて、私は彼女を信じてみたいと思い至った。
子どもたちの傍にいてくれる大人は、彼女のような人がいい。
そう思ったから。
「貴女には、私の側付きになってもらう事にするわ」
「えっ?!」
声を上げたのはアンだったけど、側妃付きのメイドも驚いていた。
ついでに後ろに控えていた、陛下の目のメイドも驚いている。
そんな中、慌てたように、少し怒ったように声を荒げたのは階上にいる側妃付きのメイドの方だ。
「こんな平民を正妃様付きに取り立てるなんて!」
「私付きのメイドを私が選んで、一体何が悪いというの?」
「しかしこの女は、必ず正妃様に粗相をします!」
「そうだとして、私とこの子の間の問題でしょう? 貴女にとやかく言われる筋合いはないと思うのだけど」
敢えてキョトンとした顔を作れば、相手はギリッと奥歯を噛み締めた。
彼女の感情が、まるで手に取るように分かる。
彼女は嫌なのだ。
『妃付き』という同じ地位の仕事に、平民の、しかも自分が散々馬鹿にして虐めてきた人間が就くのが。
……いや、思えば正妃付きと、側妃付き。
時戻り前とは違って私の地位が下がっていない以上、アンの方が対外的には地位の高い職に就く事になるのか。
だとしたら猶の事このメイドは、現状を許容できやしない。
きっと一生、
ほんの少しだけど、時戻り前から積もっていた怒りや恨みの感情の間を、爽やかな風が一陣、通り過ぎたような感覚に――。
「お母さま」
「ん? どうしたの? ロディス」
私を暗い感情から引き戻すのは、いつだって愛する家族たちだ。
ロディスの声に応えて彼を見れば、無垢な瞳がまっすぐにこちらを見て聞いてくる。
「この人、お母さまのメイドになるの?」
「えぇ、今日からね。きっとロディスと遊んでくれる、優しくていい子だと思うわ」
「そっか!」
ロディスはパァッと表情を輝かせると、私と繋いでいた手を離した。
彼がトトトッと走っていく先は、アンのところだ。
ロディスはまだ花瓶の破片の前で座り込んでいるアンの前で立ち止まり、小さなその手を差し伸べる。
「俺はロディス。お母さまのむすこだよ。これから、よろしくね!」
ロディスを見上げたアンの目が、突然の私からの申し出に驚いた後に残っていた戸惑いや不安、躊躇から解き放たれて、キラリと光った。
彼女の胸の内に蔓延る負の感情が、ロディスの笑顔にすべて洗われたように、私には見えた。
しかしそれも、当たり前だ。
なんせ私の愛する子は、無垢な穢れなき善。
私のように思惑があっての事ではなく、ただただ彼女を歓迎している。
眩しい程にまっすぐで、嘘のない感情を向けてくれている子なのだから。
「? もしかして、ケガしちゃって立てない?」
「い、いえ! 大丈夫です!!」
不安そうに表情を曇らせたロディスに、慌てて飛び上がるアンからも素直さと善性が見て取れる。
「アンと申します! こちらこそよろしくお願いします!!」
彼女はロディスの手を、優しく取った。
彼を支えにして立ち上がり、転ばせるような事などないように。
そういう心遣いが見えるような、気を付けた立ち上がり方をアンがする。
ロディスは満面の笑みで「よかった!」と言って、そのまま彼女の手を引いてこちらに向かってやってきた。




