1.ブーランジェリー「カリヨン」
おはようございます。
くはぁと大きなあくびをしながら服を着替えて髪を後ろで一括りにする。階段を下りると香ばしいパンの匂いが漂ってきた。美味しそうな匂いににひゃりと顔を緩めて、階段下にある手洗い場で手を入念に洗うついで顔も洗ってしまう。冷たい水に気合いが入る。
「おはよう!」
「はい。おはよう」
階段下の倉庫部屋に置いてあるエプロンとキッチン帽子を身につけて店舗用の扉を開けば、開店準備をしているお母さんがいた。朝の挨拶をして左手にある厨房へ入る。
「おはようございます!」
「おはよう」
挨拶をすればパンを窯に入れていたダンさんが挨拶をしてくれた。パン生地を捏ねているお父さんは手を止めることなく「ああ」と短い返事をしてくれた。
そして、私の朝のお仕事が始まる。
ひと通り終えると、店の前を箒で掃除する。
まだ肌寒いけれど、ひんやりした空気の中を漂う温かいパンの匂いだけで心がポカポカしてくる。見上げれば、春らしい水色の空に薄い雲が浮かんでいた。そして嗅覚を刺激する香ばしいパンの匂い。
春だなぁ。
胸いっぱいに吸い込んだ空気の美味しさに笑顔が溢れる。いい気分で鼻歌を歌いながら店先を綺麗に掃き終え、背伸びしてやっと届くドアプレートを「オープン」に変える。
私の背が低いんじゃなくて、プレートの位置が高いと思うの。でも、ガラスが嵌まった扉は木枠の位置が決まってるから位置を変えられない。私が大きくなるしかないんだよね。
すぐ大きくなってやるんだから、待ってなさいっ。
ふんっと胸を反らして開店したばかりの店を見上げる。
深緑に金文字で描かれた看板はいつ見てもレトロでオシャレだ。左右にある大きなガラス窓には店の名前と開店時間が書かれている文字もインクがちょっと掠れててかわいい。厨房がある右側には焼きたてのパンが手前に並んでいて、その奥ではパンを焼いているお父さんたちの姿も見える。左側の窓からは観葉植物越しに、たくさんのパンが並んだ店内が見える。
お父さんで五代目となるブーランジェリー『カリヨン』。ちょっとレトロで可愛くてオシャレな、私の大好きなお店。
入口の扉近くに設置した鐘の紐を引っ張るとカランカランと可愛い音が鳴る。開店した時と新しくパンが焼けた時に鳴らすんだけど、この役目は私と弟でいつも取り合っている。朝は早起きする私で決定なんだけどね。
「おはよう」
「おはようございますっ。ビクターさん、今日も一番ですよ」
振り向くと常連のビクターさんが立っていた。二年前くらいからほぼ開店と同時にやってくる常連さんだ。
黒髪に黒い目のビクターさんはいつも黒い服を着ている。たまにグレーだったりダークブルーみたいな服を着ているけど、明るい色が嫌いなのかっていうぐらい黒系のシンプルな服が多い。スッキリした顔で、密かに近所のおばちゃんたちに人気なんだよね。確かに、ライ麦パンみたいなカッコよさはある。
いつも黒い服を着ていて、夏は暑くないのかな。汗かいてるところを見たことがないからちゃんと夏用の黒い服なのかも。汗をかかない体質とか?まさかね。
「今日のクロワッサンもとっても美味しく焼けてますよ」
私が自慢げに語ると、無表情が多いビクターさんがふっと目元を和らげて「そうか」と店の中へと入っていった。
ビクターさんはクロワッサンとバタールを毎回買ってくれる。バタールはバケットよりも短くて太いパンで、外側はカリカリで中はモチモチで美味しいよ。料理のお供にもいいけど、具を挟んでサンドにするのもオススメ。
この二つを私とお母さんは密かにビクターセットと呼んでいて開店前にもう袋詰めしてある。
クロワッサンとバケット系は父さんが得意としているパンだから、ビクターさんが好きなのもよく分かる。本当に、めちゃくちゃ美味しいんだから!
ふふんと鼻を鳴らすと大きな手が頭に乗せられた。
「朝から元気がいいな」
「あ、ティムさんおはようございます」
「今日もいい匂いだ。お薦めはあるかい」
「父さんのパンはどれも美味しいですけど、今日はハムサンドがお薦めです」
だって私が手伝ったからね。具材を挟むだけだったけど、私が作ったんだもん。
「そうか、んじゃそれをもらおうかな」
「ありがとうございます!」
ティムさんは大工らしいゴツゴツした手で私の頭をグシャと撫でて店内へと入っていった。
私も店内に戻ると、すぐに朝ごはんを買いにお客さんが増えてきた。
年代を感じる木の艶がある店内は、正面に惣菜パンなどをたくさん並べたガラスケースがあり、奥の棚には保存のきくバケットやブールやカンパーニュを並べている。このパンたちを美味しく見せているのが、温かみのある色をした吊り下げ照明と店内に満ちたパンの匂いだ。
ふはぁ。幸せ空間。
「ブールとエピを二つずつちょうだい」
「はーい。エピはプレーンでいいですか?」
「ええ、お願いね」
エピというのは、形が麦の穂みたいになっているパンでベーコンやチーズを入れたものもあるけど、うちでは何も入れていないプレーンが人気。
うちはお客さんが選んで取る形式じゃなくて、お客さんの注文を聞いて店員が袋に詰めて会計をする形式。これはうちだけじゃなくて、ほとんどのお店がそうなっている。治安が良いと言っても泥棒や強盗がいないわけじゃないからね。自衛は大事。
店員といっても家族経営だから、売り場は私とお母さんだけ。日中は弟のカールも手伝わせるよ。あ、パン職人のダンさんは私が生まれた頃からいるので家族同然なの。
カウンター内に入って、お客さんの注文を聞いてパンを袋に詰めていく。
ビクターさんはクロワッサンとバタールを買って行ったらしい。服もパンもブレない一本気なビクターさん。
ティムさんは宣言通りハムサンドとカンパーニュを買ってくれたみたい。紙袋をひょいと上げてちゃめっ気たっぷりにウィンクしてお店を出ていった。
朝ごはんを買いに来た第一陣が落ち着き店内が広く感じた時、ドアベルと共にやってきたのは疲れ切った顔をしたマリアちゃんだった。
「いらっしゃいませっ」
「…………ロッテは朝から元気ね」
「はいっ。ありがとうございます」
顔を顰めてる原因は飲み過ぎで頭が痛いせいだと知っているから、不機嫌な態度を取られても気にならない。
「褒めてないわよ」
笑顔を返すとバツが悪かったのか小さく呟いてパンのほうへと向き直る。選んだのはチェリーパイと砂糖がけのデニッシュ。甘いもの好きなんだろうけど、ご飯にはむかないと思うんだよね。ちゃんとお肉とかお野菜食べないと元気にならないんだよ。お母さんがよく言ってるんだから。
「マリアちゃん。これ私が作ったから食べてね。はい、飴もあげる。せっかくの美声が台無しだよ」
店を出たマリアちゃんを追いかけて、ちょっと失敗したハムサンドと蜂蜜飴を渡した。
マリアちゃんは渡された紙袋を見て、「んもぉ」と可愛くほおを膨らませた。
「このいい子ちゃんめぇ!!」
マリアちゃんはわたしを正面からギュッと抱きしめると頬を合わせてグリグリと首を振った。うっすらと伸びた髭がちょっと痛い。
「ありがと。はい、追加料金」
「これ失敗したパンだからお代はいいよ。代わりに食べた感想を聞かせて」
「んもう。それじゃ私の気が済まないの。ダメならお小遣いにしちゃいなさい」
そう言ってお金を手に握らせるとマリアちゃんは紙袋をふたつ持って歩き出した。
「お酒、飲みすぎちゃダメだよ〜」
「今夜は気をつけるわぁ」
ゆったりと歩く背中に注意すれば、頼りない返事と共に手を振ってくれた。危なっかしいようで歩調に乱れはない。
うーん、今日も飲むのはやめないんだ。明日もお惣菜パンと蜂蜜飴を用意しておかなきゃ。
マリアちゃんは、夜のお店で歌を歌っている人。マリア・ルートヴィカという名前なので、マリアちゃんって呼んでる。本名は知らない。
男の人だけど、女の人の格好をしている。でも、綺麗でかっこいい人だと思う。
昔、ちょっとだけマリアちゃんの歌を聴いたことがある。綺麗なハイトーンボイスで切ない歌を歌っていた。あれは恋の歌だと思う。比喩が多くて分かりづらかったけど雰囲気からなんとなくそう思った。
マリアちゃんを見送って、商品の補充をしていると徐々にお昼のパンを買いにくるお客さんが増えてきた。
「ロッテ、配達に行ってちょうだい」
「はーい」
ご近所のお店なんかに配達に行くのも私の仕事。紙袋を手持ち篭に入れて、いざ出発。
こうして、私の一日は焼きたてのパンの香りで始まる。
この異世界で、私は今日も元気に働いている。
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