第7幕 王太子殿下はかく語り
さて、一体何がどうしてこういうことになったのか。
アウラローゼは目の前に置かれたティーカップを見下ろして、誰にともなく自問した。温かな湯気に乗って、紅茶の馥郁たる芳香が鼻をくすぐる。水面には、自分の素晴らしい美貌がはっきりとした輪郭を伴って浮かんでいた。
長く濃い睫毛に縁取られた薔薇色の瞳は、ジェムナグランの王族の証。鉄錆色と呼び恐れられる暗い赤茶色の長く波打つ髪は、紅茶の水面に映ってもなお鮮やかだ。
ひとつひとつのパーツが、どれもこれもアウラローゼにとって自慢の一品である。だが、今はそれにうっとりと見惚れている場合ではない。さすが私ね、なんて、思っている場合ではないのだ。
「お気に召さなかったかな? その茶葉が姫のお好みであると侍女からは聞いているんだが」
「いえ、仰る通りです。お気遣い、誠に感謝いたしますわ」
目の前に座っている青年に、アウラローゼは意識的に口元に笑みを刷いた。その言葉に、「それはよかった」と青年――オルタニア第一王位継承者にして、フィルエステルの異母兄であるヴェリスバルト・オルタニアは穏やかに笑った。
妾妃たる母に似たのだというフィルエステルと同じく、ヴェリスバルトもまた生母である今は亡き正妃に似たらしく、整った面立ちの持ち主だった。そしてヴェリスバルトは、顔立ちと共に母から受け継いだのだという生来の身体の虚弱さゆえか、一般的な男性よりももっとずっと線が細く儚い印象をアウラローゼに抱かせた。
本当に、一体何がどうしてこういうことになったのか。
先程抱いたものとまったく同じ疑問を内心で再び繰り返し、アウラローゼはヴェリスバルトに視線で促されるままに紅茶を口に運んだ。
オルタニアに来てから、ミラが手配し用意してくれたものと同じ茶葉の紅茶は確かにアウラローゼの口に合うものではあったけれど、やはりミラが淹れてくれた紅茶が一番だ。だがそのミラは、今はここにはいない。ミラどころか、ヴェリスバルトが連れてきた、この紅茶を用意してくれた侍女もいない。護衛の騎士すらヴェリスバルトは下がらせて、今この王宮の中庭のテラスにいるのは、アウラローゼとヴェリスバルトの二人きりである。
いくら王族の居住区として周辺には特に厳重な警備が敷かれているとはいえ、これはいかがなものか。
本日の公務を終えて、宮廷家庭教師に課された課題をこなしていたアウラローゼをわざわざ内密に呼びつけたヴェリスバルトの真意は読めない。まさかこの人物に私的に呼び出されるとは思ってもみなかったアウラローゼには、この現状は、正に青天の霹靂だった。
紅茶を口に運ぶ傍らで、アウラローゼはそっとヴェリスバルトの顔を窺う。
異母弟であるフィルエステルとは、ヴェリスバルトはあまり……いいや、ちっとも似ていない。フィルエステルは星屑を溶かしたようなきらめきを伴う柔らかな癖毛の黒髪と、大粒の黒蛋白石のような瞳を持つ。だが、ヴェリスバルトのそれらは、父であるグエルフォード王と同じく、日の光を浴びて艶めく鈍色の真っ直ぐな髪と瞳だ。その落ち着いた色合いは、ヴェリスバルトの雰囲気によく似合い、整った顔立ちを際立たせている。だが繰り返すが、同じように整っていても、その面差しはフィルエステルとはまったく違うものだ。
それなのに、何故だろう。
ヴェリスバルトの穏やかな笑顔は、確かに彼がフィルエステルと血が繋がっていることをアウラローゼに改めて思い起こさせるものだった。こんな風に穏やかで柔らかな笑みを、鉄錆姫と呼ばれるこの自分に向けてくれるような相手がまだいたのかとアウラローゼは驚かずにはいられない。
そして、だからこそアウラローゼは、不思議でならないのだ。ヴェリスバルトの笑顔は優しく、自然とアウラローゼに好感を抱かせる。ならば、フィルエステルの笑顔だって似たようなものであるはずだ。好感を抱けるはずである。それなのに何故か、フィルエステルの笑顔はアウラローゼにとって素直には受け入れがたいものだった。
つい先日、それが苦手なばかりのものではなくなったが、だからといっていきなり好きになったという訳ではない。フィルエステルの思惑など知ったことではない。けれど、フィルエステルが笑顔を向けてくるたび、何とも言い難い居心地の悪さを味わわされている。アウラローゼが今まで知らなかったあの笑顔が何であるのかを、アウラローゼは未だに理解できない。厄介極まりないことだ。
脳裏に浮かんだフィルエステルの笑顔に、アウラローゼが思わず眉を顰めると、ヴェリスバルトはふと笑みを深めて首を傾げてみせた。
「私の顔に何か付いているかな?」
その穏やかな問いかけにはっとアウラローゼは息を呑む。ヴェリスバルトは気分を害した様子はないが、自分が礼を欠いた真似をしてしまったことには変わりはない。
いくら緊張しているからとはいえ、らしくもない失態を犯してしまった自分を悔やみながら、ティーカップをソーサーの上に戻し、アウラローゼは慌てて首を振る。
「いいえ、失礼いたしました。とても魅力的なお顔立ちをされていると思いまして」
「おや、姫のようなお若い美少女にそう言ってもらえるとは、私もまだ捨てたものじゃないね」
「御冗談を。ヴェリスバルト殿下こそ、まだまだお若くいらっしゃいましょう」
「生憎、残念ながらこの身体は年齢通りには動いてくれなくてね。世間一般で言う『年齢通り』とはいかないものだ」
フィルエステルより七歳年上であり、アウラローゼにとっては十歳年上、つまりは現在二十七歳であるヴェリスバルトは、そう言って実年齢にそぐわない、落ち着きに満ちた笑みを浮かべた。
そこには嫌味も皮肉もなく、ましてや自身の身体の弱さを悲観している様子もない。ただ事実を事実として述べているだけにすぎないのだという達観があった。
だからこそ余計にアウラローゼは不思議に思わずにはいられない。質問していいものか、と悩んだのは数拍に満ちない間だった。ヴェリスバルトの穏やかな笑みに促され、ためらいがちにアウラローゼは口を開く。
「その、よろしいのですか?」
「何がだろうか」
「失礼ながらヴェリスバルト殿下ご自身の仰る通り、そのお身体は決してお強くはいらっしゃらないと聞き及んでおります。このように私にお時間を割いてくださるなんて……」
噂では、ヴェリスバルトは普段、ほとんどの時間をベッドの上で過ごし、公務すら寝室で行い、常に侍医を側に控えさせて生活していると聞く。今回の二人きりのお茶会だってそうだ。アウラローゼとヴェリスバルトが二人きりになることに侍医は難色を示し、一声上げればすぐさま駆けつけてくれる距離に侍医が待機することを許すということで何とかこのお茶会は決行されたほどなのである。
彼にとってまともに起きていられる時間というものは、大層貴重なものであるに違いない。にも関わらず、わざわざ異母弟の婚約者などというものと二人きりになって話したがるなんて、何を考えているのか。
せめて室内ならばよかったのかもしれない。健康体のアウラローゼですら、この日光には若干思うところがあるのだ。アウラローゼがそう思う理由は、自らの自慢のきめ細かな白い肌が日に焼けてしまうなんてごめんだという、非常に偏った意見からではあるのだが、ヴェリスバルトの場合は、もっと深刻な理由だろう。
周囲の心配と制止、そしてアウラローゼの困惑をよそに、ヴェリスバルトは異母弟そっくりな穏やかな笑い方で笑みを深めた。
「心配は無用だとも。今日はとても気分がいいんだ。ずっと部屋に閉じこもりきりでは、そちらの方が身体には毒だろう。それに、私は君とどうしても話したかったからね」
「私とですか?」
「ああ、そうだ。他ならぬ君と何としても直接話したかったのだよ、アウラローゼ姫」
微笑みながらそう続けるヴェリスバルトに、アウラローゼは無意識に首を傾げた。わざわざ二人きりで話したいことととは何だ。もしや、悪名高い“鉄錆姫”の噂の真偽を確かめにでもきたのだろうか。
そう内心で疑問を浮かべ、すぐにアウラローゼは答えを出した。そんなこと、考えるまでもない。“鉄錆姫”の噂なんてきっとこの青年には些末に過ぎない。それよりもっと重要なことがある。ヴェリスバルトと自分の共通の話題なんてたったひとつ――たったひとりに関することしかない。
「フィルエステルと随分仲良くしてくれているようだね」
やはり彼のことか。ヴェリスバルトが口にした予想通りの名前は、アウラローゼが驚くに値しないものであった。
脳裏に浮かんだ青年の笑顔にアウラローゼは内心で舌打ちする。黒蛋白石の瞳が、何故か眩しげに細められてこちらを見ていた。
――――アウラ
そう自分のことを呼ぶフィルエステルの優しい声を振り払い、何でもない様子を装って、楚々とアウラローゼは微笑んでみせた。
「そうですわね。大変良くしていただいております」
「なんでも先日は鍛錬場で剣を交えたのだだとか。あのフィルエステルから一本取ったとは驚きだ。君は容姿ばかりではなく、剣の腕も優れているのだね」
「お褒めに与り光栄ですわ」
先日の一件は早くもヴェリスバルトの耳にまで届いていたようだ。気が付けば王宮の噂はその件について持ち切りとなり、気付けば城下まで伝わっていると聞く。それだけ国民の、“黒鉄王子”と“鉄錆姫”に対する関心は高いということだろう。
あの件については、フィルエステルがアウラローゼのことを思って一芝居打ってくれたのだ。そうアウラローゼは認識している。
フィルエステル本人の言葉をそのまま信じるのであれば、あれは決して芝居などではなく、アウラローゼは確かに自らの力で彼から勝利を勝ち取ったということだが、アウラローゼとしてはそれは半分しか信じていない。それはアウラローゼが自身の剣術の腕前を正当に評価しているからである。剣の腕はいつしか自身の自慢の一つとして数えるにやぶさかではないものとなっていたが、だからこそそれを過信し慢心することなどできない。
そんな“鉄錆姫”のの噂について、フィルエステルが目論んだ通りに好意的に捉えているのは現場を目撃した騎士達ばかりである。
残りの人々は、「あの黒鉄王子が鉄錆姫などに負けるはずがない」と眉唾物の噂として笑い飛ばすか、はたまた「やはり鉄錆姫は鉄血女王の生まれ変わりで、黒鉄王子の血を求めているのだ」と震え上がるかのどちらかだ。
それを良しとするか悪しとするかの結論は、未だアウラローゼの中で出てはいない。どうせこれ以上悪くなりようもないと思っていた自分の評判がますます悪くなったとしても今更傷付くものか。
それよりもむしろ、あれ以来やけに騎士達が好意的に一礼してくるようになったことの方がよっぽどアウラローゼを困らせている。そこまでフィルエステルが読んでいたかどうかは知らないが、もしこうなることを予測していたならば、随分と底意地の悪い真似をしてくてくれるものだ。
――――“黒鉄王子”の名に懸けて。これからは私が、アウラのことを守るよ
常ならば凪いだ湖のように穏やかなばかりの瞳に、焔のような確かな熱を孕んで告げられた、あの言葉。忘れようにも忘れられない。忘れられるはずがない。あのたった一言に泣きたくなった。どんな罵詈雑言よりも、よっぽど深くアウラローゼの心に切り込んできたあの言葉。まるで昔からアウラローゼのことを知っているような口ぶりでアウラローゼにそう誓ったフィルエステルの真意など解るはずもなく、あの日からずっとアウラローゼはもどかしくてならない。たかが政略結婚なのに、どうして、あの青年は。
そんなアウラローゼの内心に気付いているのかいないのか、ヴェリスバルトは穏やかにまた笑ってじっとアウラローゼの顔を見つめた。
「流石、フィルエステルが自ら、なんとしても妻にと望んだだけあるようだ」
「フィルエステル殿下が、ご自分から?」
純粋な称賛が込められて告げられたヴェリスバルトの言葉は思いの外、意外な響きを伴ってアウラローゼの耳に届いた。
フィルエステルが何を言ったとしても、結局自分とフィルエステルの婚姻はジェムナグランとオルタニアの上層部同士の間で何らかの取引が行われた結果であり、政略結婚に過ぎないものであると思っている。
フィルエステルとて王族の一人だ。自身の婚姻がいずれ何を招くことになるかを理解していないはずがない。その上で自分のような美しい姫君を得られるなんて彼は随分と果報者だと皮肉混じりにアウラローゼはこのオルタニアにやってきたばかりの頃に思ったものである。
繰り返すが、たかが政略結婚だ。政略結婚で“黒鉄王子”を得られる自分もまた幸せ者なのだろうとアウラローゼは他人事のように思っていた。
そのはずだったというのに、ヴェリスバルトの先程の発言は、そんなアウラローゼの考えを根底から覆すものだった。
「おや、聞いていなかったかな。君とフィルエステルの婚姻は、フィルエステルたっての希望だよ。今まで国内外を問わないあらゆる貴族の令嬢や姫君からの申し出をことごとく断ってきたのは、すべてこのためだったらしい。実際に君を見て確信した。きっと君ほど、我が弟に相応しい女性はいないだろう。私も後押しした甲斐があったというものだ」
くつくつと喉を鳴らすヴェリスバルトに、アウラローゼはなんと言ったらいいのか解らなくなる。
「何故、後押しなんて」
結局口から出たのは、間抜けな声だった。自分でもそうと解るほどに、呆然とした声だった。けれどだからこそそれは、アウラローゼの掛け値なしの本音であると言えた。
だってそうだろう。ジェムナグランもオルタニアも大国だ。平和条約が締結された国々の繋がりをより強固なものにするため――すなわち、アウラローゼが婚姻という形で人質になるためというにはまだ理由としては不十分だ。両国に大した益もない婚姻など、どんな意味があるというのだろう。アウラローゼには解らなかった。
“鉄錆姫”と呼ばれ忌まれる自分の使い道なんて、ジェムナグランにとっては婚姻くらいしかないだろうと思い、だからこそこうしてオルタニアにやってきた。
【鳥待ちの魚】の「幸せになれ」という言葉に対し、「できる限りがんばってみる」とは答えたものの、それは精一杯の虚勢だった。どうせどこでも何も変わらないと思っていた。
それなのに、アウラローゼの周りは少しずつ、そして確実に変わっていく。他ならぬ、フィルエステルという青年の手に導かれて。そんな彼の願いを後押ししたのが、目の前にいるヴェリスバルトだという。
どういうことかと薔薇色の瞳にありありと戸惑いを描いて問いかけるアウラローゼに、ヴェリスバルトは微笑む。
やっぱりそれは、フィルエステルとそっくりな笑顔だった。
「君との婚姻は、フィルエステルが私に初めて言った我儘だったから。頼ってくれたのが嬉しくてね。何としても叶えてあげたかった」
「我儘?」
なんだそれは。我儘一つで一国の王子たるものが、二人そろって結婚という重要な戦略を一つ無駄にするというのか。
答えを得たはずだというのに、アウラローゼはますます意味が解らなくなる。
ヴェリスバルトは両手の細い指を絡ませてテーブルの上に置き、ふいにその笑みを消した。真っ直ぐな鈍色の瞳が凛とした光を放つ。それは確かに、大国の王太子として相応しいものであるとアウラローゼに思わせる光だった。
「きっとフィルエステルは、これから私が話すことを君には言わないつもりだろう。フィルエステルのことを後押しするつもりは無いが、それでは公平ではないと私は思う。どうか聞いてもらえないだろうか」
「は、い」
何を言われたとしても、これ以上驚くことはあるまい。そんなアウラローゼの予測は、次のヴェリスバルトの言葉に、あえなく粉砕されることになった。
「これはまだ表沙汰にはしていないのだがね。フィルエステルは、君と結婚するために、父と私の前で、内密に王位継承権を放棄したのだよ」
「……え?」
何を言われているのか、アウラローゼには理解できなかった。
完全に思考を停止させ、その停止した思考と共に身体も表情も硬直させるアウラローゼに対し、ヴェリスバルトは微笑みながら紅茶を口に運ぶ。そして彼は、ふう、とゆっくりと一息ついてから、アウラローゼを改めて見つめた。
「私達の母達の出自を、それぞれ知っているかな」
「ヴェリスバルト殿下の母君は、この国の侯爵家の御令嬢でいらしたと。そしてフィルエステル殿下の母君は、その、平民出の、オルタニア教会の修道女でいらしたと聞いております」
呆然としながらも、アウラローゼはヴェリスバルトの唐突な問いに即座に答えた。驚きすぎると一周回って冷静になるものなのかもしれない。アウラローゼの脳裏に、ヴェリスバルトへの答えへの詳細が浮かぶ。
ヴェリスバルトの母である侯爵家令嬢は、幼い頃からのグエルフォード王の婚約者であったという。二人は定められた通り互いを支え合い、婚姻を結び、そうしてヴェリスバルトはこの世に生を受けた。
そして、フィルエステルの母は、オルタニア教会と呼ばれる宗教団体の修道女であった。それも、貴族出身でも何でもない、何の後ろ盾もない平民出身の、若き身空で入信した女性である。
そもそもオルタニア教会とは、その名の通り、オルタニアの守護神である戦女神オルティニーヤを祀る組織の総称だ。処女神であるかの女神に仕える修道女であったフィルエステルの母の洗礼名はティエラ。グエルフォード王との大恋愛の末の結婚と、その後フィルエステルを産んで命を落とした彼女の人生は、今なお国民達の間における語り草だ。
そのドラマチックな生まれもまたフィルエステルの人気に一役買っているであろうことは容易に想像ができた。誰もに愛され慕われる“黒鉄王子”となるには、その生まれからして只人とは異なるものでなくてはならないらしいと、アウラローゼはいっそ感心したものである。
本当に何から何まで“鉄錆姫”と呼ばれる自分とは大違いのフィルエステルと何故結婚などという運びに至らなくてはならないのか。
アウラローゼは考えるたびにつくづく不思議でならなかった。
そうだ。不思議でならなかったのだ。何故。どうして。何度その質問を繰り返したことだろう。そしてその質問は、今この瞬間に、いよいよはっきりとした形を伴ったものとなった。
黒鉄王子が、鉄錆姫と結婚するために王位継承権を放棄した、だと?
そんな馬鹿なという話にも程がある。
御冗談を。そう改めて先程と同じ台詞を繰り返して笑い飛ばそうとしたアウラローゼは、その言葉をそのままごくりと飲み込んだ。ヴェリスバルトの表情は微笑んではいたが、その鈍色の瞳は極めて真剣なものであったせいだ。
代わりの言葉を探してはくはくと打ち上げられた魚のように何度も口を開閉させても、そこからは空虚な吐息が漏れるばかりで、何の言葉にも、音にすらもなりやしない。結果として沈黙することしかできないアウラローゼに、淡々とヴェリスバルトは続けた。
「その通りだ。では、彼女達二人の共通点は?」
ヴェリスバルトの母君と、フィルエステルの母君。大きく立場の異なる二人だけれど、この二人には確かな共通点がある。それは。
ごくりと息を呑むアウラローゼの前で、ヴェリスバルトは一つ頷いた。
「お察しの通り、私の母も、フィルエステルの母も、私達を産んだ直後、それぞれその命を落としている。どちらも出産に身体が耐えられなかったからだと言われているね」
わざわざ説明されなくとも、アウラローゼにとってその情報は今更過ぎる情報であった。二人とも、感動的な悲劇のヒロインとして今なおオルタニアの国民に慕われ、その墓標に供えられる花が絶えることはないという。
それは、アウラローゼの母とも通じるものであった。アウラローゼを産んだことで身体を弱くし儚くなったアウラローゼの母もまた今なおジェムナグランの国民に慕われている。そしてだからこそそんな彼女の死の原因になったアウラローゼは、ジェムナグランの国民に厭われているのだ。やはりヴェリスバルトやフィルエステルとは大違いだと思う。
だが、今はそんな自分のことなどどうでもいい。それよりもフィルエステルだ。彼の母君の死がどうして自分とフィルエステルの婚姻に繋がり、しかもそのためにフィルエステルが王位継承権を放棄するに至るのか、アウラローゼにはさっぱり解らなかった。
「私の母は確かに生来の虚弱さゆえに命を落とした。だが、ティエラ妃は違う。彼女はフィルエステルを産み落とした直後、自らその命を絶ったんだ」
自分の瞳がますます見開かれていくのを、アウラローゼは他人事のように感じた。こんな間抜け面、美しい自分には相応しくない。そんなことは解っている。だが、それでも表情を取り繕うことがアウラローゼにはできなかった。
自ら命を絶った、とは。それは、フィルエステルの穏やかな笑顔からは想像もできないような事実だった。
知らず知らずのうちに膝の上で手を握り締めるアウラローゼを、凪いだ瞳で見つめ、淡々とヴェリスバルトは言葉を紡ぐ。
「貞潔を是とするオルタニア教会の修道女であったティエラ妃を、父は地方への視察の際に見初め、無理矢理娶ったんだ。やがてティエラ妃は身ごもり、フィルエステルを産んだ。そしてその直後、ティエラ妃は戦女神オルティニーヤに忠誠を示すために、自ら殉じることを選んだ」
「そん、な」
「フィルエステルは本当にティエラ妃とそっくりだ。ティエラ妃は美しい人だった。そして、誰よりも敬虔なオルティニーヤの信者だった。修道女がもっとも守るべき純潔を奪った父をいつしか愛してしまったことに苦しみ、孕んだ子供を殺すこともできず、自ら命を絶つことでやっと楽になれたのだろう。彼女の死に顔は、それは穏やかなものだった」
言葉が見つからないアウラローゼを置き去りに、ヴェリスバルトは、その鈍色の瞳を、どこか遠くを見つめるように細める。
「ティエラ妃を何よりも愛した父はフィルエステルを見ることはなくなった。ティエラ妃の死は醜聞として秘匿され、世間には君も知っての通りの話を通したんだ」
ヴェリスバルトの言葉には、今は遠き過去を懐かしむ響きが込められていた。懐かしみながら、ヴェリスバルトは確かに過去を悔やんでいた。表情はどこまでも穏やかであると言うのに、そこには確かな悲しみがあった。
気が付けばアウラローゼが膝の上で握り締めた拳は震えていた。それをゆっくりと解き、気を取り直すように紅茶を口に運ぶ。何故だか味を感じなかった。それでも、唇を湿らせのどを潤すことで、なんとか言葉を紡ぐに至る。恐る恐るアウラローゼは口を開いた。
「フィルエステル殿下は、ティエラ妃の死因をご存知なのですか?」
「ああ、もちろん知っているよ。知っているからこそ、フィルエステルは何も求めなかった。ずっと……本当にずっと、彼は何もかもを諦めていた。子供が一番求め、そして一番与えられるべき親からの愛情を得られなかったのだから当然だろう。だがね」
そこまで言って、ヴェリスバルトは一旦言葉を切り、またくつくつと喉を鳴らした。「これはこれで秘密なんだが」と人差し指を一本立てて唇に寄せる。
「それがある時をきっかけに、何をしても欲しいものがあると私に相談してきたんだ。それが彼が私に言った、初めての我儘だ」
「ある時?」
「ああ。叶えてあげるまでに、随分と時間がかかってしまったがね」
アウラローゼがそれが何なのか聞きたがっていることに気付いていないはずがないというのに、ヴェリスバルトは一つ頷いただけでそれ以上言葉を連ねようとはしなかった。
ある時とは何なのだろう。何としても欲しいものとは何なのだろう。前者はアウラローゼが知りようもないことではあるが、後者はなんだか解るような気がした。解らないでいられるほどアウラローゼは鈍くはない。フィルエステルが、何をしても欲しがったもの。それは。
「兄上! アウラ!」
アウラローゼが疑問の答えを自らの中で出すよりも先に、背後から思考に割り込んできた声があった。ここ最近ずっとアウラローゼの心を占めていたその声は、常ならば穏やかな柔らかい声音であるというのに、今は何故か硬質な響きを伴っていた。
ヴェリスバルトがアウラローゼの向こうへと視線を向け、それを追いかけてアウラローゼもまた肩越しに背後を振り返る。そこには、予想通りの青年が、予想外の表情を浮かべて、息を切らせながら立っていた。
「おや、思いの外早かったな」
「いずれ自分の妻となる姫君を、他の男と二人きりにしておけるほど、私は心が広くはないもので。兄上、お戯れもほどほどになさってください」
感心したように呟くヴェリスバルトに、ようやく息を落ち着けたフィルエステルは疲れたように溜息を吐いた。ヴェリスバルトはそんなフィルエステルに対して面白そうに笑うばかりだ。
「そう言うな。かわいい弟の妻となれば、私にとっては義妹になる女性だ。親交を深めたいと思うのは当然だろう」
「でしたらせめて私が承知してからにしていただけませんか?」
「そうは言っても、お前は反対するだろうに」
「それは否定しませんが」
「だろう?」
じろりとフィルエステルに睨まれても、ヴェリスバルトの笑顔は崩れない。それどころかますます楽しげに笑みを深めるのだからフィルエステルとしてはたまったものではないのだろう。彼は二度目の溜息を小さく吐いた。
「もういいでしょう。私とアウラはここで失礼させていただきます」
「ああ、構わないよ。アウラローゼ姫、付き合ってくれてありがとう」
「い、いいえ。こちらこそ貴重なお時間をありがとうございました」
フィルエステルに促され、アウラローゼは椅子から立ち上がった。アウラローゼの手を取って、フィルエステルはヴェリスバルトに一礼した。
「兄上、どうかお身体にお気を付けて。また改めて伺わせていただきます」
「ならば、とっておきのワインを用意しておこう」
「それは楽しみです。行こう、アウラ」
「え、ええ。失礼致しますわ、ヴェリスバルト殿下」
フィルエステルに掴まれていない方の手でドレスの裾を持ち上げて一礼するアウラローゼに、ヴェリスバルトはひらりと手を振って答えた。だがそれをアウラローゼが最後まで見ることは叶わなかった。フィルエステルがアウラローゼの手を掴んだまま足早に歩き出したからだ。
アウラローゼはフィルエステルに引きずられるようにフィルエステルの後を追う。履き慣れた高いヒールの靴で今更転ぶことなどない。しかしそれでも強く手を掴まれて引っ張られ続けるのは辛いものがある。人目のない回廊に差し掛かった辺りで、アウラローゼは立ち止まって、掴まれた手を引っ張った。
「ちょっと、いい加減痛いわ。そろそろ離してちょうだい」
非難の込められたアウラローゼの言葉に、はっとしたようにフィルエステルもまた足を止め、気まずそうな顔でアウラローゼの方を振り返った。
「……ごめん」
「解ってくれたならいいわ。次はないけれど」
「うん。ごめん」
短く謝罪を繰り返したフィルエステルの顔を、じっとアウラローゼは見上げた。美しい薔薇色の瞳にも気圧されることなく、その黒蛋白石の瞳で真っ直ぐにアウラローゼを見つめ返して、フィルエステルは困ったように笑った。
「君が兄上に呼び出されたとミラから聞いて驚かされたよ。あの人のことだから滅多なことなどないと思うけど……大丈夫だった?」
「ええ、見ての通りよ。それよりも」
「それよりも?」
「貴方、お馬鹿さんなのね」
アウラローゼの声音が心底呆れ返ったものであると解らない者はいないだろう。それくらいにアウラローゼの声音には、明らかに感情が滲み出ていた。
フィルエステルのことを苦手だと思っていた。いつの間にか苦手ばかりではなくなったけれど、それはそれとしても、随分変わった青年だとは思っていた。だが、ここまでくるともう『変わっている』という言葉だけでは表現できない。『馬鹿』という一言がきっともっと相応しいに違いない。
アウラローゼの言葉に、フィルエステルは黒蛋白石の瞳を、大きく、まんまるに見開いた。
その後しばらくそのままでいたかと思うと、今度はぱちぱちと何度も瞳を瞬かせ、そうしてアウラローゼのことを驚きも露わに凝視する。
アウラローゼの知る限り、この青年はいつだって余裕ぶっていた。その態度を崩したところなんてアウラローゼは見たことが無い。それが悔しくてならなかった。
だが、こうしてやっと、ようやくフィルエステルが動揺している姿を見ることができた。呆れという感情は変わらないけれど、同時に不思議と嬉しいとも感じる。自分で自分が理解できず、アウラローゼは非常に複雑な気分に陥る。
そんなアウラローゼに対し、フィルエステルはこれまた何故か嬉しげに破顔した。
「――――うん。やっぱり君は君だった」
心底嬉しげなフィルエステルを、なんとも言い難い気持ちで見上げながら、アウラローゼは「どういう意味かしら?」と低く問いかけた。
ああ、ほら。まただ。またこの青年は、アウラローゼの知らないアウラローゼを見ている。それが何故だか悔しく想える。アウラローゼの知らないアウラローゼが羨ましい。そんなアウラローゼの思いに蓋をするように、フィルエステルは「なんでもないよ」と微笑んだままかぶりを振った。そうしてアウラローゼは、フィルエステルにそれ以上問いかけることができなくなるのだ。
気付かれないようにアウラローゼは拳を握り締める。この青年が美しいと評した手は、今は元々白い肌が更に白くなるほどに強く握り締められ、その整えられた爪が手の平に突き刺さっている。けれど痛くはない。本当に痛いのは、もっと別の場所だ。
そんなアウラローゼに気付いているのかいないのか、今度はフィルエステルの方がアウラローゼに質問を投げかけてきた。アウラローゼにとっては、もどかしくてならないような質問を。
「どうして私が馬鹿なのかな。一応これでも一通りの勉学は修めているのだけれどね」
「嫌ね。そういう問題じゃないってこと、解ってるくせに。どうしても何もないわよ。私と結婚するために、王位継承権を放棄するなんて、正気の沙汰とは思えないわ」
直球で本題を切り出せば、フィルエステルはその整った眉を困ったように下げ、嬉しげだった笑顔を苦笑へと変えた。
「兄上から聞いたんだね。あの人も困った人だな」
「貴方ほどではないでしょう」
「そうかな」
「そうよ」
キッと眉尻を吊り上げるアウラローゼに、フィルエステルは「弱ったな」とちっともそうは聞こえない口ぶりで呟き、頭を掻いた。だが、それでごまかされるものか。
どういうつもりであるのかはっきりその口から説明されるまで納得する気などない。そんな意思を宿らせた瞳でアウラローゼはフィルエステルを睨み上げる。
やがてしばしの沈黙の後に、ようやく観念したようにフィルエステルは口を開いた。
「元々、私の王位継承権については今後のオルタニアにおいて火種にしかならない事案だったんだ。遅かれ早かれ私は放棄するつもりだったし、放棄しなくてはならなかった」
「ッだからって!」
確かに、国内外から人気の高い“黒鉄王子”の方が虚弱な王太子よりも王に相応しいと囁く声は少なくはない。その囁きはオルタニアに来てからわずか一か月のアウラローゼですら何度か耳にしたことがあるほどだ。今のところ表面には浮上していないようであるが、やがて王太子派と黒鉄王子派に上層部が二分されるであろうことは容易に想像できる。それは平和な国に影を落とすには十分すぎる理由だ。だが、だからと言って王位継承権を放棄するのはやりすぎだろう。
“鉄錆姫”と呼ばれるアウラローゼですら、ジェムナグランの第三王位継承権を持っている。フィルエステルが、王族にとっての王位継承権の意味を理解していないはずがない。だというのに彼は、その王位継承権を捨てたのだという。それはアウラローゼにとっては信じられない事実だった。
そんなアウラローゼを、気付けばフィルエステルはいつものように穏やかに見下ろしている。黒蛋白石の瞳に浮かぶのは、アウラローゼの居心地を悪くする、柔らかく、優しく、甘い光だ。
「私はね、アウラ。兄上が治めるオルタニアが見たいんだ。私が治めるよりも、もっとずっと豊かな国に導いてくれるだろうから。それになにより、私には王位よりももっとずっと欲しいものがあった」
それは、驚いたことに、ヴェリスバルトが言った台詞と似通った台詞だった。フィルエステルが何をしても欲しがったもの。王位よりももっとずっと欲しがったもの。どちらも示すものは同じ。それは。
「君だよ。王位よりも君が――――アウラローゼが欲しくて欲しくて仕方がなかったんだ」
アウラローゼの中で出た結論と、フィルエステルの言葉が重なった。フィルエステルが求めているのは、他ならぬ、この自分だ。フィルエステルが躊躇うことなく断言したその言葉に、アウラローゼはカッと胸の奥が熱くなったような気がした。
「……それだけ?」
気弱な声になってしまったのは失敗だった。いつもと同じように、「この美しい私を欲しがるのは当然よ」とでも言えればよかったのに。そう思ってももう遅い。一度口から出てしまった言葉はもう元には戻らない。
迷子になってしまった子供のように頼りない声に、フィルエステルはその手を伸ばしてアウラローゼの頬を撫でる。
フィルエステルのその手にすべてを明け渡してしまいたくなる衝動に襲われ、それをアウラローゼは必死に押し殺した。そんなのは自分の矜持が許さなかった。けれどそんなアウラローゼの意地すらも、フィルエステルは優しく穏やかに、それでいて有無を言わせずに受け止めようとするのだ。
「君にとってはそれだけのことかもしれなくても、私にとっては命を賭けるにも値する理由さ」
「本当、お馬鹿さんね」
「うん。私は馬鹿なんだ」
特に、君に関しては。そう大真面目に言い放つフィルエステルに、アウラローゼはとうとう笑った。馬鹿だ。本当に馬鹿だ。こんなにも馬鹿な存在、きっと他にはいないに違いない。こんなとんでもない馬鹿を前にして、笑う以外に何ができると言うのだろう。
次から次へと笑みが込み上げてきて、その衝動の命ずるままに、アウラローゼはくすくすと声を上げて笑った。こんなにもおかしくてならないのは何年ぶりだろうか。それはアウラローゼが久々に浮かべた、心からの笑みだった。
そうして心ゆくまで笑ったアウラローゼは、ふいに気付いた。フィルエステルが、何の反応も示していないことに。
あら?と小首を傾げてフィルエステルを改めて見上げ、アウラローゼは先程のフィルエステルのように目を丸くした。
アウラローゼの視線の先で、フィルエステルは硬直していたのだ。その整った顔立ちを固まらせて、彼はじっとアウラローゼを見つめていた。
どうしたのかしら、とアウラローゼが首を傾げてみせると、フィルエステルはさっと口元を押さえて顔を背けた。
「フィル様?」
「何でもないよ。だからちょっとだけ、こっちを見ないで」
よくよく見てみれば、フィルエステルは、その顔を耳まで赤く染めていた。今までどれだけ自身が恥ずかしい台詞や行動をしてきたのか解っていなかったのだろうか。アウラローゼの笑顔一つで、こんなにも赤くなってこんなにも動揺するだなんて。
なんだかこちらまで恥ずかしくなって、アウラローゼは俯いた。ああ、顔が熱い。
そうして二人は、いつまで経っても帰ってこない主達を探しにきたミラとユーゼフに発見されるまで、その場で揃いも揃って顔を赤くしていた。