第1幕 黒鉄王子は何も知らない
フィルエステル・オルタニア。今でこそ“黒鉄王子”とこのレース・アルカーナ大陸に誉れ高いその名を冠するオルタニア第二王子は、ほんの七年前ほど前まで時を遡れば、自国であるオルタニア以外には……いいや、オルタニアにおいてですら、その名をほとんど知られていない王子だった。
母譲りの甘い美貌こそ主に女性に褒めそやされたものだが、それ以外に特筆して称えられるべきところは見当たらなかった。その頭脳においても、その身体能力においても、実に平均的な王子だったのだ。
だからこそ余計に、その異母兄にして王太子であるヴェリスバルトの優秀さこそが際立っていた。正妃であった生母の身体の虚弱さを受け継ぎながらも、ベッドの上で公務をこなすヴェリスバルトの姿に、誰もが彼こそが次代のオルタニア王に相応しいと囁いた。容姿ばかりが優れた妾腹の第二王子の存在になど、誰も気を払わなかった。
――それこそが、その第二王子……フィルエステルの狙いであり望みであることに気付くことができた者は、ほんの一握りの人間だけだった。
その一握りの人間の内の一人である異母兄ヴェリスバルトは、フィルエステルにとって数少ない、心を許せる存在だった。「お前が本気を出してくれれば、私も気楽に隠居できるんだが」と苦笑混じりに窘められたが、「何のことでしょう?」とフィルエステルはそのまだ少年と呼ぶべき年若い面立ちに相応しからぬ穏やかに達観した笑みを浮かべるばかりだった。
フィルエステルとて、異母兄の言うことが解らない訳ではない。その気になれば、自分はおそらく優秀な王子になれるのだろう。それも『とても』だとか、『非常に』だとか、『極めて』だとかいうご大層な枕詞まで付けられる、誰もが認めるに違いない、称賛と羨望を一身に集めるような、優れた王子に。そんなことは解っていた。解っていたからこそ、『無能ではないが優秀でもない平均的な王子』を演じることを決めていた。
そうしようと決めたきっかけは、最初は単に、異母兄の邪魔をしたくなかったからだった。
母こそ違えど、ヴェリスバルトはフィルエステルにとってかけがえのない兄だった。七つも年の離れた兄は、ベッドの上にあろうとも、確かにフィルエステルの〝兄〟として、フィルエステルのことを愛し慈しんでくれた。
その優しさに、フィルエステルは幾度となく救われた。ヴェリスバルトがいてくれるからこそフィルエステルはオルタニアにそれなりに尽くそうと思うことができた。
ゆえにフィルエステルは、『優秀な第二王位継承者』ではなく『影の薄い第二王子』となる道を選んだ。
自身が優秀であったとしても、それはオルタニアの利にはならないことを、フィルエステルは幼いながらに理解していたのだ。もしもフィルエステルがその能力を遺憾無く発揮し、その采配を振るっていたとしたら。その時、オルタニアの上層部は――いいや、上層部ばかりではなく、オルタニアという国そのものが、王太子派と第二王子派に二分されていたに違いない。
フィルエステルは誰に言われずともそれを理解していた。そしてそれを理解し、フィルエステルに『凡庸なる無益な王子』の姿を選ばせたのは、フィルエステル自身ばかりではない。
現オルタニア王にしてフィルエステルの実父たるグエルフォードもまた、フィルエステルに『そうあること』を求めた。
口に出してそう言われた訳ではない。ただ自分を見ようとしないグエルフォードに、フィルエステルに何かを直接的に求められたことなど一度たりともない。……あえて言うのであれば、『何もしないこと』を求められたと言えばいいのかもしれない。
フィルエステルとて、最初から『そう』しようと決めて実行に移していた訳ではない。
これでも最初は父に振り向いてもらおうと必死だったのだ。懸命になって政を学び、史書を紐解き平和な時代に相応しからぬ戦術を構築し、王宮騎士団長相手に剣を取り。
あらゆる学問を、あらゆる剣技を。王族として、賢王と称えられる父王に相応しい息子であるようにと。
当時のフィルエステルを知る、フィルエステルの勉学の指南役であった家庭教師や剣術の指南役であった王宮騎士団長は、そんなフィルエステルの姿に、かつての王の姿すら見たと言う。
それも無理のない話だろう。フィルエステルは、必死だったのだから。自身の価値を確かなものにするために、当時はただひたすらに、がむしゃらに必死だった。
だが、そのすべてが無駄であると気付かされるのに、そう時間はかからなかった。
オルタニアの守護神である戦女神オルティニーヤの経験な信徒であった母、ティエラ。彼女のことを、フィルエステルは伝聞でしか知らない。当然だ。何せ彼女は、フィルエステルを産み落として幾ばくもしない内に、自ら短剣で喉を突き、その命を絶ったのだから。
そしてその事実を知ると同時に、それゆえに父がフィルエステルのことを見ようとはしないのだということもまた、フィルエステルは知った。
きっかけは、父だった。
そもそも、フィルエステルが物心ついた時には既に彼の父は、フィルエステルを見ようとはしなかった。時折視線を感じて振り向いたとき、そこに父の瞳があったとしても、その鈍色の瞳はフィルエステルを通して別の誰かを――おそらくは今は亡きフィルエステルの生母たるティエラを見ていた。
だからだろうか。フィルエステルはいつしか、鏡を見るたびに不思議な気持ちになるようになった。
誰もがフィルエステルのことを、ティエラに生き写しであると言う。ならばこれが、フィルエステルの知らない母の顔なのか。だからこそ父は、自分を顧みないのか。
その理由を――母の死の真実を明確なものとして知ったのは、フィルエステルが齢八つになったばかりの頃だ。
母の死の真実が、世間一般で知られている美談とはほど遠いものであることを、当時八才だったフィルエステルは、地方への視察の際に知らされた。幼い身の上に初めて任された視察の行き先は、母の故郷であるとある山辺の直轄地だった。
母が住んでいた修道院への慰問も兼ねたその視察は、何事もなく順調に進み、そして終わるかに見えた。少なくともフィルエステルはそう思っていた。顔も知らない母の故郷に対して思うことなど何もない。ただ初めて見た王都とはまるで異なるどこか寂しい街並みに、なんとなく目を奪われた。それだけだった。
ここで父と母は出会い、恋に落ちたのか。何の感慨もなくそう思った。
きっとその認識が、そもそもの、そしてすべての間違いだったのだろう。
母が暮らしていたのだという修道院に案内されたフィルエステルは、母がいた頃から修道院長を務め上げているのだという老女から、一通の手紙を渡された。
どうやら書かれてから数年が経過しているらしく、端の方が擦り切れてはいるものの、開封されていないそれは綺麗なものだった。
宛名も差出人も書かれていないそれに首を傾げるばかりのフィルエステルに、院長は淡々と言った。
「おひとりでお読みになるのがよろしいでしょう」
仮面を貼り付けたような無表情と、一切の感情を感じさせない無機質な声音は、フィルエステルにその手紙についてそれ以上問いかけることを許してくれそうにないことをわざわざ明言されずともありありと教えてくれていた。
フィルエステルはその容姿と生まれから、いくら影の薄い第二王子と言えども、老若男女を問わずかわいがられる傾向にあったため、その院長の態度を珍しいものだと感じた。戸惑いも露わに手紙を受け取るか否かを迷うフィルエステルに、院長は続けた。
「貴方の母君から預かったものです。フィルエステル殿下、いずれ貴方にお会いすることがあったら、お渡しするようにと」
予想外の言葉だった。言葉を失いただ呆然とすることしかできないフィルエステルの小さな手に手紙を押し付けるように握らせて、院長は去っていった。
手紙を渡されたフィルエステルは戸惑っていた。本当に、戸惑っていたのだ。それ以外に、一体何をすることができただろう。
王城において、母にまつわるものはすべて処分されていた。母の死後に父が命じたらしく、遺品は何一つ残されていない。母が住まいとしていたのだという離宮は解体され、後には花であふれる墓が残されているだけだ。故に、フィルエステルが母の存在を感じることができたのは、鏡の中に映る自分の顔だけだった。
そんな中で、初めての母との繋がり。今まで母のことを恋しいと思ったことなどなかったつもりだったというのに、何故だろう。手紙を受け取ったフィルエステルは、その時確かに嬉しかった。
自分を置いていってしまった母は、少しでも自分のことを想っていてくれたのか。
そう思うと、らしくもなく胸が高鳴った。
その日の公務を終え、宿泊先の屋敷の自室にて、フィルエステルは院長に言われた通りにひとりで手紙の封を切った。
――私の赤ちゃんへ
そんな言葉から始まる手紙は、フィルエステルがほんの一瞬でも抱いた母への期待を、母への思慕を、完膚無きまでに粉々に打ち砕くには十分すぎるものだった。
手紙に綴られていたのは、フィルエステルへの愛などではなかった。深い後悔と、痛々しい自責と、数え切れないほどの謝罪と、自身が犯した罪に対する懺悔ばかりが綴られていた。その根底にあるのはすべて自らを修道院からさらった父王グエルフォードへの恋慕と憎悪だった。
――私は私の神を裏切れない。
――愛しくて憎い私の赤ちゃん。
――あなたを置いていく私を許さないで。
――どうか憎んで。
――そしてさようなら、私からすべてを奪ったあなた。
……最後の一文は、自分に向けられたものではない。何故だかフィルエステルはそう思った。永遠の決別の言葉は、フィルエステルにではなく、母が恋し愛してしまった父へと向けられているのだと、そう思えてならなかった。
結局母は、女神に殉じる最期まで、父のことを想っていたのだ。女神への敬虔な懺悔を語っているようでありながら、フィルエステルのことを気にかけているように見せながら、結局その手紙は、父へと向けた恋文だった。
ランプの火に手紙を焚べ、手紙が鮮やかな橙色に飲み込まれていくのを見つめながら、ああそうか、と、フィルエステルは思った。
父が自分をこの地に向かわせたのは、母の死の真実を自分に教えるためだったのだ。フィルエステルは誰に言われるまでもなく、そのことを正しく理解した。
父には解っていたのだろう。フィルエステルがこの地にやってくれば、遅かれ早かれ誰かがフィルエステルに母の死の真実を教えるだろうと。
母が手紙を残していたことを、父が知っていたかまでは解らない。だが、母の死を知ったフィルエステルにとっては、父が手紙の存在を知っていようが知っていまいが関係なかった。
母が望んで自身を身ごもり産み落とした訳ではないということ。フィルエステルの存在が母の死を招いたということ。それが解っただけで十分だった。
なるほど、とフィルエステルは理解したのだ。
父がフィルエステルを今まで顧みることがなかったこと、そしてこれからも顧みることはないに違いないということもまた、その時フィルエステルはよく理解したのである。
あの院長は、きっと手紙の内容を解っていたのだろう。彼女の瞳に宿る淡々とした光が、懸命に自身の激情を押さえつけているからこそのものであることに、遅れて気付いた。身寄りのないティエラの母代わりでもあったと聞いていたから、彼女にとって自分は、大切な娘を奪った憎き男の息子だったのだ。
――ああ、そうか。
そう繰り返し思った。納得したのだ。自分はいらない存在だったということを。
王子としてばかりではない。父の子としても、母の子としても、異母兄の弟としても、自分は必要のない存在なのだ。
それならそれでいいと思った。誰にも必要とされない、求められない存在ならば、その通りの存在であろう。フィルエステルはそう決めた。
自分は不幸ではない。自分よりも不幸な存在など、哀れまれるべき、同情されるべき存在など、数え切れないほど世間に溢れかえっている。フィルエステルは飢えもせず、乾きもせず、明日を保証されて生きていけるのだ。
フィルエステルとは違う世界に生きる、明日の命をも知れない者に比べたら、フィルエステルの立場はむしろ恵まれていると言ってもいいものだ。
だからフィルエステルは不幸ではない。ただ、幸福でもないだけだ。それで十分ではないかとひとりで笑った。
――私は、何もいらない。
そう決めた。父にも母にも見放された自分は、きっと何も求めてはいけないのだ。だからもう何も求めない。欲しいものなど何もないのだ。それでいい。それがいい。
そうして、それまでの努力とその成果が嘘であったかのように、その日からフィルエステルは、平凡な、せいぜい褒められるべきは容姿ばかりの、影の薄い第二王子となった。
フィルエステルを気に入っていたらしい宮廷家庭教師は一体どうしたのかと嘆き、フィルエステルに詰め寄ったが、フィルエステルは薄く微笑むばかりで何も答えずに本を閉じた。フィルエステルを何かと気にかけてくれていた王宮騎士団長は溜息を一つ吐き、フィルエステルを諭そうとしたが、やはりフィルエステルは薄く微笑みを浮かべて剣を置いた。
そんなフィルエステルを見ても、やはり父は何も言わなかった。異母兄もまた、何も言わなかった。言わなかったのではなく、言えなかったのだろう。フィルエステルの予想通りであれば、ヴェリスバルトもまた母の死の真相を知っていたのだろうから。
だからこそ異母兄は自分のことを慈しんでくれたのか。ありがたいと思うと同時に、少しだけ寂しくも感じたけれど、それでもフィルエステルを気遣ってくれる異母兄に報いようと思った。
そしてフィルエステルは、ただの凡庸なる第二王子となったのだ。
そのまま数年の月日が経過し、フィルエステルが齢十三を数えたばかりの頃。フィルエステルは隣国であるジェムナグランに、友好を示す使節団の代表として向かうことになった。
本来であれば王太子である異母兄ヴェリスバルトがその役目を担うべきところであったが、たとえ隣国という距離にあろうとも、ヴェリスバルトの虚弱な身体はジェムナグランへと向かう旅に耐えられないだろうという侍医の判断の下、フィルエステルに白羽の矢が当たったのだ。
ジェムナグランという国の名を知らぬ者はこのレース・アルカーナ大陸にはいないだろう。
二十数年前の大戦において、この大陸の統一を目指し、それを成し遂げる寸前で、当時のジェムナグラン王の崩御により統一を果たせなかった大国だ。隣国であるオルタニアとは幾たびも戦火を交え、そのたびにオルタニアはジェムナグランの軍勢を退けたという。
オルタニアという国の存在がなければ、この大陸は早々にジェムナグランに飲み込まれていたに違いないと誰もが口々に言うが、まだ新しい史書により伝聞でしかその話を知らないフィルエステルは、その噂を話半分に聞いていた。自分がジェムナグランに行くことが決定したと知らされたときになってやっと、フィルエステルはジェムナグランという国がどういう国なのかを考えるようになった。
オルタニアの隣国である大国ジェムナグラン。
古代種にして希少種であるエルフと呼ばれる、人知を超えた力を操る長命種を保護し、その恩恵を受けて栄える国。それがジェムナグランであると聞かされている。
それだけ知っていれば十分ではないか、とフィルエステルはぼんやりと思っていたのだが、自身の代わりにジェムナグランへと向かうことになった異母弟のことが心配でならないらしいヴェリスバルトは、わざわざフィルエステルを自室に招き、今日は調子がいいのだからなどとうそぶいて、フィルエステルにジェムナグランについて自身が知る限りの知識を与えようとした。
その知識は、フィルエステルが書物から得た知識と相違ないものばかりで、目新しいものはなかった。そのことに、聡いヴェリスバルト自身が気付いていないはずがない。要はヴェリスバルトは、なんだかんだ理由を付けて異母弟との憩いの時間を作ろうとしたのだろう。
その気遣いは、フィルエステルにとってはなんとも気恥ずかしく、そして居心地の悪いものであった。素直に礼を言えばよかっただろうが、きっとそれを異母兄が望まないことも解っていた。だから代わりに、会話を続けるために、初めて自ら質問をした。
「兄上にとっては、ジェムナグランとはどういう国なのですか?」
フィルエステルの質問に、他意があった訳ではない。ただ、あまりにもヴェリスバルトが淡々と、教科書通りの『ジェムナグラン』を語るものだから、フィルエステルは世間で知られているジェムナグランの姿ではなく、この聡く賢い異母兄の目から見たジェムナグランの姿が知りたくなったのだ。
そんなフィルエステルの質問は、ヴェリスバルトにとっては意外なものであったらしい。その鈍色の瞳を瞬かせ、そして「私にとって、か」と何やら考え込むように、日に焼けることを許されない白く細い指を口元に寄せた。いつだって淀みなくフィルエステルの質問に答えてくれる異母兄の珍しい姿に戸惑うフィルエステルを余所に、やがてヴェリスバルトは口を開いた。
「幻想を生きる国だと私は思っているよ」
「幻想を、生きる国?」
そうして得られたヴェリスバルトの答えは、なんとも不思議な響きを持つ答えだった。まるで幼子に読み聞かせる絵物語に出てくる国について語るかのような口振りに、フィルエステルは戸惑った。この大陸において、オルタニアと並ぶ大国であるジェムナグランを、雲を掴もうとするかのように語るとは一体どういうことなのか、フィルエステルは理解できなかった。
黒蛋白石の瞳を、先程のヴェリスバルトそっくりな仕草で瞬かせるフィルエステルの頭を撫でるヴェリスバルトは、その整った線の細いかんばせに静かに笑みを浮かべていた。争いや諍いなどとは程遠い、穏やかな笑みだった。けれど何故だろう。フィルエステルにはそんな兄の笑みの背後に、戦乱の炎が見えた気がした。
「現国王は比較的まとものようだけれどね。これまでのジェムナグラン王は酷いものだ。エルフの恩恵がなければすぐに他国に……それこそ、我が国にでも飲み込まれてしまっていたに違いないと私は考えているよ。特に先代のジェムナグラン王は、まあ強烈な悪例と言えるのだろうね。彼女については、フィルエステル。お前も聞き及んでいるだろう?」
「……“鉄血女王”のことですか?」
「正解だ」
流石我が弟、と冗談交じりに笑うヴェリスバルトに、いつまで経ってもこの人は己のことを子供扱いしてくれるな、とフィルエステルはなんとも複雑な気持ちになる。だがそう不服を申し立てたとしても、きっとこの異母兄は「かわいい弟をかわいがって何が悪い? お前はこの兄から、数少ない楽しみを取り上げるつもりなのかな?」とでも言って笑顔で異論を却下するに違いない。そんな未来など口にするまでもなく目に見えていたので、フィルエステルはその件に関してはもう諦めた。だから代わりに、胸の内に浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「でも、鉄血女王にはエルフの【祝福】があるでしょう。死者を蘇らせるという【蘇生】の力があれば、いくらでも国を大きくできたはずです。だからこそ先の大戦において、ジェムナグランはこの大陸一の領土と国力を誇ったのでは?」
そうだ。ジェムナグランの王族には、エルフから【祝福】という名の、人知を超えた力が与えられるという。先代ジェムナグラン王たる鉄血女王が与えられた【祝福】は【蘇生】。その力で以てかの女王はこの大陸を蹂躙し、あらゆる国を飲み込もうとした。だが志半ばで彼女は斃れ、そしてその代わりに、かの女王の息子である現ジェムナグラン王が【平定】という【祝福】で以てジェムナグランに飲み込まれた国を復活させ、この大陸を再生させた。
もしも、鉄血女王が病に倒れなければ。そう思ったことがある民は少なくないと聞いている。他国に関してあまり興味のないフィルエステルとてそう思ったことがない訳ではない。
もしもかの女王がその【祝福】を未だに行使していたとしたら、今のような平和な時代は築かれなかったに違いない。それほどに【蘇生】という【祝福】は、人の身にはあまりにも過ぎた力だった。そんな力に対して只人に過ぎない周辺諸国が太刀打ちできるはずがなかったのだ。
その中でも唯一対抗するだけの国力を持ち合わせていたのがオルタニアであったが、オルタニアは戦に対して消極的であり、防衛以上の戦を仕掛けることはなかったのである。だからこそかつての大戦は、ジェムナグランが圧倒的な優位に立って進められ、かの国はこの大陸一の領土と国力を一度は誇ったのだ。
そんなフィルエステルの問いに、ヴェリスバルトは「そうだね」と一つ頷いた後、サイドテーブルに置いてあった薬湯を口に運んだ。
「私が考えるに、鉄血女王……マリアローズ女王の力は、民の力に頼ったものだ。いくら死者を蘇らせ、彼らを使うことでいくらでも戦を重ねられると言っても、それはあくまでもそこに、『王に従う』という民の意思があるからこそだ。先の大戦の終結は、彼女が病に倒れたからこそもたらされた幸運だと言われているが、実際は違う。遅かれ早かれ、ジェムナグランは内部から瓦解していただろう。エルフの【祝福】に疑問を抱き反旗を翻した、民の力によってね」
「……!」
それは、フィルエステルが考えもしなかった答えだった。黒蛋白石の瞳を大きく見開き固まる異母弟に、ヴェリスバルトはふふと笑った。その笑顔に、何故だかフィルエステルはぞくりとする。言葉が見つからないフィルエステルを置き去りに、ヴェリスバルトは更に言葉を紡ぐ。
「そういう意味で、現ジェムナグラン王はまともだと言ったんだ。彼は大陸の平和を願って終戦を導いたと言われているが、実際は違う。すべてはジェムナグランという国を守るためだ。彼が自らに与えられた【祝福】、すなわち【平定】という力は、他国に対してのみならず、自国に対しても行使されたのだろう。だからこそ今なおジェムナグランは『国』という名を冠していられる。現国王陛下は自国を守るという意味合いでは誰よりも王らしい王だと私は思うよ」
『王らしい王』。その言葉が、何故だかすとんとフィルエステルの胸に落ちてきた。
無言のまま、フィルエステルはじっとヴェリスバルトのことを見つめた。生母譲りの虚弱な身体を持つ王太子のことを、誰もが認めているのかと問われれば、答えは否であることをフィルエステルは知っている。異母兄の身体は、今でこそ政務をこなせるだけの体力を持ち合わせていると言われているものの、それは単に小康状態が幸運にも続いているだけであるということ。その事実を、フィルエステルはヴェリスバルト本人から聞かされている。
ゆえに、フィルエステルと同じくその事実を知る者は、虚弱な兄王子を王太子の座から早々に廃し、代わりに健康な弟王子……すなわち、フィルエステルを新たな王太子ときて担ぎ出そうとしている者もいる。表向きにはヴェリスバルトの身体を慮ってのことだと言われているが、結局は、優秀な兄よりも凡庸な弟を王座に据えて、扱いやすい傀儡とするために違いないことは、フィルエステルは理解していた。
凡庸でありすぎることも考えものだな、と思えども、かと言って今更“優秀な第二王位後継者”になる気などさらさらなかったフィルエステルは、将来はこの異母兄に仕えようと決めていた。
そしてその思いは、先程のヴェリスバルトの言葉によってますます強いものとなった。
未だかつての大戦の爪痕が残るこの大陸において、その災禍の中心となったジェムナグランに対し、この異母兄以外に、誰がそんな言葉を言えるだろうか。きっと、『王らしい王』とは、この異母兄のことだ。ならば自分は、それを支えるに相応しい存在とならねばならない。そのためならば、ほんの少しくらい本気を見せてもいい。
フィルエステルのそんな傲慢な考えに気付いているのかいないのか、ヴェリスバルトは穏やかに、どこかのんびりとした口調で続けた。
「そんな現国王陛下の治世の下だからこそ、昨今においては“鉄錆姫”が恐れられているんだろう。森の貴人殿も随分と残酷な【祝福】を与えたものだね」
この異母兄にしては珍しい、心からの同情が込められた声音に、フィルエステルは首を傾げた。
「“てつさびひめ”?」
ヴェリスバルトの台詞の中にあった、聞きなれない響きの言葉を反芻する。森の貴人の意味は解る。それはエルフに対する尊称だ。フィルエステルが気になったのは、そこではなく、〝てつさびひめ〟という単語。舌に乗せてみるとそれは、余計に不思議に感じる言葉であるような気がした。
てつさびひめ。鉄錆姫。姫君に付けられるには少々どころではなく礼を欠いたそれは、どうやらフィルエステルの知らない誰かの呼び名であるらしい。それもどうやら、ジェムナグラン絡みの人物のもののようだ。果たして誰のことなのだろう、とますます首を傾げるフィルエステルに、ヴェリスバルトは苦笑を浮かべた。
「フィルエステル……お前はもう少し、オルタニア以外の外の世界のことに興味を持ちなさい」
「それほどに有名な姫君なのですか?」
「まあそれなりには有名と言えるだろうね。悪名高き、と言うと本人には失礼なのだろうが。鉄錆姫とは、現ジェムナグラン王の第三子である姫君の異名だよ。兄王子達はそれぞれ〝金の王子〟、〝銀の王子〟という誉れ高い呼び名が付いていることを思えば、随分皮肉な異名だが。フィルエステル、お前より確か三歳ほど年下だったはずだけれど、どうだったかな」
フィルエステルとて、ジェムナグランの第一王子である“金の王子”カルバリーエ・ジェムナグランと、“銀の王子”キリエルーバ・ジェムナグランの名は流石に知っている。
直接相見えたことはないが、容姿端麗にして文武両道、加えてそれぞれ【風】と【水】というエルフからの【祝福】を授けられた、大陸中にその名を轟かせる誉れ高き王子達であると、それはそれは素晴らしい噂を聞かされていた。
フィルエステルにとっては、見も知らぬ隣国の王子達より、異母兄の方がよっぽど慕わしく尊敬できる存在であったため、大した興味を抱くこともなかったが、なるほど。かの王子達には、妹姫がいたらしい。それも、どうやら高名なる兄王子達にとっては随分と相応しからぬ妹姫が。
私とどちらがマシかな、と内心で呟くフィルエステルを知ったか知らずか、ヴェリスバルトは指折り数えるようにゆっくりと、その〝鉄錆姫〟について語り出した。
「彼女は、かの女王とよく似た【祝福】を森の貴人殿から与えられたのだそうだ。そのために“鉄錆姫”と呼ばれ、国内では……いいや、国内外を問わず、随分と周囲から厭われているらしい。なんでも、鉄血女王の生まれ変わりだとかいう話も出ているそうだよ。仮に本当に生まれ変わりであったとしても、今の彼女には何の非もないだろうに。まったく、気の毒なものだ。どうだ、気にならないかな?」
異母兄の問いかけには、どこか期待が込められているようにフィルエステルの耳には聞こえた。けれど、フィルエステルはその期待に応える術を持たない。期待などという感情は、とうの昔に砂塵と化して風にさらわれてしまったのだから。
ゆえにフィルエステルは、いつものように穏やかに微笑んだ。フィルエステルを置いていってしまった母譲りの、甘く整った美貌に浮かぶ微笑みは、とても美しく、そして空虚なものだった。
「いえ、別に特には。私はするべきことをしてくるだけです」
この異母兄の言う噂の通りであれば、その鉄錆姫とやらと自分が出会うことなどないだろう。平和条約を結び、この十数年間もの間、オルタニアとジェムナグランは友好関係を保ってはいるが、それはあくまで表面上のものだ。今のこの状態は、ふとしたきっかけで崩れ落ちかねない平和なのである。そんな中で、かつての大戦を思い起こさせる〝鉄錆姫〟をジェムナグラン側がフィルエステル達使節団の前に引っ張ってくるはずがない。だから関係ないのだ。
鉄血女王も、鉄錆姫も、フィルエステルにはどうでもよかった。ただ自分は、穏やかに微笑みを浮かべているだけでいいのだ。それがフィルエステルにできる、唯一のことなのだから。