3、現代人にとっての「死」
翌日、葬儀の後、斎場に向かう。
斎場など普段いかない所なので、これにも興味があった。
聞いた話で、現物を手に入れられていないのであるが、斎場の建築に関する研究論文があるという。
現代の斎場は実に効率よく遺体の到着から炉に入れるまでを行えるように出来ていて、遺族が遺体に接触する機会を最小限に抑えるというのである。
地元の斎場に到着すると、すぐに私はマイクロバスを出て霊柩車のところに行き、霊柩車から炉までどのくらい距離があるのかを見ていた。
まず、霊柩車からお棺を出す。
ストレッチャーで20mも運ぶと、大きなホールに入れる。
その先にもう一つ小さめのホールがあり、もうそこに炉が7つ口を開けて並んでいるではないか。
霊柩車から炉の入り口まで、移動距離40mほどであろうか、廊下を通るなどということは一切なく、ものの数分とかからずに炉の前までお棺が到着する。
そこで最後のお別れとして、お棺の中に献花し、遺体は炉に吸い込まれていく。
遺体の処理が実に効率よく行われる様を見て、商品の製造から梱包までを流れ作業で行うベルトコンベアシステムを連想させられる。
「死」という事態の重大性と全く正反対の「容易さ」が斎場にはあって、呆気にとられているうちに遺体とお別れという流れ作業が整備されているのである。
時間がちょうど昼時であったので、斎場で出される食事などをして待っていると、お知らせが来て、炉から母の遺骨が出てくる。
思っていたよりも少なく、金属製のトングで骨壺の中に収めた後、細かい粉状の遺骨については掬い取る器具でスッスッと掬い取ってこれも骨壺に入れる。
遺骨を骨壺に入れる作業も、ほんの数分で終わる。実に手軽である。
母が告知を受けてから、昇天の日まで約2か月半の間ほぼ毎日、わたしは母を見舞っていて、死を定められた人間をつぶさに見ていた。
ホスピスが良かったので、大半の期間がQOL良好の状態で進行したのだが、さすがに今年に入ったあたりからは辛かった。
死の数日前になると、母は断続的に吐瀉を繰り返し、病室はかなり異様なにおいがした。
そこで1月12日未明に、母の死に顔をこの目に見、死の現象学的現前の過酷さを感じることができた。
この過酷さはすぐに隠蔽され、多くの人の目に触れる事はない。
しかし当然のことながら、医師、看護師、葬儀社の方々などは、この死の現象学的現前こそが日常なのであって、私が1月12日早朝に見たナマの死こそがあたりまえなのであろう。
ということは、死に携わる職業についている人と、そうでない人では死の了解に天と地ほどの距離があることは想像に難くない。
この距離がある種のコミュニケーションギャップを生み出すであろうことも簡単に想像できる。
エリザベス・キュブラー・ロスなどは、妙に死後の世界にこだわる研究に入れ込んだ。
事情があることはわかるのだが、死に日常的に携わる人間にしか理解できない領域にこだわりすぎ、余人にはついて行き難いところまで行き過ぎたのではないだろうか。
私自身、NICUで超低体重出生児を専門に診る医師にお話を聞いたことがあるのだが、その医師が、新生児の胎内記憶(母体内での自分の様子の記憶があると子供が言う事)に強くこだわり、幾度となく「NICUで育った子には胎内記憶というのがあるんですよ」と強調するのには参った。
だが、日常的に新生児の死に立ち会っている人の感覚というものは、死から意図的に遠ざけられている多数の人間には理解しがたくなるのかも知れない。
こういう状況の中で、臨死体験や胎内記憶を非科学的として、完全に無視してしまう資格が、死についてあまりにも遠ざけられてしまった現代人に果たして有るだろうか。
我々とて、死からあまりにも縁遠い日常を生きていて、死についてあまりにも了解していないのだ。
死がありふれた日常的な領域も、現代社会にはあるにもかかわらずだ。
かたや死をあまりにも知りすぎてしまった人たち、かたや死をあまりにも知らない人たちに引き裂かれ、私たちの社会は死を了解することがあまりにも難しい状況に追い込まれているのではないだろうか?
もちろんバランスの取れた認識を示す人もいるのであって、母が世話になったホスピスについているチャプレンさんは「臨死体験なんかの話をきいとるよ。そういう例はある。でも検証なんかできへんしさあ、そういうことを言う人を否定する気もないし、そこにこだわる気もないんだよなあ」
というようなことを言っておられた。
結局、死は超越論的でありながらかつ経験的というパラドックスそのものなのだから、それはなぜなら、追体験することも語ることもできないでいて、それでいて誰しもが最後は経験する事象だからであるが、そんな不思議で日常的な事象である以上、どうしたって、最後には合理的には説明できない部分が残らざるを得ない。だからこそ、我々は常日頃から、死とは何か、あるいは転じて生とは何かという決して答えの出ない問いについて、よく考えておく必要があるのではないか? 答えは決して出ないが、死は早かれ遅かれやってくる。
その時に取り乱さないためにも。