第11幕 薔薇は強く咲き誇る
アウラローゼが目を覚ました時、一番最初に目に映ったのは、オルタニア王宮におけるアウラローゼの居室に鎮座するベッドの天蓋だった。
ぱちぱちと何度か瞬きをしてから視線を横へとずらせば、そこには椅子に座って腕を組み、深く眠りこけているフィルエステルの姿があった。その甘く整った顔は、最後に見た時のように涙に濡れている訳ではなかったけれど、その代わりに、精魂尽き果て、疲れ切り、人生の春がとうの昔に過ぎ去ってしまった老人のようなそれだった。
せっかく綺麗な顔なのに、もったいないわね。そう内心で呟いて、アウラローゼは上半身を起こした。まるで彫像のように凝り固まり、鉛のように重い身体だ。いつの間にか寝着に着替えさせられている。
さて、自分が二度目の死とやらを迎えてから、一体どれほどの時間が経っているのか。今こうして目覚められたことが二度目にして最後の【祝福】であるというのならば、奇跡というものは随分あっけないものである。まああの【鳥待ちの魚】のやることだものね、と自分を納得させながら、アウラローゼは身を乗り出してフィルエステルの顔を覗き込む。
いつだって美しく豊かな光が遊んでいた黒蛋白石のような瞳は、今は長く濃い睫毛に縁取られた瞼に覆われ、その色彩を隠している。よく見ればその瞳の下には、うっすらと隈が浮かんでいた。
いったいどれほど寝ていなかったのかしらと思いながら、アウラローゼは自らの白く華奢な、それなのに今は重くて仕方のない手を持ち上げて、フィルエステルの顔にそのまま伸ばし、そして、バチンッ!と思い切りその額を指先で弾いた。
「ッ!?」
「ごきげんよう、フィル様」
文字通り飛び上がるような勢いで身体を震わせて目を開くフィルエステルに、アウラローゼはにっこりと笑いかけた。
フィルエステルの瞳がますます大きく見開かれる。アウラローゼが実は好ましく思っていた黒蛋白石の瞳の中で、きらきらと光が遊ぶ。ぱちり、ぱちりと、フィルエステルの瞼が、ゆっくりと瞬く。じれったいほどに緩慢な仕草だ。
「――――アウラ?」
呆然と、その存在を確かめるかのように、アウラローゼがフィルエステルだけに許している呼び名を呼ぶ青年の声は、微かに震えていた。その手が恐る恐る、そっと、繊細な硝子細工に触れるかのように、アウラローゼの頬に伸ばされる。優しく触れてくる青年の手は温かく、アウラローゼは甘えるようにその手に頬を摺り寄せ、更に笑みを深めてみせた。
「ええ、フィル様。ご機嫌は」
いかが?と続けようとしたアウラローゼの声は、それ以上音にすらならなかった。アウラローゼが皆まで言い切るよりも先に、フィルエステルが両腕を伸ばし、自らの胸にアウラローゼをかき抱いたからだ。
それまでの寝ぼけた様子が嘘のような、フィルエステルの細腕からは考えられないような力強さに、アウラローゼは彼の胸に顔を埋める形になりながら、瞳を白黒させる。
やがて、ぷはっとなんとかフィルエステルの腕の中から顔を出したアウラローゼは、柳眉を吊り上げて、ぺちぺちと両手で懸命にフィルエステルの胸を叩いた。
「ちょっと、喜んでくれるのは嬉しいけど苦しいわ。少し力を緩めてくれない?」
「嫌だ」
間髪入れずの即答に思わずアウラローゼは眉を顰める。だがそんな彼女の反応など知ったことではないと言わんばかりに、フィルエステルは言葉を続けた。
「力を抜いたら、君がこのまま消えてしまうかもしれないじゃないか」
「……貴方ねぇ……」
頑是ない子供が駄々を捏ねるような、それでいて悲痛なまでの切実さが込められた声音に、アウラローゼは怒りも苛立ちも忘れて、ただ呆れ返ることしかできなかった。
やがてその呆れと名付けられるべき感情は、何とも言い難い面映ゆさへと変わっていく。くすくすと思わず笑みを零すと、アウラローゼを抱き締めたまま、フィルエステルは憮然とした声を上げた。
「何がおかしいんだい」
「だって貴方、子供みたいなんだもの」
「誰のせいだと思ってるの?」
「あら、私のせいだって言いたいの?」
互いに顔を見ないまま交わす会話だったが、不思議とアウラローゼには、今フィルエステルが、いつかのように不機嫌そうな、不貞腐れたようなものであるに違いないことが解ってしまった。
その証拠のように、悪戯げに問い返したアウラローゼに対し、フィルエステルはぐっと言葉に詰まって更に腕に力を込めてきた。本当に子供のような反応である。けれどそれを指摘したらきっと更にフィルエステルの機嫌を損ねてしまうことが解っていたから、アウラローゼは沈黙することを選んだ。
冷え切っていた身体が、フィルエステルの体温で温められていく。その感覚を存分に味わってから、アウラローゼはそっとフィルエステルの背に自らの腕を回し、そして彼の耳元で囁くように問いかけた。
「私が【蘇生】することがどうして解ったの?」
フィルエステルはアウラローゼの一度目の死を知っている。その一度目の死は、『誰かのため』――フィルエステルのための死だった。今回の二度目の死も、フィルエステルにとっては『フィルエステルのため』の死であり、『国のため』の死ではなかったはずだ。ならばアウラローゼが蘇ることはないと思われても仕方がないことであったと言えるだろう。
にも関わらず、フィルエステルはアウラローゼを待っていた。待っていて、くれた。
その理由を知るための問いかけに対し、フィルエステルはどこか憮然とした声音を紡ぎ始めた。
「ジェムナグランからの通達だよ。君に【祝福】を与えたのだという森の貴人からね。君の兄君方の【祝福】である風の声と水の鏡を使って、決して君のことを諦めるなと言ってくれた」
森の貴人とはエルフの尊称だ。なるほど、【鳥待ちの魚】が、アウラローゼの兄達の【祝福】の力を借りてわざわざ知らせてくれたらしい。つくづく敵わないわね、と内心で苦笑しつつも、アウラローゼは「そうなの」と一つ頷くだけに留めた。そんなアウラローゼを改めて抱き締めて、フィルエステルは声を震わせた。
「でも、私はそれでも怖かった」
その不機嫌そうな、或いは不貞腐れたような、はたまた憮然としたような声音が、彼が気を抜けば今すぐにでも泣き出してしまいそうなところを必死になって耐えている声音であるということに、アウラローゼは遅れ馳せながら気付いた。
「君にもう二度とフィルと呼んでもらえなくなるかと思うと、怖くて仕方がなかった」
我慢の限界が来たのか、とうとうフィルエステルの声音に、涙が滲んだ。胸の底から込み上げてくる泣き出したくなる衝動を押し殺し、「馬鹿ね」とアウラローゼは呟き、フィルエステルの胸に顔を押し付ける。
そうしてようやくフィルエステルの腕の力が緩んだ頃合いを見計らって、アウラローゼは顔を上げてフィルエステルの顔を見つめた。
当然のことながら七年前よりも幼さが削ぎ落され、代わりに凛々しさが加わった、甘く美しく整った顔立ちだ。先程の寝顔には憔悴ばかりが浮かんでいたが、今その顔に滲み出るのは大きな安堵と歓喜だった。
目が合った途端に、今にも泣き出しそうに微笑むフィルエステルにぐっと一度息を呑み、一拍おいてからアウラローゼは笑みを浮かべてみせた。
その笑顔がぎこちないものになってしまったことについてアウラローゼは自覚していたし、フィルエステルもまた気付いたのだろう。首を傾げる青年が何かを言うよりも先に、アウラローゼは口を開いた。
「ありがとう」
たった一言。短い礼の言葉だった。その言葉にアウラローゼの万感の思いが込められていることに気が付いていないはずがないというのに――いいや、気が付いているからこそ余計に意味が解らないと言いたげに、ますますフィルエステルは首を傾げる。
「それは何に対して? 私は君を守れなかったのに。守ると誓ったのに、私は君に守られてばかりだ」
深い後悔の滲む声音に、アウラローゼは笑ってかぶりを振る。アウラローゼが言いたいのはそこではない。
「約束を、ずっと守り続けてくれたでしょう?」
確かにこの青年は、アウラローゼの身体のことは守り切れなかった。けれどその代わりに、アウラローゼが一番守ってほしかったものを守り続けていてくれた。それは七年前に交わした約束であり、そして今のアウラローゼの心でもある。
約束、とアウラローゼが口にした途端、フィルエステルはまた瞳を瞬かせた。信じられないと言いたげな表情をその美貌に浮かべ、じっとアウラローゼを凝視してくる。彼の黒蛋白石の瞳を、アウラローゼが真っ直ぐに見つめ返せば、ようやくフィルエステルはその口を開いた。
「――思い出したの?」
「ええ。貴方がどれだけお馬鹿さんなのか、とってもよく解ったわ」
いかにも恐る恐ると言った様子で問いかけてくるフィルエステルに、アウラローゼは訳知り顔で頷き返す。
本当に、どれだけこの青年は馬鹿なのだろう。一国の王子でありながら、同じく一国の王女であるとはいえほぼその価値など無意味なものでしかなかった小娘の言葉に縛られて。約束を無理矢理取りつけたアウラローゼ自身が忘れてしまっていたのだから、そのまま知らぬふりをすればよかったのだ。律儀にあんな口約束を守る必要なんてなかったのだ。王位継承権まで放棄するなんて、どうかしているとしか思えない。
「もういいの。貴方はもう十分すぎるほどに約束を果たしてくれた。もう私から解放されていいのよ」
そうだとも。もういいのだ。アウラロはーゼが忘れてしまったにも関わらずに約束を守り続けてくれただけで十分なのだ。それだけでアウラローゼは嬉しいと思えた。満足であると思えた。これ以上望んではいけない
【鳥待ちの魚】からの伝達から察するに、父王や兄王子達は、アウラローゼが二度目の死を迎えたことをもう知っているのだろう。ならばきっと、アウラローゼがジェムナグランに帰ることを許してくれるはずだ。今更また“鉄錆姫”の汚名が一つ増えたとしても、世間は気にしないであろうことも踏まえれば、何一つ不都合なんてない。
だからいい。繰り返すが、もういいのだ。でも、もしも許されるならば。誰にも言わずに秘めておくから、アウラローゼがフィルエステルのことを想い続けることを許してほしい。フィルエステルはアウラローゼにとって、きっと最初で最後の恋のお相手なのだから。
――だが、そんな決意を込めたアウラローゼの台詞に対する答えは、アウラローゼにとって予想外のものだった。
「見くびらないでくれるかな」
「え?」
低い声音に、アウラローゼは思わず息を呑んだ。フィルエステルの表情は、今までに見たことがないほどに険しく厳しい。明らかに怒りを抑えている様子の青年についアウラローゼは口籠る。
どうしてこんな顔をされなくてはならないのか理解ができずアウラローゼが戸惑うばかりであるのをいいことに、フィルエステルは言葉を紡ぐ。
「私は約束をしたから君を好きになった訳じゃない。確かにきっかけは昔の君との約束だったけれど、その後どうするかは私の自由だ。単なる口約束だけじゃ、私の心は縛れない」
薔薇色の瞳を見開くアウラローゼに、フィルエステルは険を帯びた表情から一転して笑った。晴れ晴れとした、何の含みも無い、ただただ愛しさばかりが溢れるその笑みに、アウラローゼは目を奪われる。
「七年前、君が私を庇って命を落とした後、私は君の父君と兄君達……アルブレヒト王とカルバリーエ王子、キリエルーバ王子と誓約を交わしたんだ。私が君に相応しい男になったそのあかつきには、君を貰い受けると。あの三人が認めない限り、いくら私が――オルタニア側が国を挙げて君を望んでも、断られるはずだった」
「……!」
流石にそこまでは考えてはいなかった。父王達が自分のことを手放した理由にそんな裏事情があっただなんて、アウラローゼは考えたこともなかった。愛されていたことを知っているけれど、だからといってそれを表立って露わにする父王達ではなかったからこそ余計に驚かずにはいられない。
言葉を完全に失っているアウラローゼの頬に、そっとフィルエステルの手が宛がわれた。剣を振るうばかりではなく、花を愛でることも知っている手が、アウラローゼの頬のラインをなぞっていく。
「カルバリーエ王子とキリエルーバ王子とは、内密に手紙のやり取りをしていたんだ。その中で君はいつだって眩しかった。あの二人はよっぽど君のことがかわいくてならないのだろうね。ほんの些細なことでもそれはもう自慢げに書いてくれて、私はどれだけ努力を重ねても、彼らに決して認めてもらえない気がして気が気じゃなかったな。でも、だからこそ余計に、どんな辛い訓練も、君のことを思えば耐えられた。君に相応しい男になりたかった。私は君が欲しくて欲しくて仕方がなかったんだ」
それはいつか聞いた台詞と同じ台詞だった。あの時はどういうつもりなのかと疑う気持ちが確かに心のどこかに残っていたと言うのに、今のアウラローゼには不思議と心の深く柔らかな部分にまでフィルエステルの言葉が染み渡っていく。
「いつの間にか“黒鉄王子”なんて呼ばれるようになって――そうしてようやく、許しが出た。やっと君を迎えに行けた。君が私のことを覚えていないことは百も承知の上だったけれど、そんなことなんて関係ないことはすぐに思い知らされた。オルタニアに来てからの君は、私の想像以上に誰よりも何よりも自ら輝く星だった。七年前の君だけじゃない。手紙の中の君ばかりじゃない。もう一度出会ってからだって、私は君に、何度も恋を落ちたんだ」
フィルエステルの手が、アウラローゼの手を持ち上げる。その手のひらに口付けを落として、フィルエステルは泣き出しそうに微笑んだ。
「だからどうか私を信じて。たとえこれから君が何度私のことを忘れても、私はこれからも、何度だって君に恋に落ちるよ」
それはきっと、切実な懇願であり、傲慢な宣言であった。優しく柔らかな口調でありながら、同時に決して譲る気などないという決意に溢れた言葉だった。
そんな言葉に、どう答えたらいいと言うのだろう。フィルエステルにつられる訳ではないが、自分まで泣き出してしまいそうな衝動に駆られながら、それでも必死にアウラローゼは笑顔を取り繕った。我ながらなんて不細工な笑顔なのかしらと内心で呟き、そして再びアウラローゼはフィルエステルの胸に顔を埋め、その左胸に唇を寄せた。
「本当、お馬鹿さんね」
いつかと同じ台詞を繰り返せば、フィルエステルもまた「そうだよ」とあっさりといつかのように同意してくる。思わずアウラローゼが顔を上げると、驚くほど間近にフィルエステルの顔があった。そのままこつんと額を軽くぶつけ合うと、自然と互いに笑みが込み上げてくる。
そうして二人はひとしきり、抱き締めあいながら笑い合ったのであった。
* * *
その日、アウラローゼは、ジェムナグランから持参したドレスの中でも最もお気に入りである薔薇色のドレスに身を包んでいた。
エルフからの【祝福】の証である瞳と同じ色のドレスは、ジェムナグランにおいては王族だけが許される禁色だ。アウラローゼのためだけに作られた、豪奢な、それでいて決して華美ではないそのドレスは、アウラローゼにとっては所謂“勝負服”であると言えた。
「アウラ、本当に行くの?」
「フィル様、しつこいわ」
アウラローゼの手を取ってエスコートしながら、気遣わしげに問いかけてくるフィルエステルに対し、アウラローゼはすっぱりと言い放った。あまりにもそれが取り付く島もない言いぶりだったせいだろうか。フィルエステルはいかにも困り果てたようにその整った眉尻を下げた。その表情に、アウラローゼは思わず苦笑する。
「心配しないで。大丈夫よ。貴方がいてくれるんでしょう?」
「当然だよ」
「ね? だったらここは私に託して。わがままを言ってごめんなさい」
「……君のわがままならどんな願いでも叶えてあげたいと思っているけれど、こればかりは複雑だ」
「そう言わないで」
未だ納得しきっていない様子のフィルエステルに笑いかけて、アウラローゼは高いヒールの靴をカツン、と一度高らかに鳴らした。薄暗い周囲の壁に、その硬質な音は思いの外大きく反響する。仕方がないとでも言いたげに苦笑するフィルエステルに気付かないふりをして、アウラローゼはフィルエステルから離れ、このくらい通路――オルタニアにおける監獄のとある扉の前で足を止めた。アウラローゼ達をここまで案内した牢番に、アウラローゼが目配せすると、牢番は一礼して腰に下げていた鍵の束を取り出し、それを目の前の堅牢な扉の鍵穴に差し込む。
古びた、重々しい耳障りな音を立てて扉は開かれた。
重罪人が捕らえられるその牢獄には、良家の子女どころか、スラム街の犯罪者すら足を踏み入れることを躊躇うに違いない。だがアウラローゼは、フィルエステルを背後に引き連れて、迷いのない足取りでその中へと足を踏み入れる。壁に灯された唯一の光源であるランプを頼りにして、アウラローゼは牢屋の住人に、にっこりと微笑みかけた。
「一週間ぶりね、ミラ。いいえ、ミランディリアと呼ぶべきなのかしら? ごきげんよう」
「……ひめ、さま?」
アウラローゼの呼びかけに対し、憔悴しきった声音が返ってくる。いつだって冷静で泰然と構えていた、“緑青の侍女”と呼ばれる彼女の声音と同じであるとは信じられないような声だ。
それだけこの牢獄での暮らしが辛かったのだろうか。
いいや、違う。きっとそうではない。そうアウラローゼは確信していた。
「ご無事で、いらしたのですか」
ベッドの上の囚人――ミランディリア・オルハンであり、ミラ・ヴェリスでもあるアウラローゼの侍女だった女は、囚人服に身を包み、ベッドの上に座り込んだまま、呆然とアウラローゼのことを見つめていた。
「ええ、なんとかね。そう言う貴女は、この一週間で随分とやつれたわね」
努めてにこやかにアウラローゼがそう答えると、彼女はよろよろとベッドが降りて、床に跪いて頭を垂れた。その顔を見せまいとしてのことだろうか。彼女の薄い肩が震えているのは、恐怖ゆえか、それともまた別の感情ゆえなのか。
アウラローゼがユーゼフによって攫われ、ミラによってナイフで刺されてから今日で一週間が経過する。その内、最初の三日間は、アウラローゼは意識がなかった。いくらエルフの【祝福】とはいえ、【蘇生】という奇跡は一朝一夕で叶えられるものではない。
三日間もの間、フィルエステルは寝食を忘れてアウラローゼのことを待っていてくれた。そしてその間に、ユーゼフを筆頭にした第二王子過激派は捕らえられ、ミラもまたアウラローゼ殺害未遂の罪でこの牢獄に捕らえられた。アウラローゼはてっきり、ミラにもアウラローゼが【蘇生】したことが知らされているだろうと思っていたのだが、この様子ではどうやら聞かされていなかったようだ。
フィル様も意地が悪いわね、と内心で呟いて、カツン、と足音を高らかに鳴らしてアウラローゼは跪いき頭を垂れたままのミラの前へと歩み寄る。
「さて、それじゃあ選んでちょうだい」
「何を、でしょうか」
「ミランディリア・オルハンとして死ぬか。それとも、ミラ・ヴェリスとして生きるかを」
「ッ!?」
ミラの顔が、弾かれたように持ち上げられた。何を言っているのかと言いたげな、驚愕を露わにしたその表情を真っ向から受け止めて、アウラローゼは笑みを浮かべたまま小首を傾げてみせる。
「さ、早く選んでちょうだい。私だって暇じゃないのよ?」
「ご自分が、何を仰っているのか、解っていらっしゃるのですか?」
「当たり前じゃない」
伊達や酔狂でこんな台詞が言えるものかという思いを込めて笑みを深めれば、ミラはやがて小さく微笑んだ。何もかもに疲れ切った笑顔だった。
「姫様に反旗を翻した時点で、私の名は再びミランディリア・オルハンになったのです。私はこの名と共に死にます。最早この世に思い残すことなどありません」
悲壮な決意と呼ぶには、あまりにもあっさりとした口ぶりだった。最早ミラの中では、すべてが終わってしまったことなのだろう。だからこそ自らの人生に幕を下ろすのだとその青い瞳が言葉よりもよほど雄弁に物語っている。その意思を正確に汲み取ったアウラローゼは、「ふぅん」と一つ頷いた。
「そう。じゃあこれからもよろしくね、ミラ」
「……はい?」
青い瞳がきょとんと大きく瞬いた。アウラローゼはそのきつい美貌に艶やかな笑みを浮かべ、片手を腰に当てて胸を張る。そして、もう一方の手の人差し指を、唖然と固まっているミラの鼻先に突き付けた。
「私は残酷で冷酷な“鉄錆姫”よ? 死にたいと思っている人達を、みすみす死なせてあげるほど優しい訳ないじゃない。貴女にはこれからも私の侍女として、ミラ・ヴェリスとして生きてもらうわ」
ぽかんとミラの口が開いた。そのままちっとも閉ざされる様子もなく、大口を開けた間抜けな表情で固まるミラに対し、まるで幼子に言い聞かせるようにしてアウラローゼは続ける。
「ちなみにユーゼフも貴女と同じよ。フィル様への忠義に殉じるとかなんとかふざけたことを言っていたから、今後も私の護衛として生きるようフィル様直々に命令していただいたわ」
つい数刻前のことだ。ミラと同じように牢獄に囚われていたユーゼフの元にフィルエステルと共に訪れ、フィルエステルの口からそう言い渡してもらった時のあの青年の顔は、それはそれは見ものだったと、しみじみとアウラローゼは思う。ざまをみろってこういうことを言うのね、とやけに感慨深くなったものである。
ぱくぱくと、浜に打ち上げられた魚のように、音もなくミラの口が何度も開閉した。言葉が見つからないと言いたげなその表情に、やっとアウラローゼの溜飲が下がる。ふふふ、と笑いかけると、ミラの表情がぐしゃりと歪み、その頭を深く深く垂れさせた。
「本当に、酷いお方」
涙の滲むその声音に、アウラローゼは頷いた。
「ありがとう。誉め言葉だわ」
そしてアウラローゼもまたミラの前に、ドレスが汚れることも気にせずに跪いた。びくりと身体を震わせるミラの背に両腕を回し、その腕に力を込める。
「ごめんなさい、ミラ。何も知らなかった私を、どうか許して」
「――――ッ!」
アウラローゼの言葉に、ミラはとうとう限界を迎えたらしかった。青い瞳から大粒の涙を滂沱に流し、ミラはアウラローゼに取り縋った。
「姫様、姫様、ごめんなさい、ごめんなさい姫様……!」
「嫌ね、泣かないの。せっかくの綺麗なお顔が台無しよ?」
このたった一週間という期間は、彼女にとってどれほど長いものだったのだろう。アウラローゼを殺してしまったことを、ミラはきっと誰よりも悔やみ、誰よりも自身を責めていたに違いない。その証拠がこの涙だ。だからいい。もういいのだ。
許す許さないの問題ではなく、ただアウラローゼはミラに側にいてほしいから、自らのわがままを通してミランディリアの意思を踏み躙る。それがどれだけ傲慢なことであるのかということくらい解っている。それでも譲れなかった。だからこうしてフィルエステルに頼んだのだ。
ユーゼフとミラの一件は表沙汰にはされておらず、オルタニアとジェムナグランの上層部だけが知る事件である。両国の平和のために、この件は秘匿されねばならない。
だったらミラも、ユーゼフも、そのままでいいではないかとアウラローゼは思うのだ。政治も何も知らない我儘で残酷な“鉄錆姫”が押し通せば、道理が引っ込み無理が通る。通させてみせる。その結果が、これだ。
そして“鉄錆姫”アウラローゼは、大輪の薔薇が咲き誇るがごとく艶然と微笑み、背後で事の次第を見守っていた“黒鉄王子”フィルエステルの方を振り返る。フィルエステルはやはり困ったような、複雑そうな苦笑を浮かべて、抱き合うアウラローゼ達を見守っていた。
「……本当に、君には敵わないよ」
途方に暮れたようなその声音に、アウラローゼは「当然よ」と言ってまた笑ったのだった。