序幕 黒鉄王子は夢を見る
キンッと金属と金属がぶつかり合う音が甲高い悲鳴のように鍛錬場に響き渡り、若い騎士の手から模造剣が弾き飛ばされる。騎士が最後の抵抗にと後退りしようとするが、遅い。トン、と軽く地を蹴ったフィルエステルは、そのまま自ら手にした模造剣の切っ先を、騎士の喉笛に突き付けた。
ひっと息を呑み、そのまま自身の足に引っかかって尻餅をつき、ごくりと喉を鳴らす若い騎士を見下ろす黒蛋白石の瞳には熱はない。模擬試合に対する高揚も興奮もない。吸い込まれそうな黒の中で多彩な光の遊ぶ瞳には、凪いだ湖面を思わせる、どこまでも透明で冷静な、落ち着き払った光が宿っていた。
「ま、参りました……」
フィルエステルの瞳から自らの目を逸らすこともできず、座り込んだまま若い騎士は降参の声を上げた。一つ頷きを返して、フィルエステルは模擬剣を鞘に収める。
ここに至るまでそれなり以上の模擬試合を経ているというのにも関わらず、息一つ切れていない様子のフィルエステルに対し、憧憬とも羨望ともつかない、どちらであるにしろ行き着く先は心酔であるに違いない感情を瞳に宿した騎士は、慌てて立ち上がって一礼し、鍛錬場の隅へと走り去る。
固唾を呑んで二人のやり取りを見守っていた周囲の騎士達から、誰からともなく安堵の息が漏れ、フィルエステルの剣から解放された騎士に対する労いの言葉が飛ぶ。
甘く整った容姿と温和な性格から、フィルエステルには、戦を思わせる“黒鉄王子”の呼び名よりも、その瞳の色になぞらえて“黒き貝の火の王子”という呼び名の方が相応しいのではないかと自国の貴族令嬢や他国の姫君は囁き合っているらしい。
だが、彼女達は、今のフィルエステルの姿を見て、果たして同じ台詞が言えるのだろうか。おそらく――いいや、確実に答えは否だ。
一振りの剣を手に、次々と向かってくる騎士を赤子の手をひねるように打ち倒していくその姿。それはオルタニア守護神たる戦女神オルティニーヤが遣わした天の国の守護戦士のごとく雄々しくも凛々しく、正に“黒鉄王子”の名に相応しい。
「――――次」
フィルエステルは一つ瞬きをして、次の順番を待つ騎士へとその眼差しを向けた。
びくりと身体を震わせるまだ入団したばかりの若い騎士に向ける表情と視線は、普段柔和な笑みを浮かべている穏やかな美貌の第二王子のものとは思えない、いっそ冷徹とすら呼べるようなそれらである。
普段のフィルエステルを知っている騎士達だからこそ、今のフィルエステルの姿は、何よりも恐ろしく、侵しがたい存在であるように思えた。
冴え冴えとしたフィルエステルの声に、震えながら次なる若き騎士が一歩前に出てくる。
ここで「無理です」だなどとごねるような軟弱な精神の持ち主が、我がオルタニア王宮騎士団の入団試験に合格できるとは思ってはいない。だが、それでも今の状態のこの自分に向かってこようとする根性は認められるべきものであり、好ましいと思えるものである。そうフィルエステルは内心で人知れず感心する。
とはいえ、試合とは精神論だけで勝てるものではない。足をガタガタと震わせ、構えた模造剣の切っ先も定まらない若い騎士の姿は、はっきり言ってしまえば“情けない”の一言に尽きるものだ。フィルエステルがその気になれば一太刀でその若い騎士のプライドと一緒に、彼の手にある模造剣を折ることができるだろう。
常であれば落ち着くよう一声かけるなりなんなりして、それなりの気配りの上に基づく手加減を加えて相手をするところである。
だが、今のフィルエステル……正確には、ここ最近のフィルエステルには、そんな気にはなれなかった。
――一撃で、終わらせる。
瞬きの後にそう内心で結論付ける。この将来有望な若き騎士には悪いが、ここはひとつ、この剣の錆になってもらおう。
八つ当たりであることくらい自覚していたが、それでもどうしようもなかった。毎年のことだというのに、対処法は未だ見つかっていない。どうしてもこの時期ばかりは、フィルエステルは自身の中に澱み凝る薄暗い感情を御しきれないのだ。
つい先程鞘に収めたばかりの模擬剣を抜き払い、フィルエステルが地を蹴ろうとする、その瞬間。
パン!と高らかな拍手の音が、一度、大きく打ち鳴らされる。それは息切れしている騎士達の呼吸音ばかりがやかましく、逆を言えばそれら以外の音は空恐ろしいほどに静まり返っていた鍛錬場の中に、存外に大きく響き渡った。
ぴたり、と。フィルエステルの動きが止まる。そのまま剣を下ろしてその拍手が鳴った方向をちらりと見遣れば、そちらからゆっくりとした足取りで近付いてくる人物がいる。
その大柄な初老の人物こそ、オルタニア王宮騎士団代表、フィルエステルの幼少期より剣術の指南役を務めてきた騎士団長だった。
「君が水を差すとは珍しいね、マリー」
「マリーではなくマリメルリスです、フィルエステル殿下」
興が削がれてしまったな、とは思いつつも表には出さず、ようやく普段の穏やかな笑みを顔に貼り付けてフィルエステルは模擬剣を収めた。
鍛え抜かれた肉体と身長により、実際の年齢よりも十歳は若く見えると噂される騎士団長マリメルリス・ローラベルクは、フィルエステルが口にしたかわいらしい少女のような愛称に、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
だが、にこにこと毒気を感じさせない笑みを浮かべるばかりのフィルエステルに対しては、何を言っても無駄であると言うことを騎士団長は昔からよくよく理解してくれている。
溜息をごまかすためか、ゴホン、と咳払いをした紀信団長は、フィルエステルの前で緊張に強張ったままの若い騎士の肩を叩き、そしてフィルエステルに向かって一礼してみせた。
「殿下、今日はここまでにしておいてやっていただけませんか?」
「うん?」
常であれば「遠慮なくどんどん扱いてやってください」と、厳めしい顔立ちに極東の国で言う仏のような笑みを浮かべて、これまた極東の国でいう鬼のようなことをにこやかに言い放つ騎士団長らしからぬ発言である。
予想外の台詞にフィルエステルは思わず首を傾げた。この時期における数少ない気晴らしの一つが、この王宮騎士団に対する剣術の指南なのだ。今日は時間の許す限り存分に遠慮なく剣を振るわせてもらおうとフィルエステルは思っていたのだが――どうやらそれが、まずかったらしい。
フィルエステルの笑顔に混じったわずかな不満に、付き合いの長い騎士団長は敏く気付いたようだった。彼は困ったようにその太い眉尻を下げ、「恐れながら申し上げますが」と口火を切る。
「本日の殿下は心ここにあらずの様子でいらっしゃる。そのような状態では、我が騎士団の若手相手に、いつものように見事な手加減などできないでしょう?」
この惨状をご覧になればお解りかと存じますが、と、騎士団長が両腕を広げて周囲を示してみせる。彼の背後には、死屍累々、と呼ぶに相応しい光景が広がっていた。
フィルエステルに試合を申し込み、そしてあえなく打ち倒されてしまった、数えきれないほどの若き騎士が心身ともに疲れ果てた様子で座り込み、或いは地に倒れ込んでいる。
それでもその瞳はフィルエステルによる剣術指南という名の模擬試合に釘付けになっていたのだから、彼らの騎士としての根性もまた見上げたものだ。
そんな彼らに対して手加減することこそ騎士としての矜持と尊厳を傷付けることではないだろうかとフィルエステルは思ったが、普段の自分の行動を顧みるとそう強くも言えない。普段彼ら相手に、手加減をして剣を振るっているのは事実であるのだから。
特に若手の騎士相手には、かなりの手心を加えている自覚がある。何せフィルエステルと彼らの間にある実力の差は、歴戦の勇猛なる戦士と、剣を握り始めたばかりの稚い少年のそれほどにある――とは言い過ぎかもしれない。だが、そう評しても誰も否定しないくらいには、フィルエステルの剣術は卓越したものであった。
フィルエステル自身それを自覚しており、だからこそ普段は若い芽をいたずらに摘むことがないよう、騎士団長曰くの『手加減』をして彼らの鍛錬に顔を出していた。今日もそうして、いつものように『手加減』をしようと、最初は思っていたのだが、気付けばこの惨状だ。
いいや、気付けば、ではない。フィルエステルは自らの八つ当たりで、この事態を招いてしまったことに遅れて気付く。らしくもない真似をしてしまった自分に、フィルエステルはやはりらしくもなく小さく舌打ちをした。
寛大で思慮深い我らが“黒鉄王子”らしからぬその舌打ちに気付いたのは、幸いなことに近くにいた騎士団長だけであった。彼の目に気遣わしげな光が宿ったことに気付かないふりをして、フィルエステルは騎士団長の手に、自らが持っていた模擬剣を押し付ける。
「マリー、君の言う通りだ。少し私はやりすぎたようだね。皆、すまなかった。私はここまでにして、部屋で休ませてもらうよ」
一息でそう言い切って、フィルエステルはくるりと踵を返す。ほう、とまた誰からともなく安堵の息が漏れたのが聞こえたが、咎めるような真似はしない。むしろここまで自分の八つ当たりに付き合ってくれたことに感謝しなくてならないだろう。そうフィルエステルは苦く笑う。
王族が詫び、と言うとなかなか面倒なことになるが、ここはひとつ、後で厨房に命じて差し入れでも持ち込ませようか。そう内心で考えるフィルエステルの背中に、騎士団長の声がかけられる。
「フィルエステル殿下」
「何かな?」
「……あまり、ご無理をなさいますな」
労わりに満ちた声だった。フィルエステルが何に苛立っているのかを、騎士団長は知らない。ただ毎年、この時期になるとフィルエステルが不調を来たすことを彼は知っている。だからこその言葉なのだろうとは解っていたが、フィルエステルは騎士団長の言葉に答えなかった。振り返ることすらしなかった。その代わりに、片手を挙げて蝶のようにひらりとひらめかせた。
その白い手の残像だけを残し、フィルエステルは鍛錬場を後にする。今日の公務は終了しており、何をしようとも咎められることはない。これでも大国オルタニアの第二王子という忙しい身の上だ。だからこそわずかな自由時間を大切に思っていたのだが、例年、この時期ばかりはその“自由時間”が煩わしい。
執務室に戻ればまた新たな仕事が待っていてくれるかもしれない。そんなわずかな望みを抱いてしまう自分に、フィルエステルは一つ溜息を吐く。肩口よりも少しばかり長く伸びた自らの癖毛を一つにまとめていたリボンを乱暴に毟り取った。そのままカツカツと足音も高らかに回廊を歩く足を急がせる。
向かう先は自らの執務室。
……その、つもりだったのだが。
気付けばフィルエステルの視線の先には、飴色の木目に見事な意匠がこらされた扉があった。距離としてはまだ一歩や二歩程度では決して辿り着けないほどの距離があるが、今フィルエステルが立っている場所は、そのまま進めば確実にその扉に辿り着く……その扉の前にしか辿り着けない場所である。四季の花々の合間を小鳥が飛び交う精緻な細工が施された扉は、いかにも女性が喜び笑みを零すだろう。
その扉が誰のためのものなのか、フィルエステルはよくよく理解していた。この扉の向こうにあるのは、この数カ月もの間、幾度となく通い詰めてきた部屋だ。
自分は自身の執務室に行く予定だったのだが、何故ここに来てしまったのか。そう我知らず呆然として扉の前に佇むフィルエステルに、扉の前で退屈そうに立っていた、フィルエステルがその人となりをよくよく知っている騎士が、ふいにその深緑色の瞳を、フィルエステルへと向けた。
「フィルエステル殿下じゃありませんか」
「……ユーゼフ」
「はい。貴方の騎士、ユーゼフ・デイライトっすよ。自分でいらっしゃっておきながら、なんでそんなに驚かれているんです?」
反射的に、『見つかってしまった』と思ってしまった自分に気付かないふりをしながら、フィルエステルは歩みを進め、自身の部下であり、自身の婚約者の護衛でもある騎士、ユーゼフの前に立った。
「いや、なんでもないよ。……アウラは、中に?」
ユーゼフから見てみれば、今のフィルエステルの様子がどう見ても平素のそれと同じであるとは思えなかっただろう。
だが、フィルエステルがユーゼフの人となりを知っているように、ユーゼフもまたフィルエステルの人となりを、他者よりもよく知っている。それくらいには長い付き合いだ。こんな時、フィルエステルが深く問い詰められることを好まないということを知っているユーゼフは、それ以上問いかけようとはしなかった。その代わりに、彼はフィルエステルの問いに笑顔で答えるだけに留めた。
「俺がここにいるんですから、アウラローゼ姫は当然お部屋にいらっしゃいますよ。もちろん、ミラさんも一緒に」
「そう」
叶うならば不在でいてほしかった、というのはフィルエステルのわがままだ。自分でこのアウラローゼ……隣国ジェムナグランからやってきた姫君、アウラローゼ・ジェムナグランの居室までやってきておきながら、本当は今の自分は顔を合わせたくなかったなど、どの口で言えると言うのだろう。
もちろん、ここで退き返すこともできる。フィルエステルがアウラローゼの居室までやってきたことを知るのは目の前にいるユーゼフだけだ。フィルエステルに対しては基本的に極めて忠実なユーゼフに口止めすることなど、フィルエステルには容易いことである。
……その忠実さが、先達て許し難い事件を引き起こしたことも、また事実ではあるけれど。
あの事件とは、すなわち、アウラローゼ誘拐及び殺害未遂事件である。フィルエステルの騎士であるユーゼフ・デイライトと、アウラローゼの侍女であるミラ・ヴェリスが引き起こした事件は、オルタニアとジェムナグラン両国間の上層部にしか伝わっていない話だ。
表沙汰になれば両国間の絆にかつてのようなひびが入るであろうことは確実であったこと、そして被害者であるアウラローゼが事件を公表することを望まなかったことから、表面上はオルタニアとジェムナグランの友好関係は今日まで何事もなく続いている。
アウラローゼはユーゼフとミラを許し、そのまま自らの側に置いた。
ユーゼフがそのことを真実どう思っているかまでは、フィルエステルは知り得ない。だが、もう彼がアウラローゼを害することが決してないだろうということ、命を賭してでも今後アウラローゼを守るであろうことが確かであれば、フィルエステルはそれでいいと思う。
許すか、許さないか、と問われれば、答えは紛れもなく後者であるということはまあまた別の話だ。
それに、本当の意味で許せないのは、許されてはならないのは、ユーゼフでもミラでもなく――……と、フィルエステルがそこまで思った、その時だった。
じっとフィルエステルの、どこか困ったような微笑を浮かべた甘やかな美貌を見つめるばかりであったユーゼフが動いた。フィルエステルが止める間もなく、彼はためらいなく背後の扉をノックし、中から返事がある前に、その扉を開け放った。
「アウラローゼ姫、お客様っすよー」
「あら、フィル様。ごきげんよう」
その愛らしくも意志の強さを感じさせる凛とした声音に、不思議と肩から力が抜けていくのをフィルエステルは感じた。
会いたくないと、そう思っていたはずだったのに。ソファーに優美に腰かけて読書しているその姿。香油を付けて丁寧に梳かれた波打つ暗い赤茶色の髪が窓から差し込む陽光を透かして明るい緋色に艶めいている。その美しさに見惚れずにはいられなかった。朝咲きの深紅の薔薇を摘み、妖精が宝石として仕立てあげたものをそのまま嵌め込んだかのような瞳には、アウラローゼの意志の強さそのものを表す鮮烈な光が宿っている。きらきらと輝くその瞳に、フィルエステルは、自身の中でどうしようもない安堵と歓喜が広がっていくのを感じた。
とはいうものの、フィルエステルは、その衝動を何と口で表現してよいものか解らなかった。
そもそも今日は会うつもりなどなかったというのに、これだ。こうして顔を合わせただけで、沈んでいた心が、まるで羽が生えたかのように軽くなる自分に失笑を禁じえない。
いつもと同じでいいのだ。
ただ一言、アウラ、と。
その名前を呼ぶだけでいいことくらい解っているのに、どうしてだかその何よりも大切な言葉が出てこない。
結果として曖昧に微笑んで扉の前に立ち竦むばかりの主を置き去りに、ユーゼフはさっさと部屋の中に入ったかと思うと、ローテーブルの上に置かれているティーセットに添えられた焼き菓子へとその手を伸ばした。
だが、その手が焼き菓子に届くよりも先に、ぴしゃりと容赦なくほっそりとした白い手がユーゼフの手を叩く。
「いてっ!? 何すんですかミラさん」
「何をするも何も、私は当然のことをしたまでです。ユーゼフ様。淑女の、それも姫様のお部屋に、返事も待たずに入っていらっしゃるのはおやめくださいと何度も申し上げたでしょう」
「あーはいはい、すみませんね」
「……姫様のご厚情で生き長らえることが許された身で、これ以上無礼を働くおつもりですか」
「そりゃお互い様です。別に俺は望んで生き延びた訳じゃないっすから。俺の主はフィルエステル殿下ただお一人です。ミラさんだって、フィルエステル殿下のご厚情で生き延びたけど、従うのはアウラローゼ姫だけでしょう。ほらね? やっぱりお互い様お互い様」
「…………」
アウラローゼの側に控えていたはずの、通称“緑青の侍女”ミラ・ヴェリスは、常ならば凪いだ湖のように静謐な光を湛えるばかりの青い瞳に、苛立たしげな光を宿してユーゼフを睨み付けた。
おや、なかなか手厳しい。そうフィルエステルは、二人のやり取りを眺めながら苦笑混じりに内心で呟く。
手厳しいのがミラなのか、それともユーゼフなのかについては言及はしないまま、なんとなくまじまじとミラの姿を見つめてみる。
お仕着せの侍女服に身を包み、きっちりと黒髪をシニヨンにまとめた姿は、一介の侍女というには少々気品が溢れすぎているように見えた。
それも当然なのだろう。彼女は本来、ミランディリア・オルハンという名を冠するそれなりの貴族の令嬢であったのだから。
これまでは“鉄錆姫”と呼ばれるアウラローゼの陰に隠れて見えなかっただけで、今のミラの纏う雰囲気こそ、彼女が本来纏うべき雰囲気であるに違いない。そしてその、本来上に立つべき者が纏うべき雰囲気を纏いながら、ミランディリア・オルハンは……ミラ・ヴェリスは、アウラローゼの前に膝を折った。その姿に、ためらいはなかった。
先の事件以来、ミラは自身のすべてをアウラローゼに捧げることに決めたらしい。だからこそ余計に、ユーゼフの態度がミラには腹立たしいものに見えて仕方がないのだろう。
ユーゼフを擁護するつもりはないが、フィルエステルが思うに、彼は決してアウラローゼを軽んじている訳ではない。基本的にそういう性質の持ち主であるからこその態度なだけだ。本当に軽んじている相手ならば、こんな風にわざわざ未だに手の付けられていない焼き菓子に、まるで毒見のように我先に手を伸ばしなどしないだろう。
ミラとてそれが解っているはずである。だからこそだ。自身が唯一無二の主たる姫君のために用意した焼き菓子に毒など入っているはずがないという誇りに、ユーゼフの態度は確かに傷を付けるに違いない。
そして同時に……もしくはそれ以上に、おそらくは根が真面目過ぎる性格のミラには、ユーゼフの軽薄に見える態度が、単純に癇に障って仕方がないのではなかろうか。
難儀なものだねと結論付けるフィルエステルを後目に、それまでミラとユーゼフのやり取りをおもしろげに見つめていたアウラローゼは、パタンと音を立てて本を閉じた。
その音に最初に反応したのは、やはりミラであった。ユーゼフを睨み付けていた時に瞳に浮かべていた苛烈な炎はなりを潜め、アウラローゼに向けられる瞳の光は穏やかなものだ。
瞳に浮かぶ光一つでここまで違いを感じさせるのだからいっそ恐れ入る。ユーゼフが小さく「うわっ露骨……」と呟くのを聞き流し、「どうなさいましたか姫様?」と問いかけるミラの声は、いっそ甘いと評しても過言ではないものだ。
これはうかうかしていられないな、と内心で呟くフィルエステルを後目に、アウラローゼは小さく笑ってみせた。幾重にも花弁が重なる大輪の花のつぼみが、綻ぶかのような笑みだった。
「ミラ、構わないからユーゼフのことは放っておきなさい。それよりもフィル様、今日はご公務の後は鍛錬場と伺っていたのだけれど、もう終わられたのかしら? ……フィル様?」
どうかなさって?と小首を傾げるアウラローゼに対し、フィルエステルは反応が遅れてしまった。アウラローゼの眉間に、いぶかしげなしわが寄る。それに気付いていながらも、敢えて気付かないふりをして、フィルエステルは意識して苦笑を浮かべてみせた。
「団長に追い出されてしまったんだ。そろそろ勘弁してくれってね」
「さっさと休ませてください」。「殿下もさっさと休まれてください」。そして、フィルエステルのことを案じつつも、「いい歳なのだからいい加減八つ当たりはやめてください」と言外にはっきりと告げていた付き合いの長い騎士団長の顔を思い浮かべながらフィルエステルは苦笑を深めた。
アウラローゼの薔薇色の瞳が、じっとそんなフィルエステルの顔を見つめてくる。まじまじと見上げられ、らしくもなくフィルエステルはどきまぎと心が逸るのを感じた。
まるで春に舞い散る薄紅の花弁の如く浮足立つ胸を抑えながら「何かな?」と首を傾げてみせると、アウラローゼはおもむろにその手に持っていた本をテーブルに乗せた。どうしたのだろう、とフィルエステルが思う間もなく、アウラローゼがその薔薇色の瞳を自らの侍女と、護衛役の騎士へと向ける。
「ミラ、ユーゼフ。少し席を外してもらえるかしら」
それは突然の言葉だった。わがままともお願いとも取れる言葉だが、そこに込められた響きは、確かに命令のそれを孕んでいた。
アウラローゼが譲る気がないことを、ミラもユーゼフも悟ったのだろう。二人はわざわざ反論や、ましてや反抗するような真似はしなかった。それぞれ一礼し、静かに部屋を出て行ってしまう。
後に残されたのは、ソファーに腰かけているアウラローゼと、立ち竦むばかりのフィルエステルだけだ。
「――――アウラ?」
やっとの思いで絞り出したフィルエステルの呼びかけに対し、アウラローゼは答えなかった。座っていた三人掛けのソファーの真ん中から、無言で片隅へと移動し、そして彼女はドレスの裾を自ら整え、ぽんぽん、とその膝を叩いた。
「はい。どうぞ」
「どうぞ、って」
「見て解らない? 膝枕よ」
「…………………………え?」
らしくもなく……本当に、我ながららしくもなく、もしかしたらここ数年で一番の驚きに、フィルエステルは怒涛の勢いで襲われた気がした。あまりに怒涛過ぎて、呼吸すら一瞬忘れてしまった。
ありがたいことに周囲から誉めそやされる、ご自慢の、というほどではないが、自身の利点の一つであるとは認識している整った顔が、とんだ間抜け面を晒しているであろうことを、他人事のように感じた。
そんなフィルエステルが面白かったのだろう。くすくすといたずらげに、まるで小鳥がさえずるかのような笑い声を上げたアウラローゼは、やがてその笑みをにっこりと深めた。
「特別よ。私の膝、貸してあげる。光栄に思いなさいな」
「どうして」
取り繕うこともできずに、思わずぽつりとそう呟けば、アウラローゼはそのきつい美貌に浮かべていた笑顔から一転、心底呆れ返ったような表情を浮かべた。
「だって、顔色があまりよろしくないようだから。私は貴方の婚約者だもの。いずれ夫となるべき殿方の心配をするのは、そんなにおかしなこと?」
「そんなことはないと思うけど……」
そう、そんなことはない。アウラローゼの言うことはごもっともだ。自身の不調を気付かれてしまったことは悔やむべき点であるが、アウラローゼの申し出は、それはそれはおいしい――もとい、ありがたい申し出であった。
けれどだからこそ驚かずにはいられない。まさか、この誇り高い彼女が、自らそんな真似をするなどと言い出してくれるなんて夢にも思わなかったのだ。
――どうしよう。
フィルエステルの脳裏に浮かんだ言葉は、この一言に尽きた。
繰り返すが、アウラローゼの申し出は、フィルエステルにとっては願ってもない申し出である。けれどそれに甘えてしまっていいものか、という疑問が脳裏に浮上するのもまた事実である。
膝枕をどうぞ、と言い出した相手がアウラローゼではなかったら、フィルエステルはあっさりと、そしてさっくりと、即座に断ることができただろう。いくら心身ともに消耗していたとしても、たとえ父王や兄王子に命令されたとしても、フィルエステルは他人にそんな無防備な姿をさらすような真似はしない。
けれど、相手はアウラローゼだ。フィルエステルにとって唯一無二の存在である、愛しい少女なのだ。
どうしたものか、と、フィルエステルが逡巡している内に、アウラローゼの薔薇色の瞳が、すぅっと眇められる。
あ、と、フィルエステルが思ったが、遅い。アウラローゼの唇に、意地悪げな笑みが刻まれる。
「別に無理にとは言わないわ。じゃあ私はミラとユーゼフを呼び戻して、書庫に行こうかしら。この続きを取りに行きたいの」
「ま、待って!」
「なぁに?」
アウラローゼは、浮かせかけた腰を再びソファーに戻し、大輪の薔薇の如き艶やかな笑みを浮かべて首を傾げた。そんな少女の姿に、フィルエステルは自分が完敗したことを悟った。ああもう、これだから敵わないのだ。
「その、君さえよければ、膝を貸してもらえないかな?」
「始めから素直にそう言えばいいのよ」
込み上げてくる笑みを噛み殺しながらフィルエステルがそう言えば、アウラローゼはツン、と横に顔を逸らす。彼女の物言いは高飛車で冷たいが、その一級品の磁器のように白く滑らかな頬は、解りやすく薄紅色に染まっている。
うん、やっぱり敵わない。そう内心で呟いて、フィルエステルはアウラローゼの隣にまずは腰を下ろし、そのまま身体をソファーの上に横たえた。もちろん頭はアウラローゼの膝の上だ。
絹で作られたドレスの布越しに感じる柔らかなぬくもりに、思春期の少年でもないというのに、どうしようもなく緊張してしまう。そんなフィルエステルに気付いたのか、アウラローゼの手がそっと、フィルエステルを宥めるかのように彼の髪を梳き始めた。
「少しお休みになられたら? 大丈夫よ、ちゃんと起こしてあげるから」
「……そう、だね。ごめん」
「こういうときは謝るんじゃなくて、別の言葉を使うべきだと思うわ。私にそう教えてくれたのは貴方じゃない」
違うかしら?と笑みを含んで問いかけられ、そうしてようやくフィルエステルは、ここ最近忘れ去っていた、心からの笑みを思い出した。腹の上に乗せていた手を伸ばし、そっと未だ薄紅に染まっているアウラローゼの頬を撫でる。
「――――ありがとう、アウラ」
アウラローゼは答えなかった。代わりに、アウラローゼの指が、優しくフィルエステルの髪を梳き続ける。その優しい手付きがあまりにも心地よくて、フィルエステルの瞼はすぐに重くなった。
何もかもが、いっそ泣きたくなるほどに温かかった。このぬくもりが失われずに済んだ奇跡に、フィルエステルは幾度となく感謝を捧げる。
そうだ。このぬくもりは、もう既に、二度も失われたのだ。
先達てのミラとユーゼフによる事件ばかりではない。七年前のこの時期、今こうしてフィルエステルに膝を貸してくれている彼の最愛の少女は、フィルエステルのために、その何よりも尊く美しい命を、花のように儚く散らした。
その事実を、フィルエステルは一度だって、一瞬だって忘れたことはない。あの日から、すべてが始まった。あの日があるからこそ、今こうして“黒鉄王子”と呼ばれるフィルエステルがある。
――そうして、いくばくもしない内に、フィルエステルの意識は、そのまま眠りの淵へと深く沈んでいった。