第1幕 さらば愛しき君よ
アウラローゼにその報がもたらされたのは、中庭に生える大木の、薄紅の花も散り、その後から芽を出す緑葉も盛りの頃であった。
滅多に自分を呼び立てようとしない父王の元に馳せ参じてみれば、案の定こちらと目を合わせようとしない父王と、何故か揃い立ちしている兄王子二人。
【祝福】などという奇想天外奇奇怪怪な事象が存在する自国である。並大抵のことでは驚かなくなっていた自負はあったものの、それでもその光景にはアウラローゼは少しばかり驚かされた。
父も、長兄も、次兄も、アウラローゼに“アウラローゼ”という物心がつくよりも前から、その存在を出来得る限り視界に入れたがらずにきたと言うのに、これはどういう心境の変化だろう。
内心で首を傾げながら礼を取るアウラローゼに、平和王と名高い父王アルブレヒトより言い放たれたその言葉。
どんな言葉を言われようとも鼻で笑ってみせるつもりであったアウラローゼは、久々に……本当に久々に、心底驚かされることとなった。
***
一歩歩を進める度、結わずに背に流されただけの波打つ髪がふわりと揺れる。
暗い赤茶色の――他者の言葉を借りるのであれば“鉄錆色”と評されるのその髪は、王家御用達の最高級の香油を使って丁寧に手入れされているせいか、窓から射し込む光を受けて、鉄錆色という名に相応しからぬ艶を帯びている。その鉄錆色と相反する白い肌に映える薔薇色の瞳は、生気に溢れきらきらと輝いていた。
高い踵をものともせずに悠然と回廊を歩むアウラローゼの姿は、美しくも恐ろしい。
その様子を柱の影や廊下の角から窺いつつ、「鉄錆姫だ」「王に拝謁したらしいぞ」「一体何が起こるのやら――……」と囁き合う王宮勤めの貴族達の声の一歳を無視して、アウラローゼはミラを引き連れて自室へと向かう。
そしてようやく辿り着いた自室に入るが早いか、アウラローゼはらしくもなく淑女らしからぬ乱暴な仕草でドレスの裾を払い、どさりとソファーに腰を下ろした。
アウラローゼの後に続いて部屋に入ってきたミラは、無表情のままお茶の準備を始める。てきぱきと流れるように茶器を用意する侍女の姿を眺めながら、アウラローゼは自らを落ち着かせるかのように、ひとつ大きく深呼吸をした。
「……あれしきのことで動じるなんて、私もまだまだということかしら」
父王達の手前、なんとか平静を保ちながら頷いてみせたものの、こうして自室で気心の知れた侍女と二人きりとなると、遅れ馳せながら動揺が追い付いてくる。
余裕を持ち、優雅を良しとし、泰然とあれ。そう自らに言い聞かせながら生きてきたつもりであったが、まだまだ自分は甘いようだ。
小さく溜息を吐いて、ミラが淹れた紅茶を口に運ぶ。薫り高い紅茶に自然と眦を緩めたアウラローゼは、そこでようやく、自らに向けられている視線に気付いた。
「なぁに、ミラ。何か言いたいことがありそうね?」
「はい。僭越ながら、『大丈夫ですか』とお聞きしてもよろしいですか?」
ミラは、感情の起伏を普段からほとんど見せない侍女だ。そんな彼女が珍しくも、その青い瞳に心配の念を宿してこちらを見つめている。
ミラがこんな風に訊いてくるのは、アウラローゼが心配されることを嫌うせいだ。心配されると、自分がかわいそうなもののような気がするからだ。憐れまれているような気になるからだ。自分でもかわいくない考え方だとは解っているが、アウラローゼはそんな自分の考えを改めようとは思わない。
そのことをミラは長い付き合いの中で知っているはずだというのに、敢えてこんな風に訊いてくるということはつまり、それだけアウラローゼの態度が普段のそれからかけ離れているということなのだろう。他ならぬこの侍女にこんな風に言わせてしまった自分を反省しながら、アウラローゼはにっこりと笑った。
「いいわ、許してあげる。大したことじゃないのよ」
「然様ですか」
「ええ。少し驚いただけよ」
「陛下と、殿下方とお会いになられたのですよね? もしや何かやらかされたのですか?」
「……そこでお父様達が私に何かしたんじゃないかと思うんじゃなくて、私がお父様達に何かやらかしたんじゃないかって思うのが貴女よね」
驚かされたのはこちらの方だと言うのに、この侍女ときたら酷い言い様である。けれど決して悪い気はしない。これだけずけずけとものを言ってくれる方が、下手に気を遣われるよりもずっと楽でいい。
ティーカップの紅茶を飲み干して、二杯目をミラの手で注がせながら、アウラローゼは桜貝のような爪の乗った指先を唇に寄せ、「そうねぇ」と呟く。
「お父様に会うのも、カルバお兄様に会うのも、キリエお兄様に会うのも、とても久々だったけれど、相変わらずでいらしたわ。特にお兄様方は相変わらず大層お美しくあられたわよ。でもね」
ソファーの背もたれに預けていた上半身を起こし、アウラローゼはふふんと鼻を鳴らした。
「いくらお兄様方がお美しくても、日々お手入れを欠かさない私の敵ではないわ」
「然様でございますね」
ミラによってアウラローゼの台詞は一言でさっくりと片付けられた。若干アウラローゼは傷付いた。いや、この侍女のこういう台詞は、いつものことであるのだから、今更であると言われればそれまでなのだけれど。
そうだとも、こういう風に下手に迎合しないところは彼女の美点だ。アウラローゼはそう自分に言い聞かせ、気を取り直して笑ってみせる。
「お兄様達も、もっとお手入れなさればいいのにね。私のお兄様なのだから、ちょっと頑張れば、もっともっとお美しくなれるのに。本当にもったいないったら」
長兄カルバリーエは、金の髪と薔薇色の瞳。次兄キリエルーバは、銀の髪と薔薇色の瞳を持つ。二卵性双生児としてこの世に生を受けた彼らは、髪の色以外はそっくりそのまま鏡で映し取ったかのような、大層似通った、とても美しい容姿の持ち主である。
アウラローゼよりも七歳年上の彼らに与えられた祝福は、カルバリーエは【風】であり、キリエルーバは【水】である。シルフィードと名付けられた風鳥と、ウンディーネと名付けられた水馬をそれぞれ従える姿は、アウラローゼの審美眼をもってすら至上と言えるほどに美しく好ましいものであるが、生憎彼らからのアウラローゼに対する心証は最悪だ。
物心ついた時より、カルバリーエから嫌味を言われた記憶はあれど褒められた記憶はなく、キリエルーバから無視をされた記憶はあれど振り向いてもらえた記憶はない。
それでもアウラローゼは、兄達を嫌いではない。美しいものは好ましい。
理由としてはそれだけだが、これ以上説得力のある理由もそうそうないだろうと思っている。
正直なところ、あの陽光を集めたかのような金の髪や、月影を紡いだかのような銀の髪に憧れたことがないとは言わない。だってどちらも、絵物語や戯曲に登場する美形の王道ではないか。アウラローゼは自分の暗い赤茶色の髪だって大好きだが、それはそれとして、金髪や銀髪に憧れない訳ではないのだ。
だからこそ兄達に対して、もったいないと思わずにはいられない。もっとああすればいいのに、こうすればいいのに、と、色々と口出ししたくてたまらない。
兄達は素材は最高級なのだから、ちょっと手を加えるだけでもっと美しくなれる。まあ手を加えなくても最高に美しく、女性のみならず男性までもを虜にする兄達のことを、まったく羨ましくないと言えば嘘になるけれど。
複雑だわ、と内心で呟きながら、アウラローゼは焼き菓子に手を伸ばすが、その手が焼き菓子に触れる寸前、皿がミラによって奪われた。
あら、と目を瞬かせるアウラローゼを、ミラは珍しくその眉を吊り上げて見下ろしていた。
「誤魔化されそうになりましたが、そうは参りません。殿下方がお美しいのは我が国の誰もが知っている事実です。姫様が陛下に謁見なさったのは、ただそのお姿を目になさるためだけではないでしょう?」
「もちろんよ。オルタニアの第二王子と結婚しろですって」
「…………はい?」
あら珍しい。ミラ、あなた、そんな顔もできたのね。そうアウラローゼは思った。
ミラの青い瞳は、非常に珍しくも、大きく瞠られ、いつもならばきゅっと引き結ばれている唇が、ぽかんと開かれていた。
危うくその手から焼き菓子の乗った皿が滑り落ちそうになったところでようやく自分を取り戻したらしいミラは、ぱちぱちと瞬きを何度か繰り返したのちに、静かにアウラローゼに問いかけた。
「つかぬことをお伺いしますが、誰と、誰が、ご結婚を?」
「誰って、もちろん、私と、オルタニアの第二王子に決まっているじゃない」
この話の流れで、他に誰がいるというのだろう。まさか兄王子達が他国の王子と結婚するはずがない。だとしたら結婚するのは他ならぬ私しかいないじゃない、とアウラローゼは笑った。
そして同時に、笑いつつも、ミラのこの反応はごもっともなものであるとも思う。いつも冷静な侍女にしてはらしくもない反応だが、先程までのアウラローゼも同じように動揺していたのだからそう他人のことを言えた義理はない。
結婚。それも、オルタニアの第二王子と。
自分で言っておきながら、それはなんとも現実感が薄い事実であるような気がした。
オルタニア。それはかつて大陸を制しようとしたジェムナグランにおいて、特別な意味を持つ国の名である。
何せ、かの鉄血女王マリアローズの軍勢に、隣国でありながらも最後まで耐え抜き、一度たりともその軍門に降ることの無かった隣国の名であるのだから。アルブレヒトが肥大化したジェムナグランを早急に解体しようとした理由の一つは、かの国の存在があったからこそではないかとまことしやかに囁かれている。
鉄血女王が病に倒れ死したのは、オルタニアと刃を交え、互いに戦に疲弊していた頃のことだ。鉄血女王が斃れるのがあともう少し早ければ、ジェムナグランの方がオルタニアに敗戦していたかもしれない。
だからこそ、そこで平和条約を結ぶことができたアルブレヒトの手腕は国内で讃えられている。ジェムナグランがジェムナグランとして在れるのは、平和王のおかげであると。
――オルタニアへ嫁げ。かの国の第二王子が、お前を所望している。
そう、父王は言った。兄王子達が何も言わずに沈黙していたところを見るに、それは既に決定事項なのだろう。アウラローゼが何をどう歯向かったとしても、覆すことはきっと不可能だ。
オルタニアの第二王子。彼がどういう人物であるのか、アウラローゼは詳しくは知らない。だが、かの王子にまつわる噂は、隣国であるジェムナグランにも広く知れ渡っていた。
「他ならぬこの私を所望するだなんて、“黒鉄王子”も、なかなか見る目がある物好きよね」
王族として生まれたこの身である。自由な結婚など叶わぬ夢であることくらい解っていたが、それでもまさか相手が隣国のあの“黒鉄王子”であるとは、一体誰が想像したと言うのか。
少なくとも、アウラローゼは考えてみたこともなかった。それどころか、生涯に渡って結婚など許されないかもしれないとすら思っていたと言うのに、まさかの事態である。
オルタニアにも、“鉄錆姫”の名は忌み名として知られているはずだ。
にも関わらず、アウラローゼを所望した第二王子の通り名は、何の因果か“黒鉄王子”。
このレース・アルカーナ大陸においてその名を馳せる王子は三人いる。ジェムナグランの“金の王子”と“銀の王子”。そして三人目が、オルタニアの“黒鉄王子”その人だ。
アウラローゼよりも三つ年上、御年二十歳になるはずのオルタニアの第二王子は、その天賦の剣技の才を以て、国内外から“黒鉄王子”と呼ばれ慕われているのだと聞いている。
国内のみならず国外からも称賛を集め、異性からの恋慕と、同性からの憧憬を、一身に集めているという彼の人気は、妾腹である第二王子という身分でありながらも、オルタニアの次代の王である第一王子に対する人気を遥かに凌ぐと言う。
そんな“黒鉄王子”が、よりにもよって“鉄錆姫”を所望するとは、一体どういうつもりなのか。
外交上の問題として、現在ジェムナグランとオルタニアの国力は拮抗している。
ジェムナグランの姫である自分とオルタニアの第二王子が結婚することで、平和条約をより強固なものにするためなのだと言われれば、まあ納得できないこともない。
だが、かの第二王子がわざわざ自分を所望する意味が解らない。自分ではなく、ジェムナグランの貴族階級の娘であっても問題ないはずではないか。にも関わらず、黒鉄王子は、鉄錆姫を選んだというのだから、まったく以て意味が解らない。
「“鉄錆姫”を手中に収めても、我が国にとっての人質としては何の価値もないのにね」
むしろ、厄介払いができたと大喜びする父王や兄王子、そして国民の姿が目に浮かぶようである。
一体どういうつもりなのだろうと紅茶を片手に首を捻っていたアウラローゼは、ふと感じた視線の咆哮をちらりと見遣る。
アウラローゼの薔薇色の瞳が見つめる先では、ミラがいつも通りの無表情ながらも、その青い瞳に確かな決意を宿してアウラローゼを見つめていた。
「誰にどう反対されようとも、私は姫様についていく所存でございます」
それは感情を読み取らせない、いつも通りの平淡な声音であった。だが、だからこそアウラローゼには解る。この侍女はその言葉の通り、最後までついてきてくれるのだろうと。だからアウラローゼは笑うのだ。大輪の花が綻ぶように艶やかに、嬉しげに。
「ミラ、貴女もオルタニアの第二王子に負けず劣らず物好きね」
「そんな私を側仕えとしておいていらっしゃる姫様には敵いませんわ」
顔色一つ変えずに言い返してくる侍女に、アウラローゼはころころと鈴を転がすように笑い、そしてまた紅茶を口に運ぶ。
扉の向こうから衛兵に呼びかけられたのは、ちょうどその時であった。さっきの居間でまた何かしら、と扉へと視線を向けるアウラローゼに一礼して、ミラが部屋の扉へと向かう。
そうしてミラが扉を開ければ、そこには多数の衛兵を引き連れた、一人の老年の男性が立っていた。彼が纏う真白い衣装が意味するのは、このジェムナグランにおいては、彼が“祭司”と呼ばれる職に就いているということに他ならない。
「突然の訪問、失礼致します。アウラローゼ姫におかれましては、ご機嫌麗しく」
淡々と定型文を口にする祭司の感情は、生憎のことにアウラローゼには解らない。
とりあえず、つい先程「結婚しろ」と父王直々に問答無用で命ぜられた花盛りの娘に対して「ご機嫌麗しく」とはよくも言ってくれるものだと思う。おそらくはまだアウラローゼの縁談について知るはずのない彼にそう言うのは酷なことなのだろうが、どれだけアウラローゼが罵ったとしても傷一つ付かないであろうこの祭司が相手ならば、思うだけならばタダである。
思えばこの祭司とも長い付き合いだ。親しい付き合いではないけれど。
普段はこの国の中心に位置する森の近くの祭殿に引っ込んでいるはずの彼がこうしてわざわざアウラローゼの前に出張ってくる、その理由。それはいつも、たった一つしかない。
「森の御方がお呼びです。疾く馳せ参じるようにと伝言を預かっております」
ほら、やっぱり。
予想通りの言葉を、アウラローゼは驚くことなく受け止め、そしてティーカップをソーサーに置いてゆっくりと首肯してみせた。
「――解ったわ。準備でき次第すぐに向かうと伝えてちょうだい」
「はい。確かに、伝言を承りました」
変わらぬ無表情のまま一礼して去っていく祭司を見送り、ミラが扉を閉める。それを見届けて、アウラローゼは立ち上がった。おそらく来るだろうと思っていたが、思っていたよりも早かったものだ。
「姫様、それではお召替えを」
「必要ないわ。衣装を変えたくらいで態度を変えるような相手じゃないもの」
アウラローゼがどれだけ税の限りを尽くした豪奢なドレスを身に纏っても、薄汚れたボロ布一枚を纏っただけでも、今から会いに行こうとしている相手は、変わらぬ笑顔でアウラローゼを迎えてくれるだろう。かの人物はそういう相手であるということを、アウラローゼは幼い頃からよく知っている。
「行きましょうか。もしかしたらあれの顔を見るのは、これが最後になるかもしれないしね」
その言葉にミラが一礼し、扉を開ける。カツン、と踵を高らかに鳴らし、アウラローゼは部屋から一歩踏み出した。
向かう先はただ一つ。このジェムナグランの王宮が盾にするようにして存在する深き新緑の森、アルフヘイム。
世間では『森の御方』と呼ばれ尊ばれる、長命種にして希少種たるエルフが棲む森だ。
***
生い茂る新緑の合間から、金色の木漏れ日が降り注ぐ。小鳥の囀りが耳朶を打ち、不可視の存在が確かに息づいていることを感じさせる濃密な空気が肺腑を満たす。
ジェムナグランにおいてこのアルフヘイムと呼ばれる森に足を踏み入れることが許されているのは、ジェムナグランの王族と、エルフとの仲介人を勤める祭司として抜擢された者だけだ。
許されざる者が足を踏み入れれば、アルフヘイムは、侵入者を迷わせ、惑わす、文字通りの帰らずの森となり、侵入者を飲み込んでしまう。
そんな森のとある一角に存在する東屋にて、アウラローゼは一人、ベンチに腰かけてとある人物を待っていた。
自分で呼び出しておきながらなかなか現れないその人物に対し、今更怒りを覚えることなどない。昔から何事に対しても適当な相手なのだ。こんなことをで起こっていたら身が持たない。顔に余計な怒りじわができてしまう。そんなことは許せるはずもない。
それに、アウラローゼはこのひとりの時間が決して嫌いではないのだ。
この自分の美しさを称賛してくれる者がいないのは寂しいが、こうしてひとりで自分を見直す時間というものも大切である。花の香りで満ちた東屋は、昔からアウラローゼの心を自然と癒してくれていた。
と、その時であった。花の香りが一層強くなる。風がそよぎ、アウラローゼの長い赤茶色の髪を乱した。
視界を覆った髪を手櫛で整えていると、がさりと背後の茂みから何かが動く気配がする。
やっと来たわね、と、アウラローゼは躊躇うことなく背後を振り向いた。
そして、そこにいた予想通りの人物の姿に、アウラローゼはとっておきの笑顔を向ける。
「よぉ、待たせたな。息災で何よりだ、俺の愛し子」
「ええ、【鳥待ちの魚】。貴方も元気そうで何よりだわ」
それは、このアルフヘイムに棲む者。旧き古の契約により、このアルフヘイムに居を構え、ジェムナグランが国を挙げて保護する存在。魔法と呼ばれる奇跡を行使する、エルフと呼ばれる長命種の一人。エルフの証である雪のように真白い絹糸のような髪と薔薇色の瞳を持つ青年。
かつてアウラローゼに【祝福】を与えたこのエルフの青年の名は、【鳥待ちの魚】という。
にこやかに笑いながらアウラローゼの正面に座るエルフの青年の顔を、まじまじと見ながら、相変わらず美しいわね、と、嫉妬とも憧憬ともつかない感想をアウラローゼは抱く。
エルフは基本的に皆、とんでもない美貌を誇るが、その中でもこの青年の美しさは格別だ。長命ゆえか出生率が低いエルフの中で、現在最も年若である【鳥待ちの魚】は、他のエルフが皆その白髪を長く伸ばしているのに対し、肩よりも短くばっさりと切り揃えている。それが不思議と、【鳥待ちの魚】にはよく似合い、彼の美貌を引き立てていた。
だが、それはそれ。その美貌を欲しがろうとは思わない。人ならざる存在よりも美しくあろうなんて誰が思うものか。アウラローゼが目指すのは、生ける人間だからこそ持ちうる美しさなのだから。
だからこそ純粋に、ただただ【鳥待ちの魚】の美しさを、アウラローゼは称賛できるのである。
「それで? 一体何の用かしら。貴方が私を呼び出すなんて、去年の私の誕生日以来じゃない」
いくら王族と言えど、エルフは日常的に会える相手ではない。それでも幼い頃は、周囲から厭われ忌避されてきたアウラローゼにとって唯一と言っても過言ではない彼との逢瀬は、例外的に基本的に許されていた。
【蘇生】という【祝福】を与えた者としての責任として、当代エルフの長たる《雨夜の星》の命令により、【鳥待ちの魚】はエルフらしからぬ親しみを持って、アウラローゼを可愛がってくれた。
そんな経緯もあり、アウラローゼを今日まで導いてくれたのは、間違いなくこの青年であると言えるだろう。
アウラローゼが生れ落ちた頃からちっとも変わらない容貌の、エルフの中でも変わり者と呼ばれる彼は、アウラローゼにとって、父のようなものでもあり、兄のようなものでもあり、友人のようなものでもあった。
そんな彼は、アウラローゼの問いに対し、くつくつと喉を鳴らして笑う。
「そうだったか? 俺にとっては大した時間ではないが、人間にとってはそれなりの時間になるのか。もうお前も十七になったのだったな。人間が育つのは速いものだ」
「貴方、それ、前回も同じことを言ったわよ」
「うん? まあいいではないか。俺の愛し子は、いくつになってもかわいらしく美しいぞ」
「私がかわいくて美しいのは今更の話よ。それよりも、今日の本題は? まさかこんな言葉遊びがしたくて私を呼びつけた訳ではないでしょう」
さっさと言ってちょうだい、と、アウラローゼがつり目がちの瞳で先を促すと、【鳥待ちの魚】はにやりとその唇の端を吊り上げた。
「――――オルタニアの第二王子と、結婚が決まったそうだな」
「あら、耳が早いわね」
やっぱりか、と思いつつ、アウラローゼはわざとらしく驚いたように瞳を見開いてみせる。
わざわざ今日のこの時間というタイミングでアウラローゼを呼びつけたのだから、どうせこの話題だろうということくらい予想がついていたが、そこはもちろん、いわゆる様式美という奴である。
「【真白き鴉】の元にシルフィードが知らせにきたからな。【角持つ馬】と一緒になって俺のところに嬉々として報告にきたぞ」
長兄と次兄にそれぞれ【祝福】を与えたエルフの女性達の名に、なるほどね、と頷いてみせる。
長兄が従えるシルフィードは、空がある限りどこまでも飛んでいける風の鳥だ。次兄が従える水馬ウンディーネと同様に、人間並み――いいや、もしかしたら人間以上の知能を持ち、地方の視察を行う時や機密事項を伝令する時には非常に有用性の高い存在である。
兄達がわざわざ【鳥待ちの魚】にアウラローゼの縁談について知らせるとは思えない。となれば、シルフィードが勝手に伝えたことなのだろう。
幼い頃から何故か動物に好かれないアウラローゼであるが、シルフィードとウンディーネだけは、兄達の目を盗んでアウラローゼを可愛がってくれていたから。
オルタニアに嫁げば彼女達にも会えなくなるのかと思うと、一抹の寂しさが胸を過ぎる。自分のことを嫌う兄達のことは割とどうでもいいが、シルフィードとウンディーネは、アウラローゼにとって親しい友人なのだから、そう思うのも当然だ。
オルタニアに向かってジェムナグランを発つのは二か月後だと聞かされている。それまでは、兄達の目を盗んで少しでも一緒にいられる時間を増やせたら、と思わずにはいられない。
ミラにも協力してもらわなくちゃ、と密かに企てるアウラローゼを、【鳥待ちの魚】はまたくつくつと笑って見つめていた。
その薔薇色の瞳が、昔は無機質な硝子玉のようなそれであったことをアウラローゼは知っている。それがいつの間に、こんなにも温かな光を宿すようになったのか。その優しい光に幾度となく救われてきたアウラローゼは、その事実をつくづく不思議なものだと思う。
何の含みも無く与えられる愛情が、こんなにも心地よいものであることを教えてくれたのは、間違いなくこの青年なのだ。
この人ならざる青年が、アウラローゼをずっと支えてくれていた。
でも、それも、今日で終わりだ。
「黒鉄王子だったか? お前の婚約者は」
【鳥待ちの魚】が口にしたその単語に、アウラローゼは思わず肩を震わせる。婚約者。鉄錆姫と呼ばれ恐れられる自分にはきっと縁が無いだろうと思っていたその言葉。王族たるもの、幼い頃より婚約の話が何度でも持ち上がってもおかしくない。現に、兄王子達には、現在に至るまで、数えきれない数の縁談が持ち上がっている。未だに定まらぬ金の王子と銀の王子の結婚相手が誰になるのかは、国内外の注目の的だ。
だが、アウラローゼにはそれはない。鉄錆姫と結婚したがる猛者など、どこにもいなかった。きっとこれからもそうなのだろうとアウラローゼは思っていた。
そう、今日になって、父王からあの宣告を受けるまでは。
「……ええ、その黒鉄王子とやらが、私をご所望のようね」
何故自分なのか。アウラローゼは父王に問いかけられなかった問いを、内心でもう一度繰り返す。
エルフの【祝福】を求めて国外からジェムナグランの王族を迎え入れようとする他国は多い。だが、アウラローゼが持つ【祝福】を取り込んで得られる利などどこにもない。それなのに黒鉄王子は、そんな自分を得たいと言ってきたのだと言う。
まあ確かに自分は、【祝福】などなくとも、翳り一つなく美しいが、王族たる者がそれだけで結婚相手を決めるはずがない。ただの和平の強化目的かしらとアウラローゼは首を傾げるばかりだ。
そんなアウラローゼの内心を知ってか知らずか、【鳥待ちの魚】はその笑顔を消し、何やら難しげな表情をその美貌に浮かべた。
「鉄錆姫に黒鉄王子か。なるほど、誂えたようではないか」
「それ、本気で言ってる?」
「八割はな」
「残りの二割は?」
「俺の愛し子を攫う男に対するやっかみだが?」
それが何か、と、いけしゃあしゃあと言い放つ青年に、とうとうアウラローゼは声を上げて笑った。まったく、これだから彼には敵わないのだ。最後くらい勝たせてくれてもいいだろうに。
本人が意識しているのかいないのかは定かでないが、【鳥待ちの魚】は何年経ってもそういうところは大層負けず嫌いだ。彼のこんな表情を見るのも、こんなやりとりを交わすのも、これが最後なのだと思うと、やはり寂しいものである。
そうだ。きっと、個人的に彼と会えるのは、これが最後なのだ。オルタニアに嫁げば、このアルフヘイムに足を踏み入れることは叶わなくなる。
父よりも兄よりも親しい、アウラローゼの家族であり友人でもある彼。その顔を小憎たらしいと思ったこともあるけれど、もう二度と見られなくなるかと思うと、それはそれで寂しいものだ。
【鳥待ちの魚】もそう思っていてくれるのだろうか。そんな淡い期待を胸に彼の顔を見つめていると、ふいに【鳥待ちの魚】は真顔になった。普段から表情豊かな彼にしては珍しい表情だ。もしかしたら初めて見た表情かもしれないとすら思う。
自然と姿勢を正すアウラローゼを真っ直ぐに薔薇色の瞳で見つめ、【鳥待ちの魚】は問いかけてくる。
「俺が与えた【祝福】を覚えているか?」
それは決して大きな声音ではなかったが、不思議とはっきりとアウラローゼの鼓膜を震わせた。
なんだ、そんなことか。そう拍子抜けする自分のことを、きっと誰も責められない。
「忘れるはずがないじゃない」
アウラローゼに与えられた【祝福】は三度だけの奇跡。かつて大陸中の畏怖を集め、死者へと冒涜だと軽蔑の的となった、鉄血女王の【祝福】を否が応でも思い起こさせるそれ。
方向性と回数こそ違えど、かの鉄血女王の再来かと謳われるアウラローゼの【祝福】は、アウラローゼに対する評価を著しく貶めた。そんな【祝福】を与えたのは、他ならぬこのエルフの青年だ。
【鳥待ちの魚】は、いつもの豊かな表情をどこに投げ打ったのかと聞きたくなるような真剣な表情で、歌うように続けた。
「お前は三度死ぬだろう。一度目は誰かのために。二度目は国のために。三度目は自分のために。俺がお前に与えた【祝福】の条件はそういうものだ」
「ええ、知っているわ。そうして、私は三度【蘇生】するのでしょう?」
一般には知られていないが、アウラローゼに与えられた【祝福】とはそういうものだ。条件付きの【祝福】だなんて随分と心の狭い奇跡もあったものだと、初めて聞かされた時にアウラローゼは思ったものだ。
一度目は誰かのために、二度目は国のために、三度目は自分自身のために、アウラローゼは死に、そして生き返るのだと言う。
これでは【祝福】という名前を借りた予言ではないかと言いたくなる。だが、もしも本当にこれが【祝福】ではなく予言であるのならば、アウラローゼの心はもう決まっている。
「ねえ、《鳥町の魚》。貴方はそう言うけれどね、そもそも私は、誰のためにも死ぬつもりはないの。私は自分のためだけに生きて死ぬつもりなのよ。誰かのためになんて、ましてや国のためになんて、それこそ死んでもごめんだわ」
それが王族として生まれついたものにあるまじき考えだとしてもだ。
今更、自分を否定する誰かのためになんて、自分を認めない国のためになんて、どうして死のうなどと思えるだろう。アウラローゼはそこまでお人好しになんてなれないのだ。
そうだとも。だからこそ、【鳥待ちの魚】が与えてくれた【祝福】が達成されることはないだろう。そうアウラローゼは確信している。
いくらエルフの【祝福】が絶対であるとしても、本人にその気がないのであればそれまでの話ではないかとアウラローゼは思うのだ。
「だからきっと、貴方がくれた【祝福】は、一度だって使われることはないし、一度だって使うつもりもないわ」
わざわざ三度も死んでなんてたまるものかと言い切るアウラローゼに、【鳥待ちの魚】は、ようやくその表情を綻ばせた。
蕩けるような甘い笑みを浮かべ、その白い手を伸ばしてアウラローゼの頭を優しく撫でる。
「お前がそう望むのならば、それでいいさ」
「子ども扱いしないでちょうだい。私、もう十七なのよ。立派なレディなんだから」
「そう言うな。俺にとってはお前はいつまで経ってもかわいい愛し子だ」
恥ずかしげもなくそう言い切った【鳥待ちの魚】は、するりとアウラローゼの頬のラインを指先でなぞり、身を乗り出してその額に口付けを落とす。
幼い頃はよくしてくれたものだが、アウラローゼが思春期に入ってからはとんとご無沙汰であったその行為にアウラローゼは思わず固まる。
そんなアウラローゼを慈しみに溢れた薔薇色の瞳で見つめるエルフの青年は、もう一度アウラローゼの頭を撫でる。
「アウラローゼ。俺の愛し子。誰よりも何よりも幸せになれよ」
優しく甘く、そしてどこか切なる思いが込められたその台詞に、アウラローゼは笑った。【鳥待ちの魚】のその言葉の通りになれるだなんて思えない。彼の言うことは、きっと、とても、本当にとても難しいことだ。けれどアウラローゼは、それを解っていながらも笑ってみせる。
「ふふ、ありがとう。できる限りがんばってみるわ」
それが、父であり兄であり友人でもあるエルフの青年との、最後の別れの言葉だった。