第5幕 私こそ強きもの
フィルエステル曰くの“デート”から数日。アウラローゼは窓際の安楽椅子に座り、ぼんやりと外を眺めていた。
膝の上には王宮の書庫から持ち出してきたオルタニアの史書が置かれているが、先程からちっともページは捲られていない。アウラローゼの薔薇色の瞳に映る晴れ渡る空の青は美しく、その耳朶をくすぐる小鳥のさえずりは愛らしい。それらは、アウラローゼの膝の上の分厚い史書に記された血生臭い歴史を、すっかり忘れさせてくれるものだ。
「……平和ね」
「然様でございますね」
誰に向けたものでもなかった呟きに、淡々とした相槌が返ってくる。そちらを振り返れば、“緑青の侍女”の呼び名に相応しい無表情で、唯一の側付きの侍女、ミラがアフタヌーンティーの準備にとりかかっているところであった。
慣れた手つきでてきぱきとかわいらしい焼き菓子を更に盛り、琥珀色が美しい紅茶をティーカップに注いでいる。
ジェムナグランにいた時と何一つ変わらない光景だ。それに不思議と安堵する自分を感じながら、アウラローゼは史書を閉じて安楽椅子から立ち上がり、すとんとミラの側のソファーに腰を下ろす。
馥郁たる芳香を存分に味わいながら、ティーカップを口に運ぶ。そしてアウラローゼは、あら、とひとつ瞬きをして侍女の方を見遣った。
「ミラ、茶葉を変えた?」
「はい。ジェムナグランから持参したものは既に底を尽きましたので、このオルタニアで新たに用意させていただきました」
「そう」
なるほど、道理でいつもとはどこか異なる風味であるはずである。ジェムナグランからはそれなりの量の茶葉を持ち込んだのだが、もう無くなってしまったのか。オルタニアに来てから一か月以上経過しているのだからそれも当然と思うべきなのかもしれないが、アウラローゼは何故だかそれがとても不思議なことのように思えた。
このオルタニアで過ごした約一か月という日々は、それこそ驚くほどに平和な日々であった。心無き陰口や、謂れなき噂話など、大した問題ではない。それはジェムナグランでも同様であったからだ。言いたい者には好きに言わせておけばいい。どうせ否定したって誰も信じてはくれないのだ。だったらそんなものは放っておくに限る。どれだけ何を言われようとも、この自分の美貌に一つとして傷を付けることは叶わない。そうアウラローゼは思っている。
ただ、先日のフィルエステルとの“デート”。問題はあれだ。あれが、アウラローゼの心を穏やかにしてくれない唯一にして最大の要因だ。
思えば、初めて尽くしの一日であった。城下町でお茶をしたのも、猫と戯れたのも、暴漢に襲われかけたのも初めてだった。誰かと手を繋いだのも、誰かに危ないところを助けられたのも、初めてだった。
「……嫌ね」
握られた手のぬくもりが、未だに手に残っているような気がした。優しく口付けられた毛先に無意識に指を絡ませながらアウラローゼは呟く。
脳裏に焼き付いたフィルエステルの、あの寂しげで切なげな笑顔を振り払うように頭を振ると、ミラがすっと目の前のティーポットを持ち上げた。それを視線で追い掛ければ、ミラの青い瞳と視線がかち合う。
感情をあまり表に出さない侍女の青い瞳には、確かに心配の色を映した光が宿っていた。
「姫様、お気に召しませんでしたか? では新しい茶葉を……」
「え? あ、ああ、違うの。大丈夫よ。この紅茶もいつも通りに美味しいわ」
「然様でございますか?」
「ええ。これからもこの茶葉でお願いね」
「かしこまりました」
片手に持っていたティーカップの中身を飲み干してソーサーに戻すと、ミラはさっと次なる紅茶を注いだ。その琥珀色の水面に浮かぶ自分の顔に、アウラローゼは舌打ちをする。
「姫様」
「解ってるわ」
すかさず一言で咎めてくるミラにアウラローゼはすぐに表情を取り繕う。だが内心はまったく取り繕えていなかった。
舌打ちだなんて淑女らしからぬ振舞い、ちっとも美しくない。いつだって気を付けていたつもりであったのに、らしくもない真似をしてしまった自分が悔しい。
それもこれもすべてフィルエステルのせいだ。脳裏に浮かぶ美しい黒蛋白石の瞳が憎たらしい。この自分が、こんな余裕のない、ただの思春期の小娘のような表情を浮かべているだなんて、絶対に素直に認めたくなんてなかった。
嫌ね、と内心で再び呟いて、ぐいっと一気に紅茶を呷る。そして、ほう、と何もかもを吐き出すかのような深い溜息を漏らしたところで、部屋の扉がノックされる音がアウラローゼの耳朶を打った。
リズミカルなその音に、アウラローゼはミラにひとつ目配せを送る。心得たと言わんばかりにミラは誰何もせずに扉を開けた。
そこに立っていた予想通りの青年――護衛として扉の前で待機していたはずの騎士ユーゼフに、ひらりとアウラローゼは片手を振る。
「今度はなぁに?」
先日のデート以来大人しく護衛の任に従事していたはずのユーゼフに向かって小首を傾げてみせれば、彼は躊躇うことなく部屋の中に足を踏み入れ、にやりとその唇の端を吊り上げた。
「いえいえ。ちょっと美味そうな匂いがしたもんで、ご同伴にあずかれたらなって思いましてね」
「あら、よく利く鼻を持っているわね。ミラが用意してくれる紅茶もお菓子も、いつだって素敵な一級品よ」
まさか分厚い扉の向こうで本当にその匂いを嗅ぎ取った訳でもあるまいに、平然と笑顔で嘯く青年に、アウラローゼは肩を竦める。
そして、焼き菓子が取り分けられた小皿を持ち上げて、ユーゼフへと差し出した。
「食べる?」
「いただきます」
即答したユーゼフは、すたすたと歩み寄ってくるが早いか、アウラローゼの目の前で、その手を伸ばして焼き菓子を一つ摘まみ、ぽいっと口に放り込んだ。
いつものことながら、この護衛である騎士の態度は、気安すぎていっそ無礼とすら呼べるものである。だが腹を立てるよりもむしろ好感を抱かせるのは、彼のその明るい気性のなせる業なのだろう。何をしても恐れられるアウラローゼとは大違いだ。
羨ましいわね、と、心にもないことを内心で呟きながらアウラローゼは紅茶で唇を湿らせ、そして「それで?」とユーゼフに問いかけた。
「わざわざ淑女の部屋に入ってくるなんて何の用?」
「あ、そうでした。ちょっとこれから、俺と一緒に鍛錬場に行きませんか?」
「鍛錬場?」
予想外の言葉に思わずアウラローゼはユーゼフの台詞を反芻する。
ユーゼフの言う鍛錬場とは、おそらくは文字通り、ユーゼフが属する王宮騎士団が使う鍛錬場のことだろう。一国の王女たる自分には縁が無い……とまでは言わないが、通常であれば普段は縁遠くある場所である。
そんなところに何故、と首を傾げるアウラローゼに、ユーゼフは片目を閉じて悪戯げに笑った。
「今ならいいもんが見られますよ」
「いいもの?」
まさか宝石商や仕立て屋が品評会を開いている訳でもあるまいに。一体何が待ち受けているのかさっぱり想像が付かず、頭の上に疑問符を浮かべるばかりのアウラローゼに、何やら楽しそうにユーゼフは笑うばかりである。
「来れば解りますって」
それはつまり、行かなくては解らないということと同意義ではないか。ユーゼフがどういうつもりでこんなことを言い出したのかは知ったことではないが、こうまで言われてしまっては、どうにも気になってしまう。
口元に片手を寄せて、しばし考え込んでいたアウラローゼは、そうして数拍の後に、ゆっくりと頷いた。
「そう。なら行ってみましょうか」
どうせ今日の予定はもう何もない。史書を読むのにもいい加減飽いていた。ここはひとつ、この騎士の口車に乗ってやるのも一興だろう。
そう結論付けたアウラローゼが立ち上がって扉へと向かえば、ミラが無言で一礼してその後に続く。「そう来なくっちゃ」とユーゼフが笑い、小走りでアウラローゼの前へ出た。
「それじゃあ案内しますよ。ついてきてください」
「結構よ。騎士団の待機場の近くでしょう? 自分で行けるわ」
「でもアウラローゼ姫は、抜け道をご存知ないでしょ?」
「抜け道ですって?」
なんだそれは、と薔薇色の瞳を瞬かせるアウラローゼの表情に、ユーゼフは気が付いていない様子であった。扉を開けてすたすたと歩きだしながら、彼は「これは言うなって言われてるんですけどね」と前置いて語り出す。
「フィルエステル殿下の指示なんですよ。いかなる時も、極力アウラローゼ姫のことを慮れってね。まあなんつーか、この間みたいなことにならないようにってことっす。うちの城の奴らの中には、口さがない奴らもいますからねぇ。いやー、アウラローゼ姫も、随分とうちの殿下に愛されちゃって――……」
「私が抜け道とやらを使うことが、フィル様のご指示?」
ユーゼフの台詞を遮るように言い放ったアウラローゼの声音は、自分ではそんなつもりなどなかったというのに、気付けばとても低くなっていた。
ユーゼフがアウラローゼの方をようやく肩越しに振り返り、その瞳を丸くする。
「はい? いや、殿下が言っていたのは、『慮れ』ってことだけで、後は俺の判断ですけど」
「あらそう。なら知っておきなさい。私のことを慮るなら、そんな気遣いこそ不要ということをね。フィル様にもそう伝えてちょうだい。どんな声もどんな視線も、私に傷一つ付けられないわ。逃げるような真似こそ不本意極まりないの。さあ、解ったら行くわよ」
貴方の方からついてきなさい、とその高い踵の靴音も高らかにアウラローゼはユーゼフの横を通り過ぎた。しずしずと足音一つ立てずミラがその後に続く。
図らずも置いていかれる形となったユーゼフは小さく肩を竦め、そしてアウラローゼ達の後に続いたのであった。
***
侍女一人、騎士一人を従えて堂々と王宮を歩むアウラローゼに向けられる視線がどんなものであったのかは、今更特筆するまでもないことだろう。
それは、ユーゼフが危惧した通り、道中のお世辞にも好意的には受け取れないものであった。
だが、それが何だと言うのだ。今更よ、と鼻で笑い飛ばし、アウラローゼはこの王宮にやってきたばかりのころにフィルエステルに案内された騎士団の待機場へと向かう。
徐々に近付くほどに、高い剣戟の響きが聞こえてくる。どうやらちょうど訓練中の時間帯であるらしい。まさかユーゼフは、ただ騎士達が訓練しているところをアウラローゼに見せたかったのだろうか。
確かにオルタニアの騎士団は、その高い戦闘力が大陸でも指折りのものであると評価されている。さぞかし厳しい訓練が行われているのだろうということくらいは予想ができる。だが、それをいくらいずれ第二王子の妻となる立場であるとはいえ、隣国の王女に見せたがる意味が解らない。
わざわざこの自分に、こんなところまで足を運ばせたのだ。それ相応のものを見せてもらわねば割に合わないと思いながら歩みを続けるアウラローゼの眼前に、やがて、鍛錬場の入り口が現れた。
入り口を守る警備の騎士がぎょっとしたような目をアウラローゼに向けるが、その背後のユーゼフの姿を見て、何やら納得したように頷き、一礼したアウラローゼに道を譲る。
その前を通り過ぎて鍛錬場に足を踏み入れたアウラローゼは、そこに渦巻く熱気にあてられて思わず息を呑む。
これは随分と盛り上がっているらしい。騎士達は静かに入ってきたアウラローゼに気付く様子もなく、一様に鍛錬場の中心を、熱を帯びた視線で見つめている。
「お、よかった。まだまだ真っ最中っすね」
背の高いユーゼフが、騎士達の視線の先を見つめて笑った。その視線を追いかけようにも、体格の良い騎士達がひしめき合う向こう側をアウラローゼは窺い知ることはできない。
一体何だと言うのだろう。アウラローゼは、とりあえず目の前に並んでいた騎士の背をポンと叩いた。だが、彼からは反応はない。目の前の光景に熱中しているらしく、アウラローゼに背を叩かれたことになどちっとも気付いていない様子だ。ならばその隣を、と思っても、誰もがこの熱気に酔って高揚しているのか、こちらをちらりとも見やしない。
アウラローゼは思わず柳眉を顰めた。この自分を相手に、いい度胸をしてくれているものである。
半ば意地になって、再び目の前の騎士の背を叩く。それが二度、三度と続いたのちに、やっとその騎士は背後を振り返ってきた。
「何だ、今いいところなんだから邪魔を――――ってッ!?」
アウラローゼがじろりと薔薇色の瞳で騎士を睨み付けると、騎士の顔色が一気に青ざめた。ようやくアウラローゼの存在に気付いてくれたようで何よりである。アウラローゼは、にっこりと笑った。
「道をあけてもらえる?」
「は、はいっ! 喜んで!」
騎士が慌てて身を引けば、その周辺の騎士達もアウラローゼに気付き、顔色を変えて一礼してくる。まるで得体の知れない化け物でも前にしたかのような反応だ。
確かにアウラローゼは、自分の美貌は化け物じみている自覚を持っている。だが別に取って食ったりなどしないのに、とも思わずにはいられない。まあいい。こんなことは慣れている。
――慣れていることと、傷付かないことは、等しくはないよ。
先日のフィルエステルの言葉が、ふいに耳元に甦る。うるさいわね、と顔に張り付けた笑顔の下でアウラローゼは吐き捨てた。何も知らないくせに勝手なことを言ってくれたものだ。ある意味では、下手な陰口よりもよっぽど質が悪い。
やっぱり、どこまでも彼はアウラローゼにとって苦手としか思えない青年だ。そう思いながら、アウラローゼはミラとユーゼフを引き連れて騎士達の間を通り過ぎ、その最前列へとようやく辿り着く。そして、目の前の光景に、図らずも息を呑まされる羽目になった。
高い音を立てて剣が弾き飛ばされた。訓練用の模造剣と思しき剣はそのまま地面に突き刺さる。
手を押さえてその場に跪く騎士を見下ろして、剣を片手に、目下アウラローゼを苛立たせてくれる原因たる青年――フィルエステルがそこに立っていた。
「脇が甘い。次」
フィルエステルがそう短く言い放つが早いか、並んでいた若い騎士が声を上げて彼に斬りかかる。その振り上げられた剣を、細腕で軽々と受け止めたフィルエステルは、とんっと地を蹴って再び騎士の剣を弾き飛ばした。
「踏み込みが浅い。次。胴ががら空き。次。ほら、左手が留守になってる。次」
次から次へと騎士達を打ち負かしていくフィルエステルの姿は、その優しく甘い美貌からは想像もできないほど力強く雄々しく、そして凛々しく美しい。
騎士達が重い制服を身に着けているのに対し、彼は実に軽装であり、普段と違うところと言えばその髪をいつぞやと同じように、黒うさぎの尾のごとく一つにまとめているところだろうか。大陸屈指の騎士団の騎士達を相手にするとは思えない姿で、フィルエステルは次々に勝利を収めていく。
アウラローゼはただただその姿に見入るしかない。そういえば初めて出会った時も、彼はたやすく襲撃者達を切り伏せていたのだったことを、今更ながら思い出す。
騎士達の歓声を浴びながら踊るように剣を振るうフィルエステルの姿は、正にその呼び名――“黒鉄王子”の名に相応しい姿であった。
「勢いは良いが刀身の軸がぶれて――――ん? アウラ?」
次なる若き騎士の剣を地に落とさせたフィルエステルは周囲の空気がいつしか変わっていたことにようやく気付いたらしい。
ふいにその黒蛋白石の瞳を向けられて、何故だかアウラローゼはぎくりと身体を強張らせる。
「ご、ごきげんよう、フィル様」
「やあ、ごきげんよう。これが終わったら私の方から会いに行こうと思っていたのだけれど。アウラ、どうしてここに?」
手に持っていた剣を近くの騎士に渡して、にこやかにフィルエステルはアウラローゼの元まで駆け寄ってきた。自然と強張りそうになる表情を取り繕いながらアウラローゼは歯噛みする。
あの“デート”とやらを終えてからも、フィルエステルの態度は変わらない。凪の海のように穏やかで、春の日差しのように優しくて、そして砂糖菓子よりもずっと甘い。それこそ、胸やけでもしてしまいそうなほどに。
こんな風に自分に接してくるような輩と言えば、アウラローゼの十七年間の人生の中で、一人しかいない。自分に【祝福】を与えたエルフ、【鳥待ちの魚】だけだ。だがあれは、繰り返すが例外中の例外である。
自分ばかりが動揺しているのが悔しくてならない。
こんな風にアウラローゼが思っていることになんてちっとも気が付いていないに違いないフィルエステルに、アウラローゼは問いかけた。
「貴方、こんなところで何をしているの?」
心底訝しげな様子のアウラローゼに向かって、フィルエステルは両手を広げて周囲を示して見せた。周りの騎士達が一斉に膝をついて礼を取る。なるほど、よく訓練されているものである。ただその心までは訓練されきっていないようだれど、と内心で皮肉を呟くアウラローゼとは裏腹に、にこにこと上機嫌な様子でフィルエステルは笑う。
「見ての通りだよ。騎士団長に頼まれてね。時折騎士団の指南役をしているんだ」
フィルエステルが意味ありげに肩越しに振り返り、黒蛋白石の瞳を背後へと向ける。アウラローゼがその視線を追いかけて薔薇色の瞳をそちらへ向ければ、年配の騎士――このオルタニアにやってきた際に対面した、オルタニア騎士団の騎士団長が慌てたように一礼してきた。アウラローゼがそれに答えるようにひらりと手を振ってみせると、騎士団長は更に慌てて頭を低くする。
だから別に取って食いやしないというのに。歴戦の勇士であるに違いない騎士団長がそんなものなのだから、周囲の若い騎士達はもっと酷い。気の弱い侍女のように卒倒するまではさすがに至らないが、アウラローゼの一挙一動を息を呑んで窺っている様子が見て取れた。
――ほら、やっぱりこの国も、ジェムナグランと変わらない。
だから、今更傷付いたりなんかしないのだ。そう誰を見るともなく周囲に視線を巡らせていると、ふいにフィルエステルが「そうだ」と何かを思いついたように、ぴっと人差し指を立てた。
「どうだろう。アウラ、私と一戦を交えない?」
「え?」
「君の剣の腕を、ここにいる皆に見せてあげたくてね」
アウラローゼは柳眉を顰める。目の前の青年は、冗談を言っているようには見えなかった。だが、だからこそ余計にふざけたことを言ってくれるものだと思わずにはいられない。
フィルエステルは、出会った時の一件がきっかけで、アウラローゼがそれなり以上の剣術の使い手であることは知られている。この約一か月もの間、こっそりと影でミラに付き合ってもらいながらアウラローゼが密かに鍛錬を続けていたことも、ユーゼフを通じてフィルエステルには届いているはずだ。そうでなければこんなところでこんな話を持ち出すはずがない。
騎士達が驚いている気配を肌で感じながら、アウラローゼはじろりとフィルエステルを睨み上げた。
「お断りよ。汗を掻いちゃうし、ドレスが破れちゃうかもしれないじゃない」
つん、とつれなく言い放つアウラローゼに対して気分を害した様子など、フィルエステルは微塵も見せなかった。むしろ、周囲の騎士達の方がよっぽどだ。自分達の“黒鉄王子”に何たる口の利き方だと言わんばかりの雰囲気を感じ、ふぅん、とアウラローゼは感心する。
今日まで何度も感じてきたことだが、やはりこのフィルエステルという第二王子は、大層皆に好かれ慕われているようだ。
何度でも言うが、自分とは大違いである。そんな王子様が何故“鉄錆姫”を所望したのかは未だに解らない。
……知りたい、と思う。だが同時に、心のどこかで知ることを恐れている自分にも、アウラローゼはまた気付いていた。知ってしまったら、きっと何かが変わってしまうような気がしてならなかったから。
「見るべきものは見たことだし、もう部屋に戻らせてもらうわ。ミラ、ユーゼフ。行くわよ」
そんな自分から目を逸らし、くるりとアウラローゼは踵を返す。誰からともなく安堵の吐息が漏れるのが聞えたが、いちいち咎めるような真似はしない。そんな馬鹿馬鹿しく見苦しい真似なんて誰がするものか。
ユーゼフは「面白いものが見られる」と言ってくれたが、アウラローゼにとっては面白くも何ともなかった。そりゃあ確かに、少し……本当にほんの少しだけ、見惚れてしまったし、見直してしまったけれど。
だがそれはそれ、これはこれ。これ以上この場に留まらなくてはならない理由なんてどこにもない。さっさと部屋に戻って史書の続きを読もう。そう決めて、ミラとユーゼフを伴い鍛錬場を出て行こうとするアウラローゼの背に、フィルエステルの声がかかった。
「――――逃げるの?」
「何ですって?」
ぴたりと足を止めてアウラローゼは背後を振り返った。フィルエステルは変わらず微笑んでいる。いつも通りの優しげな笑顔だ。そこには嫌味も皮肉もないけれど、だからこそ余計にその笑顔が今は妙に癇に障った。
挑発されているのは解っている。解らないはずがない。それに乗ってやる必要なんて欠片もないこともまた解っているが、そうするには、些かどころではなく、アウラローゼのプライドは高すぎた。
「誰が逃げるだなんて言ったのかしら?」
ミラが無表情のまま呆れたような溜息を小さく吐くのが目に映ったが、それを無視してツカツカと足音も高らかにフィルエステルの元に戻る。
「上等じゃない。跪かせてあげるわ」
そのきつい美貌に相応しい、挑戦的で挑発的な笑みを浮かべ、アウラローゼは言ったのであった。