日本という国の中で自分を貫くのは難しい
出る杭は打たれる、使い古された言葉である。この文言の意味は見てそのまま、出る杭は打たれる、転じて周囲と違った行動、見た目をした人間というものはその人間に内在、外在の原因により周囲に溶け込むように是正されてしまうという意味である。
その是正の手段は様々である。それは教育であったりはたまた暴力的な手段であったりするがその目的は一つなのである。
人間がまず、その周囲への同調に向けた洗礼を受けるのはおそらくはその両親の元でであろう。親というものは原則的には自分の子どもに正常に、それも社会生活に馴染めるように教育したいと願っているからである。原則的に、と記述したのは、例えば幼児期に我が子に他人とは異なる点があるということが判明したとき、その親はいわゆる通常の教育はしないからである。その例外を除いては、親というものはやはり定型的な発達を望むのであり、社会に順応していけるような我が子が育ってほしいと望んでいるものなのである。
やがて、小学校に通学するようになり、人間の行動範囲は少し広がる。しかしその中でも、周囲との同調に向けた洗礼は続く。小学校という場所は、複数名が共同生活をする場であるわけであり、その場所での共同生活を通して周辺人物との関わり合いだったりだとかを学ぶ場なのである。周囲と強調するためには個性を殺し、周りに合わせる必要がある。例えば、国語の中では習っていない漢字を作文中で使ったら、評価が下がったり、数学でも習っていない定理などを持ち出して問題に回答してしまえば、たとえその問題の答えが正当であっても誤答とされてしまうのである。これは、その時周囲で学んでいる内容と乖離が生じてしまえば周囲との共同生活ができなくなってしまうからであり、その環境に慣れた子どもというのはそのあとでも個性を出そうとするのを嫌うものだ。
こういった教育があるからこそ、現代日本では出る杭は打たれるという言葉が成立するのだ。実際、諸外国においては出る杭は打たれるということはあるものの、そもそも出る杭が多すぎていて、出ない杭のほうが逆に目立ってしまっている。つまり、日本と全く逆の構図になっているわけだ。だから諸外国のいわゆる天才と呼ばれる人たちは常人よりとある分野で抜きん出ていたりするわけなのだが、普通であることを良しとしている日本でそのような天才が出てくる可能性は諸外国に対しかなり低い。
普通であることを良しとする社会、私はこの社会が変わっていくことを切に願っている。