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鉄錆姫は三度死ぬ  作者: 中村朱里
番外編 黒鉄王子は恋をする
17/18

第3幕 黒鉄王子は薔薇を手折る

それから、フィルエステルとアウラローゼの密やかな逢瀬は繰り返されることになった。

お飾りとしてジェムナグランにやってきたフィルエステルの公務など数えるほどにしかない。貴族からの茶会や夜会の招きを体調不良と偽って断ってしまえば、後は自由なものだった。

それをいいことにアウラローゼに会いに行けば、いつだぅて彼女は満面の笑顔でフィルエステルを迎えてくれた。そしてその側には、彼女の兄王子達の半身であるはずの風鳥シルフィードと、水馬ウンディーネがいつも側にいた。

賢い彼らに監視されているようの気分になったフィルエステルは、そこで初めて、自分がアウラローゼと二人きりになれるものだとばかり思い、それに期待していたことに気付かされた。

自覚した途端に気恥ずかしくなって顔を赤くしていたら、アウラローゼには首を傾げられ、シルフィードには髪を引っ張られ、ウンディーネには肩を小突かれた。


そんな一幕もありつつ、今日も今日とてフィルエステルは、アウラローゼとの逢瀬を重ねていた。待ち合わせ馬車は先日と同じく、王宮の中庭の片隅に位置する東屋だ。

シルフィードとウンディーネは、東屋には入らず、その側でそれぞれ思い思いに休んでいる。そんな一羽と一頭を優しく見つめながら、花に溢れたその東屋で、アウラローゼは言った。


「私はね、三度死ぬのですって。一度目は誰かのために。二度目は国のために。そして三度目は自分のために」


幼い声が紡ぐには少々どころではなく不穏な内容のその台詞を、フィルエステルは黙って聞いていた。アウラローゼ・ジェムナグランに対してエルフが与えたのだという【祝福】が何たるかは有名だ。その【祝福】の名は【蘇生】。それこそがアウラローゼが周囲から厭われる理由であり、原因である。

アウラローゼには何の非もないというのに。そう思うと無性に腹が立った。そんなフィルエステルの穏やかではない気配に気付いたらしいアウラローゼは、その視線をフィルエステルへと向けて、くすくすと笑みをこぼしながら「大丈夫よ」と思いの外強い声で続けた。


「誰が三度も死んであげるもんですか。私は私のためだけに生きて死ぬの。誰にも邪魔させないわ。【鳥待ちの魚】にだってそう言ってあるんだから安心して?」


そう力強く言い切る少女の姿に、フィルエステルは無意識に強張っていた肩から力を抜いた。本人がそのつもりであってくれるなら、フィルエステルには何も口を挟むことなどない。むしろ、アウラローゼが口にした、やけに親しげな響きの方がよほど気にかかった。


「……【鳥待ちの魚】殿とは、君に【祝福】を与えた森の貴人殿のこと?」

「そうよ」

「その御仁のことを、恨まないの?」


言ってから、しまった、と。フィルエステルはそう思った。意地の悪すぎる質問だったと口にしてから気付かされた。けれど一度音にしてしまった言葉はもう元には戻らない。

気まずげにアウラローゼを見遣れば、彼女の表情は、予想外のことに、けろりとしたものだった。


「恨んだこともあるけれど、【鳥待ちの魚】がくれたのは、【祝福】だけじゃないもの。もっとたくさん、数え切れないくらいかけがえのないものをくれたし、今もくれているわ。そんな存在のことを、いつまでも恨んでいるほど私は暇じゃないの。そんな暇があったら、異国語の一つでも覚えている方がよっぽど建設的じゃないかしら」


アウラローゼのその答えに、フィルエステルは、もう何度目かも知れない溜息を吐いた。落胆の溜息だ。もちろんアウラローゼに対してのものではない。自分自身に対してのものである。

アウラローゼの言葉の一つ一つが、今までの――いいや、過去ばかりではなく、現在進行形のフィルエステルに突き刺さる。自分の情けなさに涙が出そうだ。けれどここで彼女に涙を見せるなんて真似などできるはずがない。


【鳥待ちの魚】という、アウラローゼに与えられるものを持ち合わせているエルフが羨ましかった。自分には彼女に捧げられるものなど数えるほどにもない。せいぜいすぐ側に生えている花を摘み取って、それで指輪を作り、そっとアウラローゼの小さく幼い指へとはめることができるくらいだ。こんなこと、誰にだってできることだ。フィルエステルだけの特別ではない。

けれどそれなのに、アウラローゼは心底嬉しそうに笑って、その白磁のごとき頬を薄紅色に赤らめてくれるのだ。


「王子様みたいね」

「私は王子だよ?」

「あら、そういえばそうだったわね」


ころころと鈴を転がすように笑うアウラローゼに、フィルエステルは今までに感じたことのない何かが胸を満たしていくのを感じていた。それは温かくて、柔らかくて、そしてとても優しい何かだ。


――君だけの王子になりたいと言ったら、君はもっと笑ってくれる?


ふいに浮かんだ問いかけが口から飛び出しそうになり、寸前でフィルエステルは口を押さえた。アウラローゼが不思議そうに瞳を瞬かせるが、答えることはできなかった。こんなこと、言えるはずがない。恥ずかしすぎる、という理由もあったし、冗談だと思われるのが嫌だ、という理由もあったけれど、それより何より、「お断りよ」と拒絶されるかもしれないと思うと、口が裂けても言えるはずがない問いかけだった。

「好きになる」とはアウラローゼは言ってくれたが、それは特別な存在にしてくれるという意味と同意ではないのだ。あの夜の誓いの時、「特別な意味で好きになってくれる?」とでも言っておけばよかったと今更思っても遅いのである。


自分に対しての落胆の溜息がまたしても込み上げてきたところをなんとか飲み込んで、フィルエステルは、並んで座るアウラローゼの膝と自身の膝に跨るようにして載っている本に視線を落とした。

今日読んでいるのは、王宮に召し上がられた吟遊詩人が、かつての旅の途中で記したのだという東方見聞録だ。なかなか興味深い内容であるはずなのに、その内容などちっとも頭に入ってこない。

アウラローゼの眼差しが、そろそろ不思議そうなそれから訝しげなそれへと変じてきたことに気付いたフィルエステルは、ごまかすように先程脳裏に浮かんだ問いかけとはまったく異なる問いかけを口にした。


「アウラは、絵物語とかは読まないの?」

「絵物語?」

「そう。たとえば姫君と王子の恋愛譚とか。君くらいの女の子なら、そういう本の方が好ましいんじゃないかなと思って。もしかして私に気を遣ってこういう本を選んでいるなら、気にしないでほしいな。アウラが読みたい本を読めば……」

「いいの」


フィルエステルの台詞を遮るようにして言い放たれた短い台詞は、アウラローゼが本来持つべき幼さからは程遠い冷たさが宿っていた。反射的に口をつぐむフィルエステルに、アウラローゼは自らの失言に遅れて気付いたらしい。はっと息を呑み、気まずそうに薔薇色の瞳がフィルエステルへと向けられる。

気にしてなどいないという気持ちを込めて微笑みを返せば、ほっとしたようにアウラローゼは表情を緩めた。そしてその花のかんばせに、諦めの色が乗せられる。


「ねぇ、フィル様」

「何?」

「フィル様は、私のこと、好き?」

「え?」


思ってもみなかった問いかけに、咄嗟に答えることができなかった。アウラローゼのことを好きかどうかなんて、そんなことなど実は一度だって考えたことがなかったことに気付いてしまった。

ただ、逢えるのが嬉しくて、一緒にいられるのが楽しくて、できたら二人きりになりたいなんて期待して。

目先のことばかりに夢中になっていて、自分がアウラローゼのことをどう思っているか、という、根本的な大前提のことなどまったく意識していなかったのだ。


「どうしたの、急に?」


そんな考えてもみなかったことをすぐに答えることなどできない。だからフィルエステルは、問いかけに問いかけで答えるというずるい真似をした。幸いなことにアウラローゼは気分を害した様子もなく、沈んだ表情で淡々と続ける。


「ちょっと気になったの。絵物語の王子様みたいに、あなたは私のことを好きになってくれるのかしらって」


幼い問いかけだった。それは当たり前のことを訊いているようでいて、実際はとても難しいことを訊いているのだと、フィルエステルは思った。どう答えたものか、と思案するよりも先に続けざまに質問が口から飛び出した。


「誰かに、何か言われた?」

「言われた訳じゃないわ。盗み聞きしたの。侍女達がね、『我が国の鉄錆姫には、きっと王子様は現れないでしょうね』とか、『歴戦の騎士だって逃げ出すに違いないわ』とか、好き勝手なことを言ってくれていたの。失礼しちゃうわ」


自分の眉がひそめられていくのを、フィルエステルは冷静に感じ取った。なんだそれは。気を抜けばそう声を荒げてしまいそうになる自分がいた。そうしないだけの理性が自分に残されていることに感謝しつつ、それでも拳を握り締めずにはいられなかった。

アウラローゼ自身が語ろうとはしない、彼女を取り巻く環境の過酷さを垣間見られたことは僥倖なのかもしれないが、だからと言ってそれを受け入れられるかどうかは別の話だ。

君は誰よりも素敵なお姫様だよ。そう言えればいいのだろうか。たった一言で、何かが変わるのだろうか。『凡庸な第二王子』の一言で?

その疑問をフィルエステルが解くよりも先に、アウラローゼは小さく笑った。いつも通りに勝気な、それでいてどこか寂しげな笑みだった。


「でもね、解ってるわ。たとえ私が誰かを好きなっても、その人が私のことを好きになってくれる保証なんてどこにもないってことくらい。だから、私はその誰かが心置きなく私のことを好きになってくれるように最高の私でいることを決めてるのよ。でも物語のお姫様は、自分じゃ努力もせずに待ってるだけでしょう? 馬鹿にしてるわ。何もせずにただ待ってるだけで大団円が約束されてる恋愛譚なんて嫌いよ」


フンッと小馬鹿にするように鼻を鳴らした少女は、そうして、小さな小さな声で、誰にともなく呟いた。


「無い物ねだりなんて見苦しい真似なんか、頼まれたってごめんだもの」


フィルエステルに聞かせるためではなく、自分自身に言い聞かせているに違いない。アウラローゼのその台詞は、フィルエステルにそう思わせるだけに十分な儚さを孕んでいた。

だからこそ気付けばフィルエステルは、膝の上で握り締めていた拳をほどいて、アウラローゼの手を取らずにはいられなかった。フィルエステルが取ったアウラローゼの白い手の指には、先程はめられた花の指輪が可憐に咲いている。


「私がいるよ」


この花のように、『王子』である自分がこんなにも近くにいる。それでは駄目なのだろうか。足りないのだろうか。

そんな縋るような気持ちで放たれたフィルエステルの言葉に対し、アウラローゼはかぶりを振った。


「これはフィル様には関係のないことよ」

「君は私のことを好きになってくれると言ったのに? あれは嘘だったの?」

「嘘な訳ないじゃない。名前にかけて誓ったのだもの。でも、私は貴方のことを好きになると誓ったけれど、貴方は違うでしょ? さっきも言ったじゃない。私が好きになっても、その人が私のことを好きになってくれる保証はないって。つまり、貴方は私のことを好きになる義務なんてないわ。嫌う権利は、お持ちだけど」


そんなことなどない。そう言おうとしても、言葉が出てこない。硬直するばかりのフィルエステルをどう思ったのか、アウラローゼの笑みに諦めの色が滲んだ。


「ごめんなさい。変なこと言って。忘れてくれるかしら」


――違う。違うんだ。私は、君が。君のことが。


「好きだよ」

「え?」

「私は君が好きだよ、アウラ」


言葉にしてしまえば、たったそれだけのことだった。こんなにも簡単なことだったのに、すぐさまアウラローゼに伝えられなかったことをフィルエステルは悔やむ。

そうだ。いつだって自分は、気付くのが遅いのだ。


「……無理して言わなくたっていいのに。そんなの嬉しくないわ」

「無理なんてしていない! 嘘なんかじゃないんだ」


どうか信じてほしかった。アウラローゼは“待っているだけの姫君”なんて嫌いだと言った。ならばフィルエステルとて、“待っているだけ”ではいけないのだ。

アウラローゼに好いてもらうだけの価値のある男になるには、自分から行動しなくてはならない。

そう思うからこそ、この強く美しい姫君に、ちゃんと声に出して伝えたい。


「私は王子だと言っただろう? オルタニアの第二王子じゃなくて、君だけの王子になってみせる。その代わりに、君は私だけの姫君になってほしい。私はそう思っているのだけれど、それじゃ理由にならない?」

「……鉄錆姫でも?」

「輝く薔薇の姫君のことを、どうして好きにならずにいられると思うの?」


笑みを含んだ問いかけに、アウラローゼの?が薄紅色に染まった。きょどきょどとらしくもなく視線を彷徨わせた少女は、やがてフィルエステルからツンと顔を背けた。けれどそのくらいでは、彼女の顔の赤さが隠せるはずもない。


「ま、まあ、こんなにも私はこんなにもかわいくて綺麗なんだもの。貴方だけじゃなくて、世の王子様が放っておかないのも当然よね」

「それは困るな。君の魅力に魅せられるのは、私一人で十分なのに」

「ッ!」


アウラローゼの顔がますます赤くなる。もごもごと何か言いたげにしながらも、何を言ったらいいのか解らないらしく、結局もどかしげに口を開閉させるばかりだった少女の薔薇色の瞳に、やがて一つの決意が宿る。

促すようにフィルエステルが微笑みかければ、アウラローゼはごくりとはたから見てもそうと分かるほどに分かりやすく一つ喉を鳴らして、そうしてその薔薇色の瞳にフィルエステルを映した。


「目を閉じて」

「うん?」

「いいから、目を閉じて、ちょっと頭を下げて!」


何が何だか解らなかったが、フィルエステルは求められるがままに瞳を閉じ、少しばかり頭を下げた。

次の瞬間、柔らかな感触を額に感じる。驚いて瞼を持ち上げれば、目の前に、相変わらず頬を薄紅に染めたままの少女の顔があった。そのかわいらしくも美しい花のかんばせから、何故だかフィルエステルは目が離せなくなる。

そうしてやっと、自分が何をされたのか、遅れて理解が追いついたフィルエステルは、自らの顔もまた赤くなっていくのを感じた。

年下の少女に額に口付けられたくらいで何を、と自分でも思うのだが、それでも顔が熱くなるのを止められない。そんなフィルエステルを満足げに見つめ、アウラローゼはその小さな幼い両手で、フィルエステルの両頬を包み込んだ。


「覚えておいてね、私の王子様。私は三度も死ぬ気なんてちっともないけれど、もしも本当に三度死んでしまっても。生き返るたびに、私、きっとあなたのことをもっと好きになるわ」


そう言って、大輪の薔薇のような少女は、蕾がほころぶ瞬間を見せつけるかのように、艶やかに、鮮やかに笑った。その瞬間、どうしようもないほどの衝動が、フィルエステルの全身を貫いた。



――この花が、欲しい。



この美しい薔薇が欲しい。欲しくて欲しくてたまらない。

真実この少女のことを想うのならば、フィルエステルは彼女のことを手折るべきではないことくらい解っていた。けれど、駄目だ。もう駄目なのだ。

いずれこの少女は、今よりも、誰よりも美しく花開くだろう。“輝く薔薇”の名の通りに、誰もが心奪われずにはいられないような、美しい大輪の花を咲かせるだろう。そうなってからでは遅いのだ。先程の自分の台詞が、鋭い矢となってフィルエステルの胸に突き刺さる。


――君の魅力に魅せられるのは、私一人で十分なのに。


そうだ、自分だけでいい。この花を愛でるのは自分だけでいいのだ。誰かに奪われる前に、今ここで手折り奪っていってしまいたい。そんな暴力的な衝動がフィルエステルを襲う。


――これは、何だろう。


ただ単純に“好き”というばかりではない。理解しがたい感情だった。これが“特別”ということなのか。こんな感情を、フィルエステルは知らなかった。

それは、フィルエステルにとって初めての渇望であり、執着であった。“理想的な王子様”が抱くには、あまりにも滑稽で情けない、それでも手放せない感情だった。


その感情の名前こそが、恋だった。


もしも、その恋を、手放すことができたなら。もしも、その恋を諦めることができたなら。そうしたら、フィルエステルはアウラローゼを喪うことにはならなかったのだろうか。

その問いに答えられる者は、きっと誰もいないのだろう。


* * *


それは、避けようと思えば避けられる拳だった。だが、フィルエステルは避けなかった。その場に立ったまま、アウラローゼにとっては長兄にあたる“金の王子”、カルバリーエの拳を受け入れた。

宙を切った拳は、見事にフィルエステルの頬にめり込み、そのままの勢いでフィルエステルは無様に床に倒れ込んだ。その様子を、未だ拳を握り締めたまま、カルバリーエは、その精悍な美貌に憤怒を露わにして吐き捨てた。


「よくも、よくもアウラローゼを……!」


その声に滲むのは怒りばかりではない。筆舌に尽くしがたいほどの悲しみもまた、その声は孕んでいた。床の上に尻餅をついた状態で座り込むフィルエステルを見下ろし、拳を更に振るおうとしたカルバリーエの前に“銀の王子”、キリエルーバが割り込み、兄王子を諌めるようにその拳を止めた。


「落ち着け、カルバ。相手は一応国賓だ」


キリエルーバの声は、カルバリーエのそれとは対照的な、いっそ空恐ろしくなるほどに冷静なそれだった。落ち着き払っている様子の弟王子の姿に、カルバリーエはキリエルーバの肩越しにフィルエステルを睨み付け、更に声を荒げた。


「これが落ち着いていられるか! 国賓だろうが知ったことじゃない! お前はこいつが許せるのか、キリエ!」

「――誰が、許せるものか」


カルバリーエの怒声に対するキリエルーバの声音はやはり静かなものであったが、その内容は、そこに含まれた感情は、カルバリーエの怒声に匹敵するものだった。

キリエルーバもまた、カルバリーエ同様に、これ以上もなく怒り、悲しんでいるのだ。

そんな弟に気付いたらしい兄は、震える拳を下ろし、未だ床に座り込んだままのフィルエステルを更に強く睨み付ける。その横に並んだ、弟王子もまた同様にフィルエステルを静かに睨み付けた。


「今すぐ殺してやりたいに決まっているだろう。だが、アウラローゼはそれを望まない。こいつは、アウラローゼが守った男だ」

「ッ!」


キリエルーバの、自身に言い聞かせるかのようなその台詞に、カルバリーエは歯噛みした。フィルエステルを睨み付ける金の王子には燃え盛る炎が、銀の王子には凍て付く氷が、それぞれの薔薇色の瞳に宿り、これ以上はないに違いない憤怒の色に染まってフィルエステルを射抜く。

けれど稀なる美貌を持つ、鏡写しのような年上の双子の王子達にそこまで憎々しげに睨み付けられても、フィルエステルは不思議と恐ろしいとは思わなかった。むしろフィルエステルは、それを当然のものとして受け入れた。殴られた頬が熱を持って痛むが、その痛みすらどこか遠かった。この程度の痛みなど、今、この心を占める痛みと比べれば、なんてことのないものだったからだ。


今フィルエステルがいるのは、ジェムナグランの王宮の中でも最奥に位置する、王族の居城だ。その一室にて、フィルエステルはカルバリーエとキリエルーバに罵られるままに罵られ、その拳すらも甘んじて受け入れた。

もしもここにアウラローゼがいたならば、そんなフィルエステルを庇ってくれたかとしれない。だが、それは有り得ない。何故ならば、もうアウラローゼは、フィルエステルを庇ってくれたからだ。その命をかけてフィルエステルを庇い、フィルエステルの目の前で、彼女はその美しい命を散らした。


それは、突然の出来事だった。


ここ数日そうしてきたのと同じように、アウラローゼの元にフィルエステルは一人、護衛の目を盗んで向かった。いつもと同じようにシルフィードとウンディーネと戯れていたアウラローゼは、そんなフィルエステルを満面の笑顔で迎えてくれた。

その笑顔が眩しくて、嬉しくて。だからこそもうすぐやってくる別れが余計に辛くて、寂しくて、切なくて。

そんな複雑な感情に苛まれるばかりであったフィルエステルの心は、その時確かに現実とは別の部分に傾いていて。だから、と言っても言い訳にしかならないが、突然乱入してきた騎士の刃に、反応が遅れた。遅れて、しまったのだ。


――フィル様!


悲鳴のようなアウラローゼの叫びと共に、フィルエステルの身体が突き飛ばされた。アウラローゼに突き飛ばされたのだ、と気付いた時は、もう遅かった。

赤い、赤い、薔薇よりも赤い血が、花弁のように宙に散った。アウラローゼの小さな身体が、どさりとその場に倒れ伏すのを、フィルエステルは、呆然と見つめることしかできなかった。何も、できなかった。目の前の光景が受け入れられなかった。

アウラ、と、そう叫んだ自分の声が、自分のものではないようだった。

そんな自分と、地面の上に伏すアウラローゼを見下ろして、鮮やかな赤が滴り落ちる剣を携えた騎士は言った。


――ヴェリスバルト殿下の御為に!


皮肉にも、その時騎士が口にした、慕わしい異母兄の名前が、フィルエステルを現実へと引き戻した。気付けば腰に携えていた護身用の剣を引き抜き、騎士の懐に飛び込んでいた。愕然とした表情を浮かべる騎士に、剣を構える暇すら与えずに、フィルエステルは一太刀で騎士を斬り捨てた。

自身の命が奪われたことにすら気付かないままに絶命した騎士のことなど、もうどうでもよかった。ただアウラローゼのことだけでフィルエステルの頭の中はいっぱいだった。


抱き上げたアウラローゼの身体は、フィルエステルがぞっとするほどに重かった。溢れる涙を拭いもせずに謝罪するフィルエステルに笑いかけ、そしてアウラローゼは逝ってしまった。

いくらアウラと呼びかけても、もう「フィル様」と呼び返してくれる愛らしい声は聞こえなかった。


アウラローゼの血に染まりながら慟哭するフィルエステルの元に、シルフィードとウンディーネに導かれてカルバリーエとキリエルーバがやってきたのは、それからしばらくしてのことだった。

物言わぬアウラローゼの遺体に取り縋るフィルエステルを引き剥がし、カルバリーエがアウラローゼを抱き上げていずこかへと運び、キリエルーバがフィルエステルを引き摺ってこの部屋まで連れ込んだ。


そうして、キリエルーバとフィルエステルに遅れて、アウラローゼをフィルエステルの手の届かない場所へと隠してからやってきたカルバリーエが、拳を握ってフィルエステルを殴り飛ばしたのである。


謝罪も、懺悔も、何一つ意味はない。自分のせいで、アウラローゼは死んだのだ。あの強く美しい少女は、フィルエステルのせいで死んだのだ。

そう思うだけで、魂が引きちぎられそうな痛みを覚える。けれどそれはただの錯覚だ。本当に痛かったのは、悲しかったのは、フィルエステルではなくアウラローゼなのだから。

床に座り込んだまま無言で俯くフィルエステルをどう思ったのか、キリエルーバが溜息を吐いた。それは小さな吐息であったけれど、何よりも深い後悔の溜息だった。


「悪いのはこいつだけじゃない。アウラローゼに逢いに行くこいつを止めなかった俺達にも責任がある」


その言葉にカルバリーエが舌打ちをして、フィルエステルは反射的に顔を上げた。

ああ、そうか。道理でアウラローゼとの逢瀬が、毎回誰に邪魔されることもなく叶っていた訳だ。

いくら周囲に忌まれているとはいえ、第三位王位後継者たる姫君の元に、フィルエステルのような部外者がたやすく逢いに行けるはずがない。彼女にも、護衛が付けられていたはずだ。それなのにフィルエステルはいつも気軽にアウラローゼに逢いに行けていた。それは、この兄王子達の計らいだったのだ。

風鳥シルフィードと水馬ウンディーネは、それぞれカルバリーエとキリエルーバの半身であり、自身の心を映す鏡であると聞かされていたではないか。自身の半身を、兄王子達が何のために妹姫の側に置いていたのかなんて、考えるまでもない。


――アウラ、君はこんなにも愛されていたんだね。


あの湖のほとりで、カルバリーエとキリエルーバは守りたいものがあると言っていた。それは、アウラローゼのことだったのだ。表立って彼女のことを慈しむことはできずとも、いつだって彼らはアウラローゼのことを想っていたのた。

浮かれるばかりで、自身の置かれた環境のことなどすっかり忘れていたフィルエステルとは違って、彼らはアウラローゼのためを思って行動していたのだろう。フィルエステルのことを見逃してくれていたのは、アウラローゼがそれを望んだからだ。短期間だけなのだからと、せめてそれくらいはと、そう思ったからに違いない。

その選択が、アウラローゼの守りを薄くさせ、フィルエステルの命を狙った騎士の侵入を許してしまった。


――私の、せいだ。


キリエルーバは自分達にも責任があると言ってくれたが、フィルエステルには決してそう思えなかった。まただ。また自分のせいなのだ。父から母を奪ってしまった自分はまた、アウラローゼからその命を奪い、目の前の王子達から大切な妹姫を奪ってしまった。その罪深さに目眩がした。やはり一発殴られるばかりでは足りやしない。いっそのこと、その腰に下げた剣で、この身を斬り裂いてほしかった。


……けれど、それは叶わない。


「そこまでにしておいてやれ、カルバリーエ、キリエルーバ」


ふ、と。唐突に割り込んできた、あまりにも穏やかすぎる、この場には不釣り合いな若い美声に、フィルエステルはその黒蛋白石の瞳を瞬かせた。そうしてそのまま目を見開く。気付けば目の前に、真白い衣装を身にまとった存在が佇んでいたからだ。


音もなく、気配など感じ取れなかった。どうやっていきなりこの部屋に現れたのか。そう疑問が呆然とするフィルエステルの脳裏に浮かぶが、口に出すことはできなかった。

目の前の存在は、それはそれは美しい青年だった。

切り揃えられた髪の色は真白。同じく真白い、けぶるような睫毛に縁取られた瞳の色は薔薇色。その色彩は、アウラローゼのそれと同じものだ。真白い髪の合間から覗く耳は長く尖っていた。

それらすべての要素に、何よりもそのありえべからざる美貌に、目の前の存在が、人ならざるものであることを知る。彼は、森の貴人――すなわちエルフと呼ばれる、希少なる古代種だ。


「【鳥待ちの魚】!?」

「貴方が何故ここに」


カルバリーエが薔薇色の瞳を見開いてフィルエステルにも聞き覚えのある響きを叫び、キリエルーバが同じ薔薇色の瞳を眇めてその存在に問いかけた。

フィルエステルは、何も言えなかった。指一本、動かすことすら叶わなかった。【鳥待ちの魚】。それは、アウラローゼに【祝福】を与えたというエルフの名だ。停止した思考の中でかろうじてそう思い出すフィルエステルをよそに、目の前のエルフ……【鳥待ちの魚】は、金の王子と銀の王子に向かって美しく笑いかけた。


「俺のかわいい愛し子の窮地に、俺が出張らないはずがないだろう?」


そうどこか茶化すような口調で双子の王子に答えたエルフの瞳が、フィルエステルへと向けられる。フィルエステルは我知らずぎくりと身体を強張らせる。

どこまでも透き通った薔薇色の瞳に、飲み込まれてしまいそうだった。けれど、目を逸らしてはいけないと思った。目を逸らしてしまったが最後、今度こそ本当にアウラローゼを喪ってしまうような気がした。もう既に彼女は喪われてしまったというのに、この期に及んで何をと言われるに違いないというのに、それでもフィルエステルは諦められなかった。

そんなフィルエステルの反応をどう思ったのか、エルフの青年は長い睫毛をぱちりとひとたび瞬かせ、やがてにやりとその薄く色付く唇の端をつり上げる。


「大丈夫か、オルタニア第二王子殿?」


音もなくフィルエステルの前にしゃがみ込んだエルフの手が、フィルエステルの、先程カルバリーエに殴られたばかりの頬にあてがわれた。ひやりと冷たい手が、フィルエステルの頬から熱を奪っていく。

それはほんの数秒のことだった。「こんなものか」と小さく呟くエルフが自身の手をフィルエステルの頬から下ろした時には、フィルエステルはもう、頬の痛みを感じなくなっていた。

どういうことなのかと瞳を瞬かせるフィルエステルを置き去りにして立ち上がるエルフを、カルバリーエとキリエルーバが苛立たしげに睨み付けた。


「そんな奴を癒してやる必要などないだろう!」

「アウラローゼの受けた痛みに比べれば、カルバの拳一つくらい虫に刺された程度にも満たないというのに」

「まあそう言うな。オルタニアの王族にジェムナグランの王族が手を出したとあっては、外聞も悪いだろう」


からからとそう笑うエルフの言葉に、フィルエステルは自分が彼によって治療されたらしいことを知る。思わず自分の頬に手をやれば、そこにはやはり何の熱も痛みもない。

これが、エルフの力の一端か。人にあらざる、人知を超えた力なのか。

こんな力が自分にもあったなら。そうフィルエステルはその時思った。そうすれば、自分は誰のことも失わずに済んだのだろうか。

そう自問しながら、無言で立ち上がるフィルエステルに、エルフの薔薇色の瞳が向けられる。


「さて、それでは問おう、弱き人の子よ。貴様はアウラローゼが欲しいか?」


それは唐突な問いかけだった。

息を呑み目を見開くフィルエステルから視線を外すことなく、真っ直ぐにフィルエステルを見つめて、エルフはまるでアリアを歌うように続けた。


「貴様のためにアウラローゼは死んだ。貴様も知っての通り、アウラローゼは三度死ぬ。その第一の死を貴様のために迎えたのだ。それでもなお、貴様はアウラローゼを求めるか?」


どんな嘘も、どんな冗談も、決して許されることのない、魂をかけた問いかけだ。少なくともフィルエステルはそう思った。

だからこそフィルエステルは真っ向からエルフの視線を受け止めて、力強く頷いた。


「――――はい」


そんなことなど許されないことは解っていた。何も求めないと決めていたはずの自分には、アウラローゼを死なせてしまった自分には、そんなことを望む権利などかけらも持ち合わせていない。それでも、嘘をつくことはできなかった。


「何に代えても、何をしようとも、私は、アウラローゼ・ジェムナグランを乞います」


宣誓のように、フィルエステルは言った。エルフの瞳がすうっと静かに細められる。続けろ、と声なく促され、フィルエステルは心の命ずるままに、自分でも驚くほど懸命に、必死になって、言葉を紡ぐ。


「そのためならばどんな手段も厭いません。どんな障害があろうとも、それがアウラに近しい貴方方であろうとも……そしてアウラ自身であろうとも、その障害を踏み越えて、私はアウラを手に入れます」


なんて傲慢で、勝手で、理不尽な宣誓なのか。そんなことは解っていた。それでも駄目なのだ。この心が、魂が、アウラローゼを求めてやまない。もうその衝動は、誰にも――たとえアウラローゼの兄王子達であろうが、人知を超えた存在であるエルフであろうが、アウラローゼ自身であろうが、フィルエステル自身であろうが、決して止められはしない。


フィルエステルの言葉に、カルバリーエが再び拳を握り締めた。キリエルーバは、今度はそれを止めようとはしなかった。

ああ、また殴られるかな。そう思いはすれども、フィルエステルは台詞を撤回する気などさらさらなかった。


ぴりりと空気がひりついた。誰も声を上げない中で、フィルエステルはただ真っ直ぐにエルフのことを見つめている。そのエルフの美貌が、ふいに崩れた。


「……はははははは!」


緊迫していたはずの空気を、エルフの豪快な笑い声がぶち壊す。勢いを削がれて拳を緩ませるカルバリーエや、何事かとエルフを見遣るキリエルーバ、そして何を言われるのかと身構えていたフィルエステルを置き去りに、エルフは腹を抱えてひたすら笑い続ける。

そうしてひとしきり笑った後、笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を白い指先で拭ったエルフは、先程のようににやりと人の悪い笑みを浮かべてみせた。


「いいだろう、フィルエステル・オルタニア。こいつらやアルブレヒトが何を言おうとも、お前がアウラローゼに相応しい男となったその時は、アウラローゼをお前にやろう」

「なっ!?」

「何を勝手なことを?」


エルフのその台詞に驚かされたのは、フィルエステルばかりではない。カルバリーエとキリエルーバもまた驚きを露わにしてエルフを見るが、そんな視線など意にも介さず、からからと明るく笑いながらエルフは続ける。


「まあ聞け、カルバリーエ、キリエルーバ。もちろんただで俺のかわいい愛し子をくれてやるものかよ。言っただろう、こいつがアウラローゼに相応しい男になったその時に、と。俺ではなく、お前達が認めたその時にこそ、許してやればいい」

「誰が許すものか!」

「土下座されてもごめんだ」

「まあお前達がそう言うならばそれでもいいさ。それくらいの障害がなくては、張り合いがないだろう? オルタニア第二王子、異存はあるか?」

「まさか。ご厚情に感謝いたします」


こんな展開になることを、一体誰が想像していたというのだろう。少なくともフィルエステルはまったく想像していなかった。口ではアウラローゼを望むと言ったし、実際にそのためならば手段を選ばない所存であったとはいえ、こうもあっさりと、他ならぬアウラローゼのエルフからチャンスが与えられるとは思わなかった。

驚きに呆然としそうになったものの、ここで「やっぱりやめるか」と提案を撤回されたらたまったものではない。食いつくようにして礼を取れば、エルフはその薔薇色の瞳を眇めてフィルエステルを見遣った。


「ご厚情、ねぇ。そう甘いものではないぞ。これは契約だ。エルフとの契約がいかなるものか、お前は知っているか?」

「いいえ。ですが、フィルエステル・オルタニアの名の元に、必ずやその契約、果たしてみせます」


王族ともあろう者が、契約の内容が何たるかを知らず誓いを立てるなど愚の骨頂なのだろう。だが、関係なかった。目の前の人ならざる存在との契約とやらが何であるのかなど、二の次、三の次だ。もう、フィルエステルの望みは決まってしまった。たった一つの望みなのだ。

フィルエステルのその言葉にカルバリーエが盛大に舌打ちをし、キリエルーバが瞳を眇めて眉をひそめた。どちらも非常に解りやすく不快感を露わにしている。ただ一人、森の貴人と呼ばれるエルフだけが満足げに笑っている。


「その誓い、確かに聞いたぞ」


深く頷いた森の貴人は、やがて一歩踏み出した。すぐ側に近寄ってきた人外の美貌に仰け反りそうになるところをなんとか耐え、敢えて微笑みを返してみせると、エルフはそれまでの楽しげな笑顔から一変して、その髪の真白を映した雪よりも冷たい微笑を浮かべ、フィルエステルの耳元に唇を寄せる。そして、囁いた。


「だが、覚えておくがいい。星を愛する者の名を冠する王子よ。アウラローゼ・ジェムナグランが守護者、【鳥待ちの魚】……いいや、【不滅の愛】の名において。貴様がその誓いを破った時は俺の言の葉がその首を絞めるということを」


冷酷な響きを宿した声音だった。けれど不思議と恐ろしくはなかった。


――ほらね、アウラ。やっぱり君は、こんなにも愛されているんだ。


そう内心で今はまだ手の届かない場所にいるアウラローゼに囁きながら、フィルエステルは頷いた。エルフが小さく舌打ちするのが聞こえてきたのが、ある意味では一番印象的であったことかもしれない。


* * *


フィルエステルのジェムナグラン訪問は、そうして終わりを告げた。

オルタニアに戻ってからのフィルエステルは、誰の目に見てもそうと解るほど明らかに変わった。それまで適当にこなしていた勉学に勤勉に勤しみ、王族として身に付けておくべき武術……その中でも取り分け剣術に精を出した。

フィルエステルがそれぞれの分野で頭角を表すのに、そう時間はかからなかった。ジェムナグランの金の王子と銀の王子から、いい影響を受けたのだろう。そう誰もが囁きあい、それまで小馬鹿にしていた『凡庸な第二王子』を、『優秀な第二王位継承者』として見るようになった。

異母兄たるヴェリスバルトは、そんな異母弟を穏やかに見守ってくれた。フィルエステルは、ヴェリスバルトにはジェムナグランで何があったのかをすべて伝えた。

ジェムナグランにおいてフィルエステルを狙った騎士が、ヴェリスバルトに心酔している一派の暴挙であったことについては既に調べがついていた。


「私が命じてお前を殺させようとしたのだとは思わないのかな?」


アウラローゼに相応しい男になるために寝る間も惜しんで自己研鑽に励んでいる中で、ヴェリスバルトはそう問いかけられたことがある。

その問いかけを、フィルエステル自身思い浮かべたことがないとは言わない。けれど、その問いかけの答えを、フィルエステルはとうの昔に自分で得ていた。


「兄上はそんな真似はなさらないでしょう」

「どうしてそう思う?」

「わざわざ他人に殺させなくても、兄上が一言、以前の私に直接仰ってくれれば、私はその場で喉を掻き切ってみせましたから。兄上はそのことをご存知だったでしょう?」


他ならぬこの異母兄の望みであるならば、フィルエステルは喜んで自分の命を差し出すつもりでいた。少なくとも、アウラローゼに出会うまでのフィルエステルはそうだったし、そのことをきっとヴェリスバルトは理解していたに違いない。

フィルエステルが微笑みと共にそう言えば、ヴェリスバルトは一瞬虚をつかれたように目を見張り、そうして困ったように苦笑した。


「私の弟は、私が思っていた以上に優秀だったようだね。それとも、お前の姫君が、お前をそういう風に変えたのかな」


くつくつと喉を鳴らして、どこか安堵した様子で笑う異母兄の姿に、フィルエステルは、どうやら自分が相当この異母兄を心配させていたらしいことに気が付いた。やっぱり、自分は何事も気付くのが遅いらしい。なんだか非常に気恥ずかしくなってフィルエステルは異母兄から顔を背けて続けた。


「御心配なさらずとも、もう私は、たとえ兄上から望まれたとしても死のうとは思いません。今の私には、望みがありますから」


それは誰にも覆せない望みだ。フィルエステルの言葉に、ヴェリスバルトは微笑ましげに、そしてそれ以上に嬉しげに、「それは重畳だ」とまた笑った。


そうして、月日は流れていく。

永遠よりも長く感じたこともあったし、瞬きよりも短く感じたこともあった。その中でひたすらフィルエステルは、“アウラローゼに相応しい男”を目指し続けた。


毎年オルタニアで行われる剣術大会に初出場したのは、ジェムナグランを後にしてから二年経過した、フィルエステルが十五歳を迎えたばかりの頃だ。

最年少にして優勝者となり、それからずっと記録を更新し続けたフィルエステルは、やがて“黒鉄王子”と誉れ高く呼ばれるようになった。

初めて自身がそう呼ばれていることを知った時、一度だって忘れたことのないアウラローゼの笑顔が脳裏にまざまざと蘇った。


――約束よ。


アウラローゼの最期の言葉を、まるで呪いだと思う。なんて尊く、なんて愛しい呪いだろう。この呪いが――交わした約束が、フィルエステルが生きる理由となり、命をかけて叶えたい望みとなる。

“金の王子”、“銀の王子”にも引けを取らないと言われるほどに“黒鉄王子”の名が大陸に轟き渡るまでにも、フィルエステルはその二人の王子――カルバリーエとキリエルーバに向けて、何通も手紙を送った。

フィルエステルとの思い出も約束も何もかも、エルフによってすべて忘れさせられたアウラローゼに、フィルエステルはどんな手段をおいても接触することを許されてはいない。だから代わりに、彼女の兄王子達に手紙を送った。フィルエステルを許し難く思っている彼らのご機嫌取りという意味合いがなかった訳ではなかったが、それよりも何よりも、ただアウラローゼがどうしているかを知りたかった。


返事が来ずともお構い無しに送り続けた。最早意地になっていたのかもしれない。

やがて、十通に一通返ってくれば御の字だった手紙は、八通に一通、五通に一通、三通に一通……そしていつしか必ず、返事が代わる代わる届くようになった。

その手紙の中には、アウラローゼの近況が、ほんの少しずつ綴られていた。妹姫を想うがゆえに彼女に近付けない兄王子達の、不器用な優しさがその中には垣間見えた。


手紙の中ですら、アウラローゼはいつだって輝いていた。手紙を一通読むたびに、フィルエステルはアウラローゼへの想いを新たにした。彼女に喜ばしいことがあったと知れば、自分のことのように……いいや、自分のことよりも嬉しかったし、一緒に喜びあえないことが寂しかった。彼女に悲しいことがあれば、やはり自分のことよりも悲しかったし、側にいて支えられないことが悔しかった。

気付けば数多の令嬢や姫君から婚約の申し込みが殺到するようになっていたけれど、どんな美しい絵姿よりも、カルバリーエとキリエルーバによる、素っ気ないただの文字の方がよほどフィルエステルの胸をときめかせた。


フィルエステルは、何度も恋をした。手紙を読むたびに恋しさが、愛しさが募った。


そして、一年に一度の剣術大会への六度目の出場において、六度目の優勝を飾った日から数日後に、ジェムナグランから届いた手紙。


――認めてやる。


たった一言。いつも以上に素っ気ない、ただそれだけが綴られた手紙を読んだ時、フィルエステルは思わず泣いた。人は喜びでも泣けるということは知識では知っていたが、本当にその通りであると思わなかった。そうだとも。いつだってフィルエステルの心を動かすのは、アウラローゼの存在なのだ。


そしてその手紙を手に、父王と異母兄に宣言した。アウラローゼ・ジェムナグランを娶ると。その代わりに、王位継承権を放棄すると。

いくらかつてほどの国力はアルブレヒト王本人によって解体されたとはいえ、ジェムナグランはこのレース・アルカーナ大陸において大国の一つとして数えるに十分なだけの国力を未だ維持している。“鉄錆姫”と悪名高くとも、そんな国の姫君であるアウラローゼを、“黒鉄王子”たるフィルエステルが得るためには、王位を継ぐつもりがないことをはっきりさせておく必要があった。


王位なんていらないのだ。

欲しいのは、求めるのは、望むのは、七年前からたった一つなのだから。


そんなフィルエステルの願いのような望みを、父王は何も言わずに受け入れた。

フィルエステルの縁談はオルタニアにとって重要な駒の一つであり、いくらヴェリスバルトが後押ししてくれていたとは言え、フィルエステルの我儘がそうも簡単にまかり通るはずがなかったはずだった。

それなのに父王は、フィルエステルの望みを、受け入れてくれたのだ。その時初めてフィルエステルは、自分の父の顔を見た気がした。父は自分のことを見ようとしないとばかり思っていたけれど、それは父ばかりではなく、フィルエステルもまた父のことを見ようとはしていなかったのではないか。そう思った。それは今まで考えもしてこなかった発想だ。


アウラローゼに出会ってから、どんどんフィルエステルの世界は広くなっていく。その中心にいるのはいつだって、アウラローゼであることに変わりはないけれど。


――世界はこんなにも美しかったんだね。


その世界を、アウラローゼと共に見たい。その世界を、アウラローゼと共に生きていきたい。


その望みがようやく叶う日がやってきた。ジェムナグランからアウラローゼを乗せた馬車がやってくるその日、周囲が止めるのを振り切って、一人愛馬を走らせ彼女を迎えに行った。

危惧していた通り、襲われている馬車の周りは混乱していたけれど、一目で分かった。剣戟が冴え渡る中で一際輝く、その存在に。誰が見間違えるものか。

フィルエステルという乱入者に更に混乱が極まる中で、フィルエステルは黒鉄王子の名に相応しい剣を振るい、そして呆然としている少女の前に立った。



「私はフィルエステル・オルタニア。貴方の夫となる男です」



想像よりももっとずっと美しく成長し花開いた恋しい少女に、フィルエステルはそう言って幸せそうに笑いかけた。この台詞を、ずっとフィルエステルは言いたかったのだ。

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