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第8幕 侍女と騎士

「……め様、アウラローゼ姫様」

「――――あ、ら? なぁに、ミラ。どうしたの?」


昨今市井で流行しているのだと言う恋愛小説から顔を上げ、アウラローゼは小首を傾げてみせた。アウラローゼの視線の先では、珍しくも解りやすく複雑そうな表情を浮かべた“緑青の侍女”がティーポットを片手にアウラローゼを見つめていた。ぱちぱちとアウラローゼが長く濃い睫毛に縁取られた大きな薔薇色の瞳を瞬かせると、ミラは小さく溜息を吐いた。

主に向かってなかなか失礼な態度を取ってくれるものであるが、この侍女のこういう遠慮のないところもまたアウラローゼにとってお気に入りの彼女の一面であるのだから今更とやかく言うことなどしない。無言で先を促すと、ミラは空になったままのアウラローゼのティーカップに紅茶を注ぎ入れながら、淡々とその口を開いた。


「姫様、それは私の台詞です。どうなさったのですか?」

「どうって?」

「私が気付かないとお思いですか。最近の姫様は、ずっと心ここにあらずのご様子と存じます。マリッジブルーというものでしょうか? まさか、ホームシックと」

「あり得ないわ」


ミラに皆まで言わせず、アウラローゼははっきりすっぱりと言い切った。

マリッジブルー? ホームシック? どちらもあり得ない。この自分がそんなものに陥るはずがないだろう。まさかミラは本気で言っているのだろうか。彼女との付き合いはそれなりに長いはずなのだが、まだお互いに理解していない部分があったということか。

怒りを通り越した呆れを多分に含む視線でアウラローゼはミラを見つめる。そんな視線は、どうやらミラにとっては予想の範囲内であったらしい。無表情のまま、淡々と「そう言っていただけて安心いたしました」と一礼してみせる彼女は、アウラローゼのこの返答を最初から予想していたようだった。


だったら訊かなければいいのに、とアウラローゼは内心でごちる。だが、ミラが思わず訊かずにはいられないほど、最近の自分の態度は“よろしくない”ものだったということなのだろう。


最近の自身の行動を思い返してみて、アウラローゼは思わず溜息を吐いた。それを誤魔化すように、ミラが注いでくれた紅茶を口に運び、唇を少しばかり湿らせることでなんとか気分を落ち着かせる。

余裕を持ち、優雅を良しとし、泰然とあれ。そう自身に言い聞かせる側から脳裏に甦るフィルエステルの笑顔に、アウラローゼはかあっと自分の顔が赤くなっていくのを感じた。

それをミラに悟られるのが嫌で、視線を膝の上へと落とし、豊かに波打つ暗い赤茶色の髪で顔を隠した。きっとミラにはもうばれてしまっているような気もしたけれど、それでも直接こんな余裕のない顔を見られるのはごめんだった。

膝の上の、読みかけの小説の紙面に指を滑らせる。それは、ちょうど主人公である姫君が、恋する騎士に向かって想いを告げる場面だった。


――あなたが笑ってくれると、わたくしの世界は極彩色に彩られるの。

――あなたが呼んでくれると、わたくしの世界は金銀宝石のように煌めくの。


姫君のその愛の囁きを読み終えて、フン、とアウラローゼは鼻を鳴らした。自分ではない誰かの笑顔一つで世界が変わるだなんて、この姫君は随分とおめでたい思考の持ち主であるらしい。理解なんてできる訳がない。したくもない。それなのに。



――――アウラ



「~~ッ!」


耳元で蘇った甘い声を打ち消すように、アウラローゼは思い切り小説を閉じた。音を立てて閉じられた小説をテーブルに乱暴に置き、アウラローゼはそんな自分を誤魔化すように紅茶を一気に呷る。


「あっつっ!」


そしてアウラローゼは、深窓の姫君らしからぬ悲鳴を上げて舌を出した。淹れ立ての紅茶は熱く、思い切り舌を火傷してしまった。

涙目になってティーカップを睨み付けるアウラローゼの耳に、明らかに呆れゆえのものと解る溜息が届く。


「姫様、何をなさっているのですか」


グラスに水差しから冷水を注ぎ、それを差し出してくれるミラに、アウラローゼはグラスを受け取りながらばつが悪そうに俯いた。


「……私にも、解らないわ」


小さな呟きは、アウラローゼらしからぬ、迷子になってしまった幼子のように不安そうで頼りなげな声音になってしまった。そんな自分が嫌でたまらないのに、どうしていいのか解らなかった。

冷水で舌を冷やし、そのまま喉を潤して、アウラローゼは心底弱り切ったように笑った。


「本当、何をしているのかしらね、私」


たった一人の男性の笑顔一つ、言葉一つを思い返すだけで、こんなにも心を乱されているなんて。故国であるジェムナグランにいた頃を思うと、今の自分が信じられない。かつての自分が今の自分を見たら、「こんな情けない女、私じゃないわ!」と柳眉を吊り上げて怒り狂うに違いない。


いつだって、どんなときだって、“最高の自分”でいようと努力してきたつもりだった。


それなのに今の自分はどうだ。アウラローゼはそう自問する。余裕もなく、優雅に振舞うこともできず、泰然とした態度なんてどこかへと投げ打ってしまって。そうして、いつしかこの胸の中に生じていた想いに引き摺られ振り回されている。

その想いの名を、アウラローゼは誰に教えられずとも知っている。けれど認めたくなんてなかった。そんなこと、このアウラローゼのプライドが許さない。


――私は、私よ。


“鉄錆姫”と誹られ、詰られ、恐れられて生きてきた。ずっとひとりだった。

ジェムナグランでは【鳥待ちの魚】がいてくれたし、今でこそここにはミラがいてくれる。けれど、【鳥待ちの魚】とはもう会えないだろうし、いつまでもミラのことを自分の元に縛り付けておけないだろうということも解っている。

だったら、もういい。今だけでも側にいてくれるのならそれでいいのだ。永遠なんて望まない。ひとりには慣れている。だから大丈夫だ。これからもひとりでいい。

あんな、アウラローゼを通してアウラローゼの知らないアウラローゼを見ている青年なんていらない。欲しくない。こんな不毛な想いを抱いて何になる。あの青年は、アウラローゼが求めてはいけない存在だ。


だから、いい。もういいのだ。自分は誰よりも強く美しい。自分はひとりで大丈夫なのだ。そう自身に言い聞かせながら冷水を飲み続けるアウラローゼに、ミラはそっと耳打ちをしてきた。


「姫様」

「なぁに、ミラ」

「ユーゼフ様が、午後になりましたら気晴らしに遠乗りでもいかがかと仰っていましたが、いかがなさいますか?」

「ユーゼフが?」

「はい。フィルエステル殿下からもご許可を頂いていると伺っております」

「……つまり、フィル様も参加なさるということ?」


その問いかけは、図らずも低い声音になってしまった。ユーゼフはこのオルタニアにおけるアウラローゼの筆頭護衛騎士であるが、アウラローゼの直属の部下であるという訳ではない。彼は、どこまでいっても、フィルエステルの部下なのだ。

それはユーゼフ本人の言動から明らかであるし、アウラローゼ自身がそれを咎める気がないのだから別に構いやしない。好きにすればいい。だが、とは言うものの、ユーゼフの、自らの主たるフィルエステル至上主義ぶりには若干――いいや、大分困らされているのも事実ではある訳で。


軽薄な言動に誤魔化されそうになるが、ユーゼフのフィルエステルに対する忠義心は本物だ。アウラローゼが何を言おうとも、それがフィルエステルの意に沿わないこと、利にならないことであれば、決してユーゼフは譲らない。

「これは命令よ」と言っても、「俺の主はフィルエステル殿下っすから」とにっこり笑ってさっくりアウラローゼの言葉を切り捨ててくれる。初めて会った時からそうだった。アウラローゼに怯えることもなければ迎合することもなく、フィルエステルに忠誠を誓った騎士として振舞い続けるユーゼフのことを、アウラローゼは気に入っているし、正直言って、フィルエステルよりも好ましいと思う時だってあるくらいだ。

……まあ、フィルエステルに対するアウラローゼの心証は、アウラローゼ自身にすら言葉にできない部分が多くあるので、そのせいもあるのかもしれないが。


話を戻そう。

とにもかくにも、そんな“あの”ユーゼフが言い出した『遠乗りの誘い』。アウラローゼが、フィルエステルの差し金ではないかと勘繰るのも致し方ないことであると言えよう。


ヴェリスバルトとのお茶会以来、どうにも顔が合わせ辛くなり、アウラローゼはフィルエステルとはとんとご無沙汰の日々を送っている。

何度かフィルエステルからお茶会や騎士団の指南へのお誘いはあったものの、あれこれと理由をでっちあげてミラに断ってもらっているのが現状だ。

それでもめげることなく、フィルエステルは飽きずにアウラローゼと会おうとしてくるのである。その気になればアウラローゼと無理矢理対面することなんて容易いことであろうに、フィルエステルはそれをしない。

彼は決して無理を強いることはなく、「気が向いたらでいいから」と穏やかに言い添えては去っていく。そしてまた、時間を見つけてはアウラローゼを誘いに来るのだ。


そんな主の涙ぐましい努力を、ユーゼフは知っていることだろう。というか、フィルエステルからの言伝を預かってくるのはほとんどがユーゼフであるのだから、知らないはずがないのだ。

同時にユーゼフは、アウラローゼが本人も不本意なことにここ最近憂鬱に臥せり、心ここにあらずな日々を送っていることもまた知っているに違いない。それを理由に『気晴らしの遠乗り』と言い出したのだろうが、あのユーゼフがわざわざアウラローゼのためだけにそんなことを言い出すとは到底思えなかった。


自然と眉間にしわを寄せたアウラローゼは、しばしそのまま難しい表情を浮かべていたが、やがてそのしわを伸ばすようにぐいぐいと指先で自らの眉間を押した。こんなことでこの美貌に余計なしわを作ってなるものか。ああもう、この国に来てから何度こう思ったことだろう。

このままでは本当にしわができてしまいそうだわ、と内心で歯噛みしながら、アウラローゼが改めてミラの方を見遣ると、主たるアウラローゼと同様に“緑青の侍女”と恐れられる彼女は、ふるりと頭を振った。


「いいえ。フィルエステル殿下は今回はどうしても外せない会合があるそうでご同行なさらないそうです。『楽しんできてほしい』というお言葉をいただいております」

「そうなの?」

「はい」


こくりと頷くミラの姿に、だったらいいかもしれない、と、我ながら現金だとは思いつつも、アウラローゼはあっさりとそれまで行く気が無かった自身の考えを覆した。

だが、それも数秒の間だけであり、アウラローゼはすぐに真顔になって考え込む。


「このオルタニアに、大人しく私を乗せてくれる馬がいるのかしらね」


遠乗りするには、当たり前だが馬がいる。それが唯一にして最大の問題だった。

アウラローゼがどれだけ優れた馬術を持ち合わせていようとも、どんな馬もアウラローゼに怯えて自らの背にアウラローゼを乗せたがらないのである。大人しくアウラローゼを受け入れてくれる馬なんて、故国にいる次兄の従える水馬ウンディーネくらいなものだろう。


「勝手ながら、その旨を私の方からユーゼフ様にお伝えしたところ、騎士団の馬の中でも屈指の剛毅なる馬を用意してくださるとのことです」

「……それ、喜んでいいのかしら?」


まるで鬼か悪魔を相手にするかのようである。剛毅なる馬とはこれいかに。まあそこまで言い切ってくれるのならば、相応の名馬を用意してくれるということなのだろうけれど。


正直なところ、遠乗りは好きだ。ジェムナグランにいた頃はよく兄達の目を盗んで、ウンディーネにまたがり、シルフィードを肩に乗せてこっそり城を抜け出してはアルフヘイムを駆けまわったものである。その間、アウラローゼは余計なことなど何一つ考えず、ただただ楽しんでいられた。

あの感覚をこの異国でも味わえるというのなら、それは決して悪いことではない。流石に一人で遠乗りすることは許されないだろうが、ユーゼフ一人おまけとしてくっついてくることくらいなんてことはない。ユーゼフの言う通り、ちょうどいい気晴らしになることだろう。


考えれば考えるほど乗り気になっていっているアウラローゼに気付いたのか、ミラが一歩前に踏み出し、アウラローゼのすぐ側に立った。

アウラローゼが椅子に腰かけたままミラを見上げると、彼女はいつも通りの何の感情も窺わせない表情でありながらも、どこか神妙さを孕んだ表情を浮かべていた。


「私もお供してよろしいですか?」


ミラにしては珍しい申し出に、アウラローゼは再び瞳を瞬かせた。

いつだってミラはアウラローゼの一歩後ろに立つことを良しとし、自らアウラローゼに何かを申し出るような真似など滅多にしない。その滅多にしない申し出が、前回はどんなものであったかと言うと、それすなわち、このオルタニアにアウラローゼが輿入れすると決まった際に自らも同行するとミラが言い出した件である。

あの時以来ね、と首を傾げつつ、どういうつもりかと視線で問いかけると、ミラはその青い瞳に真剣な光を宿して更に言葉を続けた。


「差し出がましいことと存じますが、私は、今の姫様をお一人にはできません」

「ユーゼフがいるわよ?」

「あの方一人に姫様を任せられるほど、私は耄碌してはおりませんわ」

「あら、ミラったらなかなか言うわね。ユーゼフはあれでもフィル様の腹心らしいわよ? あ・れ・で・も」


『あれでも』と言う言葉を繰り返したのは個人的な恨みからくる嫌味である。そんなアウラローゼの意図を正確に汲み取ったミラは、無表情のまま「然様ですが」とそれでもいつもはっきりとものを言う彼女らしからぬ逡巡した様子で言葉を濁した。


まだ納得しかねている様子のミラに、どうやら自分は心配されているらしいとアウラローゼは遅れて気付く。何度味わっても慣れることのないくすぐったさを感じる。


こんな感覚をアウラローゼに与えてくれるのは、今までは、【鳥待ちの魚】と、このミラだけだった。

けれどこのオルタニアに来てからは違う。騎士団に属する多くの騎士が、心からの敬意と好意をもってアウラローゼに接してくれる。その騎士団の反応を見て、王宮に勤める者達もまた、アウラローゼを“鉄錆姫”として見るばかりではなく、“アウラローゼ”として見るようになり始めている。そのたびに味わわされるくすぐったさはいつだってアウラローゼの居心地を悪くする。


そしてくすぐったいばかりではなく、今まで知らなかった間隔までもたらしてくれたのが、いずれアウラローゼの夫となる青年――――フィルエステルなのだ。


脳裏にフィルエステルの甘い美貌が浮かぶ。美しい黒蛋白石の瞳が、優しく細められ、その薄い唇が穏やかな笑みを刻む。

「アウラ」と甘く自分を呼ぶ声が耳元で蘇り、アウラローゼは慌ててそれを振り切るようにかぶりを振って、未だ心配そうにしているミラに対し、いつも通りの強気ぶりを心がけた美しい笑みを浮かべてみせた。


「ユーゼフは、それなりに信頼できると思うわよ。フィル様に対する忠義は本物でのようだもの。頭のいい男だし、自分の失敗がそのままフィル様の権威に傷を付けることになるということくらい理解しているでしょうね。まあ、その分、性格はかなり当てにならないようだけれど」


そうだとも。アウラローゼよりもフィルエステルを優先するユーゼフだからこそ信頼できる。

アウラローゼのことを誰がどれだけ軽んじていようとも、フィルエステルがアウラローゼのことを重んじる限り、ユーゼフはアウラローゼのことを守ってくれるだろう。それがフィルエステルにとっての利になるからだ。だからアウラローゼはその点においてはユーゼフのことを信頼できる。


――我ながら性格が悪いものだとアウラローゼは思う。アウラローゼのために王位継承権まで捨てた青年の思いを、受け入れようともしていないくせに、こんな風に都合のいいときだけ利用しようとしているのだから。


これで幻滅してくれればいいのに。そうすれば私は楽になれるのに。

それが単なる逃げだと解っていながら、それでもそう思ってしまう自分がアウラローゼは嫌で嫌で仕方がなかった。フィルエステルのせいで露わになる自分の弱さを、アウラローゼは認めたくなかった。認めてしまったら、今まで必死で作り上げてきた強く、誇り高く、何よりも美しい自分というモノが、すべて壊れてしまうような気がしてならなかったから。

けれどきっとフィルエステルは、そんな弱い自分のことも――……と、そこまでアウラローゼが思ったその時、ミラが真剣な表情で口を開いた。


「姫様ご自身がそう仰るのでしたら、私はもう何も申し上げません。が、遠乗りには私もお供します。こればかりは譲れません」

「過保護ね」


思わず苦笑すれば、ミラは重々しく更に続けた。


「姫様が頓着しなさすぎていらっしゃるのです」

「そうかしら」

「はい。それとも姫様は、ユーゼフ様ばかり信頼なさって、私の言葉を聞き入れてくださらないのですか?」


どこか恨めしげな声に、アウラローゼはとうとう声を上げて笑った。随分とらしくないことを言ってくれるものだ。それだけ心配をかけているということなのだろう。それを申し訳なく思うし、同時に嬉しくも思ってしまう。


「そんなつもりじゃないわ。ただ、私だって貴女に無理をさせたくないの」

「その件につきましては、姫様付きの侍女に就任した時点で諦めております」

「……そこは、嘘でも『光栄です』くらい言っておくところじゃないかしら」

「申し訳ありません。正直なものでして。私は姫様には嘘は付かないと決めております」

「…………まあ、いいけれど」


下手に媚びへつらわれるよりもずっといい。こんな風に遠慮のない……もとい、飾らない彼女のことを、アウラローゼは好ましく思っているのだから。

アウラローゼ付きとなってから数日で“緑青の侍女”の名を背負うようになり、謂れなき陰口に晒され、それでもアウラローゼの側にいて支えてくれたミラは、アウラローゼにとって数少ない大切な存在の内の一人だ。

そんな彼女も交えて遠乗りに出かけられる。そこまで考えて、アウラローゼはにっこりと笑った。


「貴女と出かけられるのは嬉しいわ。ユーゼフには、準備でき次第出発しましょうと伝えてくれる?」

「かしこまりました」


一礼するミラに、アウラローゼは鷹揚に頷いてみせたのであった。



* * *



アウラローゼが身に纏う衣装は、アウラローゼの暗い赤茶色の髪を映えさせる、深い葡萄色のジャケットとスカートだ。

スカートの裾は、普段アウラローゼが好んで着るドレスの裾よりも幾分か長いものだ。普段と同じドレスの丈では、馬にまたがったときに足が露わになってしまうため、乗馬のためだけに誂えられた上下揃いの衣装である。

同じ生地でできた帽子を被り、ふんだんにフリルがあしらわれたブラウス。その上に羽織ったジャケットの中心のラインでは、金色のボタンが輝いている。その首元は、レースでできたジャボで飾られ、アウラローゼの年頃の少女らしい愛らしさを演出していた。スカートの下にはたっぷりとレースを重ねたペチコートを履き、アウラローゼがスカートの裾を持ち上げて歩むたびにちらちらと繊細な翳りが乗馬用のブーツに落ちる。

アウラローゼの魅力を最大限に引き立てるように作られた衣装を身に纏い、護身用の細剣を腰から下げたアウラローゼを前にして、ユーゼフはヒュゥッと口笛を吹いた。


「すげえお似合いっすね」

「私のために作られた衣装だもの。当然よ」


飾られた言葉ではなかったが、掛け値なしの本音であると解る賛美に、満足げにアウラローゼは笑った。

ジェムナグランにおいては、基本的に国政に参加させてもらえず、平たく言えば放置されていたアウラローゼは、それでも政に関する勉学に励んでいたものの、空いた時間には淑女の嗜みとしての手芸や、王侯貴族の嗜みとしての乗馬を嗜んでいた。

その一面ばかりが強調され、「兄王子達はあんなにも国のために尽くしていらっしゃるというのに、鉄錆姫は遊び惚けてばかりいるのか」とそれはもう散々な言われようであった。

この葡萄色の衣装は、その他者曰くの『遊び惚けるための散財』の結果の産物である。アウラローゼのなけなしの名誉のために明記しておくが、決してこの衣装は無駄遣いの結果などではない。王族の嗜みとしての馬術を極めるにあたっての必要経費である。後の責任はアウラローゼと懇意にしている服飾師の暴走の結果だ。彼女はアウラローゼの容姿を気に入り、祖母である鉄血女王の生まれ変わりなどという噂に惑わされることなくアウラローゼ自身を見てくれる数少ない人物であったが、その服飾にかける情熱は真夏の太陽もかくやというものだった。

そんな彼女がアウラローゼのためだけに作ってくれたこの衣装。ジェムナグランに残してきてもクローゼットの肥やしになるに違いないと思って持ってきた衣装であったが、まさかこんなにも早く再び身に纏うことになるとは思っていなかったとアウラローゼは内心でしみじみと呟く。

その背後で、この衣装を着るに当たって協力してくれたミラが、アウラローゼの完璧な出来栄えに、解りにくくもやはり満足げに頷いている。彼女もまたアウラローゼと同様に、乗馬用の衣装を身に纏っていた。


「それで? 私相手でも怯えないお馬さんはどこにいるのかしら?」


騎士団の厩舎を前にして、アウラローゼは小首を傾げてみせた。その薔薇色の瞳をそのまま厩舎の中に並ぶ馬に向けると、馬達は皆落ち着かなさげに嘶き、足踏みを繰り返す。

この様子では、どの馬もあてにはできなさそうだ。せっかく完全装備でやってきたというのに、どうやら無駄骨に終わりそうである。

残念だと思う気持ちが無いわけではないが、予想の範疇内でもある。日焼けする前にさっさと部屋に戻ろうかしら、と思案するアウラローゼに対し、ユーゼフはパチンと茶目っ気たっぷりのウインクをしてきた。


「まあまあ、そう慌てないでくださいよ。今連れてきますから、少し待っていてください」

「姫様を待たせるおつもりですか?」


淡々としながらもどこか苛立ちが交じった声音でミラがそう問いかけると、「急いで連れてきます!」とユーゼフは駆け足で厩舎の中へと消えていった。

アウラローゼとしては別に急ぐつもりなどないのだが、ミラのこの態度は一体どうしたことか。アウラローゼは思わずミラへと視線を向けるが、そこにはいつも通りの無表情がある。だが、単なる無表情とは言い切れないその表情に、ピンと勘が働いた。


「ミラ、貴女、もしかしてユーゼフのことが嫌い?」

「そのご質問に対しては、回答を差し控えさせていただきます」


その答えこそが嫌いと言っているようなものであるような気がするのは、アウラローゼの気のせいだろうか。どうしてだろう。いつになくミラが緊張しているように見える。ミラだって、アウラローゼと同じく、馬術は一通り修めているはずだ。今更馬に乗ることを怖がったりなんてしないだろう。

まさか調子でも悪いのか。だったら無理に付き合ってくれなくても構わない。そうアウラローゼが口を開こうとしたその時、軽やかな蹄の音が厩舎の中から近付いてきた。

口を開くタイミングを逃して厩舎の中へと視線を戻したアウラローゼは、そこで思わず息を呑まされることとなった。


「紹介しますね。これからアウラローゼ姫の相棒を勤める、ネーヴェレーヌです」


誇り高いレディなんですよ、と付け足しながらユーゼフが手綱を引いて連れてきたのは、真冬に舞い散る雪を紡いだかのような見事な白毛の馬であった。一目で名馬と解るその立ち姿に、図らずもアウラローゼは見惚れてしまった。


「あい、ぼう?」

「はい。彼女は、フィルエステル殿下からアウラローゼ姫への贈り物です」


呆然とユーゼフの言葉を反芻するアウラローゼに、ユーゼフは自慢げに笑って頷いた。贈り物、だなんて。年頃の少女へのプレゼントに、花でもドレスでも宝石でもなく、馬を選んで寄越してきたフィルエステルの神経が、アウラローゼには理解できなかった。そして、この贈り物を、今まで捧げられてきた貢物のどんなものよりも喜んでいる自分のことが、もっとずっと信じられなかった。

アウラローゼを前にしても怯えることなく、真っ直ぐにアウラローゼを見つめ返してくるその白馬……ネーヴェレーヌの瞳に、はたとアウラローゼは気付く。


「――貴女、目が青いのね」


青目を持つ白毛の馬は稀である。それは、あまり馬に詳しくないアウラローゼでも知っている事実だ。しかもこれだけの名馬とあらば、彼女を得たいと願う王侯貴族など数えきれないほどいることだろう。にも関わらず、よりにもよって“鉄錆姫”にこの白馬を与えるだなんて一体どういうつもりなのか。

ツンとすまし顔でこちらを見つめてくる白馬は、やがてアウラローゼの頬にその顔を摺り寄せてきた。さあ撫でなさい、とでも言いたげな青い瞳に、アウラローゼの表情も自然と緩んでしまう。


「かわいいこ。私を怖がらないなんて、とんだ女王様のようね」

「そりゃお互い様でしょう」

「ユーゼフ、それ、どういう意味かしら?」


せっかくいい気分だったというのに、ユーゼフの余計な一言のおかげで台無しだ。

ぎろりとアウラローゼが睨み付けても、ユーゼフの笑顔は崩れることはなかった。それどころか、ますますニヤニヤと笑みを深める護衛騎士に、アウラローゼが眉間にしわを寄せると、「いやぁ、だってですね」とユーゼフは多分に笑みを含んで続けた。


「その女王様は、ケラヴノスの……フィルエステル殿下の馬のつがいなんですよ」


その言葉に、アウラローゼの思考は、確かに停止した。アウラローゼが大きく薔薇色の瞳を見開けば、その頬をべろりとネーヴェレーヌが一舐めする。それを受けてはっと正気を取り戻したアウラローゼは、つい一瞬前に見せてしまった失態をなかったことにするために、努めて平然とした声を発した。


「……あら、そうなの。それで? だから何?」


それでも動揺が滲み出てしまったのは、我ながら本当に失態であったとアウラローゼは思わずにはいられない。

フィルエステルの馬と聞いて思い出すのは、ジェムナグランを発ったあの日、道中で強盗団に襲われた際のことだ。あの時、フィルエステルは見事は青毛の馬に乗って颯爽と駆けつけてくれた。ケラヴノスとはあの馬のことであるに違いない。そのつがいが、この白馬。なんだかあまりにもできすぎていて面白くない。フィルエステルがこの場にいたら、「恥ずかしい真似をしないで!」と理不尽に怒鳴りつけてしまっていたかもしれない。

そんな淑女らしからぬことをせずに済んだことにほっとしつつ、それでもやはり納得しきることもできずに、結果としてむっすりとした表情を浮かべるアウラローゼに、ユーゼフは肩を竦めた。


「いいえ、なんにも? その女王様は今まで誰にも懐かなくてお手上げ状態だったんですけど、その様子じゃ、そいつのご主人様はアウラローゼ姫以外には務まりそうにないっすね」


ニヤニヤと笑うユーゼフから目を逸らし、無言でアウラローゼはネーヴェレーヌの顔を撫でた。

気持ちがよさそうに擦り寄ってくる美しい白馬は、きっと、あのフィルエステルの馬であるという黒馬と並び立てば、さぞかし絵になる光景となることだろう。

だったら、その馬達の主人であるという自分とフィルエステルは?

並んで立った時、絵になる光景を作り出すことができるだろうか。お似合いであると、誰が言ってくれるのだろうか。自分とあの青年は、何もかもがあまりにも違いすぎるのに――と、そこまで思って、アウラローゼは小さくかぶりを振った。


何をくだらないことを自分は考えているのか。こんなの、私らしくない。そうアウラローゼは内心で吐き捨てる。

絵になる? お似合い? だから何だ。自分は一人でも十分すぎるほど絵になる美しさを持っている。また、お似合いかどうかなんて重要ではない。だってお似合いであろうとそうでなかろうと、フィルエステルと自分の婚姻はもう決定事項なのだから。

だったらその点についていちいち考えることほど無駄なことはない。この美しい自分の隣に立てることに、あの青年はせいぜい感謝すればいいのだ。


かわいくない、とんでもなく傲慢なことを言っている自覚はあったけれど、そうとでも思わなければいつもの自分を保っていられなくなりそうで、アウラローゼは無意識にネーヴェレーヌの顔を撫でていた手を止めた。その変化にぴくりとネーヴェレーヌは耳を動かし、じっと青い瞳でアウラローゼを見つめてくる。その真っ直ぐな視線があまりにも居心地が悪く、アウラローゼは視線を足元へと落とした。


「んじゃまあ、対面も済んだことですし、行きましょうか」


空気を読んだのか、はたまたたまたまそのタイミングになっただけだったのか。どちらであるにしろ、ユーゼフのその台詞は、今のアウラローゼにとってはありがたいものだった。

今回の遠乗りは一応お忍びということになっているため、それぞれ馬を引きながら連れ立って歩き、人目を避けるようにして城門へと向かった。そして王宮から出るなり、アウラローゼはユーゼフの手を借りてネーヴェレーヌの背に乗り、続いてミラも鹿毛の馬の背に乗る。ユーゼフもまた自らの愛馬であるという栗毛の馬にまたがった。


「それで、どこへ行くの?」


ゆっくりと馬を歩かせながら、前方を行くユーゼフに問いかけると、ユーゼフは器用に手綱を操りながら、アウラローゼの方を振り向いた。


「西の方角に丘があるんですよ。ちょっと距離がありますが、今なら季節の花が見ごろなんでおすすめです」

「そう、それは楽しみね。ミラ、大丈夫?」


故国ジェムナグランで日ごろから馬に慣れ親しんでいたアウラローゼはともかく、ミラは長く馬に乗ることに慣れていないだろう。彼女が疲れたら、自分の後ろに載せることも辞さないつもりでアウラローゼが問いかけたところ、ミラはあっさりと首を振った。


「問題ありません。姫様こそどうかお気を付けて」

「あら、誰に向かって言っているのかしら。私の馬術の腕を舐めないでもらえる?」

「姫様の腕前は存じ上げておりますが、時折うっかりをしでかされるのもまた姫様でいらっしゃると存じておりますので」

「……悪かったわね、うっかりで」


自分が珍しく気遣いを見せたというのにこれである。他人のことを言えた義理は自分にはないとは解っているが、それにしてもかわいくない侍女だ。いや今更この“緑青の侍女”とまで呼ばれて恐れられる彼女に笑顔で「姫様は最高の姫様です」などと褒め称えられてもそれはそれで非常に怖いものがあるが。

そもそも自分が最高の姫君であるということは、既に解り切った事実であって――と、そこまでアウラローゼが難しい表情で考えた時、前方から、ぷっと吹き出す声が聞こえてきた。


「ユーゼフ?」


視線を前へと戻せば、ユーゼフが、のんびりと馬を歩かせながらぷるぷると肩を震わせていた。隠しているつもりなのかもしれないが、まったく隠されていない。思いっきり笑われている。

思わずその背中を睨み付けると、ユーゼフはとうとう声を上げて笑い出しながら言葉を続けた。


「いやぁ、本当にお二人は仲がいいっすよね。一国の姫君と侍女の会話じゃありませんよ」


……何故だろう。アウラローゼは、褒められている気がまったくしなかった。しか今ここでその件についてどうこう言う気になられず、結局アウラローゼは沈黙することを選んだ。ミラに至っては言うまでもない。

フン、と気を取り直すように鼻を鳴らし、馬に乗って進む道は、ユーゼフが敢えてそういう道を選んでくれているらしく、人通りはほとんどない。裏道ばかりを通るよりも、表通りを堂々と歩みたい気持ちがないわけではなかったが、何分今回の遠乗りはあくまでもお忍びなのだ。我儘は言えない。

ユーゼフの言う丘とやらに到着したら思い切り馬を走らせようと心に決めて、アウラローゼはミラと共に大人しくユーゼフの後に続いた。


それから馬を走らせることしばし、アウラローゼ一行は市街地を抜け、日の光に照り映える緑と、色とりどりの花が咲き乱れる丘へと辿り着いた。

馬を歩かせるたびにふわりと華やかな花の香りと緑の青い匂いが鼻孔を擽り、肺腑を満たしていく。


「見事なものね」

「でしょう? あんまりここまで来る奴は少ないんですけどね、オルタニアで立派なのは何も城下町ばっかじゃないことを知ってもらいたくて」

「そう。見上げた愛国心だこと」


馬から降りて誇らしげに語るユーゼフに対しアウラローゼはくすくすと鈴を転がすように笑い、そして一足先に馬から降りていたミラの手を借りて、自らもネーヴェレーヌの背から降りた。

季節の花々が咲き乱れる丘は、掛け値なしに、お世辞でもなんでもなく、確かに美しかった。自然に溢れた光景は、故国ジェムナグランが内包する森、アルフヘイムを思い起こさせる。その時脳裏に浮かんだのは、幼い頃からアウラローゼを慈しみ導いてくれたあのエルフの青年の薔薇色の瞳ではない。真夜中のオーロラのように光が遊ぶ、あの黒蛋白石の瞳だった。


「――フィル様もいらっしゃればよかったのに」

「はい?」

「姫様?」


思わずぽつりと零してしまった小さな呟きは、幸いなことにユーゼフの耳にもミラの耳にも届かなかったらしい。不思議そうに首を傾げる二人のその仕草に、遅れて自分が何を口にしたのかに気付いたアウラローゼは、カッとその迫力満点の美貌を、真っ赤に染めた。


「な、なんでもないわ!」

「姫様、それは苦しいお言葉かと」

「どう見てもなんでもなくないじゃないっすか」

「なんでもないったらなんでもないの。気にしないで。これは命令よ」


赤く染まった顔で何を言おうともちっとも説得力がないことくらい、アウラローゼ自身解り切っていたが、それでも自分が何を口にしてしまったのかを、この二人には――いいや、誰であろうとも、知られたくはなかった。いつのまにあの青年は、こんなにも自分の心を占めるようになっていたのだろう。こんな風に、無意識に口走ってしまうくらいになんて、信じたくなかった。


私は私だけのものなのに、どうしてこの心をあんな私のことを見ていない男のために明け渡さなければならないの。


そんな思いが胸を占め、悔しくてならなくなる。こんな風に自分が思っていることを、あの青年は、フィルエステルは、気付いているのだろうか。気付かれていても気付かれていなくても癪に障ることこの上ない。理不尽であると解っていながら、そう思わずにはいられなかった。

そんなアウラローゼの怒りとも焦りとも取れる感情は、そのままアウラローゼが纏う雰囲気に反映されていたらしい。

ミラが「姫様」と気遣わしげに声をかけてくるが、アウラローゼには答えられなかった。「あー……」とユーゼフが困ったように声を漏らし、ぽりぽりと頬を掻く。そして彼は、やがて名案を思い付いたとでも言いたげに、ぽんと手を打ち鳴らした。


「そうだ、アウラローゼ姫。せっかくここまで来たんですから、フィルエステル殿下にお土産でも持って帰りませんか?」

「お土産?」

「こんなにも花が咲いてるんですよ? 花冠とかいかがです?」


ほらほら、と両腕を広げて周囲の花々を示してみせるユーゼフに、アウラローゼは思わず半目になった。何言ってるのこいつ、という台詞を言葉にはせずともその美貌にでかでかと書いて、アウラローゼは肩を竦めた。


「二十歳の殿方が、今更花冠ひとつで喜ぶ訳がないでしょう」

「フィルエステル殿下はアウラローゼ姫から貰えるものならなんでも嬉しがられると思いますけどね」

「…………」


さらりとユーゼフは言ってくれるが、そのユーゼフの台詞に素直に喜べるほどアウラローゼは純粋ではなかった。下手に花冠なるものを渡して、勘違いさせたり、ぬか喜びされたりしたらどうするというのだ。フィルエステルがアウラローゼに向けてくれる、その、好意というか、愛情というか、とにかくそういう類の、アウラローゼにとっては慣れないことこの上ない想いは、どうにもアウラローゼの居心地を悪くしてならない。いつの間にか、その想いを向けられることが当たり前のことだと思うようになってしまったら。……それこそ、冗談ではなかった。


「ユーゼフ、私は今日は遠乗りに来たのよ。花冠なんて子供の遊びをするつもりは……」

「姫様、そう仰らずともよろしいのではありませんか?」

「ミラ?」


意外なところからの追撃に、アウラローゼは首を傾げて自らの侍女を見遣った。彼女はいつも通りの無表情でアウラローゼのことを見つめていた。どういうつもりかと無言で問いかければ、ミラは淡々と言葉を続ける。


「今回の遠乗りは、フィルエステル殿下の計らいであると伺っております。その件に関しましては、姫様なりの誠意をお見せする方がよろしいかと存じます」


貴女までそんなことを言うの、と、理不尽にも責め立てたくなったところを、アウラローゼはなんとか耐えた。


解ってはいるのだ。自分がこの異国でこんな風に自由に過ごせているのは、すべてフィルエステルのおかげであるということを。彼の支援のおかげで、アウラローゼは王宮に閉じ込められることもなく、王宮騎士団もアウラローゼの味方となってくれて、故国とは比べ物にならないほど快適に日々を過ごせているということを。

そう、恵まれているのだ。アウラローゼは。故国たるジェムナグランにいた頃よりも、もっとずっと。

それらはすべて、フィルエステルのおかげであって、彼はそのために王位継承権の放棄という多大なる代償を支払ってくれた。他ならぬこの自分――“鉄錆姫”アウラローゼ・ジェムナグランを得る、そのためだけに。


「……“黒鉄王子”に“鉄錆姫”が花冠を贈るなんて、とんだ茶番じゃない」

「いや、仲睦まじくて結構じゃないですか。あ、もしかして作れないんですか? アウラローゼ姫が作れないのなら俺がお教えしますけど」

「お断りよ。いいわ、これ以上ないくらい立派な花冠を作ってみせようじゃない」


アルフヘイムにおいて、幼い頃から【鳥待ちの魚】を相手に、それはもう数多の花冠を作ってきたアウラローゼである。確かに久々ではあるが、昔取った杵柄は馬鹿にできない。ユーゼフの鼻を明かし、フィルエステルの度肝を抜くような花冠を作ってみせる自信がアウラローゼにはあった。


「ミラ、手伝ってちょうだい。花を集めるわよ」

「かしこまりました、姫様」

「んじゃ俺は馬達をとりあえず木に繋いできますね」

「ええ、任せるわ」


そして馬を引いて離れていくユーゼフを見送り、アウラローゼは早速、手近な花を摘み取ることから始めた。ミラもまた花を摘み取ってはアウラローゼの元へと運んでくる。それを黙々とアウラローゼは絡ませ合いながら花冠を作っていった。これでもかこれでもかと何種類もの色とりどりの花々を組み合わせて作る花冠は、まだ作りかけではあるものの、完成したらさぞかし、と思わせられるような出来栄えに既になりかけていた。


久々だったけれど、流石私。

そう得意げに内心で呟いて、鼻歌交じりにアウラローゼは花冠を編み続ける。どうせフィルエステルに渡すのならば、思い切り素敵なものにしたい。そんな風にいつしか自然に思うようになっている自分が不思議で、でも今は何故だかそれが嫌ではなくて。自分の情緒不安定ぶりには腹が立つけれど、そんな自分のことも、フィルエステルはきっと受け入れてくれるのではないかと思うと、悔しくて、そして嬉しくて。


そして、どれほどの時間が経過したか。あともう少しで完成というところで、ふいに花集めに奔走していたミラが、アウラローゼの隣に腰を下ろした。


「姫様」

「なぁに?」


短い呼びかけ花冠から顔を上げず、手を止めることもせずに問い返すと、ミラは静かな声で問いかけてきた。


「姫様は、もうジェムナグランにはお戻りになられないおつもりですか?」

「……え?」


予想外の問いかけに瞳を瞬かせて顔を上げると、そこには驚くほど真剣な表情を浮かべた侍女の顔があった。涼やかに整った顔立ちの彼女は、その青い瞳で、何かを見極めようとするかのようにじっとこちらを見つめていた。その視線がなんとも居心地悪く、アウラローゼは逃げるようにその薔薇色の瞳を伏せる。


「戻るも戻らないもないわ。私はその決定権を持ち合わせていないもの」


長兄と次兄曰く、もうジェムナグランにはアウラローゼの居場所はないという。フィルエステルと正式に婚姻を結べば、アウラローゼはオルタニアに籍を置くこととなり、ジェムナグランとの縁は完全に切れる――とまではいかなくとも、その縁は今までよりも一層遠いものとなるだろう。

そうなった時、ジェムナグランに、『里帰り』なんてできるのか。答えなんて決まっている。できる訳がない。フィルエステルと離縁することになったら、ジェムナグランに帰国することもなくはないのかもしれないが、それをあの父王や兄王子達、そしてジェムナグランの国民が許してくれるとも思えない。

そう思うと、もう本当に、アウラローゼの居場所は、オルタニア以外にはないのだと言える。アウラローゼが望むとも、望まざるとも関わらず。でも、もしも許されるのならば、あの優しく甘く微笑む青年の隣に立てたなら。それは、とても――と、そこまで考えたところで、ミラが再び口を開いた。


「フィルエステル殿下は、お優しい方ですね。あの方と出会って以来、姫様はお変わりになられました」

「そう、かしら」

「はい」


こくりと頷くミラに、上手く言い返すことができなかった。変わった、なんて。そんなつもりはないと言いたいのに、否定することができなかった。何故ならばそれはアウラローゼ自身が気付いていて、その上で気付かないふりをしていたことだったからだ。

自分は、アウラローゼ・ジェムナグランは、きっと確かに変わったのだ。他ならぬ、フィルエステル・オルタニアという青年のおかげで。

いいや、おかげ、というよりは、せい、と言ってやりたい気持ちになる。アウラローゼは今更変わりたくなってなかったのだから。

そんな思いを振り切って、アウラローゼはなんとか表情を取り繕って、今度は自分からミラに問いかけた。


「だから? ミラ、貴女、何が言いたいの?」

「姫様。私は、『貴女様に嘘を吐かないことを決めている』と申し上げました」

「? え、ええ、そう言っていたわね」


突然方向転換した話に首を傾げつつ頷いてみせる。そう、確かにミラはそう言っていた。その言葉を聞いた時はさらりと流してしまったけれど、もしやミラにとっては重要な言葉だったのだろうか。どうして今更その話を蒸し返すのだろう。ますます首を傾げるアウラローゼに、ミラは続けた。


「ですがそれは、『本当のことを言わずに黙っている』こととは同意義ではございません」

「……ミラ?」


何やら含むものを感じさせる物言いに、アウラローゼの眉間にしわが刻まれる。女子供であれば怯えて泣き出してしまうかもしれない美貌の鋭い視線にも、“緑青の侍女”と呼ばれる侍女は臆する様子など欠片も見せなかった。ただ真っ直ぐに、その青い瞳でアウラローゼを見つめてくる。



――その時、穏やかだった丘の空気が変わった。



ぴりりとひりつく空気に思わずアウラローゼが腰を上げると、武装した一団が、大きく軍靴を鳴らして丘を駆けのぼってくる。そして彼らは、驚きに固まるアウラローゼとミラの周りを囲い込む。顔は粗末な布で隠しているが、その武装は上等なものであると一目で解る。ここまで近付いてこられるまで気付かずにいた、平和ボケしていた自分に姫君らしからぬ舌打ちをして、腰に下げた細剣にアウラローゼは手をかけた。


「ミラ、私の後ろに下がりなさい」


否やを許さず、ミラを守るようにアウラローゼは一歩前に出た。そして周囲を囲む武装集団を一瞥し、アウラローゼはふと気付く。彼らはただの強盗だの暴漢だのといった類ではない。彼らは、もっときちんと洗練された訓練を受けた者達――すなわち、騎士達だ。

そのことにアウラローゼは大した驚きを覚えることはなかった。むしろ、やっときたか、という思いの方が強かった。何故ならばアウラローゼは知っていたからだ。アウラローゼのことを、王宮騎士団に所属する騎士達の多くが認めてくれてはいるが、あくまでもそれは『多く』であるだけで、『すべて』ではないということ。騎士団の一部は、未だアウラローゼの存在を面白く思ってはおらず、受け入れようとはしない。

その一部の騎士団員達の暴走か、と見当を付けながら周囲を見回すアウラローゼは周囲を一瞥し、そして彼らの間を縫ってアウラローゼの前に現れたその青年の姿に、今度こそアウラローゼは大きく瞠目させられる羽目になった。



「――――ユーゼフ?」

「はい。俺ですよ、アウラローゼ姫」



背後に騎士達を従えて、ユーゼフはいつも通りの笑顔を浮かべた。ネーヴェレーヌ達を木に繋ぎに行くと言ってから、ちっとも戻ってこないと思っていたが、これはどういうつもりなのか。これではまるで、ユーゼフこそがこの騎士達のリーダーであるかのようではないか。


「どういうつもりかしら?」

「どうもこうも、こういうことです」


アウラローゼの低い問いかけに対し、ユーゼフはにっこりと笑って答えた。同時に抜き放たれたユーゼフの剣の切っ先が、アウラローゼの喉元へと突き付けられる。思わずアウラローゼが手に持っていた作りかけの花冠を取り落とすと、ユーゼフは瞳を眇め、その足で花冠を踏み躙った。


美しかった花々があっという間に土にまみれてしまうのを、アウラローゼは自分でも不思議なほどに呆然と見つめていた。

そんなアウラローゼを見つめるユーゼフの表情は、アウラローゼの知る通りの茶目っ気たっぷりの笑顔であるというのに、その深緑色の瞳には、信じられないほど冷たい光が宿っていた。


オルタニアに来てからというもの、ユーゼフの冗談だの悪ふざけだのには、アウラローゼは散々付き合わされていた。けれど、これは違う。ユーゼフは、本気なのだ。本気でアウラローゼを害そうとしていることが解り、アウラローゼは静かにその口を開いた。


「貴方達の狙いが私なのは解ったわ。でも、ミラには手を出さないで」


今ここで心配なのは、自分のことよりも、ミラのことだった。背後にいる彼女の方を振り返ることはできないが、いくら“緑青の侍女”と呼ばれる剛の者たる彼女とはいえ、こんな風に騎士達に囲まれては恐怖だって感じるだろう。アウラローゼだけが狙いならば、ミラのことはここで解放してほしかった。彼女はアウラローゼにとって、数少ない大切な存在の一人であるのだから。

だが、そんなアウラローゼの切なる願いを込めた台詞に対するユーゼフの答えは、アウラローゼにとって、あまりにも予想外なものだった。


「ええ、もちろん。同士に手を出すはずがないじゃないですか」

「…………え?」


ユーゼフが、何を言っているのか。アウラローゼにはその時、すぐには理解できなかった。そして硬直するアウラローゼの隣を、ミラが背後から通り過ぎて、ユーゼフの隣に並ぶ。初めからそうなるのが当たり前であったかのように、ミラは、ユーゼフと共に、アウラローゼと対峙する形でアウラローゼの目の前に佇んだ。


「ミラ?」


自分の声が、自分のものではないようだった。薔薇色の瞳を見開いてミラを凝視するアウラローゼに対し、ミラは長いスカートの裾を持ち上げて一礼してみせた。


「申し訳ありません、姫様。つまりは、こういうことなのです」


ミラの声音は、いつも通りの淡々としたそれだった。何が、『こういうこと』なのか。これは一体、『どういうこと』なのか。アウラローゼには解らなかった。解りたくもなかった。誰よりも近しく信頼してきたミラが、何故自分と相対しているのか。ミラ、ともう一度呼びかけようとしても、言葉が絡まって何一つ声にならなかった。


そんなアウラローゼを憐れむように見つめたユーゼフは、片手を上げて合図した。と、同時に、アウラローゼの背後に回り込んでいた騎士団員がアウラローゼをうなじに手刀を落とす。

途端に、アウラローゼは身体のバランスを崩し、花畑へと崩れ落ちた。なんとか薔薇色の瞳でユーゼフとミラを見上げるが、彼の深緑色の瞳と、彼女の青い瞳からは、何の感情も読み取れなかった。


「すべては我らが“黒鉄王子”の御身のために」

「しばしの間、おやすみなさいませ、“鉄錆姫”様」


ユーゼフとミラのその声を最後に、アウラローゼは完全に意識を手放した。

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