7.お父さんの忘れ物
今日から店頭でもヘルメスパンを販売することになった。学校での評判もいいし、うちに直に買いに来る学生さんも増えたからね。具材を作るお母さんの仕事が増えたけど、その辺りは私とカールが手伝うからなんとか大丈夫。
開店を知らせる鐘を鳴らすと、やっぱり一番客はビクターさんだった。
「おはようございます。今日は新商品があるんですよ」
「そうか」
新商品を出す度に伝えているんだけど、今までビクターセットに変化はなかった。ちょっと寂しいような、定番を愛し続けてくれて嬉しいような複雑な気分。
ビクターさんと一緒に店内に入り、私はそのままカウンターに入る。お母さんが早くもビクターセットを準備して待ち構えていた。
いつも早く注文が来るのに、今日はなんだかショーケースに目が釘付けになっている。珍しい。
新しいお客さんが入ってきた音で、ビクターさんがやっと動き出した。
「クロワッサンとバタール……それと、ヘルメスパンをくれ」
おっ!おおっ!聞き間違いじゃないよね。
あのビクターさんが。何度進めても同じ物しか買わなかったビクターさんが。新メニューを!?しかもヘルメスパンを!?
驚いてお母さんを見ると、さすが歴戦の店員だけあって即座に笑顔になり紙袋にヘルメスパンを追加で入れた。
「ありがとうございました」
真っ黒な後ろ姿を見送り、この興奮をお母さんと話したいけどお客さんが次々とやってくる。朝は忙しいのだ。
この嬉しさは言葉では伝えきれない。いつもより二割り増しの笑顔で接客した。
「おはよーさん。おっ、これが新商品か。ロッテの一押しだから、二つくれ。それとハムサンドな」
「ティムさんありがとう。すっごく美味しいから期待してね」
昨日宣伝したおかげでティムさんや他のお客さんにも買ってもらえた。学校に知り合いがいる人も「これか」という表情で買ってくれ、新商品のヘルメスパンはあっという間に完売したのだった。
学校帰りの学生さん向けに夕方にも販売するよ。
「お母さん!」
「ロッテ!」
朝の忙しい時間が過ぎ、店内のお客さんが途切れた瞬間。私とお母さんはハイタッチをして喜んだ。
「ビックリしたね」
「そうね。ビクターさんもだけど、こんなに早く完売するなんてね。学校効果かしら」
「うんうん。すっごく嬉しい。……でも、流石に明日はビクターセットから外されるかな」
お試しの可能性も高い。いや、気に入らないはずなんてないと思うけど、万がいち、億兆にひとつってこともあり得る。それだけビクターさんはストイックに注文を変えてこなかったのだ。
「なに言ってんの。新ヘルメスパンよ?買うに決まってるでしょう」
お母さんは自信満々にあははと笑って「早く厨房にお行き」と送り出してくれた。
厨房でヘルメスパンが完売だと伝えると、お父さんは「そうか」とだけ言ってパン作りをし、ダンさんは「やったな」とサムズアップしてくれた。
店頭用のヘルメスパンは、カフェのものより濃い味付けでお肉を増量している。うちのお客さんにはティムさんみたいに力仕事の人も多いからね、お腹に溜まるようにしたの。その代わりお値段は学校よりも少し高め。
お母さんの予言通り、翌日からビクターセットに新ヘルメスパンが追加されたのは言うまでもない。
お使いから戻る途中で、店の前から立ち去る人を見た。ピンクの髪だったから、あのお姉さんだと思って急いでみたけど追いつくことはできなかった。本当に足が速いお姉さんだ。
店頭で販売したのを誰かから聞いたのかな。同じヘルメスパンでがっかりしちゃったかな。ごめんね。まだ道具ができてないけど、近いうちに気にせずに食べられるようになるからね。
今度見つけたらちゃんと伝えよう。
あんなに頻繁に通ってくれているんだもん。がっかりさせたくないよね。グレゴールさん頑張って作ってね!
東の方向へ心の中でエールを送ってみる。少しでも早く完成しますように。
店のヘルメスパンも人気が出ている。学校帰りの学生さんも寄ってくれるけれど、買っていくのは殆どが男の人ばかりだ。やっぱり可愛さかな。お店のはガッツリ系だから益々女子受けはしないもんね。仕方ない。
そんなある日。学校へ配達に行ったお父さんが忘れ物をした。それも学校の通用門を行き来する通行証を、だ。
慌ててダンさんに伝えて、私が後を追いかけることになった。ダンさんにはパン作りしてもらわなきゃならないし、今からなら学校に着くまでに間に合うかもしれない。
とにかく走った。通行証は落とさないように首にかけてさらに服の中にしまった。
とことん走って、走って、学校の時計台が大きく見えたらあと少しだと力を振り絞って坂道を駆け上がった。
おかげで、通用門の手前でお父さんに追いついた。
走ってる音に気がついて後ろを振り返ったお父さんが驚いて立ち止まってくれた。
「……お、と……さ………」
息が切れて声が出ない代わりに服の中から通行証を引っ張りだした。
「忘れてたのか。ありがとう、助かったよ」
お礼に頭を撫でてくれた。おっきな手に頬が緩む。役に立てたかな。
「疲れただろ。一緒に行くか」
滅多にない誘いにぶんぶんと頭を縦に振る。昔、一度だけ付いて来たことがあるけれど、まだパン職人を目指す前の子どもだったからそんなに覚えていない。
運転席の横に乗せてくれて、ドキドキしながら学校までの道のりを楽しんだ。
配達用の台車は、バスの運転台と荷台をくっつけた形をしている。バスの運転台よりも小型だから大人の男の人二人だと窮屈に感じるかもしれないが私とお父さんなら余裕だ。
本当、魔道具ってどういう理屈で動いてるんだろうね。
こういう便利な道具を考えたり作ったりする人たちがこの学校にいたりするんだよね。すごいよね。
そういえば、夢で見た空飛ぶ乗り物ってここにはないなぁ。ああいうのもいつか作って乗れるようになるんだろうか。
鳥みたいに?なんだか楽しそう。
「おや、ヘルマン。今日は可愛い連れがいるじゃないか」
「娘だ。忘れ物を届けてくれてね。一緒に入っていいか?」
「構わんさ。ちょっと待ってくれ。臨時の通行証を渡すから帰る前に証明もらってきてくれ。最近は上がなんだかんだとうるさくてな」
気の良い門番のおじさんにお礼を伝えて、もらった臨時通行証を首にかける。なんか大人になった気がする。
「大人しくしてるんだぞ」
「大丈夫。ちゃんとお手伝いするから」
配達のお手伝いをするついでに、カフェの雰囲気も見てみたい。そしたら、雰囲気に合わせたパンを提供できるかもしれないでしょ。
…………って、ダメダメ。基本から、基本大事。…………でも、案だけ書くのはいいよね。うん。ちゃんとパン作りするけど、忘れないように書き留めるだけだからね。
ヴィムティエ校は広い敷地の中に専門分野を勉強する建物の他にも様々な施設がある。その施設のひとつが食事処で、レストランみたいな食堂とカフェとコーヒーショップがある。うちがパンを卸しているのはカフェのほう。惣菜パンとか焼き菓子とかね。
食堂には専用のパン職人がいて毎回焼きたてを提供しているので、残念だけど参入は難しい。焼きたてパンは魅力的だもんね。香ばしい匂いに外はカリッと中はフワッとを一番体感できるんだもん。
いいもん。うちのパンは冷めても美味しいんだから。
ヘルメスパンだって人気だし、パン・ド・ミーを使った焼き立てサンドも人気って聞いたもん。
通用門からカフェの裏口までは、建物の裏側を通るような道順なのであまり学生らしき人は見なかった。ちょっと残念なような気持ちで赤煉瓦の建物に到着した。
お父さんが裏口の呼び鈴を鳴らすと、綺麗なお姉さんが出てきてくれた。赤身の強い赤茶色の髪をポニーテールに結い上げていて、キリッとしたお仕事ができそうな雰囲気の人だった。
お父さんが経緯を説明すると「いい娘さんね」と笑って臨時通行証にサインをしてくれた。
「私はエレシア。ここの店長です。よろしくねロッテ」
店長さんなんだ。本当にお仕事ができるお姉さんだった。
軽く挨拶をして、荷台からパンたちが入った箱を抱えて厨房へ入れていく。手の空いてる店員さんたちが手伝ってくれるので作業はあっという間に終わってしまった。
「あの、店長さん」
「なにかしら?」
「ちょっとだけカフェの様子を見てもいいですか?どんな場所で食べるのか知りたくて」
ダメ元でお願いしてみると、エレシアさんは笑って快諾してくれた。やった。言ってみるもんだね。
「まだ開店前だけど、何人か席でくつろいでる人はいるから静かにね」
「はい」
注意事項に頷いて、エレシアさんの後に続いて厨房の扉からそっと出る。
カフェは基本的にうちの店と似た感じだった。ショーケースがあって、レジがある。違うのは、背後にメニュー表が掛けられていて注文が見やすくなっている。カウンターの向こう側は全く違う。開放的な室内に、明るい木目のテーブルと椅子が広い間隔で並び、真ん中には見上げるような大きな木が植っている。先端が二階部分まで届いているほどで、吹き抜けじゃなければ大変なことになっていたと思う。
「木がある」
「あれは祝福の木って呼ばれるシンボルツリーなのよ」
何がどうして祝福なのかは分からない。青々とした木には実も花もないけれど、なんとなく神秘的な感じがした。
エレシアさんにお礼を言って厨房に戻る時、視界の端にピンクの髪が見えた気がしたけれど、もう一度見る前に扉は閉まってしまった。
もしかしてピンクのお姉さんかな。ここの学生さんだし、いてもおかしくはない。そもそもピンクの髪だからって違う人かもしれないし。
「迷惑かけなかったか?」
「かけてないよ。静かにしてたもん」
「ええ。本当にいい子でしたよ」
お父さんとお礼を告げて裏口を出ようとしたその時、エレシアさんの驚いた声に私もお父さんも足を止めて振り返った。
「あら、ごめんなさい」
「どうかしたんですか?」
「いえ、店員の子が二人来れなくなったみたいで」
エレシアさんが困ったように教えてくれたが、それを伝えてくれた店員さんは怒りも露わに「もう!」と憤慨していた。
「はなっから来る気がないんですよ。前から態度は悪いし、遅刻は多いし。今回は連絡もなしに休むなんて、二人共ふざけてるわっ」
それは、大変だ。
さっき見た限り、店員さんはエレシアさんを含めて四人。休みの人に応援をお願いするしかないだろうけど、開店時間までに間に合うかどうかだよね。
お父さんをチラリと見上げると目が合った。
「お父さん、夕方まで時間大丈夫?」
カフェはお得意さん。ここは恩を売って……いやいや、困ってる時はお互い様。今後もお世話になる関係だもんね。下心なんてちょっとだけだもん。
「遅くならないならな」
「言ってもピークタイムぐらいでしょ」
「まぁ、店長に聞いてからな」
お父さんから許可いただきました。やっぱり日頃の行いと長年の実績がものを言うよね。
「店長さん、応援の人が来るまで私手伝います」
はいはいと手を挙げると、エレシアさんも他の店員さんも目を丸くして首を横に振る。
「そんなロッテみたいな子どもに手伝ってもらうわけにはいかないわ」
「自慢ですけど、私会計得意ですよ。店のレジ打ちも毎月の棚卸しもできますよ」
自慢なので胸を張って答える。なんだか、みんな小動物を見るような目でこちらを見ていた。
不思議に思った私の頭をお父さんがくしゃりと撫でた。
「本人も言った通り、この子はちゃんとレジ打ちも接客もできます。見習いですが、教えれば調理も一通りこなします。大変なようですし、助っ人が来るまでの繋ぎに使ってやってください」
お父さんが援護してくれたおかげで、エレシアさんが「じゃあ、少しだけお願いするわ」と言ってくれた。
大丈夫。任せて。お手伝いさせたことを後悔なんてさせないよ。
やる気に満ち溢れた私の頭に手を乗せて、お父さんは「しっかりやるんだぞ」と励ましてくれた。もちろん、任せてよ。ちゃんと市場調査して帰るからね。
帰りに迎えに来ると言うお父さんに、陽も高いから一人で帰れると別れを告げ、店長さんに向き直る。
「迷子になったことがあるの?」
別れ際にお父さんが「迷子になるなよ」なんて滅多にない軽口なんて叩くから、店長さんに笑われたじゃない。
「昔の、昔の、子どもの時です。もう迷子になんてなりません」
ちょっと不機嫌に答えると店長さんは「そうね」と優しく笑った。大人気なく八つ当たりしちゃった。反省。働いて挽回するからね。
「レジが得意だと聞いたけれど、うちのレジでも大丈夫かしら?」
さっきのお店のカウンターまで連れてきてくれて、うちのよりも新しいレジを見せてくれた。でも数字の配列は一緒だし、セット単価になってるボタンさえ覚えちゃえば大丈夫。
「大丈夫です」
えーっと、上からAセット、Bセット、Cセットね。で、パンの種類と、飲み物はコーヒー、紅茶が三種類ずつで、あとはお水ね。うん、大丈夫、覚えた。
そのあと、カフェの注文から提供までの流れを教えてもらった。
お客さんはメニュー表を見てカウンターで注文。
店員はレジを打って番号札を渡す。レシートに同じ番号を書いて、後ろの注文ボードに貼り付ける。
お客さんは番号札を持って席へ。
店員は注文ボードの注文を見てセットトレイを作り、同じ番号札の席まで配膳する。
大体の流れはそんな感じ。
各セットは内容が少しだけ違っているけれど、メインのサンドが選べるのはどれも同じ。追加で単品購入ができるし、単品だけならテイクアウトも可能。コーヒーや紅茶はストレートかミルクが選べる。あ、レモンもね。
いつもは厨房とカウンターとフロアに二人ずつ配置してるんだけど、今回は私を入れても一人足りない。
「どこをお手伝いしましょうか?」
「そうね……厨房かカウンターをお願いしたいのだけれど……」
エレシアさんはチラリと私を見て考え込む。
エレシアさんも猫の手を借りたいほど困ってるけど、初めての人にレジ任せるのは不安だよね。
「厨房でお手伝いしましょうか?店ではサンドを作ったりもしているので、最初に教えていただければ大丈夫ですよ」
「じゃあ、お願いしていいかしら。エマ、ロッテに色々教えてあげて」
ホッと安心したエレシアさんが、厨房にいたオレンジ色の髪を肩で切りそろえたエマさんに私を紹介してくれた。
そんなわけで、フロアはエレシアさん、カウンター二人に、厨房は私とエマさんという布陣でランチタイムを迎えることとなった。
さあ!お手伝いと市場調査、頑張るよ!
お読みくださりありがとうございます。
なんとか間に合いました。
乙女ゲームの舞台にやってきましたが、そこも片隅なのです。