第2幕 輝くものは
春が過ぎ去り、新緑が陽光に照り映える初夏の頃、とうとうアウラローゼがオルタニアに向けてジェムナグランを発つ日がやってきた。
この日のために仕立てられた、瞳の色と同じ薔薇色のドレスを身に纏ったアウラローゼは、ジェムナグランの国章が刻まれた豪奢な馬車に乗り、オルタニアへと向かっていた。護衛の騎士が馬に乗り、アウラローゼの乗る馬車の周りを囲んでいる。だが、そのアウラローゼの馬車に同乗しているのは、側仕えの侍女であるミラだけだ。
ジェムナグランを発って早数時間。この街道を抜ければ、そこはもうオルタニアの領地となる。
窓のカーテンを片手で避けて、初めて見るジェムナグランの領地ではない外の光景を眺めていたアウラローゼは、しみじみと呟いた。
「まさかあそこまで喜ばれるとは思わなかったわ」
「お祭り騒ぎでしたね」
「喜んでもらえて何よりだこと」
ミラの言葉に、くすくすとアウラローゼは声を上げて笑った。皮肉ではない。けれど喜びを孕んでいる訳でもない。ただ純然たる事実を、そのまま事実として述べるだけのことだ。
アウラローゼの脳裏に甦るのは、王城を発ち、大通りを馬車が走っていた時のジェムナグランの国民の反応だ。
彼らは、アウラローゼがオルタニアに嫁ぐと知ってからというもの、それはもう大喜びした。ミラの言う通り、正に『お祭り騒ぎ』という言葉そのままの喜びようであった。それは隣国たるオルタニアとの和平が、アウラローゼが嫁ぐことによってより強固なものになるから、という訳ではない。もっと単純に、忌まわしき鉄錆姫がジェムナグランから出ていくという事実が、国民にとってはこれ以上ない慶事であったのだ。
王宮を発つ馬車に向かって花弁が降り注ぎ、国民は「おめでとうございます」とアウラローゼに呼びかけた。その言葉に裏の真意は、問い質す必要も無いほどに明らかであった。
――二度と戻ってくるな。
――お前の居場所は、この国にはもう無いと思え。
最後に謁見した、長兄と次兄の言葉は、未だ耳朶にしっかりと焼き付いている。その言葉に、アウラローゼはにっこりと笑って一礼してみせた。
そんなこと、わざわざ言われなくとも理解している。兄達の大層整った輝かしい美貌に浮かぶ冷たい表情は、幼い頃から見慣れたものだ。今更傷付きなどするものか。敢えて言うのならば、「せっかくのお美しい顔に余計なしわが残らないことをお祈りしておりますわ」くらいだろうか。
「お兄様達も、早くご結婚相手を見つけられればいいわね」
自分ほどではなくとも、それなりに美しい姫君を嫁に迎えてくれればいい。
いくら冷たくされようとも、一応は血の繋がった家族であり、かわいいシルフィードとウンディーネの主である兄である。普通に幸せを掴んでくれるように祈ることくらいはする。
どうせその結婚式に、自分が呼ばれることはないだろうけれど別にいい。せいぜい私の知らないところで勝手に幸せになってくださいな。
そう内心で嘯いていたアウラローゼは、ふと正面に座っている侍女の青い瞳が、じっとこちらへと向けられていることに気が付いた。
「どうしたの、ミラ。何か言いたいことがあるようだけれど」
小首を傾げてみせれば、ミラは一瞬、惑うようにその瞳を揺らした。いつも冷静沈着な彼女は、アウラローゼの結婚が決まって以来、どうにもこうにも情緒不安定であるような気がする。
結婚するのは自分の方であるというのに、まるでミラの方がマリッジブルーなるものに陥っているようなのだから不思議なものである。
とは言え、それはあくまでも付き合いの長いアウラローゼであるからこそ解る程度の不安定さであり、他者から見れば彼女は“緑青の侍女”と呼ばれるに相応しい、“鉄錆姫”の侍女として何事にも動じない姿を保っている。
本人が平静を保とうとしているのならば、アウラローゼとしてはわざわざそこの突くような真似はしたくないと思っているが、こうもじっと見つめられては流石に気になるというものだ。
アウラローゼの問いに、ミラは静かにその口を開いた。
「姫様は、何も思われないのですか?」
「何が?」
「此度の人員についてです。一国の姫君ともあろうお方の門出にしては、その、あまりにも……」
「動員された人数が少なすぎるって?」
「――――はい」
なんだ、そんなことか。
思わず拍子抜けさせられる自分にアウラローゼは気付かされた。そして同時に、近頃のミラの不安定さは、きっとそればかりではないということにも。だがそこに深く踏み入らないまま、アウラローゼは肩を竦める。
「心配しなくても、別にお父様が人員を惜しんだ訳じゃないわ。オルタニア側から通達があったらしいの。何も用意することはない、私は身一つで嫁いでくればいいってね」
それを聞かされた時、随分太っ腹な申し出であると思ったものだ。人員ばかりではなく、アウラローゼの身の回りの品々やその他結婚という儀式に臨むにあたって必要なものすべてをオルタニアが肩代わりするというのだから相当だろう。
オルタニアもまたジェムナグラン同様に大国であり、ジェムナグランを軽んじてそのようなことを言い出したのか。それとも、“鉄錆姫”を完全に自国に取り込むために、まずは外堀から固めようとしているのか。
それはアウラローゼにとって知る由もないことであるが、ジェムナグランの貴重な国税が節約されたと思えばまあ悪くはない。“鉄錆姫”を取り込む利点などオルタニアにはないだろうに、それでもアウラローゼを望んだというオルタニアの第二王子の真意など、なおさら知るはずもない。
この自分の美しさに心を奪われたのだろうかと思いもしたが、かの王子と顔を合わせた記憶などアウラローゼにはない。一体何がきっかけになったのかさっぱり解らない。
ならば深く考えても無駄だろうとあっさりとアウラローゼは結論付け、無表情ながらもよくよく見てみればそれが不機嫌なものであると解る表情を浮かべているミラに笑いかけた。
「まあその通達がなかったにしても、これ以上人員が増えることはなかったでしょうね。何せ私についてきたがる侍女も騎士も、数えるほどにもいなかったらしいから」
あの鉄錆姫についていくだなんてとんでもない!というのがジェムナグランの国民の総意である。
物語で語られる狼のように取って食う訳でもないのにと思うが、彼らにとって、鉄血女王を思い出させる鉄錆姫という存在は、狼以上に恐ろしい存在なのだ。心無い陰口も、聞こえよがしな悪意溢れる噂話も、もうとうに慣れた。聞き飽きたと言っていい。今更動じる訳もない。そんな暇があったらこの美貌を磨き、ダンスのレッスンをしている方がずっと有意義だ。
……と、話がずれた。とにもかくにも、アウラローゼは、此度のジェムナグラン側の準備に対して文句を付けるつもりはない。
だから、とアウラローゼはミラに向かって続ける。
「貴女だって、無理についてくる必要はなかったのに」
いくらミラがアウラローゼにとって唯一の側仕えの侍女であるとはいえ、国境を越えてオルタニアにまでついてこいなどと言うつもりは欠片もなかった。
オルタニアに嫁ぐことを告げた際に、ミラは自分に何があろうともついてくると言ってくれたし、きっと彼女はその通りに行動してくれるだろうとは思ったものの、だからと言ってその言葉を言質にしてミラを縛るつもりなど、アウラローゼには毛頭なかったのだ。ついてくる、というその一言だけで十分だった。
わざわざ好き好んで、寄る辺の無い異国に、しかも“鉄錆姫”と悪名高い自分についてこいだなんて、一体誰が言えるものか。ミラ自身の意思を尊重したいと思うくらいには、アウラローゼはミラのことが好きだった。
だが、そんなアウラローゼの言葉に対し、ミラは無表情に頭を振る。
「私には家族も結婚を約束した相手もおりません。私の後見人とは、今回オルタニアに向かうにあたって、正式に縁を切ってまいりました。姫様に随行させていただくことこそ、私の最適解であると存じます」
「別に私は、貴女がいなくとも上手くやっていく自信があるわよ?」
「はい、存じております。ですからこれは、誠に恐縮ながら、私の我儘なのです」
何か文句でも?と王族に対するものとは思えない言葉を言外に告げてくる侍女に、アウラローゼは不覚にも感動した。けれどそれを素直に表に出すのはなんとなく悔しい。
ただの侍女ではなく、姉のようであるとも思っているのだと言ったら、きっとこの侍女は「姫様のような妹君を持ったら、さぞかし愉快な毎日になるのでしょうね」なんて、褒めているのか貶しているのか解らない発言をするに違いない。
その想像に少しだけ笑って、アウラローゼはフンと鼻を鳴らした。
「お礼なんて言わないわよ」
「もちろんですとも。姫様からお礼の言葉をいただけたら、きっと今夜は雪が降るでしょうから」
「あら、私がお礼を言わなくても、今夜は雪かもしれないわ。何せ、“鉄錆姫”が輿入れするんだもの」
アウラローゼが笑みを含んで嘯いた、その時だった。ガタンッと大きく馬車が揺れる。バランスを崩すアウラローゼの身体を、ミラが素早く支えるが、傾いた車体が元に戻るはずがない。
馬の嘶きが聞こえ、同時に荒々しい怒声が響き渡る。続いて空気を切り裂くような剣戟の響きに、ミラの腕の中でアウラローゼはその柳眉を顰める。
――どうやらこの馬車は襲われているらしい。
そう認識した瞬間、あらあら、とアウラローゼは口元に笑みを刷いた。でかでかとジェムナグランの国章が刻まれた馬車を襲うなどいい度胸をしているものだ。
「どんな命知らずかしら。いっそ感心に値するわね」
「姫様、そんな場合ではございません」
呆れたように溜息を吐くミラに「冗談よ」と告げ、アウラローゼは自身を支えてくれていたミラの腕の中から抜け出した。そして躊躇うことなく、大きく音を立てて馬車の扉を開け放つ。
「姫様!?」
らしくもなく声を荒げるミラを背後に、アウラローゼは馬車の上から、周囲の喧騒を見回した。
ジェムナグランから随行していた騎士達も、野盗と思わしき襲撃者達も、一様に驚きを露わにしてその動きを止めた。
呆けたように馬車の上のこちらを見上げてくる者達を睥睨して、アウラローゼは凛と声を張り上げる。
「この私を、アウラローゼ・ジェムナグランと知っての狼藉か! ならばそれ相応の覚悟をなさい!」
その迫力に溢れた声に、それまで各々の武器を思い思いに振るっていた者達の動きが、敵味方を問わずに凍り付いたように今度こそ完全に停止する。
フン、とアウラローゼは彼らを鼻で笑い、そして一言、振り返らないままに馬車の中の侍女に告げた。
「ミラ、剣を」
「はい」
アウラローゼの暴挙とも呼べる行動に対しても、“緑青の侍女”は冷静であった。一つ頷くが早いか、馬車の中に安置されていたアウラローゼ専用の細剣をアウラローゼに差し出し、自らもまた懐剣を構えながら馬車から降りる。
アウラローゼが幼い頃より磨いてきたのは、自身の美貌や知識や作法ばかりではない。ジェムナグランの騎士団長すら舌を巻いた剣の腕もだ。
アウラローゼは、繊細な細工が施されながらも、その作りは確かに実戦用である、自らの細剣を受け取って、慣れた手つきで刀身を鞘から抜き払った。そして、久々に身に纏ったフリルとドレープがたっぷりとあしらわれたドレスの裾を捌いて、体重を感じさせない、妖精のような身軽な足取りで地面に降り立つ。
「死にたい者から前へ出なさい。この“鉄錆姫”を、容易く殺せるとは思わないことね」
この自分の【祝福】が何たるかを、襲撃者達が知っているかどうかなんてこの際問題ではない。【鳥待ちの魚】には、【祝福】を使うつもりは無いと言ったけれど、それはその必要が無いならばの話だ。どれだけ碌でもない奇跡であろうとも、使えるのならば使ってやる。
そもそも、「一度目は誰かのために」と言われているのだ。ならば、アウラローゼが死ぬべき時は、今この時ではない。この命は、こんなところで失われていいほど、安いものではないのだ。
アウラローザが細剣の柄を握り直し、その切っ先を周囲の襲撃者達に向けると、ようやく我を取り戻したらしい彼らは、再びその手の得物を振るい、騎士達との戦闘を再開した。
騎士達の間隙を縫って襲い来る者達を、ミラと一緒になってアウラローゼは容赦なく切り伏せる。だが、襲撃者達の数は多い。
これは長丁場になるかもしれないと内心で舌打ちをするアウラローゼの耳朶を、高らかな馬の蹄の音が震わせたのは、ちょうどその時だった。街道の石畳を馬が駆ける音が、徐々に近付いてくる。何事かと誰もがそちらを見遣り、そして息を呑んだ。
街道を駆けてくるのは、見事な青毛の馬であった。その背には、一人の青年の姿があり、彼は巧みに馬を操ってあっという間に喧騒の中に割り込んでくると、襲撃者達をそのまま蹴散らした。
「な、なんなの……?」
呆然と呟くアウラローゼを庇うように、馬から飛び降りた青年がアウラローゼに背を向けて、襲撃者達の前に立ちはだかる。そしてその腰に下げていた、飾り気のない、それでいてその刀身は鋭く輝く剣を抜き払い、次々と襲撃者達を切り伏せていく。
それは、あっという間の出来事であった。
自身の剣の腕前はそれなり以上のものであると自負しているアウラローゼですら、青年の太刀筋は見事の一言に尽きるものだった。
青年の勢いに背を押されたように、ジェムナグランの騎士達もまた襲撃者達を切り伏せていく。そうしてとうとう自分達の不利を悟った襲撃者達は、切り伏せられた仲間を置き去りに、無事な者達だけが自らが乗ってきたらしい馬に乗って走り去っていった。
……どうやら何とか窮地は脱したらしい。
だが負傷者は多く、襲撃者達の後を追う余裕のある者はいない。こちら側に命を落とした者がいないことに、誰もが安堵に息巻いた。
その中で、アウラローゼは自らの細剣を片手に、ほう、と一つ息を吐く。疲労感が一気に襲ってきて立っていられず、そのままその場に座り込んだ。急ぎ足で駆け寄ってくるミラに片手を上げて応えながら、アウラローゼは溜息を吐く。
まったく、今日のために仕立てたせっかくのドレスが台無しだ。先程の襲撃者達については、ジェムナグランとオルタニア、双方から捜査してもらわねばなるまい。
面倒なことになったわね、とアウラローゼが内心で呟いていると、ふいに目の前に、白い手袋に包まれた手が差し出された。
「――――お怪我はありませんか?」
甘く穏やかな声が、アウラローゼの鼓膜を震わせた。気付けば目の前に、つい先程彗星の如く現れ、襲撃者達を追い払ってくれた青年が、膝を着いてアウラローゼに手を差し伸べていた。
不覚にも、アウラローゼは息を呑まずにはいられなかった。
アウラローゼと視線を合わせて地面に片膝をついている青年は、先程までの勇猛果敢な様が嘘のような細身の、繊細な美貌を持つ青年であった。
年の頃は、おそらくはアウラローゼよりもいくつか年上だろう。
星屑を溶かしたかのような光沢のある、うなじを覆う程度に伸ばされた黒髪は、柔らかそうなくせ毛であり、彼の印象をより優しげなものに見せている。
アウラローゼを見つめる瞳は、光の加減で色を変える大粒の黒蛋白石をそのまま嵌め込んだかのようだ。その服装は決して派手なものではなかったが、明らかに平民のものではないことを、アウラローゼは一目で見抜いた。彼の服装は、もっと上流階級の――それこそ、王侯貴族が身に纏うようなものだ。
アウラローゼは、その青年の姿に自分が見惚れてしまっていることに、遅れ馳せながら気が付いた。
そんな自分がなんだか悔しくて、すまし顔を取り繕い、青年の手を借りることなく立ち上がって一礼してみせる。
「貴方がどなたかは存じませんが、危ないところを助けてくださったこと、心より礼を言いますわ」
ドレスが汚れようと、髪が乱れようと、自身の美しさには何の翳りもないとアウラローゼは思っている。誰もが見惚れるに違いない迫力満点、百点満点の笑顔を、未だ地面に膝をついたままの青年に向ける。
青年は、アウラローゼを見上げながら、まるで眩しいものをみるかのようにその黒蛋白石色の瞳を細めた。そして、アウラローゼに取られなかった手を下ろし、彼女に続いてゆっくりと優雅に立ち上がった青年は、アウラローゼの態度に気を悪くした様子もなく、優しく微笑んだ。
「いいえ、当然のことをしたまでです。自分の妻となる女性を救うのは、男として当然の役目でしょう?」
「……え?」
アウラローゼは薔薇色の瞳を大きく見開く。今、この青年は何と言ったのか。
気付けば周りの騎士や、“緑青の侍女”までもが、固唾を呑んでアウラローゼと青年のやりとりを見守っている。自らの美貌に絶対の自信を持ち、それを活かすことに全力を傾けることをよしとしているアウラローゼは、その時、確かに、非常に不本意ながらも、大層間抜け面を晒すことになった。
そんなアウラローゼを甘く見つめながら、青年は片手を胸にあてがって一礼する。
「私はフィルエステル・オルタニア。貴方の夫となる男です」
その瞬間、アウラローゼの思考は、とうとう完全に停止した。
フィルエステル・オルタニア。
その名前は、アウラローゼを所望した、オルタニアの第二王子の名前であったからだ。
自分を所望した、物好きな“黒鉄王子”が、この青年であるという。それは俄かには信じがたい事実であった。だが、アウラローゼの前で黒鉄王子の名を騙るような馬鹿な真似を存在がいるとも思えない。
天賦の剣の才を持つ武人と聞いていたから、一体どんな筋骨隆々の無骨な武人かと思っていた。しかし実物はその正反対の、世の中の女性陣が憧れるに違いない、まるで絵物語からそのまま出てきたかのような甘く優しげな美貌の青年ではないか。
この見た目なら私の隣に立っても見劣りしないわね、などと、呆然としたままの頭の片隅で、奇妙に冷静にアウラローゼは思う。
そんなアウラローゼの内心を知ってか知らずか、青年――オルタニア第二王子、フィルエステル・オルタニアはにこやかに続けた。
「いずれ我が国の騎士達がここまでやってきます。近頃狼藉者が多くこの近辺に出没していたため、もしやと思って馬を走らせてきましたが、間に合ってよかった」
さらりと告げられた言葉に、アウラローゼは驚きを通り越していっそ呆れ返ってしまう自分を感じた。
擦り寄ってくる青毛の馬の顔を撫でているフィルエステルの顔を見上げ、アウラローゼは柳眉を顰める。
「助けていただいた上で差し出がましいことを申し上げますが、王子ともあろうお方が、護衛も付けずに先陣を切るのは、褒められた真似ではないのではございませんか?」
少々きつい物言いになってしまった自覚はあったが、撤回する気はなかった。これで小生意気な女であると思われても構わなかった。どうせどう思われようとも、この青年と結婚するという事実は覆しようが無いのだから。
だが、予想に反してフィルエステルは、怒りを露わにする訳でもなく、むしろ何故か嬉しげに眦を緩めた。
「心配してくださりありがとうございます。ですがそれはそれとして、褒められた真似をしていないのはお互い様でしょう? 貴女こそ剣をお持ちのご様子だ。勇ましいところも好ましいですが、貴女が傷付けば悲しむ者がここにいることを、どうかお忘れなきよう」
「は、はあ……」
すらすらと戯曲の台詞を諳んじるかのように言葉を紡ぐフィルエステルに、アウラローゼは戸惑わずにはいられなかった。なんだこの男。そう思わずにはいられない。
今まで周りにいなかった性質の青年に対し、どう言葉を返したらいいのか解らない。確かにこの美貌に傷が一つでも付けば、それは世界においても重大な損失であると思うが、わざわざそれをアウラローゼに直接行ってくる存在なんて初めてだった。
どこまで本気なのやら、と訝しむアウラローゼに、フィルエステルはその甘い微笑みを深めてみせる。
「それに、たとえ襲われていなかったにしても、私はここまで来るつもりだったんです」
ふふ、と穏やかに笑うフィルエステルは。アウラローゼの無防備な手を、躊躇うことなく自らの手に取り、そのままアウラローゼの指先に口付けを落とした。
「誰よりも先に、私は貴女に会いたかった。ようやくお会いできて光栄です、私の姫君」
「!」
アウラローゼは今度こそ完全に硬直した。彼女の白皙の美貌が、見る見るうちに赤くなっていく。そうと解っていながらも、アウラローゼはその顔色を自分ではどうすることもできなかった。そっと掴まれた手を振り払うこともできず、アウラローゼは内心で叫ぶ。
――初対面だというのに、本当に、本当になんなのこの男は!
まあこの見た目だ、それだけ女慣れしているということなのかもしれないが、“鉄錆姫”として敬遠され、親しく男性と接したことのないアウラローゼには、フィルエステルの台詞は少々刺激的過ぎた。
そしてフィルエステルは、手を振り払うこともできずに言葉を失ったままのアウラローゼを、「失礼」と一言告げるが早いか、その細腕からは考えられないほど軽々と、アウラローゼを横抱きにして抱き上げた。
「きゃっ!?」
「姫様!」
それまで沈黙を保っていた騎士達がざわめき、その合間を縫ってミラが珍しくも慌てた様子で駆け寄ってくる。
反射的に暴れようとするアウラローゼの身体を難なく抱き上げ、片腕で自らが乗ってきた青毛の馬に、フィルエステルは乗り上げる。
そして、馬上を見上げるミラや騎士達に向かって、フィルエステルは堂々と言い放った。
「姫は私が責任をもって先にオルタニアまでお連れしよう。君達は後から来る我が国の騎士達と共に追いかけてくるといい」
「フィルエステル様!?」
流石にそれはいかがなものか。フィルエステルに腕の中に抱え込まれるようにして、彼の前に座る馬上の人となったアウラローゼは思わず声を上げるが、フィルエステルはそんなアウラローゼに笑いかけるが早いか、手綱を取り馬の腹を蹴った。それを合図に馬は走り出し、あっという間にジェムナグランから共に来たミラの姿も騎士達の姿も遠のいていく。
アウラローゼとて王族の嗜みとして馬術の心得はあるが、こんな風に誰かに守られるようにして横座りになって馬に乗ったことなど一度もない。
一体何なのこの男は。またしてもそう思いながら、アウラローゼはフィルエステルの顔を見上げる。そうして、息を呑んだ。
真っ直ぐ前を向いて馬を走らせるフィルエステルは、笑っていた。つい先程出会ったばかりのアウラローゼにすらそうと解るほど、心底嬉しげに、幸せそうに。
産まれてこの方アウラローゼが向けられたことなど一度たりともない笑顔に、アウラローゼの、文句の一つでも言ってやろうと思って開かれた薄紅の唇は、自然と閉じられた。
やがて街道を抜け、馬の走りが緩やかになる。徐々に馬を走りから歩みへと変えるフィルエステルは、ふいにアウラローゼを見下ろした。
ばっちりと黒蛋白石の瞳が、アウラローゼの薔薇色の瞳を捕らえる。そこでようやくアウラローゼは、自身がフィルエステルの表情に見入っていたことに気が付いた。
――……いやだわ。
そう内心で呟いて、唇を引き結びフィルエステルを睨むように見上げると、彼はにっこりとまた笑った。
「姫」
「何でしょう?」
口元に笑みを履いて小首を傾げてみせると、フィルエステルは「それです」とどこか残念そうに呟いた。
『それ』とはどれだ。意味が解らず、笑みを顔に張り付けたまま瞳を瞬かせるアウラローゼに、今までの笑みとはどこか異なる、何故だか緊張したような声音で、フィルエステルは続けた。
「その口調です。これから夫婦となるのだから、まずは言葉遣いから改めませんか?」
「言葉遣い、ですか?」
「はい。どうか私のことはフィルと。口調も、貴女にとって楽な、砕けたもので構いません。私もそのように話します。そして、叶うことならば、私が貴女のことをアウラと呼ぶことを許していただけませんか?」
「……随分と不思議なことを仰るのですね」
この自分が“誰”であるのかを、知らないはずがないというのに。“鉄錆姫”と厭われる自分に、こんなことを言ってくる存在なんて、今までどこにもいなかった。これからも現れるはずがないと思っていた。それなのに、こんなにも唐突に、この青年はアウラローゼの前に現れてしまった。
ただの年下の政略結婚相手に、黒鉄王子と誉れ高い大国の王子が、何を今更緊張しているというのだろう。そんな声をかけられたら、自分までなんだか緊張してしまうではないか。
何とも言えず気恥ずかしくなって、アウラローゼは視線を落とす。
無意識に両手の指を絡ませ合いながら、一度は落とした視線を持ち上げてフィルエステルを見つめ、小さくアウラローゼは頷いた。
「それじゃあ、その、これからよろしくね、フィル様」
流石に呼び捨てにはできないが、愛称で呼ぶくらいならば許されるだろう。アウラローゼが恐る恐る乞われるがままの名前を呼んでみると、フィルエステルは笑った。ふわりと春風のように柔らかく、そして蕩ける蜜のように甘い笑みだった。
「ありがとう。よろしく、アウラ」
そうして二人が乗った馬は、オルタニアの王宮へと向かったのであった。