彼女の超能力 〜或いは魔法、または刷り込み〜
彼はちょっとした不満を抱えていた。ずっともやもやしていた。
「この差は一体なんなんだろう」
時には昼下りの公園の木陰で、時には夜のリビングのソファの傍で、真剣に考え、長い間黙考することがある。しかし、未だに回答を導き出す事ができていない。
その問題に気づいたのは一年前。思い返すと、その問題が起こり始めたのは二年前のあの日からなのだろう。今思い返すと、であって、当時は微かな違和感があったものの、問題とまでは思わなかった。
厳密にいうと、『問題』とまではいかない。ちょっぴり嫉妬心が芽生えることはあるが、著しい実害があるわけでもなく、損害を被るわけでもない。ただ、疑問なのだ。解けないパズルを放置するのが嫌なのだ。理解できないということが不満なのだ。とにかく純粋に、知りたいという、それだけなのだ。
彼は腕に乗せた頭を徐に上げて、真っ黒な丸い瞳でテーブルの上を眺めた。
「何? かまって欲しいの?」
テーブルの上の彼女は、彼の視線に気付き、眠たそうな声色で声をかけた。
彼女なら、彼の求める答えを持っているのだろうか。そうかもしれない。一年もの間、ずっと考えてきて、ずっともやもやしていたその気持ちがスッキリするかもしれない。
けれど、彼が聞きたくないと思っている言葉を聞かされるかもしれないという恐怖はあった。世の中には、知らない方がいいということもある。自ら斬られに行く必要はないのだ。
口を開く前に、しばし逡巡する。
「なんかさ、君ってお母さんに優しくされてるなあ、って思ってさ」
本当は『依怙贔屓』という言葉が脳裏を掠めたが、彼女が気分を害すのではないかという危惧から、表現を和らげた。臆病者と思われるのは不本意だったが、彼は仲良し家族でいることが何よりも好きだった。
「優しくされてる? 当然だけど、それがどうしたの?」
彼女は耳をピクつかせて、しばらくじっと彼を見つめた。それもすぐに飽きたのか、大きな欠伸をひとつした。まるで世界を飲み込まんばかりの大きな口の中に小さな牙が見えて、彼は自分の牙と比べて小さいそれが、一体なんの役に立つのかと不思議に思った。
当然、と答えたのも彼女らしい。傲慢であるようにも思えるが、言い換えれば自信の現れだ。彼も自信がないわけではないが、彼女の揺るぎなさの前に出ると、時になぜか居心地の悪さを感じてしまう。半ば閉じて投げかける視線は、迫力に満ちている。
「なんかさ、その、例えば」
彼は小さく一つ咳払いのように短く唸った。
日替わりで出されるおやつの中でも、その日のおやつは彼の大好物だった。健康のためということらしく、普段の食事量も調整されている。もう少し食べたいな、と食後に思うのが常だった。食事がそうなのだから、おやつが満腹になるまで出てくることがないとわかっている。わかっていても、やはりもう少し食べたいのが心情、素直な欲求だ。しかし、いつもよりしつこく強請ってみても、効き目はなし。随分長い間未練たっぷりにお母さんをまっすぐ見つめてみても、状況は変わらなかった。
ちょっと残念に思いながら、リビングのソファの上で寛いでいると、今度は彼女がキッチンでおやつをもらっているのが目に入った。もちろん、もっと欲しいと思っていた彼だが、横たわったソファから身を起こすことはしない。以前にお裾分けをしてもらおうとした時に、手ひどく彼女に叱られたことがあった。それ以来、彼女の食事もおやつも、決してちょっかいを出さないと決めていた。彼女が機嫌を損ねると、家族の空気は重くなる。彼は仲良し家族が大切なのだ。
空になったお皿から顔をあげた彼女の目が、容器を棚にしまって振り返ったお母さんの目と合った。彼女はお母さんを見つめたまま、少しだけ口を開けたが、声は出ていなかった。彼女がじっとお母さんの目を見つめ続けていると、お母さんはわざとらしくため息をついて、再び容器を棚から取り出した。ため息とは裏腹に、お母さんは嬉しそうに笑っていた。
それがもう一度繰り返され、彼女のお皿はまんまと三回も満たされた。彼のお皿が満たされるのは一度きり。一体何故?
「そんなの、当然でしょ」
彼女はまたその単語を繰り返した。
「あたしたちって、そういう能力があるの」
「それって……、お母さんがよくいう『そんな目』でみるってこと? それなら僕もやることあるけど」
彼女はその言葉を聞いてクスクスと笑い、片手をヒョイと上げて顔をふたこすりした。
「だから、あたしたちはそういう力があるんだってば。つまり、あんたの言うように、『そんな目』でお母さんを見上げるでしょ。それは一緒」
彼は彼女の一言一句に興味深げに耳を傾け、次の言葉を辛抱強く待った。演出なのか、それとも彼女の意地の悪い性格なのか、タップりと間を開け、彼が焦れている様子を楽しんでいるようだった。
「そして、念じるのよ。『こうしなさい』って。それが撫でなさい、とか、遊びなさい、とか、どんなことでも同じなんだけど」
「念じるって、つまり思うことだよね。僕だって思うよ、撫でてよって」
なんとも物わかりが悪い、と不満げに一瞬彼女が目を細めた。
「だから、能力があるって言ってるの。あたしがそう思ったら、お母さんは、自分でも知らないうちに、あたしの指示に従ってるの。あたしがそうするように思わせてるの。撫でるとか遊ぶとか」
彼には指示するという感覚が上手く掴めなかった。全く経験がない。お母さんに指示するの? お母さんが指示するんじゃないの?
彼女はまた一つ大きな欠伸をした。
「それが能力。指示をして、それに従うことが喜びであるということを感じさせるの。直接脳に働きかけるって言うか。超能力、或は魔法って言えばわかりやすい? あたしにも太古の昔からのそうした猫族の能力が備わっていて、お母さんにも人間が太古の昔から猫に従っていたという記憶が受け継がれているのよ。刷り込みっていうの? 簡単な話」
彼女は、彼よりも生まれは遅い、まだ二歳。つまり年下だ。その彼女に『太古の昔』と言われても何か釈然としないものがあった。けれど、彼女の機嫌を損ねると、場の空気が凍りつくのがはっきりとわかる。彼は仲良し家族が何よりも大切。なので不満を表すのは謹んだ。
「それって、僕もできるのかな」
「犬族には無理ね。そもそもあたしたちみたいな能力は持ってない上に、人間に〝食事をもらう〟生き方を選んだ時から、その能力の獲得は放棄しているんだもの。猫族にとって、食事はもらうものではなく、〝提供させる〟もの。そこが違うのよ」
彼女は大きく目を見開いて、真剣な眼差しを向けていた。
彼はまた考え込んでしまった。彼女の言葉を整理する。彼女が贔屓されているわけではなく、彼が恐れていた、彼女の方が彼より可愛がられている、と言う言葉も出てこなかったことはほっとした。何故、彼を悩ませるような事象があるかといえば、彼女の言う所による能力をもってことを自分の都合の良いように動かしているからであると言うことになる。超能力、或は魔法、又は刷り込み。成る程。
しかし、その力が使えるようになったら、もっと得るものがあるのだろうか。彼女曰く、犬族にはできないこと。そもそも望んでも詮無いことなら、そんな思いも無駄た。無駄なことをしてもお腹が膨れることもなければ、楽しい気分になることもない。
結論とするなら、美味しいご飯がもらえてお腹は満ちるし、遊んでもらって楽しいし、そして家族は仲良し。傲慢と思える彼女も、彼を蔑ろにすることもない。不満になるポイントはない。彼は生来、前向きなのだ。
彼はすっかり満足して考えるのを停止した。
「ちょろいもんね」と彼女がこっそりほくそ笑んだことを、彼は知らない。
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