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鉄錆姫は三度死ぬ  作者: 中村朱里
番外編 黒鉄王子は恋をする
16/18

第2幕 黒鉄王子は望まない

そして、フィルエステルを代表の座に据えた使節団は、隣国ジェムナグランへと向かった。到着して早々にフィルエステルが思ったことは、ジェムナグランは良くも悪くも平和である、ということだ。現ジェムナグラン王である、平和王と名高いアルブレヒトの治世は、その呼び名の通り平和そのものであるようにフィルエステルの目には映った。

それがアルブレヒトの采配ゆえなのか、それとも彼の王に与えられた【平定】というなんとも曖昧な【祝福】の恩恵ゆえなのかは解らない。解らなかったがしかし、先の大戦の悲惨さを散々周囲から聞かされ教え込まれてきたフィルエステルの目には、そのジェムナグランの平和は、どうにも歪なものであるように見えた。

まるで薄氷の上に建てた温室のような。あるいは砂漠の上に建てた楼閣のような。そんな、大層不安定でいて、だからこそ美しいと思えるような、そんな奇妙な平和を、ジェムナグランは謳歌しているようだった。


だが、だからと言ってジェムナグランが今すぐにでも瓦解してしまう訳ではないこともまた、フィルエステルはよく理解していた。

王宮に向かう馬車から覗いた城下町は活気にあふれ、民には生き生きとした笑顔がある。それだけでジェムナグランという国がどれだけ豊かな国であるのかを思い知らされた。先の大戦における傷跡など忘れ切ってしまっているかのような国の姿に、フィルエステルは、ジェムナグランという国の意地と誇りを見た気がした。

……まあ、とは言うものの、今後オルタニアとジェムナグランが、万が一、何らかの理由で以て開戦に至ったとしても、オルタニアが負けるとは思わなかったが。


エルフの恩恵など関係ない。あの異母兄がいるオルタニアが、人ならざる者の力に頼って成り立つ国ごときに負けるはずがないという確信があった。

その異母兄曰く、現ジェムナグラン王アルブレヒトは比較的まともらしいが、どんな相手であろうとも、一度敵と見定めた相手を、あの異母兄が仕留めずに済ませるはずがないのだから。


やがてジェムナグランの王城に到着したフィルエステルは、アルブレヒト王と、その息子である第一王子カルバリーエ・ジェムナグランと、第二王子キリエルーバ・ジェムナグランと対面することと相成った。

平和王と名高いアルブレヒト王は黄金の髪とエルフから【祝福】を受けた者の証である薔薇色の瞳を持つ美丈夫であり、王としての威厳にあふれていたが、彼よりも、その側に控えている二人の王子達の方が、余程フィルエステルを始めとしたオルタニア使節団一行の目を引いた。

長く伸ばされた真っ直ぐな金の髪を後頭部の高い位置できつくまとめた、フィルエステルよりいくつか年上であろう十代後半の少年と、同じく長く伸ばされた真っ直ぐな、金とは正反対の銀の髪を背の中程でゆったりと結った金の少年た同じ年頃の少年だ。

鏡に写したかのような、そっくりなそのかんばせは、老若男女が見惚れるに違いないと思わずにはいられないほどに精悍に整っている。だが二人を構成する要素において何よりも目を惹くのは、その眩い髪の色でも、整った顔立ちでもない。瞳だ。彼らの、アルブレヒト王のそれと同じ鮮やかな薔薇色の瞳が、真っ直ぐにフィルエステルを見つめてきた。

背後に控えている此度の使節団におけるフィルエステルの部下達が気圧されたように息を呑む中で、不思議とフィルエステルは泰然としていた。緊張感など微塵も感じない。興味のない相手の視線にいちいち反応するほど、フィルエステルの情緒は繊細ではない。


「初めてお目にかかります。私はオルタニア第二王子、フィルエステル・オルタニア。此度の滞在の許可に、心からの感謝を。我らが国々の間に、恒久的な平和が約束されるよう、努力する所存です」


そう、相手が誰であろうと関係ないのだ。フィルエステルは、フィルエステルがなすべきことであると求められたことをするだけだ。

流れるように淀みなく、一息でそう言い切ったフィルエステルは、そうして王族としての完璧な一礼を取ってみせた。フィルエステルのその一連の動作に続いて、慌てて背後の部下達がその場に跪く。その様子を見下ろしていたアルブレヒト王は鷹揚に頷き、カルバリーエとキリエルーバは何やら面白いものを見つけたと言わんばかりに、その薔薇色の瞳を輝かせていた。

その輝きに、フィルエステルは何やら嫌な予感がしたけれど、気付かないふりをした。


そうして、最初の謁見は終わった。


一般的には、その最初の謁見こそが最も精神的な負担を強いられるものだと言われるのだろうが、フィルエステルの場合は、そうはいかなかった。その最初の謁見において、何がどうしてそうなったのかまったく解らないのだが、何故だかフィルエステルは、ジェムナグラン第一王子である〝金の王子〟カルバリーエと、その双子の弟であるジェムナグラン第二王子たる〝銀の王子〟キリエルーバに、気に入られてしまったらしいのである。


「フィルエステル! もう今日の公務は終わったと聞いたぞ。俺達と遠乗りでも行かないか?」


と、カルバリーエが自身の【祝福】の一端である風鳥シルフィードを肩に乗せて満面の笑顔と共にそう言えば、キリエルーバが鉄壁の無表情でこくりと頷き、これまた自身の【祝福】の一端である水馬ウンディーネの力を借りて他の馬を呼び、有無を言わせずフィルエステルを連れ出してしまうということが何度もあった。

断る理由はなく、そもそも使節団の中におけるフィルエステルの存在はお飾りに過ぎないこともあり、フィルエステルは大人しくカルバリーエとキリエルーバに振り回されていた。わざわざ逆らって不興を買うことなどないのだ。ただ求められたならば従うだけ。オルタニアにいた時と何も変わらない。

そう淡々と思うフィルエステルに、カルバリーエとキリエルーバが気付いていたのかは解らない。けれど彼らは、与えられた公務など数える程度にしかなく、時間を持て余すばかりのフィルエステルを、何かと楽しませようとしてくれた。


快活で行動的、直情的なカルバリーエと、物静かで兄に従いつつも、時に冷静に諌めるキリエルーバ。金の王子と銀の王子。似ているのは顔立ちばかりで中身は正反対だと言われる彼らは、とても仲が良いようだった。

双子ともあれば……それもどちらも取り分け優秀な王族ともあれば、自然と王位継承問題が持ち上がるものだとばかりフィルエステルは思っていたのだが、彼らの間にはそんなものはないらしかった。


もう自分達の行く末は決めているのだと、遠乗りに出かけた先の湖のほとりで誰にともなく言われた時、フィルエステルは口を挟むことができないまま、その言葉の続きを待った。


「俺が王になる。そしてキリエが副王だ」

「副王……?」

「そうだ! 二人で話し合ってそう決めた。なあ、キリエ!」

「ああ」


朗らかなカルバリーエの言葉に、淡々と頷くキリエルーバの声音に不満の色は一切ない。むしろ固い決意すら感じさせる声音に、フィルエステルはらしくもなく戸惑った。

副王、という役職は、聞き慣れないが、存在しない訳ではない役職だ。王権を二分するとも言われる役職である。だが、今のジェムナグランに、その必要性があるか否かを問われると、フィルエステルは首を傾げずにはいられない。双子だから平等に王権を分けた、なんてふざけた理由ではないだろう。


どういうつもりなのかとカルバリーエとキリエルーバの、その鏡に写したがごとき整ったかんばせを見比べる。

最初に笑ったのは、カルバリーエ。そして続けて、キリエルーバもまた小さく笑った。それは、フィルエステルがジェムナグランに来てから幾度となく目にしてきたこの双子の王子の笑顔の中で、最も柔らかく、優しく、温かな笑顔だった。


「俺達には守りたいものがある」

「それを守りきるためならば、使えるものは何でも使おう」

「ジェムナグランの平和があれを守るために必要ならば、俺達は何を犠牲にしてもジェムナグランを守ってみせる」

「俺が副王になるのは保険だ。俺達のどちらかが先に斃れたとしても、残された方が必ずあれを守るように」


そう滔々と続けざまに語る金の王子の肩には長く淡く透ける尾羽の美しい風鳥が。銀の王子の隣には、青みがかった艶を持つたてがみの美しい水馬が寄り添っている。

四対の瞳に見据えられたフィルエステルは、その時になって、遅ればせながらにしてようやく気付いた。なるほど、これは。


「お二人共、私のことを脅しても無駄ですよ」


彼らはフィルエステルにこう言っているのだ。オルタニアがジェムナグランに手を出すことは許さないと。もし手を出してくるようなことがあれば、自分達はあらゆる手段を……それこそ、自身に与えられた人知を超えた奇跡の力、エルフによる【祝福】すら行使して、応戦するつもりであると。


確かに、カルバリーエに授けられた【風】という【祝福】と、キリエルーバに授けられた【水】という【祝福】はいざ敵国側に回ったときに見てみれば、厄介極まりないものだ。

風も水も、あらゆる場所に存在する。その時点で情報戦としては負け戦であり、加えて風も水もたやすく生ける者の命を屠ることができるものだ。

カルバリーエとキリエルーバがこれまで『そういうつもり』でその力を行使したことがないとされるからこそ彼らの力は奇跡と呼ばれ尊ばれるが、実際はとんでもない兵器そのものである。


――けれど、それをフィルエステルに教えても意味はないのだ。


フィルエステルは目の前の二人の輝かしい王子達に向かって、微笑を浮かべてみせた。先の台詞の物騒さからは程遠い、穏やかな笑みだった。

カルバリーエ達にとってフィルエステルのその反応は予想外のものだったらしく、小さく二人は息を呑んだが、構うことなくフィルエステルは言葉を続けた。


「私は今回の使節団ばかりではなく、本国においても使い道のない、役立たずの王子ですから。お二人の願いを叶えることはできません」


そうだ。カルバリーエとキリエルーバの意図がどんなものであるとしても、彼らの望みをフィルエステルが叶えることはない。何故ならばフィルエステルは、『いてもいなくても変わらない凡庸な第二王子』なのだから。


カルバリーエ達がフィルエステルのことをやたらと構ってきていたのはどうやらこういう訳であったらしいが、生憎なものだとフィルエステルは内心で苦笑する。

これでも、それなりには彼らに好意を抱いていた。だからできることであれば、彼らの願いに応えたかった。けれど駄目だ。国に関わることであれば、フィルエステルの出番はない。今までもそうして生きてきたし、これからもそうして生きていく。もし母国の異母兄でも望まれたのならばまたそれは違う話かもしれないが、それはあくまで仮定の話だ。少なくとも今のままではカルバリーエとキリエルーバの願いをフィルエステルが叶える義理はなく、その権限も持ち合わせていない。


そんなフィルエステルの言葉をどう思ったのか、カルバリーエの薔薇色の瞳が瞠られ、キリエルーバの薔薇色の瞳は眇められた。

その髪に頂く輝かしい色彩のごとく対象的な二人の反応に気付かないふりをして、フィルエステルは「そろそろ戻りましょうか」と踵を返した。二人は何も言わなかった。


――ほら、これでいいのだ。


自分は何も求めない。だからできたら、誰も自分に何も求めないでほしい。それがどんなに身勝手なわがままであるかを解っていながら、それでもフィルエステルはそう思わずにはいられなかった。そしてふいに、ふと思う。

カルバリーエとキリエルーバがここまで言う、『守りたいもの』とは何なのか。

ほんの一瞬だけ湧いた興味は、すぐにそのまま、水中の気泡のように瞬く間に弾けて消えた。


* * *


異母兄はジェムナグランのことを、幻想を生きる国でたると言っていた。その正しさを、連日となく催される夜会の中で、なんとなくフィルエステルは理解するようになった。


見目麗しく年若いオルタニア第二王子に擦り寄ってくるジェムナグラン貴族は数多くいたが、その誰もが、何一つ理解していないのだ。先代ジェムナグラン王……鉄血女王マリアローズに怯え、厭い、過去の遺物にしようとしている彼らは気付いていないのである。ジェムナグランが『現在のジェムナグラン』……すなわち、隣国である大国オルタニアと肩を並べるほどの大国としてこの大陸にあれるのは、鉄血女王の功績であるということに。彼女が国を一度とはいえ確かに強大なものにしたからこそ、現王たるアルブレヒトの穏やかな治世が受け入れられ、周辺諸国から侵略されることなく今を許されているのだということに。


フィルエステルの見立てからして、ジェムナグランの上層部において確実にその事実に気付いているのは、アルブレヒト王本人と、その息子である二人の王子達くらいなものだろう。


その二人の王子からは、先日の湖のほとりの一件以来、なんとなく疎遠になっている。あの後も何度か遠乗りや茶会の誘いはあったが、フィルエステルはすべて断っていた。

オルタニアから連れてきた外交官には渋い顔をされてしまったが、仕方がない。これ以上交流を深めて、彼らにいらない期待を持たせる気にはなれなかった。自身の叶わぬと知った彼らに幻滅されるのは別に構わないが、そのせいでジェムナグランとオルタニアの折り合いが悪くなっても困る。やはり最初から下手に交流を深めようとしたのが失敗だったのだ。やはり自分は影の薄い王子でいなくては、と、フィルエステルは決意を新たにした。


そして、今夜もまた夜会が開かれている。

ジェムナグランに来て以来、ずっと続く宴に、いい加減フィルエステルは疲れていたし、飽いてもいた。そろそろ『オルタニアの黒き貝の火の王子』という存在……すなわち見目麗しいばかりの観賞用の王子たるフィルエステルに対するジェムナグラン側の興味も薄れてきていたため、頃合いを見計らってフィルエステルは宴が催されている広間を抜け出し、中庭に一人で出た。


月のない夜だった。天頂に座す夜の女王が不在の夜は、星がうるさい。

庭師の手が入れられて整然と生え揃う草木の合間を縫いながら、宴の喧騒が聞こえない場所へと足を急がせた。何故だか解らないが、今ばかりは一人になりたくて仕方がなかった。自身の立場上、このジェムナグランで自分が一人になることが褒められた行為ではないことくらい解っていたが、それでもどうしようもない衝動が、フィルエステルを突き動かした。


――フィルエステル殿下は、ティエラ妃に本当によく似ておられる。


かつてオルタニアを訪れ、フィルエステルの父に謁見したことがあるのだという年嵩のジェムナグランの貴族のその一言。あの貴族とて、さして意味を持たせて言ったつもりはなかっただろう。ただ話題を一つ提供してくれただけに過ぎないはずだ。それなのに、いい加減に聞き飽きていたはずのその台詞が、不思議と胸に突き刺さった。


――母なんて、知らない。


自分をおいていってしまった母など知るものか。その母を失うきっかけとなった自分を見ようとはしない父など知るものか。ではあの優しい異母兄は?  あの人だけは違うとどうして言える? 母を知らず、父に顧みられない異母弟を哀れんでいるだけかもしれないのに。自身の身体の虚弱さを理解している王族たるあの人は、いつかフィルエステルを自身の代わりにするつもりで懐柔しているだけではないのか?


普段では考えもしないような……いいや、本当はずっと前から気付いていながら、目を逸らして気付かないようにしていた考えがフィルエステルの頭を占める。


――わたし、は。


フィルエステル・オルタニアとは、誰のことなのだろう。何のことを示すのだろう。誰にも必要とされない自分が生きる意味はどこにあるのだろう。そう思った。

怒りはない。悔しさもない。ただ無性に寂しかった。けれどその寂しさすらも、歩みを進める内に諦めへと変じた。

すべて今更のことなのに、どうしてこんな場所でこんなことを思うのだろう。ただそんな自分が滑稽で、一人誰にともなく自嘲した。


やがてフィルエステルは、中庭を貫いていた細い小道から大きな広場へと出た。流れる水の音の方向へと目をやれば、そこには見事な造りの噴水がある。

そうして、清水を湧かせるその噴水のほとりを見たフィルエステルは、我知らず自身の黒蛋白石の瞳を見開かせた。


そこには、一輪の薔薇が咲いていた。


星影に艶めく、きつく波打つ深く暗い赤茶色の長い髪が、最初にフィルエステルの目を奪った。次に目を奪ったのは、夜闇の中でうっすらと発光するかのような白磁のごとき肌。その華奢な身に纏うのは、真紅の――それこそ薔薇色と呼ぶに相応しい豪奢ながらも繊細なデザインのドレス。

そうして最後にフィルエステルの目を惹いたのは、そのドレスよりももっとずっと鮮やかで美しい、薔薇色に輝く瞳。満天の星空を見上げるその瞳は、長く濃い、けぶるような睫毛に縁取られている。薔薇の花弁を閉じ込めたかのような極上の紅玉の如き瞳を持つ、大輪の薔薇のように美しい少女が、噴水のほとりに腰掛けていた。


――薔薇の、妖精だ。


フィルエステルはそう思った。季節でもないというのに、芳しい薔薇の香りが鼻腔をくすぐっていった気がした。その妖精を目にした瞬間、フィルエステルの世界から音が消えたようだった。宴の喧騒など忘れた。噴水の水音すら聞こえなくなった。ただただ魅入られたように少女に魅入っていたフィルエステルは、自身が一歩踏み出していたことにも気付かなかった。


ぱきり、と。足元で小枝が折れる音がする。

しまった、とフィルエステルは思った。この音で目の前の妖精が消え失せてしまうのではないかと、その時フィルエステルは確かに恐怖した。

けれどそんなフィルエステルの恐怖は杞憂に終わることになる。



「――――だぁれ?」



銀の鈴を転がすかのような。金糸雀がさえずるかのような。そんな愛らしい声音がフィルエステルの耳朶を打つ。


「――私は、フィルエステル・オルタニア」


妖精に名前を奪われたら、もう只人には戻れない。そんな古くから伝わる伝承が脳裏に浮かんだが、それでも構わないと不思議と思った。

オルタニアの王子なのかと問いかけてくる薔薇の妖精に、気付けばフィルエステルは馬鹿正直に頷きを返していた。次いで妖精にその名前を問い返したのは、ほとんど無意識の所業だった。

まるで薔薇の香りに吸い寄せられる蜜蜂のようにその隣に腰掛けると、真紅を纏う妖精は何故だかその輝かしい美貌を曇らせた。けれどそれはほんの一瞬のことで、すぐに彼女はツンと澄ました、その実年齢よりもずっと大人の貴婦人のような表情を浮かべてみせる。


「アウラローゼ・ジェムナグランよ」

「ふうん。“輝く薔薇”か。“鉄錆姫”より、ずっといい名前だね」


そうしてようやくフィルエステルは、目の前の妖精が、自分と同じ人間の子供であることに気が付いた。古い言葉で綴られた美しい響きは、目の前の薔薇の妖精に――正確には、薔薇の妖精のように美しい少女にぴったりのように思えた。

アウラローゼ・ジェムナグラン。その名前を舌の上で転がして、やがて遅れてフィルエステルは、彼女こそがかの有名なる“鉄錆姫”であることを悟った。


薔薇色の瞳は、エルフからの【祝福】の証だ。となれば、わざわざ名前を問わずとも、彼女が“そう”であるということに気付けたはずであったというのに、すっかりそんなことなど忘れて彼女に見入ってしまっていた自分に、フィルエステルは内心で失笑する。


そして、彼女が名乗る前に表情を曇らせたのはそのせいか、と納得するフィルエステルに、少女は――ジェムナグラン第一王女にして第三位王位継承者たる姫君、アウラローゼは、宴を抜け出してきていいのかと問いかけてきた。

適当にごまかすことなどいくらでもできたはずだった。少なくとも、今までのフィルエステルはそうしてきた。

それなのにその時のフィルエステルは、何故だか本音を漏らしてしまっていた。「私はいらない王子だからね」と。今まで幾度となくそう思い知らされながらも、決して口に出したことはなかった、諦めを。そこに孕まれた、決して自身が認めたくなかった、弱音を。


フィルエステルが覗かせたその弱さに、アウラローゼは薔薇色の瞳を瞠って、まじまじとフィルエステルの顔を見つめてきた。

そのあまりにも美しすぎる瞳に、居心地が悪くなるフィルエステルをよそに、彼女はやがてその瞳を眇めさせる。彼女の表情には、明らかに呆れが滲んでいた。


「貴方、お馬鹿さんなのね」


そしてその幼く愛らしい声音にもまた、色濃く呆れという感情が乗せられていた。自虐的すぎる情けない台詞を吐いた自覚はあったが、フィルエステルの自身の眉がひそめられていくのを感じた。

言うに事欠いて『馬鹿』とは、初対面の人間に対してあまりにも失礼極まりないではないか。初めて吐き出した自分の弱音を軽んじられることがこんなにも不快なことであるなんて、フィルエステルは知らなかった。

そんなフィルエステルの内心などちっとも気付かない様子で……いいや、気付いていてもお構いなしといった様子で、ころころとアウラローゼは楽しげに笑う。その姿は大層愛らしく、そして同時に大層小憎たらしいものだった。


「どうして私が馬鹿だって?」


らしくもなく棘のある口調でそう問い返した。普段のフィルエステルを知る者であれば、今のフィルエステルの姿を信じられないに違いない。いつだってフィルエステルは、温厚で穏やかで、何を言われようがされようが怒りを露わにすることなどない、“お優しい王子様”だったからだ。フィルエステル自身が、そう在るように努めていた。それなのにこの少女の前では、その仮面が自然と剥がれ落ちてしまう。


「ねえ、フィルエステル王子。貴方のことをいらないと言ったのはだぁれ?」

「……言われた訳じゃない。ただ、父を筆頭にして、皆そう思っているんだと思う。兄という王太子がいるオルタニアにとって、母にすら見放された私は不要なものでしかないから」


そうだ。誰かに面と向かって言われた訳ではない。けれど誰に言われずとも、フィルエステルは自身の立場を正しく理解していた。しているつもりだった。だからこそ自分は、『凡庸な第二王子』の仮面を被り続けてきた。そうあろうと努めてきた自分は間違ってなどいないはずだ。この少女にも、そんな自分にとっての正解を肯定してほしかった。そうしたら、許されるような気がしたから。何に許してほしいのかなんて、解らなかったけれど。

初対面の少女に対して吐き出すには相応しからぬ内容の台詞を紡ぐフィルエステルをしばし見つめていたアウラローゼは、やがてぽつりと呟いた。


「なんだかかわいそうね」


ほら、自分は、鉄錆姫にすら同情されるような身の上なのだ。奇妙な安堵を抱きながら、改めて「私はそんなにかわいそうかな?」とフィルエステルは笑った。さあ、同意しろ。哀れんでくれ。そんな気持ちだった。

だが、アウラローゼは、そのフィルエステルの期待を笑顔で蹴り飛ばしてしまった。フィルエステルではなく、フィルエステルの周りの者達がかわいそうであると、アウラローゼは言ったのだ。

反論しようと口を開こうにも、アウラローゼによって突き付けられた人差し指によって、それらすべてが封じられる。結果として沈黙するしかないフィルエステルに向かって、アウラローゼは笑った。


「私は私のことが好きよ。お父様もお兄様達も私のことが嫌いだけれど、私は私を好きでいるって決めたの。じゃなきゃ、私のことをいつか好きになってくれる人が現れた時に、その人に失礼じゃない。自分が嫌いなものを好きになって、なんてただのワガママだわ」


――――軽やかに、鮮やかに。

アウラローゼは笑いながらそう言った。フィルエステルよりももっとずっと過酷な状況で生きてきたに違いない少女は、フィルエステルよりももっとずっと強く逞しく生きていることを思い知らされた。

その生き様の、なんと眩しいことか。なんと美しいことか。

この少女に比べて自分はどうだ。ただ諦めばかりを抱いて生きてきた自分は何なのだ。そう思うとフィルエステルは猛烈に恥ずかしくなり、その恥ずかしさをごまかすように口を開けば、更にアウラローゼは、その白い指で、フィルエステルの額を弾いた。その衝撃が、フィルエステルのごまかしを綺麗に弾き飛ばす。


「仕方ないわね、お馬鹿さん。じゃあ私が貴方のことを好きになってあげる」

「え?」


何を言われたのか、一瞬理解ができなかった。遅れて追いついてきた理解に眼を白黒させるフィルエステルを置き去りに、アウラローゼはいともたやすく今までのフィルエステルを覆してしまう。


「この私が好きになるんだから、それ相応の殿方になってね。私に恥じない、立派でかっこいい王子様になって。ほら、約束しましょ」


幼く柔い両手が、フィルエステルの手を包み込む。そのまま少女は、フィルエステルの手を自身の額に押し当てた。


「【鳥待ちの魚】が愛し子、アウラローゼ・ジェムナグランの名の元に。私はフィルエステル・オルタニアのことを、必ず好きになると誓います」


それは幼い誓いだった。けれどだからこそ純粋で、美しい誓いだった。

その誓いが、フィルエステルをどれだけ驚かせたかなんて、どれだけ救ったかなんて、どれだけ喜ばせたかなんて、フィルエステル以外は誰も知らなくていい。この時の驚きも救いも喜びも、それらをフィルエステルに与えたアウラローゼのものではない。アウラローゼから与えられた、フィルエステルだけの宝物なのだ。

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