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第10幕 嘘吐き達の秘密

それは、七年前の話だ。当時、アウラローゼはまだたった十歳の少女だった。


当時から既に“鉄錆姫”という忌み名を欲しいままにし、周囲から遠ざけられて毎日を過ごしていたアウラローゼの世界はとても狭かった。

父王はアウラローゼを避け、母はとうに亡く、兄王子達はアウラローゼに冷たかった。

それがどれだけ理不尽な環境であるのかを、アウラローゼは幼いながらに理解していた。そして、それを打破する術を、自らが持ち合わせていないこともまた理解していたのだ。


アウラローゼをいつだって笑顔で受け入れてくれる自らに祝福を与えてくれるエルフの青年、【鳥待ちの魚】の存在がなければ、アウラローゼはもっと自己評価の低い少女へと育っていただろう。

だが、実際は、これでもかこれでもかと溢れんばかりに愛情を注いでくれる【鳥待ちの魚】と、兄王子達の【祝福】の具現である風鳥シルフィードと水馬ウンディーネのおかげで、少女は周囲の思惑とは裏腹に健やかに育っていった。


そんなある日のことだ。隣国オルタニアより、外交政策の一環として、使節団がジェムナグランに派遣されたのである。双方の思惑はどうあれ、それは平和になった両国間の友好の証として、民には好意的に受け取られた。


アウラローゼも、幼いながらにその話題を聞き及んではいたが、夜毎、王宮で開かれるパーティーに彼女が招かれることはなかった。鉄血女王を思い起こさせる姫を他ならぬオルタニアの使節団の前に出すことなどできないというのが理由だったようだ。馬鹿馬鹿しい、と一笑に付すには、当時は現在以上に鉄血女王の爪痕が深く両国間の友好に傷を残していた。


「……だからって、覗いちゃいけないってことはないわよね」


アウラローゼに付けられた数少ない侍女達も、華やかなパーティーに引き寄せられ、少女を見守る者はいない。それをいいことに、十歳のアウラローゼは自分なりに目一杯着飾って、こっそりとパーティー会場を中庭から覗き込んでいた。

目の前に広がるのは、アウラローゼの知らないきらびやかな世界だ。本来であれば自分もあの中にいたのだろうか。そう思うとなんだかとても悔しくて、そして少しだけ寂しくて、アウラローゼは結局すぐに踵を返すことになった。

瞳の色と合わせた、お気に入りの薔薇色のドレスの裾を引き摺って、アウラローゼは一人で中庭を歩いた。背後では未だ楽しげな笑い声や宴に色を添える楽団の音色が聞えていたけれど、聞こえないふりをした。


「別に、いいもの」


公の席に自分が出してもらえないことなんてこれまでにも何度もあった。そういう時はいつもアルフヘイムを訪れ、【鳥待ちの魚】の元で過ごした。そんな中で今回覗きに言ったのは、いつも以上に華やかなパーティーに心惹かれたからだ。

けれどそれで結局落ち込んでしまっている自分が嫌で、フンッとアウラローゼは鼻を鳴らした。そしてぺちぺちと自分の自慢のかわいい顔を両手で叩く。

こんな情けない顔で【鳥待ちの魚】に会いに行ったら、きっとまたからかわれる。「俺のかわいい愛し子には、そんな顔は似合わないぞ?」とくつくつと笑われてしまうに違いない。それが嫌な訳ではないけれど、でも今はなんだかその反応が癪に障る。


淑女らしからぬ癇癪を起してしまいそうで、結局アウラローゼは中庭の中でも奥まったところに設置されている噴水まで足を運び、その水辺に腰かけた。

見上げた先には、満天の星空が広がっていた。きらきらと瞬く星々が、まるで空から降り注いでくるかのようだった。見慣れているはずの空が、その時はなんだかとても美しく見えて、アウラローゼは一人でその光景に見入ることしかできなかった。


ぱきり、と、枝が折れるような音がしたのは、ちょうどその時のことだ。


なにかしら、とそちらを見遣れば、そこには一人の少年が佇んでいた。少年と言っても、アウラローゼより明らかに何歳も年上だ。十代前半と見られる少年は、その大層整った顔立ちに驚きの表情を浮かべて、じっとこちらを凝視していた。

こんな星月夜に溶けてしまいそうな、星屑を溶かしたようなきらめく黒髪はいかにも柔らかそうで、その大きな瞳は夜闇の中でも七色の光が遊ぶ見事な黒蛋白石を嵌め込んだかのようで。

絵物語の中の王子様が目の前に現れてくれたら、きっとこんな風なのだろうと、アウラローゼは思った。



「――――だぁれ?」



小鳥のように小さく首を傾げてみせると、少年ははっとしたように息を呑み、そしてその視線を彷徨わせた。

その反応に、もしかして侵入者かしら、とも思ったが、それにしては少年は随分と身なりがいい。闇に紛れるには目立ちすぎるその恰好に、アウラローゼが更に首を傾げると、少年は水辺に腰かけているアウラローゼの元まで歩み寄り、そしてようやく口を開いた。


「私は、フィルエステル・オルタニア」

「オルタニア?」


聞き覚えのありすぎるその単語に、アウラローゼはぱちぱちと薔薇色の瞳を瞬かせた。それを何故か眩しげに見つめてくる少年――フィルエステルを、アウラローゼはじっと見上げた。


「貴方、オルタニアの王子様なの?」

「第二王子だけれどね。そう言う君は?」


ごく自然に隣に腰かけてくるフィルエステルに、アウラローゼはなんだからしくもなくどぎまぎとした。彼の優しげな表情は、アウラローゼの周りには普段はないものだからだ。だからこそ、逆に名前を問いかけられ、ぎくりとしてしまった。この優しげな表情も、きっとアウラローゼが名乗ったら、すぐに消えてしまうに違いない。けれど嘘を吐くこともできなくて、結局アウラローゼは小さな声で自らの名を口にした。


「……アウラローゼ・ジェムナグランよ」

「ふうん。“輝く薔薇”か。“鉄錆姫”より、ずっといい名前だね」

「!」


驚きに目を瞠るアウラローゼに、少年は悪戯げに笑った。自分が“鉄錆姫”と知ってなおこんな風に笑いかけてもらえるだなんて思わなかった。しかも、今は亡き母が唯一残してくれた名前を、『いい名前』だなんて。

かあっと顔が赤くなるのを感じ、アウラローゼは慌てて彼から目を逸らす。そして、そんな自分をごまかすように、アウラローゼは更に質問を重ねた。


「貴方、こんなところにいていいの? 主役の一人なんでしょ?」

「本来はよくないだろうけれど、実際は誰も気にはしないよ。私は今回の使節団の代表ということになっているけれど、所詮お飾りだから」

「『お飾り』?」

「そう。私はいらない王子だからね」


フィルエステルがあまりにもさらりと告げてきたものだから、幼いアウラローゼは反応に遅れた。気付けば俯いていた顔を上げてフィルエステルを見つめれば、彼は静かに微笑んでいるばかりだった。

その笑顔が、諦観ばかりを孕んだものであることに気付けたのは、アウラローゼもまた自身のことを『いらない姫』であるとどこかで思っていたからなのかもしれない。

そしてだからこそ、アウラローゼは言わずにはいられなかった。



「貴方、お馬鹿さんなのね」



その声音が、十歳児らしからぬ、心底呆れ返ったものであることに、他ならぬフィルエステルは気付いたのだろう。それまでの穏やかな微笑が、不機嫌そうな表情に変わるのを見届けて、アウラローゼはころころと声を上げて笑った。


「どうして私が馬鹿だって?」


面白くて仕方がないと言いたげに笑い続けるアウラローゼに問いかけるフィルエステルの声は低かった。

それは大の大人ですら震え上がるかもしれないほどの迫力に溢れていたが、フィルエステルよりも何歳も年下であるアウラローゼには、ちっとも怖いとは思えなかった。むしろ余計に笑いが込み上げてきて仕方がなかった。


「アウラローゼ姫」

「ふふ、ごめんなさい。ねえ、フィルエステル王子。貴方のことをいらないと言ったのはだぁれ?」

「……言われた訳じゃない。ただ、父を筆頭にして、皆そう思っているんだと思う。兄という王太子がいるオルタニアにとって、母にすら見放された私は不要なものでしかないから」


自嘲気味にそう呟くフィルエステルの苦悩を、アウラローゼは知らない。知るはずがなかった。だからこそアウラローゼはフィルエステルのことを、なんて贅沢者なのだろうとその時思った。


「なんだかかわいそうね」


だからなのか、思わずアウラローゼが呟いてしまったその台詞に対し、フィルエステルは苦笑した。


「私はそんなにかわいそうかな?」

「ううん。まさか。貴方じゃなくて、貴方の周りの人達がよ」


今度はフィルエステルの方が、その瞳を瞬かせる番だった。その瞳を覗き込み、アウラローゼはフィルエステルに、ビシッと人差し指を突き付けた。

まったく、これだから世間知らずのお坊ちゃんは困るのだ。【鳥待ちの魚】にあれやこれやと、様々な知識を……それこそ、王族には不要なのではないかという余計な知識まできっちりと教え込まれたアウラローゼは、十歳という年齢にしては、随分と大人びた少女だった。

自分よりも明らかに年上である少年に向かって、アウラローゼはにっこりと笑いかける。気圧されたように口籠るフィルエステルを見つめながら、アウラローゼはそれまでの短い人生を思い返した。


面と向かって“鉄錆姫”と罵られたことなど数えきれないほどあり、未だ公の席に立つことを許されないアウラローゼにとって、本人曰くの『お飾り』だとはいえ、国の代表という責務を任されているフィルエステルの立場は、正直なところ、ものすごく羨ましいものだ。

アウラローゼがどれだけ求めても手に入れられない立場に立っているくせに、それでも満足できないなんて、ずるいことこの上ない。

八つ当たりであると解っていたが、それでも我慢しきれずにアウラローゼは続けた。


「私は私のことが好きよ。お父様もお兄様達も私のことが嫌いだけれど、私は私を好きでいるって決めたの。じゃなきゃ、私のことをいつか好きになってくれる人が現れた時に、その人に失礼じゃない。自分が嫌いなものを好きになって、なんてただのワガママだわ」


たとえ“鉄錆姫”とどれだけ厭われようとも、アウラローゼは常に最高の自分でいようと決めている。その最高の自分のことを好きでいようと決めている。いつか現れてくれるかもしれない誰かのために。時にへこたれそうになるたびに、無駄な努力なんて何一つないのだと頭を撫でてくれる【鳥待ちの魚】のためにも、『いつか』のための準備を怠ってはいけないのだ。

そんな自分に対し、この少年はどうだ。アウラローゼよりも年上で、使節団の代表を任されるくらい期待されていて。それだけで十分すぎるほど恵まれているくせに、この上更に何を望むと言うのだろう。


「お父様に嫌われたからって何? お母様に見放されたからって何? お兄様がいるから自分はいらない? 変な話よ。貴方にとって必要な人や大切な人は、それだけじゃないでしょ? 貴方のことを好きな人、きっといっぱいいるはずよ。その人達の気持ちを考えてからものを言いなさいな。早く気付いてあげないとかわいそうよ」

「でも、私は……」


まだ言うか。そうアウラローゼは淑女としても幼い少女としてもてんで相応しからぬ盛大な舌打ちをして、バチンッ!とフィルエステルの額を指で弾いた。悲鳴こそ上げなかったものの、それでも相当痛かったのか、そこはかとなく涙で瞳を潤ませてこちらを睨み付けてくる少年の視線を真っ向から見つめ返し、アウラローゼは更に笑みを深めてみせた。


「仕方ないわね、お馬鹿さん。じゃあ私が貴方のことを好きになってあげる」

「え?」

「この私が好きになるんだから、それ相応の殿方になってね。私に恥じない、立派でかっこいい王子様になって。ほら、約束しましょ」


戸惑うフィルエステルの手を、アウラローゼは自らの小さな両手で取って包み込む。そして額に押し当てて、呟いた。



「【鳥待ちの魚】が愛し子、アウラローゼ・ジェムナグランの名の元に。私はフィルエステル・オルタニアのことを、必ず好きになると誓います」



エルフの名を持ち出した上での名前に懸けた誓約に、フィルエステルはアウラローゼに片手を預けたまま、しばし呆然としていた。そしてくしゃりとその表情を歪めた。今にも泣き出しそうな笑顔だった。


「……滅茶苦茶だ。君には敵う気がしないよ」

「当然よ」


甘ったれたお坊ちゃんとは踏んだ場数が違うのだ。ふふんと強気に笑うアウラローゼに、とうとうフィルエステルは大きく声を上げて笑った。ともすればそれは、そうしなければ自身が泣いてしまいそうであったためにその涙を誤魔化すための笑い声だったのかもしれないけれど、アウラローゼは気付かないふりをしてあげた。

そしてひとしきり笑った後、フィルエステルは恐る恐ると言った様子でアウラローゼに問いかけてきた。


「ねぇ、私はまだしばらくジェムナグランに滞在することになっているのだけれど。また私と会ってくれる?」


縋るような懇願だった。情けないわね、とアウラローゼは思った。だがいちいちそれに突っ込むような真似はせず、ふむ、とアウラローゼは自らの日々の予定を思い返してみた。

……思い返してみるまでもなかった。どうせ家庭教師による授業の時間以外は放置されている身の上である。フィルエステルにその気があり、アウラローゼが少し努力すれば、今後も会うことは容易いだろう。


「ええ、構わないわ」


にっこりと微笑みながらアウラローゼが頷くと、フィルエステルはほっと安堵したような吐息を漏らし、そして今まで彼が浮かべたどの笑みとも異なる、どこか甘い笑みを浮かべた。


「私のことはフィルと呼んでくれないかな。君だけ、特別だ」

「じゃあ私のことはアウラね。貴方だけ、特別よ」

「それは光栄だ」

「私こそ」


そして満天の星空の元、ひそやかに誓いは交わされたのだ。


それからというもの、アウラローゼとフィルエステルは、人目を忍んでたびたび逢瀬を重ねるようになった。初めてできた友人のようなものの存在に、アウラローゼは浮かれていた。【鳥待ちの魚】にはどうやらアウラローゼの行動は筒抜けであったようで、「ほどほどにしておけよ」と苦笑されたものだ。


大丈夫よ。心配いらないわ。そう言って笑うばかりであったアウラローゼは、本当に、本当に浮かれていたのだ。

共に書庫から持ち出した本を読んだり、フィルエステルを付き合わせてかくれんぼをしたり、こっそり残しておいた茶菓子を一緒に食べたり。そんななんてことのないやり取りの一つ一つが楽しくて嬉しかった。あまりにも上機嫌なアウラローゼに恐れをなした侍女達に、いつも以上に遠巻きにされても気にならないくらいだった。



――――だから、油断していたのだ。



「フィル様!」

「アウラ!!」


それは、アウラローゼとフィルエステルが、王宮の中でもアウラローゼに与えられた離宮にて、シルフィードとウンディーネを交えて遊んでいた時のことだった。オルタニアからやってきた使節団の中に紛れ込んでいた、王太子派の男。フィルエステルを追って離宮に忍び込んだその男が、フィルエステルに向けた凶刃の前に、気付けばアウラローゼは身を投げ出していた。

その時のフィルエステルの絶叫は、普段物静かな彼からは想像もつかないほどすさまじいものだった。腰に下げていた護身用の剣で、一太刀の元に襲撃者を切り捨て、シルフィードとウンディーネが呼び寄せたアウラローゼの兄王子達の前でアウラローゼの小さな身体を抱きあげて、フィルエステルは泣いていた。


「ごめ、ごめん、アウラ……! 私のせいで…っ」


せっかくの整った顔立ちを涙でぐしゃぐしゃにして、飽きることなく何度も謝罪を繰り返すフィルエステルに、アウラローゼは笑った。本当は痛くて仕方がなくて、怖くて仕方がなかったのだけれど、それでも笑ってみせた。


「ね、え、フィル様。約束してくれる?」

「っ何、を?」


アウラローゼは本当は死にたくない。死にたくなんかない。生きていたい。けれどそれはきっともう叶わない。


「私、貴方のことが好きよ」


だから。だからせめて。どうか、お願い。そうアウラローゼは最期の望みを口にする。きっとそれは、今まで我儘なんて決して許されなかった少女の、最初で最後の我儘だった。


「だから貴方は、貴方のことが好きな私のことを好きになって。約束よ」


そうして目を閉じたアウラローゼは、その後どうなったのかを知らない。ただ、フィルエステルの悲痛な叫びだけが、耳にこびりついている。



* * *



アウラローゼ、と、自分の名を呼ぶ声に、アウラローゼはゆっくりと瞳を瞬かせた。周囲に広がるのは闇だ。黒よりも暗い闇が、どこまでも果てしなく広がっている。無明の闇の中、アウラローゼは背後を振り返った。


「思い出したか?」


他のエルフは誰もが腰よりも長く伸ばしているというのに、彼の白髪は肩よりも短くばっさりと切られている。闇の中でも輝く薔薇色の瞳に、アウラローゼの姿が映り込んでいた。アウラローゼに【祝福】を与えたエルフ、【鳥待ちの魚】の問いかけに、アウラローゼは静かに頷いた。


「ええ、何もかも」


七年も前のことだというのに、驚くほど鮮明に思い出された記憶に戸惑うこともなく、アウラローゼは落ち着き払ってそれを受け入れた。

あまりにもアウラローゼが平然としているせいだろうか。【鳥待ちの魚】の方が、らしくもなく戸惑ったように小首を傾げてみせた。


「聞かないのか?」

「何をかしら」

「お前の記憶についてだ。何故あの王子について忘れていたのか、気になるだろうに」

「ああ、そのこと。どうせ貴方が何かしたんでしょう?」


ジェムナグランが内包する森、アルフヘイムにいるはずの彼が、このアウラローゼの精神の中に存在する夢と現の狭間にわざわざ現れたのがいい証拠だ。

問いかけるまでもないことだと思って敢えて問わなかったのだが、どうやらこの反応は、【鳥待ちの魚】にとってはお気に召さないものだったらしい。変なところで子供なのよね、と内心で呟くアウラローゼを余所に、その人に非ざる美貌にぶすっとした表情を浮かべて、【鳥待ちの魚】は頷いた。


「まあな。“死”の記憶は十歳だったお前には重すぎた。たとえ蘇生しても正常な精神でいられる保証はなかった。だから俺は、お前の父であるアルブレヒトの名の元にお前の中の“死”にまつわる記憶を奪った。あの王子は“死”の原因だからな。あれの記憶だけ残しておくことはできなかった」

「そう」


かつて鉄血女王によって【蘇生】させられた人々は皆、歴戦の戦士であったはずだ。そんな彼らすら耐え切れなかった死の記憶に、幼いアウラローゼが耐えられたはずがない。蘇ったとしても、結局精神を病んでしまったであろうことは容易に想像ができた。それこそ、ミラの祖父であった、当時のオルハン家の当主のように。


だからこの件についてとやかく言うつもりはない。【鳥待ちの魚】は、いつだってアウラローゼのためを思って行動してくれているのだ。それを疑ったことはないし、これからもきっとそうだろう。ただ、そのことできっとフィルエステルのことを深く傷付けていたであろうことについてだけは、彼に申し訳なく思うけれど。


「ねぇ、【鳥待ちの魚】」

「なんだ?」

「貴方は私に、誰よりも何よりも幸せになれと言ったわね」

「ああ、言ったとも」


深く頷く【鳥待ちの魚】に、アウラローゼは笑った。晴れ晴れとした、心からの笑みだった。


「今更幸せにならなくても、今までだってきっと私は、誰よりも何よりも幸せだったんだわ。だって、死にたくないと思いながら死ねたんだもの」


死にたくないと思いながら死ねること。それはきっと、これまで生きてきた人生の結論だ。死ぬのが惜しいと思える人生だったということだ。今までだってずっと死にたくないと思ってきたけれど、ようやくそれがどれだけ幸せだったのかということを思い知る。

教えてくれたのはフィルエステルだった。だからこそ、認めることができることがある。


「本当はね、知っていたの。お父様も、カルバ兄様もキリエ兄様も、私のことを大切に想っていてくれたこと」


父王アルブレヒトが幼いアウラローゼに人を寄せ付けなかったのは、アウラローゼを死なせないためだったことを、アウラローゼは知っている。

アウラローゼの死が他者のため、そして国のためにもたらされるものであるならば、本人にその気を起こさせなければいいと父は考えたのだ。誰かを大切に想う心、国を想う心をアウラローゼに抱かせなければ、アウラローゼが死ぬことはない。

そしてそれは兄王子達も同様だった。けれど完全に捨て置くことはできずに、自らの心を映す鏡である半身、風鳥シルフィードと水馬ウンディーネをアウラローゼの側に置いた。


ミラという侍女兼護衛がアウラローゼの元に配属されたのは、アウラローゼがその時点で“誰かのために”死に、そして蘇生していたからなのだろう。だからこそ二度目の死が招かれないように、アウラローゼを守るためにミラが配属された。まあ結局のところ、それはかえって悪手となってしまったのだが。


殿方というものはどうしてこうも不器用なお馬鹿さんなのかしらね、と小さく溜息を吐くアウラローゼに、【鳥待ちの魚】は笑った。


「お前は強いな」

「貴方から祝福を貰ったお姫様だもの。当然でしょう? 貴方とまた会えたのは嬉しいけれど、こんなところで無駄話をしている暇はないわ。さっさと私は【蘇生】し――……」

「どうした?」

「……待って。そもそも今回の私の死って、国のためって言っていいのかしら?」


そこが問題だった。アウラローゼに訪れるという三度の死は、一度目は誰かのため、二度目は国のため、三度目は自分のためであるという。一度目は確かに誰かの――フィルエステルのための死だった。そして今回は二度目。この二度目の死を、アウラローゼはフィルエステルとミラのためのものだと認識している。国のためではない。

それなのに蘇生することなど可能なのだろうかとアウラローゼは頭を抱えた。【鳥待ちの魚】がくつくつと喉を鳴らす。


「かの高名なる黒鉄王子を庇ったのだから、十分国のための死と言っていいんじゃないか? もしもあのミラという娘が本当にあの黒鉄王子と呼ばれる小僧を殺していたら、ジェムナグランとオルタニアの未だ存在する溝は二度修復不可能になるだろうからな」

「……なんだかこじつけじゃない?」

「奇跡なんてものは、いつだって偶然をこじつけたようなものさ」


そう言って、【鳥待ちの魚】は訳知り顔で頷いている。なんだか適当にごまかされているような気がしたが、恐らくここで問い詰めても、このエルフの青年は何も答えてはくれないだろう。昔からそうだった。調子のいいことばかり言って、肝心なことは煙に巻くばかりで、けれど決して嘘は吐かなくて。

だからこそアウラローゼは、ここは素直に彼の言葉を信じることにした。というか、信じなければ約束が果たせないのだから、どのみちアウラローゼに許された選択肢など一つしかなかったのだが。

絶妙に腑に落ちないわね、と柳眉を顰めるアウラローゼに対し、【鳥待ちの魚】は続けた。


「アウラローゼ。俺の愛し子。だからこそお前に、言っておくことがある」

「何かしら」


いつも笑みを浮かべている青年にしては珍しい真顔である。こうして見ると本当に綺麗な顔をしているわね、と内心で嘯くアウラローゼに気付いているのかいないのか定かでないままに、【鳥待ちの魚】は静かに告げた。


「この二度目の蘇生の後のお前には、もう【祝福】の恩恵はない」

「――どういうこと?」


アウラローゼの声音が、大層訝しげなものになってしまったのも無理らしからぬことだろう。何せ【鳥待ちの魚】の台詞は、アウラローゼがこれまで幾度となく言い聞かされてきた言葉を否定するものだったからだ。

アウラローゼには三度の【蘇生】という【祝福】が与えられているはずだ。ならばもう一度奇跡が起きる機会があるはずではないか。

だが、そんなアウラローゼの疑問に対し、【鳥待ちの魚】はふるりと頭を振った。


「お前自身も含めて勘違いしている奴ばかりだが、俺は言っただろう。お前は三度死ぬと。一度目は誰かのために。二度目は国のために。三度目は自分のために」

「ええ、知っているわ」


だから三度目の奇跡が、と続けようとしたアウラローゼの言葉を遮るように【鳥待ちの魚】は続ける。


「それはすなわち、生き返ることができるのは、二度までであるということだ。三度目はない。三度目、いずれ自分のために死ぬお前は、その時はもう二度と蘇ることはないだろう」


アウラローゼの薔薇色の瞳が大きく見開かれる。だがそれはほんのいくばくかの間のことで、アウラローゼはあっさりと【鳥待ちの魚】の言葉を受け入れた。

なるほど、彼の言う通りだ。三度死ぬというならば、蘇生できるのは二度であるのが道理である。


「そう。ならこれが私にとっての最後の奇跡ということね」


きっとこの事実は隠しておいた方がいいのだろう。たとえ死しても生き返るという【祝福】があったからこそ、“鉄錆姫”は守られていた。殺しても無駄なのだからと見て見ぬふりをされるだけで済んでいた。もしも次の死が最後であると知れたならば、それこそ鉄血女王を憎む者達がどう動くか解ったものではない。

それに、何より。フィルエステルはきっと、彼のためにアウラローゼが【祝福】を使い切ってしまったことを、とても悔やむだろうから。悲しむだろうから。だからこれは、【鳥待ちの魚】との、ふたりだけの秘密だ。


――ああ、そうだわ。


ふいにずっと秘めていた疑問……いいや、確信を、アウラローゼは思い出した。アウラローゼの表情が変わったことに気付いたのか、首を傾げる【鳥待ちの魚】の元に歩み寄り、アウラローゼはその薄紅に色付く唇を開く。


「ねえ、【鳥待ちの魚】」

「なんだ?」

「貴方、お祖母様のこと、好きだったでしょ」

「!」


それまでどこまでも凪いでいた【鳥待ちの魚】の薔薇色の瞳が、大きく見開かれた。その瞳を覗き込んで、にやりとアウラローゼがしてやったりと言わんばかりに笑ってみせると、弾かれたようにエルフの青年は笑い出す。


「ああ、恋していたさ。だが、お前のことは愛しているぞ」

「知っているわ。私も貴方を愛しているわよ」

「だが恋してはくれないのだろう?」

「そうね。私のお相手は別の殿方よ」

「腹立たしいな」

「ふふふ、ごめんなさいね、【鳥待ちの魚】」

「もういい。とっとと行け。お前のお相手がお待ちかねだ」


ふてくされたように吐き捨てる【鳥待ちの魚】の頬に、アウラローゼは背伸びをしてそっと口付けた。ありったけの親愛を込めたキスに、【鳥待ちの魚】の眦が緩む。それを見届けて、アウラローゼは満面の笑みを浮かべた。


「そうするわ。またいつか会いましょう」

「離縁して戻ってくるのなら喜んで会うさ。いつでも帰ってこい」

「あら酷い」


冗談半分、本気半分のやり取りを最後に、アウラローゼは自身の意識が遠退いていくのを感じた。周囲の闇が晴れていく。アウラと呼んでくれる声が聞こえる。

アウラローゼがかつて自分はひとりぼっちなのだと信じていた少年に許した、特別な呼び名。

その呼び名に応えるための呼び方を、アウラローゼはもうずっと、とうの昔から知っていた。



* * *



目の前から消え失せた自身の愛し子を見送って、【鳥待ちの魚】はチッと盛大に舌打ちをした。ああもう、悔しいったらない。誰よりも慈しみ愛してきた娘が、いよいよこの手から離れていくのが、こんなにも不快なものであるだなんて思ってもみなかった。

【鳥待ちの魚】の愛し子――アウラローゼのことを、確かにジェムナグラン王アルブレヒトも、その息子にしてアウラローゼの長兄であるカルバリーエ王子も、次兄であるキリエルーバ王子も、愛おしんでいた。やり方は最低最悪であったが、あの三人はあの三人なりに、アウラローゼのことを守ろうとしていたのだ。それを認められないほど、【鳥待ちの魚】の心は狭くはない。あの三人がアウラローゼに冷たく当たるのをいいことに、その分たっぷりとアウラローゼを甘やかさせてもらったのだからむしろ感謝してもいい。

陰でこっそりと、彼らに恨めしげ……というか羨ましげに睨み付けられても鼻で笑ってやっていた。性格が悪い自覚はあるが、アウラローゼにばれなければそれでいいのだ。

そうだ。そう思っていたのに。


「……むかつく」


自分でも驚くほど低い声が出た。未だアウラローゼの精神世界に干渉した状態でそんな声を出してしまったのは失態であったが、それでも我慢できなかった。

【鳥待ちの魚】が与えた【祝福】は、本来であれば発現する必要などなかったものだ。少なくとも【鳥待ちの魚】自身はそう思っていた。それを覆したのが、あのオルタニアの第二王子だ。初めてジェムナグランに来た当初は箸にも棒にも掛からぬ子供だったが、アウラローゼの一度目の死を経て帰国した後、あの子供は“黒鉄王子”と呼びそやされるまでになった。すべては、アウラローゼとの約束を果たす、そのためだけに。


「本当に、腹立たしい」

「そう言ってやるな」


低く吐き捨てた台詞に対する、本来返ってくるはずのない言葉に、【鳥待ちの魚】は慌てて背後を振り返った。ここはアウラローゼの精神の狭間だ。アウラローゼと縁深い【鳥待ちの魚】だからこそ存在することを許されている場所だ。《鳥待ちの魚》以外で、この場所に干渉できる輩などそうはいない。


「……【雨夜の星】」


【鳥待ちの魚】の低い声に、【雨夜の星】と呼ばれた、当代エルフの長にして、現ジェムナグラン王アルブレヒトに【祝福】を与えたエルフはにこやかに笑った。


「お前の愛し子がようやく幸せを掴もうとしているのだ。寂しいのは解るが、ここは素直に今度こそ祝福してやれ。なぁ、【不滅の愛】よ」

「うるさい、ジジィ。その名前で俺を呼ぶんじゃない」

「よき名ではないか。少なくとも、お前が自分で考えた【鳥待ちの魚】などというふざけた偽名よりも、よほどよい真名だ。お前の愛し子にこれほど相応しい名もあるまいに」

「だ・ま・れ!」


怒鳴りつけると同時に【鳥待ちの魚】が右手を差し向けると、【雨夜の星】の姿は掻き消えた。アウラローゼに関することで自分が負けてなるものかという【鳥待ちの魚】の意地が、エルフの長が行使する奇跡の力に勝利した結果であると言えよう。

ようやく一人きりになった暗闇の中で、【鳥待ちの魚】の脳裏に甦るのは、涙に濡れた薔薇色の瞳だ。それはアウラローゼの瞳のようでありながら、決してそうではない。己に祝福を与えたエルフ、【凍てつく涙】に恋焦がれ、その恋を証明するために自らに与えられた【祝福】を乱用した哀れな女の瞳だ。

痛ましいほどに恋に溺れた愚かな女に、【鳥待ちの魚】はいつしか恋をした。【凍てつく涙】が寿命を迎えた時、その後を追うかのように病に伏して死した鉄血女王マリアローズ。その泣き顔が、アウラローゼの先程の満面の笑顔に塗り替えられる。


「鉄錆姫には鉄錆姫に相応しい終幕があるもの、か」


鉄血女王と同じ終幕を迎える必要などないのだ。そして鉄錆姫の物語はまだ始まったばかりであることを知っている。

ああやっぱり悔しいな、と【鳥待ちの魚】という偽りの名を騙る若きエルフは、一人寂しく、そして嬉しげに笑ったのであった。

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