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第6幕 君こそ美しきもの

アウラローゼの不遜ともいえる言葉に対し、フィルエステルはと言えば、「それは怖いね」と本気とは思えない口調で呟くばかりだ。そして、まるで幼い子供のように、その小首をあどけなく傾げてみせた。


「着替えてこなくてもいいの?」

「ええ、このままで結構」


アウラローゼは即答した。今更気取ってみせたって意味はない。アウラローゼはいつだって、自分が一番美しいと思う姿をするようにしている。それはドレスしかり、宝飾品しかり、化粧しかり、どれもに言える話である。一国の王女としてばかりではなく、一人の女として、最も美しい姿で戦うことこそ、この自分に相応しい。

周囲の騎士達の纏う雰囲気が、呆れと怒りが入り混じるものになった。「フィルエステル殿下を馬鹿にしている」。「所詮お姫様のお遊びだ」。そんな台詞が聞こえてくるようだ。

言いたい奴は好きに言わせておけばいい。そうして、この後で吠え面をかくことになるのは自分達よ、と内心で吐き捨てて、フィルエステルに導かれるままに、アウラローゼは武器庫へと向かう。


「獲物はどれにする?」

「これを二振り借りるわ」


武器庫の近くにいた騎士が恐る恐る並べた武器の中から、アウラローゼは迷うことなく小振りな細身の剣を二振り手に取った。そしてそれを一振りずつ両手にそれぞれ持つアウラローゼの姿に、フィルエステルが感心したように頷いた。


「へぇ、二刀流か」

「卑怯かしら?」

「いいや? これは楽しませてくれそうだね」


笑顔でのんびりとフィルエステルはそう続け、自らもまた騎士から模造剣を受け取った。アウラローゼはむっと柳眉を顰める。これは何としても叩きのめしてあげなくては気が済まない。

そう改めて心に決めたアウラローゼと、穏やかに微笑むばかりで真意の読めないフィルエステルは、それぞれの得物を手に向かい合った。アウラローゼはゆっくりと双剣を構えてフィルエステルを睨み据える。対するフィルエステルはと言えば、構えることもせずに、ただ剣を片手に持って立っているだけだ。


「さて。それじゃあ、どこからでもどうぞ」


泰然とそう言って微笑むその整った顔が憎たらしい。どこまで舐めてくれるのか。ふつふつと湧き上がる怒りのままに、じり、とアウラローゼは片足を一歩踏み出す。


「そうさせていただくわ、ねっ!」


言い切ると同時に、アウラローゼは地を蹴った。それは、高い踵の靴を履いているとは思えないほどに俊敏で身軽な動きだった。

周りの騎士達がどよめくが、そんなことなどもうアウラローゼの耳に入ってはいない。騎士達が瞠目するのを後目に、アウラローゼはフィルエステルに切りかかる。キィンッ!と高く金属と金属がぶつかり合う音が響き渡った。


「なるほど。確かな腕だ」


片手で持つ剣でアウラローゼの双剣を受け止めるフィルエステルは、穏やかな笑みを湛えたままそう呟いた。チッとアウラローゼは舌打ちしてその笑顔を睨み付ける。余裕ぶっていられるのも今の内だけだ。

最初の一歩目の勢いのままに、アウラローゼは両手の刃を繰り出す。まるでワルツのステップでも踏むように、二、三と次々に剣を振るう。そのたびにミッドナイトブルーのドレスの裾が、大輪の薔薇の花弁のごとく翻った。青い薔薇は奇跡を意味するという。騎士達の誰もが、その光景に無意識に目を奪われていた。ヒュウッとユーゼフが口笛を吹き、ミラが無表情ながらもどこか誇らしげに一人頷く。


アウラローゼの剣術は、重い一撃を放つことよりも、速く回数を重ねることに重きを置いたものだ。

純粋な力ばかりに頼っては、いくら筋力を鍛えようとも、体重の軽い自分には限界があることをアウラローゼは理解している。ならば、相手に打たせなければいい。どれだけ相手の一撃が重かろうとも、打つ間もなくアウラローゼがその剣戟を振るえば勝利は必ず掴める。

アウラローゼに剣術を指南してくれた存在――【鳥待ちの魚】はそう言っていた。

自身が持つ奇跡の力に頼ることなく剣を取ることを好んだ彼の言うことが間違っていたことなんて一度もなかった。あの言葉を信じて剣の腕を磨き続けてきたのだ。


刃がぶつかり合う音が高らかに幾度となく鍛錬場に響き続ける。アウラローゼの猛攻に対し、フィルエステルが反撃してくる気配はない。そんな暇など与えない勢いで剣を振るっているのだから当然だ。


だが、しかし。


アウラローゼは剣を振るいながらギリッと歯噛みをした。いくら攻めようとも、決定打には至らないのだ。フィルエステルの笑みは崩れない。攻めてはこないが、完全に攻撃を流され防ぎ切られている現状が歯痒い。アウラローゼの体力は、徐々に、だが確実に削られていく。

自分の剣は速攻で勝利を収めることを良しとするものであるとアウラローゼは思っている。このまま攻め続けても、体力を消耗して打ち取られるのが関の山だ。

盛大に再び舌打ちをし、一旦フィルエステルと距離を取る。アウラローゼは薔薇色の瞳を爛々と燃え盛らせてフィルエステルを睨む。フィルエステルはそれを眩しげに目を細めて見返した。彼の口元の笑みが深まる。

黒蛋白石の瞳に、初めて好戦的な光が宿った。思わず息を呑むアウラローゼを見据えたまま、フィルエステルは剣でひゅんと宙を斬る。


「そろそろ私も、皆にいいところを見せないとね」

「ッ!」


それは、一瞬だった。たんっと地を蹴りほぼ一足飛びで自らの間合いを取ったフィルエステルは、アウラローゼがぎりぎりで構えることができた剣を打ち据える。硬質な、甲高い音が響き渡る。それはまるで、アウラローゼの双剣が上げた悲鳴のようだった。かろうじてアウラローゼは剣を手放さずに済んだが、それでもびりびりとしたしびれが手に走る。アウラローゼが体勢を整えるを待たずに、フィルエステルは剣を振るった。


フィルエステルの剣はひとつひとつが重い上に速い。アウラローゼの力では、一撃でもそれをまともに受け止めたら即潰されるに違いない。両手の剣でなんとか受け流すが、徐々に後退させられていく。

先程までアウラローゼの剣を受けるばかりでちっとも攻めてこようとしなかったのは、アウラローゼの実力を測るためか。それはアウラローゼとフィルエステルの間に、絶対的な実力差があるからこそできることだ。アウラローゼがどれだけ攻めてこようとも、フィルエステルにはそれを防ぎ切る自信があったのだろう。

そして今こうして彼は、アウラローゼを追い詰めている。自分とフィルエステルの実力の差が圧倒的であることに気付けないほどアウラローゼは弱くはない。それなりに剣の腕が立つことを自負しているアウラローゼだからこそ、“黒鉄王子”の名は飾りではないということを思い知らされる。


だが、まだだ。既に息が切れ始めていようとも、まだ勝負は何一つ決まってなどいない。諦めない。諦めてたまるものか。諦めた瞬間こそが敗北だ。諦めなければ勝機は必ず掴める。


キンッとアウラローゼは双剣でフィルエステルの剣を弾いた。おや、と言わんばかりに黒蛋白石の瞳がわずかに見張られる。それはほんの一瞬のことだった。だが、速さが売りのアウラローゼの剣にとっては、その一瞬は十分すぎるほどの隙であった。


「――――貰ったわ!」


アウラローゼはフィルエステルの懐に、身を屈めて飛び込んだ。双剣が交差し、フィルエステルの首を捕らえようとその牙を剥く。その時フィルエステルは、小さく微笑んだ。間近にいるアウラローゼだからこそ気付けた、本当に小さな笑みだ。その笑みに、アウラローゼは息を呑む。


しまった。そう思った。傍目にはそう解らずとも、剣を交えているアウラローゼは気付けた。気付かないはずがない。

これは、誘導だ。まんまと罠に引っかかってしまった。しかし気付いてももう遅い。アウラローゼの脳裏に、フィルエステルの剣の切っ先がこの胸を貫く、そんなイメージが過ぎる。


だが、しかし。


「参った。私の負けだ」


アウラローゼの予想に反して、フィルエステルは得物をその場で手放した。カラン、と地面に模造剣が音を立てて落ちる。奇妙に大きく響いたその音に、アウラローゼは大きく息を吐く。

そして乱れた呼吸を整えながら、信じられないものを見る目でフィルエステルを見つめた。今、この青年は何をした? 何を言った?


愕然とフィルエステルを見つめ続けるアウラローゼにフィルエステルは困ったように微笑み、そしてその視線を周囲へと巡らせた。

それを追い変えてアウラローゼもまた周囲を見回し、そうしてふと、遅れ馳せながら気付いた。周囲が、水を打ったかのように、静まり返っていることに。


これは面倒なことになったかもしれないとアウラローゼは思う。我らが“黒鉄王子”に恥をかかせたと、さぞかし騎士達は怒り狂っていることだろう。だが、周囲の反応は、これまた予想外のものだった。


ぱちぱちぱち、と、拍手の音が聞こえてくる。

なんだ、この音は。恐る恐るそちらを見遣れば、ユーゼフが笑みを浮かべてその手を打ち鳴らしている。その拍手は彼一人から徐々に周囲へと広がっていき、最終的に鍛錬場にいる誰もが拍手し始めた。

大波のごとくうねる拍手の音に呆然としているアウラローゼの元に、騎士団長が拍手をしながら近寄ってくる。


「見事です」

「え?」

「フィルエステル殿下から一本取られるとは思いませんでした。女子供の児戯と侮ったこと、どうかお許しください。いずれ私達に、ぜひ殿下と共に指南を……」

「団長だって今では滅多に殿下に勝てないですもんねぇ」

「やかましいぞ、ユーゼフ!」

「すごかったです、アウラローゼ姫!」

「私ともぜひ一戦を!」

「いや俺と!」

「いやいや僕と!」


乱れた息をなんとか整えようとするアウラローゼの元に、周囲の騎士達が駆け寄ってきて、口々に彼女を褒め称え、自らとの一戦を望んでいる。

その声音にも、瞳にも、当初のような冷たい嫌悪は見当たらない。純粋な称賛ばかりが宿っている。生まれて初めて向けられるそれらに、アウラローゼは戸惑いを隠せない。


「え、え、あ」


どうしてよいのか解らず瞳を揺らすアウラローゼの元に、ミラがすすと歩みより、騎士達の合間を縫ってアウラローゼの横に並ぶが早いか、その手から双剣を受け取る。気付けばがちがちに固まっていた手を労わるようにミラの手が一瞬撫で、そうしてようやくアウラローゼは、まともに呼吸ができるようになった気がした。

そんな彼女を庇うように、フィルエステルがその腕の中にアウラローゼを抱き込んだ。


「皆、そこまでだ。私の姫君をそう困らせないでくれるかな」

「まだ結婚前だってのに、もう夫気取りですか殿下!」

「そうだよ。何か問題でも?」

「うわっ! 恥ずかしげもなく言いましたね!」

「大有りですよ。俺達だってアウラローゼ姫に御指南願いたいです」


そうだそうだと頷き合う騎士達に苦笑したフィルエステルは、「アウラが了承したらね」と告げ、そっと未だ呆然としているアウラローゼの腰に腕を回した。


「今日はここまでにさせてもらうよ。後は皆、好きに続けるといい」

「はっ!」


フィルエステルの言葉に一斉に敬礼する騎士達を置いて、フィルエステルに誘導され、アウラローゼは鍛錬場を後にした。ミラとユーゼフがその後をついてくるのが気配で解った。

フィルエステルがアウラローゼを解放する様子はまったくない。片手をアウラローゼの腰に回し、もう一方の手の上にアウラローゼの手を乗せたまま、回廊を歩み続ける。

汗を掻いた身体を密着させるなんて、普段のアウラローゼであれば決して許さなかったに違いない。だが今のアウラローゼは、そんなことは構っていられなかった。もっと重要なことが、頭の中を占めていたからだ。


「ミラ、ユーゼフ」

「はい」

「何ですかね」

「少しの間、フィル様と私だけにしてくれる?」


それは、フィルエステルに導かれるままに、王宮の庭園の東屋にまでやってきた時のことだった。

それまでずっと沈黙を保ち続けていたアウラローゼがようやく口を開いて言った台詞に、ミラもユーゼフも瞳を瞬かせた。そんな二人をじっと見つめる薔薇色の瞳に宿る光は、戯れを言っているようなものではない。その奥で燃え盛る炎に気付いたミラが一礼し、フィルエステルから目配せされたユーゼフもまた一礼して、二人そろってその場を辞する。

木漏れ日の差し込む東屋で、アウラローゼとフィルエステルは二人きりで向かい合う。しばしの沈黙の後に、先に口火を切ったのはフィルエステルの方だった。


「どうしたの、アウラ。私と二人きりになりたいだなんて」


穏やかに問いかけてくるフィルエステルを、アウラローゼはギッと鋭く睨み付けた。きつい眦が更につり上がり、その圧倒的な美貌がより一層迫力を増す。百戦錬磨の老騎士すら怯えるという視線にも、フィルエステルが臆した様子はない。ただ困ったように首を傾げるばかりだ。

ふつふつと沸く怒りを押し殺すこともできず、激情のままに睨み上げながら、アウラローゼは重々しく口を開いた。


「貴方、手を抜いたわね」


低く、地を這うかのような声音だった。フィルエステルはますます困ったような笑顔になった。この約一か月というもの、その優しげな美貌の笑顔に、困らせられたり呆れさせられたり、不本意ながら焦らせられたりしてきた。だが、こんなにも腹立たしく思ったことはない。


「そんなことはないよ」

「馬鹿にしないで! 解らないとでも思っているの!?」


他の誰が気付かなくても、騎士団長すら気付かなくても、直接剣を交えたアウラローゼには解る。先程の勝利は、この青年から奪ったものではない。この青年に、与えられたものだ。剣聖とすら呼ばれる“黒鉄王子”だからこそ、アウラローゼ以外の誰にも気付かせずに、アウラローゼに彼は勝利させることができたに違いない。本当の実力者は、勝利するのはもちろんのこと、わざと負けることだってできるのだ。


「私は貴方に、憐れまれる筋合いなんてないわ」


声が震えてしまうのは悲しいからではない。悔しいからだ。

オルタニアの王宮騎士団は実力主義であると聞いていたし、実際にそれが真実であるらしいことは先程の一件で明らかだった。

大した実力も無く女子供のお遊び程度の腕前で驕り高ぶるお姫様には容赦はないが、相応の実力を持つ者は好意的に受け止めるだけの度量があるのだろう。ほんのわずかな間でアウラローゼがそのことに気付いたのだから、長く指南役を務めているというフィルエステルがそのことを知らないはずがない。

だから彼は、アウラローゼと一戦交えるなどという真似をしたのだ。騎士達にアウラローゼを認めさせるために、一芝居打ったに違いない。そして彼らにアウラローゼを認めさせるために、彼はわざとアウラローゼに負けてみせた。


こんな屈辱があるだろうか。こんな侮辱があるだろうか。


怒りのあまり涙が滲んでくる。両の手のひらに、爪が食い込むほどに強く拳を握り締めるアウラローゼに、フィルエステルは、本当に困り切ったように、途方に暮れた表情でかぶりを振った。


「ごめん。違うんだ。手を抜いた訳じゃないよ」

「まだ言い逃れをするの?」

「いいや。言い逃れでも言い訳でもなく、紛れもない私の本音だ。私は君に、何があっても剣を向けられない。そんな真似をするくらいなら、死んだ方がましだ。君にならこの命、いくらだって捧げてみせるよ」


アウラローゼの、きつく握り締められた拳を手に取り、ゆっくりとフィルエステルはその拳を解かせる。その手をアウラローゼは思い切り振り払った。パンッと乾いた音が東屋に響く。


「っどうして!」


何故そこまで言ってくれるのか。意味が解らなかった。“黒鉄王子”ともあろう者が、“鉄錆姫”に敗北するということ。それは決して小さな事件ではない。今回の件はすぐに噂になるだろう。直接現場を見ていた騎士達はともかく、他の者達が聞けば、“黒鉄王子”の名に傷が付くことになる。そのことを、“黒鉄王子”本人が理解していないはずがない。それなのに、どうして。


隠しきれない疑問の光を宿してフィルエステルを見上げるアウラローゼに、彼は笑った。

それは先日目にしたものと同じ、どこか寂しげで、どこか切なげなその笑顔だ。

もっと罵ってやりたかったのに、その笑顔の前では言葉が出なくなってしまう。何を言おうとしていたのか解らなくなってしまった。


はくりと口を一度開閉させ、そしてそのまま口を噤むアウラローゼの頬に、フィルエステルはその手を寄せた。その手は優しく温かく、アウラローゼは無性に泣きたくなる。けれど泣いてしまったら、それこそ本当に自分は敗北者になってしまう。

唇を噛み締めて涙を耐えるアウラローゼの顔を覗き込み、フィルエステルは続ける。


「私が、君のことが好きだから。君に、私のことを好きになってほしいから。それじゃ理由にならない?」

「ふざけないで」

「ふざけてなんかいないさ」


ふふ、とフィルエステルは微笑み、アウラローゼの頬のラインをゆっくりとなぞる。フィルエステルの黒蛋白石の瞳には、確かな熱が宿っていた。

何かを乞うような、何かに焦がれるような、アウラローゼが決して触れることが叶わない熱。

触れることが叶わないと解っていながら、手を伸ばさずにはいられないその熱に、火傷してしまいそうだ。


「忘れたままでいい。思い出してくれなくていい。ただ、いつか私のことを好きになって。それが私の願いだよ」


アウラローゼには、フィルエステルが何を言っているのか理解できなかった。この青年は、一体何のことを、誰のことを言っているのだろう。

忘れたままでいいとは。思い出さなくていいとは。それはまるで、かつてアウラローゼがフィルエステルと何か関係があったかのような言いぶりではないか。

だが生憎、アウラローゼにはそんな心当たりなど欠片もない。誰かと間違えているのではないだろうか。むしろそうであってほしいと思いつつ、同時に、それが自分であったのなら、と何故か思ってしまう自分がアウラローゼは不思議だった。


「この美しい私に好かれたいと思うのは当然の心理でしょうね。でも、私がはねっかえりのお姫様だってことは解ったでしょう? そろそろ幻滅したんじゃないの?」


ぱしん、とフィルエステルの手を叩き落とし、フンと鼻を鳴らすアウラローゼに、くすくすとフィルエステルは、いつものように笑った。

気分を害した様子などちっともない笑顔だ。いいや、そればかりではない。そこでようやく、アウラローゼは“その笑顔”が何たるかに気が付いた。

フィルエステルは確かにいつも笑っている。けれどその笑顔は、誰もに向けられているものではないということに。この笑顔は、先程騎士達に向けていたものとはまるで違う。

柔らかく、優しく、甘く蕩ける微笑みは、アウラローゼだけに向けられているものであるということに、アウラローゼはようやく今この瞬間に気が付いた。


他人の感情に鈍いつもりはない。ただ、彼がいつもこの笑顔だったから。気が付かなかったのはそのせいだ。その笑顔が、いつだってとても特別なものであったなんて、どうして気付けたというのだろう。そうするのが当たり前であると言わんばかりに、愛しいものだけに向ける笑顔で、フィルエステルは笑っている。


「それこそまさかさ。君はすべてが美しい。君を構成するすべてが、私は愛しいよ」


フィルエステルはアウラローゼの手を取り、その手を自らの唇へと寄せた。指先に乗る桜貝のような爪の先に、そっと口付けるフィルエステルに、アウラローゼは途端に無性に恥ずかしくなる。

ばっとその手を奪い取って、片手で口付けられた方の手を隠し、背中に回す。口付けられた指先が熱くてたまらなかったけれど、気付かないふりをして、アウラローゼは吐き捨てた。


「――こんな手、美しくなんてないわ」


そうだ。こんな手、ちっとも美しくなんてない。

アウラローゼは自らを構成するすべてが大好きだ。何もかも、美しく在るように努めてきた、大切な身体だ。けれど何をしても、どう頑張ってもどうにもできなかった部分がある。それが、アウラローゼが自身の身体の中で唯一歯痒く、好ましからず思っているもの。それがすなわち、この両手なのだ。

肌は白くきめ細かいが、その形状は、剣を持つ者としての性として、指の関節が太くなり、剣だこだっていくつもできている。皮膚は硬くなり、指輪だって特注の物ではないと入らない。それは世間で認められている一般的な“上流階級の淑女”には相応しからぬものだ。


「こんな手、お姫様の手じゃないもの」


理想の姫君の手からはどこまでも程遠い。

だったら剣を捨てればいいだろうと言われるかもしれない。けれどそれはできなかった。だって誰も守ってくれなかったのだ。父も、二人の兄も、誰もかも、アウラローゼを守ろうとはしてくれなかった。


ミラという護衛としての能力も携えた侍女が現れたのはたった数年前の話であり、それまでずっとアウラローゼはひとりだった。この平和な時代にジェムナグランの王女を害そうとする存在などいないだろうと。鉄血女王の生まれ変わりに手を出すような命知らずはいないだろうと。そして何より、どうせ死んでも生き返るのだからと。そう、ずっと、ずぅっと言われ続けてきた。


彼らの言いたいことは、アウラローゼにだって解る。気持ちの問題としても、現実問題としても、なるほど、ごもっともだ。

けれどアウラローゼは不安だった。アウラローゼは怖かった。だって死にたくなかったのだ。

一度目は誰かのため、二度目は国のため、三度目は自分のために死に、そしてそのたびに生き返るだろうと【鳥待ちの魚】は言っていた。それに対し、アウラローゼは、自分のためだけに生きて死ぬつもりであると答えた。それは紛れもない本音だった。今更あのエルフに取り繕ったって仕方がないから、アウラローゼは隠すことなく本心を吐露した。その思いは、今もなおアウラローゼの胸に在る。


そうだとも。一度だってこの身に与えられた【蘇生】という【祝福】を使うつもりなどない。

だって死ぬつもりなんてないのだ。死にたくないのだ。

たとえ三度生き返ることができるとしても、一度だって死にたくはなかったのだ。


アウラローゼはずっと、死ぬのが怖かった。怖くて怖くてたまらなかった。いつか誰かが悪名高き“鉄錆姫”を殺しに来るのではないのかと怯えていた。そんな情けない自分の心が形作ったこの手を、どうして好きになれるというのだろう。

それなのに、フィルエステルはそんなアウラローゼの葛藤を笑い飛ばす。


「この手が今まで君を守ってきてくれたんだ。美しくないはずがない。私はこの手に、心からの感謝を捧げよう」


冗談交じりにそう続けたフィルエステルは、その場に片膝をつき、再びアウラローゼの手を取って、アウラローゼの美しい薔薇色の瞳を見上げた。


「“黒鉄王子”の名に懸けて。これからは私が、アウラのことを守るよ」


その言葉に、どうしようもなく泣きたくなる自分がいた。そんな自分から目を逸らし、「“鉄錆姫”に負けたくせに、よく言ったものね」と憎まれ口を叩くことで、アウラローゼはなんとか涙を堪えることに成功する。

「次は負けないよ」と笑うフィルエステルの笑顔が、初めて苦手なばかりのものではないと思えた。今までいつだって座りが悪い思いばかりさせられてきたというのに、不思議なものだ。

「変ね」と、アウラローゼはひとり内心で首を傾げる。その“変”なものが、フィルエステルであるのか、それともアウラローゼ自身であるのか、自分でも解らないままに。

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