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第3幕 この手を取って、ワルツを

アウラローゼがオルタニアの土を初めて踏んでから、早くも一か月が経過した。

フィルエステルに嫁ぐためにやってきたものの、結婚式がすぐさま執り行われるという訳ではもちろんない。花嫁衣裳や結婚式そのものの準備が進められるのと同時に、アウラローゼはオルタニアの歴史や礼儀作法を指南されることになった。

また、オルタニアという国そのものに慣れ親しんでもらいたいというフィルエステルの願いもあって、結婚式は半年後の吉日にという、随分と気長な計画が立てられていた。


アウラローゼは、既にフィルエステルの父であるグエルフォード王と、フィルエステルの腹違いの兄にして第一王位継承者であるヴェリスバルト王子との謁見も済ませている。

大国の王らしく威風堂々とした様子のグエルフォードは、優しげな面立ちのフィルエステルとはあまり似ておらず、フィルエステルは母親似であるのだろうと思わせられた。

そして、次代のオルタニア王となるべきヴェリスバルトは、彼もまた母親似であるのか、線の細い、どこか頼りない雰囲気を持つ王子であった。母から顔立ちばかりではなくその身体の虚弱さをも受け継いだらしいヴェリスバルトとの謁見は短い時間であったものの、「弟をよろしく頼むよ」と微笑む姿からは、確かにフィルエステルへの気遣いが感じ取れた。

その兄弟仲の良さを見せつけられたような気分になったアウラローゼは、「私とお兄様達とは大違いね」と内心でごちたものだ。


オルタニアで過ごすアウラローゼがひしひしと感じたのは、フィルエステルの人気の高さだ。

“黒鉄王子”と呼び慕われるその理由は、その甘く優しげな、繊細な美貌のせいばかりではない。“黒鉄”と呼ばれるに相応しい天賦の剣の才は、オルタニアの騎士団長自ら、騎士達に指南してほしいと乞われるほどだという。

その穏やかな気性は、王族としての鷹揚さとして培われてきたものとしてばかりではなく、彼の生来のものでもあるのだろう。

それは、老若男女問わずに自然と惹かれてやまないものだ。


「一体どういうつもりなのかしら」


午前中に予定されていた宮廷教師によるオルタニア史の授業を終えて、ジェムナグランと同じくミラにとって唯一の侍女であるミラが淹れた紅茶を飲みながら休憩していたアウラローゼはぽつりと呟いた。

ミラの青い瞳が、アウラローゼへと向けられる。“緑青の侍女”の表情は変わらないが、付き合いの長いアウラローゼには、彼女が無言のまま先を促しているのが解った。

小さく肩を竦め、「フィルエステル王子よ」とアウラローゼは促されるままに続ける。


「あの方なら引く手あまたの選びたい放題でしょうに、どんな気の迷いで私を選んだのかしらね」

「それはやはり、姫様のお美しさに魅せられてではないでしょうか」

「あら、やっぱりそう思う?」


淡々とした、ちっとも心のこもっていない口調で言葉を紡ぐミラに、アウラローゼはふふんと笑った。

そう、この自分の美しさは、ジェムナグランばかりではなくこの隣国たるオルタニアにも知れ渡っているものだ。いくら見た目は痩身の優男であろうとも、フィルエステルとて一人の男性である。絶世の美貌を誇るアウラローゼという一人の少女を得たいと思っても何ら不思議はない――と、そこまで思ってから、アウラローゼはその鮮やかな薔薇色の瞳を半目にして溜息を吐いた。


「ミラ、思ってもいないことを言わないで。確かに私の美しさは世の男性を惹き付けてやまないものでしょうけど、私とフィルエステル王子は初対面なのよ? いくらこの美貌の噂を聞いていようとも、“鉄錆姫”としか知らない私を選ぶ理由にはならないでしょう。エルフからの【祝福】目当てにしても、私の【祝福】は私にしか意味がないものだわ」


アウラローゼに与えられた【祝福】は、三度きりの自らに対する【蘇生】。国益になるとは思えないものだ。

となれば、ジェムナグランとオルタニアの平和条約をより一層強固なものにするため、というのが、最もそれらしい理由であろうか。

鉄血女王の生まれ変わりと忌み厭われる鉄錆姫の結婚が平和の証だなんて、随分気の利いた皮肉だ。

紅茶を飲み干したアウラローゼは、片手を薄紅に色付く唇に寄せて考え込む。そんな彼女のティーカップに、ミラは紅茶を新たに注いだ。


「姫様。姫様はご存知ないかもしれませんが、男性は――いいえ、男性に限らず、人間というものは、意外と単純なものでございますよ。それこそ、根も葉もない噂に、簡単に躍らせられるほどに」

「そういうもの?」

「私はそう思っておりますわ、“鉄錆姫”様」

「……そうね」


これまた淡々と嘯くミラに、アウラローゼは頷いた。ミラの言う通りだ。人間は複雑なようで意外と単純で、実際を知りもしないのに、眉唾物の噂を頭から信じて行動してしまう。でなければ、アウラローゼが鉄血女王の生まれ変わりとして、鉄錆姫だなんて囁かれるはずがない。


本当に皆単純なものだと思いながらアウラローゼが再びティーカップを口に運んだ、そのタイミングで、部屋の扉がノックされた。


リズミカルな四回のノック。それが誰であるのか、今更誰何するまでもない。

思わず「またか」と眉をひそめるアウラローゼの元から離れたミラが、扉を開ける。

そうして、その扉の向こうに立っていた予想通りの人物に、アウラローゼはにっこりと笑いかけて立ち上がった。


「フィル様。本日もご機嫌麗しく」


深い紅色のドレスの裾を持ち上げて一礼するアウラローゼに、来訪者であるフィルエステルは、ふわりと顔を綻ばせた。そのとろけるように甘く、優しげな、そして何よりも嬉しげな笑顔は、とても魅力的なものである。けれど、そんな笑顔を向けられたことなどついぞ無いアウラローゼにとっては、自身をどうにも落ち着かなくさせる、厄介な笑顔である。


何故こんな笑顔を自分に向けるのか。美貌に貼り付けた笑顔の下で首を傾げるばかりのアウラローゼの心境を知ってか知らずか、フィルエステルはその整った顔に笑みを浮かべたまま部屋の中に足を踏み入れ、そしてアウラローゼの手を取った。ごく自然な動作でそのままアウラローゼの桜色の爪が乗る指先に口付ける。

当初こそ毎回のよう顔を赤くしていたアウラローゼではあったが、これが一か月も続けばいい加減慣れもする。

よくもまあ飽きないものね、といっそ感心するアウラローゼの内心を余所に、フィルエステルはアウラローゼの手を取ったまま、笑みを深めた。


「やあ、アウラ。お疲れ様。今日の予定が終わったと聞いたから会いに来たよ」

「――それはそれは。どうもありがとうと言うべきなのでしょうね」


これももう何度目のやりとりだろう。毎日毎日、時間を見つけては飽きもせずにアウラローゼの元を訪れるフィルエステルの真意は、アウラローゼには解らない。

いずれ夫婦になる間柄とは、こういうものなのだろうか。そうアウラローゼは自問するが、すぐに答えは出た。そんなはずがあるはずがないと。

フィルエステルの黒蛋白石の瞳を見上げ、アウラローゼはとうとう、この一か月間抱え続けた疑問を口にする。


「貴方だって忙しい身の上でしょう? 私に構ってばかりでは文句を言われてしまうんじゃないかしら?」

「大丈夫さ。私にとって、君以上に優先させるべきことなどないのだから」

「……そう」


至極当然のことのように言い放たれたフィルエステルの言葉に、アウラローゼは一言、頷きと共に短く答えることしかできなかった。フィルエステルの言葉は、果たしてどこまでが本音なのかさっぱり解らない。


溜息こそ吐かなかったものの、アウラローゼが呆れ返っていることは、その表情から明らかであった。

だがフィルエステルはそんなことなど意にも介さぬ様子で、ふふ、とこれまた嬉しげに笑うばかりである。

その笑顔を見て、やっぱりアウラローゼは思うのだ。どこまで本気なのかしら、と。


「アウラ、今から私が君の時間を貰っても構わないかな?」

「え?」

「今日の予定はもう無いと聞いているよ。だから今日の残りの時間を、一緒に過ごせたらと思ってね」

「……随分と耳が早いのね」


まだ正午を過ぎたばかりの時間帯であるものの、確かに本日の予定は終了している。本日の午後の予定はダンスのレッスンであったが、講師が急病とのことで急遽キャンセルとなったのだ。

それはつい先程知らされたばかりの通達であり、それを知っているのは、アウラローゼと、その側仕えの侍女であるミラばかりであると思っていたのだが。

訝しげに柳眉を顰め、アウラローゼは首を傾げた。


「誰が貴方にそんな余計なことを教えたの?」

「俺ですよ、アウラローゼ姫」


最早取り繕うこともせずに、心底嫌そうにじろりとフィルエステルを睨み上げるアウラローゼの台詞に答えたのは、当のフィルエステルではなく、その背後の扉からひょこりと顔を覗かせた、とある青年であった。

オルタニアの王宮騎士団の制服を身に纏ったその青年に、ついアウラローゼは舌打ちをする。


「貴方なの、ユーゼフ」

「はい。すみませんね、アウラローゼ姫。俺の主人は、フィルエステル殿下なもんで。訊かれたら答えない訳にはいきません」


背の中ほどまで伸ばされ、つんつんと跳ねる金茶色の髪と、深緑色の瞳を持つその青年の名は、ユーゼフ・デイライト。オルタニアの騎士であり、フィルエステルの腹心であり、そして、アウラローゼの護衛を任されている青年である。

この一か月もの間、フィルエステルの命令によりアウラローゼの側近くに仕えている彼は、出会った当初から、“鉄錆姫”を恐れる様子もなく、「“鉄錆姫”と呼ばれるくらいだから、どんなごつい姫君がやってくるかと俺は気が気がじゃなかったんですが、こんなお綺麗な姫君の護衛なら、俺はとんだ役得っすね」とけらけら笑った剛の者だ。

初対面の、それも隣国の王族に向かって何たる口の利き方だとミラは無表情のまま眉を顰めていたが、アウラローゼとしては、その飾り気のない態度に思わず大きく笑ってしまったものだ。

怯えられるのにも媚びを売られるのにも慣れ切っているが、そんな中でこのユーゼフという騎士の態度は新鮮で、好感が持てた。


だが、そうしてごく自然と親しくなったのはいいものの、こんな風にフィルエステルのことを優先するところだけは少しばかりいただけない。

彼の立場上当然のことであると解っていても、今日は久々にゆっくりできると思っていたアウラローゼとしては面白くないというのが本音である。


「アウラ。私と過ごすのは、そんなに嫌かな? だったら今日は退散させてもらうけれど」


きゅっとアウラローゼの指先を握りながら、フィルエステルはアウラローゼの薔薇色の瞳を覗き込んできた。間近で見る美しい黒蛋白石の瞳の中で、期待と不安が入り混じる光が揺れている。

アウラローゼよりも三歳年上――つまりは今年で二十歳になる青年の、まるでお預けを喰らおうとしている可愛らしい子犬のような視線が、アウラローゼの良心に突き刺さる。

勘弁してちょうだい、と内心でアウラローゼは嘆いた。こんな目を向けられたら、無下に断ることもできないではないか。


「べ、別に嫌とは言ってないわ」


結局、そうぶっきらぼうに答えることしかできなかったアウラローゼに対し、フィルエステルはぱっと表情を明るくさせて破顔する。


「そう、よかった。じゃあ早速、まずはお互いに着替えるところから始めようか」

「え?」

「大丈夫、準備はしてあるから。ユーゼフ」

「はい、殿下」


フィルエステルの言葉に、心得たと言わんばかりにユーゼフが何やら布に包まれた荷物を、側に控えていたミラに手渡す。ミラがそれを受け取るのを見届けて、フィルエステルは彼女に向かって笑いかけた。


「ミラ、それをアウラに着せてあげてくれないかな」

「……かしこまりました」

「それじゃあアウラ。また後で」

「え、あ」


待って、説明してからにして。そうアウラローゼが声をかけるよりも先に、足取りも軽くフィルエステルはユーゼフを伴って部屋から出て行ってしまう。

残されたアウラローゼは呆然としたまま扉が閉められるのを見守ることしかできなかった。

オルタニアに来てから、「余裕を持ち、優雅を良しとし、泰然とあれ」というモットーを崩されっぱなしだ。それが悔しくてならなくて、無意識にアウラローゼは歯噛みする。


「姫様、どうなさいますか?」


いつも通りの淡々とした口調で問いかけてくる“緑青の侍女”の態度が、八つ当たりであると解っていながらも今ばかりは小憎たらしい。

アウラローゼはちらりと薔薇色の瞳を、ミラが抱える荷物へと向ける。そのまま視線で促すと、ミラはそれをテーブルの上に置き、包んでいた布を開いた。


「中身は何かしら?」

「服、でございますね。それも恐らくは、平民の中でも裕福な家庭の令嬢の普段着、と言ったところでしょうか」

「服ぅ?」


確かにフィルエステルは『着替えることから始めようか』などと意味の解らないことを言っていたが、まさか本当に服を贈ってくるとは。

ミラの隣に並び、テーブルの上で開かれたそれを見て、アウラローゼは眉間に皺を寄せた。そしてすぐさま、はっと息を呑み、いけないいけないと眉間をさする。こんなことで余計なしわを作ってたまるものか。


そうして改めてミラ曰くの『平民の中でも裕福な家庭の令嬢の普段着』なる服を手に取ってみる。

普段アウラローゼが着ているドレスほどではないにしろ、とても手触りのよい生地だ。どんな衣装であろうとも見事に着こなしてみせるという自信はあるが、その中でもこの深い萌黄色の服は品がよく、確かに自分によく似合いそうであるとアウラローゼは思う。

だが、一国の姫君たる自分が着るものではないこともまた事実だ。


「姫様、どうなさいますか?」

「そうねぇ……」


先程と同じ台詞を繰り返すミラに、アウラローゼは思案するように指先を唇に寄せ、やがて一つ頷いた。


「まあいいわ。フィル様がどういうつもりかは知らないけれど、乗ってさしあげようじゃないの。ミラ、着替えるから手伝ってちょうだい」

「かしこまりました」


アウラローゼはドレスを脱ぎ、ミラに手伝われて、その萌黄色の衣装に着替えた。誂えたかのようにサイズがぴったりなのは、おそらくは事前にこの城に仕える針子に伝えてあるアウラローゼの体形を元に作られた衣装であるからなのだろう。

既製品ではなく、オーダーメイドの衣装。それだけで、今回のフィルエステルの目論見が、単なる思い付きではなく、前々から計画されていたことであることが予想できた。

きつく波打つ長い赤茶色の髪を、ミラが萌黄色によく合う金糸雀色のリボンで、シニヨンにまとめてくれる。そうして鏡の前に立ったアウラローゼは、どこからどう見てもどこにでもいる平民の一人――に見える訳もなく。


「私の美貌と気品は、少し衣装を地味にしたくらいじゃ抑えきれないものよね」

「然様でございますね」


鏡に映るいつもとは違う自分の姿を、これはこれでありかもしれないと満足げに頷くアウラローゼに、淡々とミラが同意する。いつものことながら、ミラが本当にそう思っているかどうかは極めて謎である。

なんだか適当にあしらわれている気がするわ、と思いつつ、さてこれからどうしたものかと思っていると、ちょうどそのタイミングで、扉が再びノックされた。だがこの叩き方は、フィルエステルのものではない。

ミラが扉に近付き「何か?」と問いかければ、「俺ですー。アウラローゼ姫のご準備は整われましたか?」とのんびりとした声が返ってくる。つい先程、フィルエステルと共に部屋を出ていったユーゼフの声だ。ミラが扉を開けると、予想通り、ユーゼフがそこに立っている。

彼はしげしげとアウラローゼの姿を頭の頂点から足の爪先までじっくりしげしげと眺め、ほう、と感嘆したように吐息を漏らした。


「さすがアウラローゼ姫。お似合いっすね」


飾り気のない率直な賛美であった。だがどんな言葉であろうとも、アウラローゼの心が動かされることはない。

何せ他ならぬこの自分が着ているのだ。どんな衣装であったって似合わないはずがない。その中でもこの衣装は、特にアウラローゼの髪や瞳を映えさせ、そしてそのボディラインの見事さを際立たせるようにできている。そのことにアウラローゼは気付いていた。随分と腕のいい針子がこのオルタニアにはいるらしい。

近い内に紹介してもらいたいものだわと思いつつ、アウラローゼはアウラローゼに見惚れているユーゼフを鼻で笑った。


「当然よ。それで、これからどうしたらいいのかしら?」

「あ、はい。フィルエステル殿下の準備もできたんで、俺についてきてもらえますかね」

「解ったわ。ミラ、行くわよ」

「はい」


ユーゼフを先頭にして、アウラローゼはミラを引き連れその後に続く。アウラローゼの居室はオルタニアの王族が住まう王城の一角に位置している。大国らしく広大な敷地を誇る王城の中を、ユーゼフは迷うことなく堂々と歩みを進める。

ユーゼフはフィルエステルの近衛騎士として有名であり、彼がアウラローゼの護衛を勤めていることは既に世間に大きく知れ渡っている。となれば当然、その後ろを歩む赤茶色の髪と薔薇色の瞳の美少女が、アウラローゼ・ジェムナグランであるという事実は明らかである。

侍女や騎士や文官の誰もが、自然と頭を下げてアウラローゼ一行が通り過ぎるのを待つ。


「なんだ、あの鉄錆姫の格好は?」

「お忍びかしら」

「フィルエステル殿下の威光を笠に着て、いい気なものだ」

「きっと鉄錆姫は、フィルエステル殿下のお優しさを利用しているのよ」

「どんな弱みを握ったんだろうな」


通り過ぎた後から聞こえてくる囁き声にも、アウラローゼはどこ吹く風だ。この程度の陰口などかわいいものだ。今更傷付くはずもない。ミラもまた、主人たるアウラローゼのそんな心境を敏く悟り、涼しい顔を崩さない。

アウラローゼにとっても、ミラにとっても、こんなことはジェムナグランで何度も経験済みである。だが、ユーゼフはそうは思わなかったらしい。

その歩みを緩めてアウラローゼの横に並んだユーゼフは、そっとアウラローゼに耳打ちをした。


「えーっと、大丈夫っすか?」

「何がかしら?」

「……いえ、なんでもないですよー」


にっこりと笑顔で答えてみせると、それ以上突っ込んでくるような真似はユーゼフはしなかった。こういうところもまたアウラローゼがユーゼフをそれなりに気に入った理由の一つだ。アウラローゼに深く踏み込まず、自身の領分を把握し、それに従って言葉を選ぶ彼の在り様は好ましい。彼の主とは大違いだ。


やがてユーゼフは、アウラローゼとミラを、王宮の中でも使用人達が使う裏口へと案内した。

何故こんなところに、と訝しむアウラローゼの耳に、急ぎ足で駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。そちらを見遣れば、少々息を切らせながらフィルエステルがアウラローゼの元までやってくる。


「ごめん、待たせたね」


そう言って微笑むフィルエステルの格好に、アウラローゼは驚かされた。

彼が今着ているのは、普段のような王侯貴族が着る格式ばった礼服ではなく、それこそアウラローゼと同じく、『平民の中でも裕福な家庭の令息の服装』といったところだろうか。

星屑を溶かしたような煌きを伴うくせ毛も、うなじのあたりで、アウラローゼの衣装と同じ萌黄色のリボンでまとめられている。

まるで黒うさぎのしっぽのようだと内心で呟くアウラローゼを見つめながら、フィルエステルは嬉しそうに笑った。


「ああよかった、寸法は間違いないようだね。その衣装は私が指示して作らせたんだ。いつもの豪奢なドレス姿も素敵だけれど、今の姿もとても魅力的だよ。まるで初夏の陽気に照らされる新緑に遊ぶ妖精のようだ」

「それはどうもありがとう」


最早呆れを隠しもせずにアウラローゼは棒読みでそう答えた。よくもまあ次から次へと飽きることなく他人のことを賛美できるものだ。ユーゼフの称賛は素直に受け取れたというのに、フィルエステルの称賛を同じように素直に受け入れるのはどうにも癪に障る。


この衣装を用意したのがフィルエステルであるということは、やはり今回の件は元々計画されていたものであるらしい。

つい先程耳にした、王宮に勤める者達の台詞が脳裏を過ぎり、思わず吐き出しそうになってしまった溜息を、アウラローゼはなんとか飲み込んだ。

アウラローゼはフィルエステルの威光とやらを笠に着ているつもりも、その優しさとやらを利用しているつもりも欠片も無い。だが周りはそうは思ってはくれないのだ。まったく、今は亡き祖母たる鉄血女王も、本当に迷惑な真似をしてくれたものである。


だが、そんな風に思っていても、アウラローゼが表向きそのかんばせに浮かべている表情はいつも通りのものであった。少なくともアウラローゼはそのつもりであった。

にも関わらず、フィルエステルはふいに眉をひそめ、アウラローゼの顔を覗き込む。


「……何か、あったのかな?」


その気遣わしげな声音に、無意識にアウラローゼは拳を握り締めた。

先程、アウラローゼはユーゼフのことを好ましいと思った。自分に踏み込んでこないから好ましいと。そして、そこは彼の主人とは大違いであると。それがどういうことなのかと問われれば、こういうことだとアウラローゼは答える。

こんな風に、このフィルエステルという男は、アウラローゼに踏み込んでこようとする。けれどアウラローゼはそれを許さない。誰にも、踏み込ませなどしない。だからこそアウラローゼは、艶然と笑ってみせた。


「別に何も無いわ。ねえそうでしょう、ミラ」

「はい。然様でございます」

「ふうん。そう」


じっとアウラローゼの顔をしばし見つめていたフィルエステルは、その黒蛋白石の瞳をちらりと自身の腹心へと向けた。


「それで? アウラの言う通りなのかな、ユーゼフ」

「まあ実害はなかったですね。ただちょーっと口さがない奴らがいましたけど」

「ッユーゼフ!」

「すみません。俺の主はあくまでもフィルエステル殿下なんで」


余計なことを言うなと声を荒げるアウラローゼに対し、軽く頭を下げながら、ちっとも悪いとは思っていない口調でユーゼフは謝罪を口にした。

その能天気な顔が憎たらしく、アウラローゼがつり気味の眦をつり上げて更に睨み付けていると、その視線を遮るように、フィルエステルがアウラローゼとユーゼフの間に割り込んだ。


「ごめん、アウラ。嫌な思いをさせたみたいだね」

「貴方が謝ることじゃないでしょう。別に構わないわ。慣れているもの」

「慣れていることと、傷付かないことは、等しくはないよ」


悲しげにそう言い切るフィルエステルに、アウラローゼは言葉を詰まらせた。


――いやだ、いやだ、いやだ。


その三文字が内心で渦巻く。だからこの青年のことを好きになれないのだ。アウラローゼが秘めたままにしておきたいものを、この青年はあっさりと取り出そうとするから。

もういいからとにかくその口を閉じてくれればいいものを、とアウラローゼは内心で歯噛みする。そんな彼女に、フード付きの薄手の外套を手渡したフィルエステルは、気を取り直すように微笑んだ。


「じゃあそれを羽織ったら出発しようか」


出発って、こんな格好でどこにだ。フィルエステルの言葉の意味が解らず、アウラローゼは瞳を瞬かせる。そんなアウラローゼから視線を外して、その背後のミラにフィルエステルは目配せをした。“緑青の侍女”は敏くその意を汲み取り、アウラローゼの手から外套をそっと奪い、そのまま彼女の肩に羽織らせる。


日除けのフードまでしっかり被らされたアウラローゼを満足げに見つめ、自らも外套を羽織りフードを被ったフィルエステルは、悪戯げに笑みを深めた。


「さあ、二人きりでデートしよう」

「――――はあ?」

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