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第9幕 忘れてしまった約束

夢を見ている。


あれは、何年前のことだったか。アウラローゼにとって、ミラという存在は、青天の霹靂以外の何者でもなかった。


「アウラローゼ姫におかれましては、お初におめもじつかまつります。本日より姫様のお世話を担当させていただくことになりました、ミラ・ヴェリスと申します」


きっちりと黒髪をまとめ上げ、青い瞳を伏せ、お仕着せの侍女服の裾を持ち上げて一礼してくる自分よりも五歳も年上だという『侍女』の姿に、アウラローゼは大変不覚ながらもぽかんと大きく口を開ける羽目になった。


「私の世話って……なぁに? 貴女、私付きの侍女になるってこと?」

「然様でございます」


粛々と更に一礼するミラの姿に、アウラローゼは読んでいた本を閉じてミラの前に立って、彼女の顔をまじまじと見上げた。

整った顔をしているわね、というのが第一印象。第二印象は、その無表情だった。

ミラをアウラローゼの前に連れてくるなり、侍女長は早々にアウラローゼ達の前から撤退し、このアウラローゼの私室にいるのはアウラローゼとミラの二人だけだ。それをいいことに、アウラローゼは訝しく思っていることを隠しもしていない表情を浮かべ、そして呆れ混じりに歳不相応な深い溜息を吐いてみせた。


「ヴェリス家と言ったら、先の大戦で武功を立てて取り立てられた貴族でしょう。わざわざ何も“鉄錆姫”付きの侍女にならなくたって、適当に花嫁修業代わりに王宮に勤めて、折を見て素敵な殿方を見つけて寿退職すればいいじゃない」


先代の女王マリアローズによる、戦乱に満ちた混沌の治世においてなり上がったヴェリス家の話はアウラローゼも聞き及んでいる話である。王族直属の侍女となることで自らに箔を付けようとしているのかどうかは知らないが、それが通用するのは兄王子達に仕えることができた場合だ。“鉄錆姫”直属の侍女だなんて、汚名にしかなりえないだろう。


「貴女が何を望んでいるのかは知らないけど、私は貴女の望みを何一つ叶えてあげることはできないわよ?」


何の権限も持たせてもらっていない自分にあるのは、“鉄錆姫”という忌み名と、ほんのわずかな【祝福】のみ。もしやこの老若男女を惑わすと謳われる美貌を側で見たいとかかしら、なんて、あり得ないことを考えてみる。そんなあり得ないことくらいしか、アウラローゼには思い付かなかった。

にも関わらず、ミラはふるりとかぶりを振って、無表情――いいや、この上なく真剣な表情で言葉を紡いだ。


「いいえ。私の望みは、アウラローゼ姫様。貴女様にしか叶えられないのです」

「……そうなの?」

「はい」

「その貴女の望みとやらが何なのかを聞いてもいい?」

「それは秘密です」

「何それ」

「姫様、女には一つや二つ、秘密があった方が魅力的なものなのですよ」


むぅっと頬を膨らませるアウラローゼに対し、すまし顔で答えるミラは、アウラローゼの周りにはいたことがない存在だった。どんな侍女も、年若く、いっそ幼いとすら言えるアウラローゼの存在に怯え、“鉄錆姫”だと囁き合っていた。だがこのミラという侍女はどうだ。アウラローゼに怯えないどころか、歯に衣着せぬ物言いではっきりと言い返してくる。アウラローゼの薔薇色の瞳を、真っ直ぐに見つめ返してくる。

こんな侍女は初めてだった。これまでアウラローゼの世話役の侍女は、あまりにも彼女達が怯えるために、仕方なく当番制の形を取っており、アウラローゼの元にやってくる侍女は日替わり状態であった。

――――でも、それも今日で終わりだ。アウラローゼはそう確信した。


「ねぇ、ミラと言ったかしら」

「はい」

「気に入ったわ。今日から貴女は、私だけの侍女よ」

「ありがたき幸せに存じます」


深々と頭を下げてくるミラに、アウラローゼは大層満足げに。そして心底嬉しげに、にっこりと笑ったのであった。



* * *



やがて、夢は移り変わる。


それは昔々の遠い記憶。アウラローゼが忘れてしまった遠い思い出。忘れてしまったということすら忘れてしまった、今はもうたった一人しか覚えていない、アウラローゼにとっては遥か彼方に置き去りにしてしまった忘れ物。


「貴方、お馬鹿さんなのね」


あの日、思わずそう口にしてしまったアウラローゼに対し、彼はその美しい大粒の黒蛋白石のような光の遊ぶ瞳を見開いた。

せっかく自分が認めるにやぶさかではない程度には大層綺麗な顔立ちをしているのに、なんてもったいないのだろう。あの時、確かにアウラローゼはそう思って、同時にその顔が面白くて、ついつい声を上げて笑ってしまった。

そんなアウラローゼに対し、彼は現在のアウラローゼに見せるような甘い笑顔とは比べ物にならないような、ふてくされた表情を浮かべていた。それが一層アウラローゼの笑いを誘うのだということも知らないままに。


そして、夢は終わる。



* * *



「……懐かしいわね」


ぽつりと誰にともなく呟いて、アウラローゼは重い瞼を持ち上げた。暗い天井が目に入る。どうやらどこかの屋敷の部屋の床に転がされているらしい。

身体を起こそうとして、自分が後ろ手に縛られていることに気付き、アウラローゼはまたしても盛大に姫君らしからぬ舌打ちをする羽目になった。この自分を荷物扱いするなんて、実にいい度胸をしてくれているものである。こんなのは美しくないと解っていながらも、それでもそうせずにはいられないほど苛立っていたのだ。


そんな自分を落ち着けるために、アウラローゼは深く溜息を吐いた。


どうやら夢を見ていたようだ。数年前、初めて自分の侍女――ミラ・ヴェリスと引き合わされた時の夢だ。あの時、ミラに対しては、信条である『余裕を持ち、優雅を良しとし、泰然とあること』を念頭に置いた態度を取れたが、その後で一人になると、喜び勇んで「ねぇ聞いて、【鳥待ちの魚】! 私に、専属の侍女ができたのよ!」とアルフヘイムに棲むエルフの青年の元へ報告に走ったものである。我ながら若かったものだ。

だって、仕方がないではないか。アウラローゼは嬉しかったのだ。世の姫君や貴族の令嬢は、専属の侍女が付き、互いに信頼し合って、立派な主従関係を築いていると物語の中では語られていた。羨ましかった。ひとりぼっちになんて慣れ切っていたけれど、それでも羨まずにはいられなかった。自分にもそんな風に信頼しあえる侍女がいてくれたら、どんなに素敵だろうと思っていた。


それからもう一つ、何かおぼろげな夢を続けて見たような気がしたけれど、それが何なのかは思い出せない。まあいい。今重要なのはそんなことではない。

自分だけの侍女を得ることができたのが嬉しくて浮かれていた頃には、まさかこんなことになるとは、ちっとも考えてはいなかった。


脳裏に甦るのは、並び立つユーゼフとミラの姿だ。あの二人を筆頭にして、自分はここに拉致されたのだろう。

裏切られた、と言えばいいのか。それとも最初からこれが目的だったのか。アウラローゼには解らなかった。怒ればいいのか。悲しめばいいのか。何一つ解らなかった。

ただ胸にぽっかりと虚ろな穴が開いて、そこをびょうびょうと風が吹き抜けていくような感覚がした。


「だから、何だって言うのよ」


今はそんな感覚に浸っている場合ではない。ここからどうやって脱出するかが先決だ。

あの様子では、ミラもユーゼフも誰かに脅されて今回の犯行に至った訳ではないだろう。ミラにとっては主であり、ユーゼフにとっては隣国の姫にして自国の王子の婚約者であるこの自分をこうして拉致したという、その意味。それを頭のいい彼らが理解していないはずがない。

ミラの動機が解らないのは元より、ユーゼフの動機もまた解らない。ユーゼフはアウラローゼよりもフィルエステルのことを優先し、だからこそ信頼できる男だと思っていた。アウラローゼに手を出せば、フィルエステルが黙っていないことくらい、ユーゼフが気付いていないはずがない。

にも関わらず、アウラローゼをこうして拉致した理由は……と、思案に暮れながら、アウラローゼはごろりと身体を反転させ、周囲の様子を窺う。

窓のカーテンは閉められていた。おそらくはここは一階だろう。中小貴族か、はたまた少しばかり儲けている豪商の屋敷か、といったところの調度品が並べられている。

反対側に身体を反転させると、扉が見えた。じりじりとまず壁ににじり寄り、それを支えにして上半身を起こす。固い床に転がされていたせいか、身体の節々が痛かった。

みしみしと音が鳴りそうな関節に顔を顰めながら、アウラローゼがようやく床の上で体勢を整えた時、ガチャンと重々しい音が扉の向こうから聞こえてきた。


鍵が開けられる音だ、とアウラローゼが気付いた次の瞬間、その扉が開かれる。暗かった部屋に光が差し込む。

その眩しさにアウラローゼが薔薇色の瞳を細めていると、カツカツと硬質な足音を立てて、二人の人物――ユーゼフとミラが、部屋の中へと入ってきた。


「ああ、お目覚めですか。おはようございます、アウラローゼ姫」

「ええ、おはよう、ユーゼフ。そしてミラ。ご機嫌いかがかしら?」


出会った時から何一つ変わらない軽い口調と共にそう笑いかけてくるユーゼフに、アウラローゼもまた艶然と微笑み返した。それが、アウラローゼが必死に取り繕った虚勢であることに、ユーゼフやミラは気付いているのだろうか。ユーゼフは緊張感に欠ける笑顔を浮かべたまま、ミラは相変わらずの無表情のまま、床に座り込んでいるアウラローゼを見下ろしている。


この私を見下ろすなんて、随分偉くなったものね。


そうアウラローゼが口にするよりも先に、ユーゼフが口を開いた。


「まあまあです。そう仰るアウラローゼ姫はご機嫌斜めのご様子ですね」

「当たり前でしょう」

「はは、そりゃそうっすね」


からからと笑うユーゼフの表情は、何度でも繰り返すが、出会った時から何も変わらないものだった。見る者に警戒心を抱かせない笑みだ。今からお茶でもいかがですか、などと言って、年頃の女性を誘うにはちょうどいい笑顔だろう。

だが、今のアウラローゼには、その笑顔が何かとても恐ろしいもののように見えてならなかった。


「どうして、私を?」


アウラローゼは、やっとの思いで、ようやくそう言葉を絞り出した。何故こんな真似をユーゼフとミラがしたのか解らなかった。ユーゼフの笑みが深まり、「解りませんか?」と彼は首を傾げてみせる。そのわざとらしい仕草が、なんだか酷く空恐ろしい。

どうにも心細くなり、思わずユーゼフの斜め後ろに立つミラへと視線を向けるが、彼女は何の感情も窺い知れない無表情のまま、その青い瞳でじっとアウラローゼを見つめるばかりで何も答えてはくれない。

気を抜けば震えそうになる身体を押さえ付けるために唇をきつく噛み締めるアウラローゼの前に、ユーゼフはしゃがみこみ、アウラローゼの花のかんばせを覗き込んだ。彼の深緑の瞳に宿る光は、その親しげな笑顔とは裏腹に、とても冷たい。アウラローゼの背中を何か冷たいものが滑り落ちていく。


「俺はね、アウラローゼ姫。フィルエステル殿下のおかげで今があるんです。平民出の俺を側近にまで取り立ててくださったフィルエステル殿下には感謝してもしきれません。誰よりも何よりも尊敬しています。だからこそ俺は、そんなあの方が王位に就くべきだと思ってるんです。今回協力してくれた奴らは皆、俺と同じ考えの奴らなんですよ」

「……!」


ユーゼフの言葉は、アウラローゼの問いに対する明確な答えという訳ではなかった。けれど、その答えを導き出すための確かな理由であった。


ユーゼフがアウラローゼを害そうと決めた理由。

それは、アウラローゼの存在が、フィルエステルにとって害となるから。


よく考えてみなくても、その理由は何よりも明らかだった。

アウラローゼよりもフィルエステルを優先し、至上の存在とするユーゼフが、フィルエステルがアウラローゼのために王位継承権を放棄したのだと知ったら。その時ユーゼフが何を思い、どう動くかなど、考えるまでもないことだった。


「そういう、こと、だったの」

「はい。やっとお解りいただけたようで何よりっす」


笑みを含んだその声がどこか遠かった。フィルエステルの導きによって、オルタニアにおける自分への心証が改善されつつあることを肌で感じていた。だから忘れていたのだ。鉄錆姫と呼ばれる自分が、どういう存在であるのかを。ユーゼフの言葉の一つ一つに、やっとそのことを思い出させられた気がした。

黙りこくるアウラローゼに、ユーゼフは追い打ちをかけるように続ける。


「フィルエステル殿下は、アウラローゼ姫の護衛役となった俺に、王位継承権を放棄したことを内密に教えてくださいました。それだけの価値がアウラローゼ姫にあるから、相応の覚悟を持って護衛しろってね」


そして、ユーゼフの表情から、笑顔が消える。



「――――そんなの、冗談じゃない」



憎々しげに吐き出された声音に、アウラローゼは反射的に身体を震わせた。そんなアウラローゼを見つめるユーゼフの深緑の瞳には、今までの親しみどころか、一片の情すらない。自らが崇拝する主にとっての障害を排除しようとする、騎士だからこその冷酷さが宿っていた。


「別にヴェリスバルト殿下が悪いって言ってる訳じゃないんですよ? あの方はあの方で素晴らしい治世を行われるでしょうね。でも、きっとそれも数年の間だ。王としての激務には、ヴェリスバルト殿下のお身体は耐えられない。すぐにフィルエステル殿下に譲位されると思って、俺達は安心してました。それなのに、酷い裏切りじゃないですか」


そんなのは知ったことではないとアウラローゼは思う。すべてはフィルエステルが勝手にやったことだ。言ってみればアウラローゼは巻き込まれただけだ。

けれど、そんなことは、ユーゼフを筆頭にしたフィルエステルに心酔する騎士達には関係がないのだろう。

とんだとばっちりだわ、と内心で吐き捨てるアウラローゼを置き去りに、ユーゼフはその唇の端を吊り上げた。


「輿入れの際に強盗団に襲われたでしょう。あの時に貴女がジェムナグランに逃げ帰ってくれれば、こんな方法を取る必要もなかったんですがね」


今までの笑顔とはまるで異なる、冷ややかな笑い方だ。そんな顔もできたのね。そう場違いにも感心してしまうのは、この状況にアウラローゼの理解が追い付いていないからだろう。

ユーゼフの言葉の通りならば、ジェムナグランを発ったアウラローゼを乗せた馬車を襲った強盗団も、彼が手配したものだったに違いない。ユーゼフは、本当に最初から、アウラローゼを排そうとしていたのだ。その事実をやけに冷静にアウラローゼは受け止めた。そして、自分でも驚くほど、その事実にショックを受けている。

だが、そんな今更としか表現できない事実への衝撃に、いつまでも浸ってなどいられない。


「アウラローゼ姫。貴女がいなくなれば、きっとフィルエステル殿下の目も覚めるはずです」


その言葉が何を意味するのかが解らないほど、アウラローゼは鈍くはない。だからこそ、アウラローゼは微笑み、優雅に小首を傾げてみせた。


「――お生憎だけれど、私は死んでも生き返るわよ?」


口元に艶然と笑みを刷いて、努めて恐怖を押し殺し、懸命に矜持を保ってそう問い返すと、何を今更と言わんばかりにユーゼフは頷いた。


「ええ、解ってますよ。【祝福】とはよくも言ったもんっすよね。三度死んでも生き返るなんて、それこそ呪いと同じようなもんじゃないですか」

「あら、言ってくれるわね」


あまりにあんまりな言いぶりに、とうとうアウラローゼは苦笑した。エルフからの【祝福】を、よりにもよって【呪い】とは、随分な言い様ではないか。

けれど、それはきっと正しくもあるのだろう。【鳥待ちの魚】には悪いが、アウラローゼに与えられた【蘇生】という三度の奇跡は、アウラローゼの人生を貶める呪い以外の何物でもなかったのだから。

だからこそアウラローゼは、ユーゼフの言葉を、「言い得て妙ね」とそんな場合でもないというのにいっそ感心してしまう。

そんなアウラローゼを見つめながら、ユーゼフは淡々と、冷たく言葉を紡ぐ。


「重要なのは一度でもいいから、アウラローゼ・ジェムナグランが死んだという事実です。フィルエステル殿下にとって、一度でも貴女のことを守れなかったという事実は、婚姻を諦める理由に十分になり得ます。貴女をもう二度と死なせないために、殿下は貴女のことを手放すでしょうね。あの方はそういうお方だ。もしそれで足りないと言うのならば、俺は三度貴女を殺します。二度と生き返らせる真似なんてしません」

「私が死ねば、ジェムナグランとオルタニアの間で、戦が起きかねないのに?」

「へえ。“鉄錆姫”と呼ばれる貴女に、それだけの価値があるとお思いで?」


小馬鹿にする訳でもなく、ただ純粋に、本気でそう思っているのかと問いかけてくその言葉は、アウラローゼの胸に深く鋭く突き刺さった。

そんなこと、今更言われなくても解っている。そんなこと、ずっと前から知っていた。

それでも今ここでユーゼフの言葉に同意すれば自らの生を諦めることになる。誰がそんな情けない真似をするものか。


「“鉄錆姫”だろうと、私はジェムナグランの第三王位継承者よ。ジェムナグランの威光を、たとえかすり傷程度であろうとも他ならぬオルタニアに傷付けられれば、遅かれ早かれ開戦することになるでしょうね」


自分の台詞が詭弁であることを、アウラローゼは誰に指摘されずともよく解っていた。

ジェムナグランにとって、鉄錆姫の――アウラローゼの存在の価値など、言われるまでもなくほとんどない。

国政に関わることも許されず、ただ飼い殺されていただけのアウラローゼが隣国で命を落としたとしても、父王や兄王子達は、決して動こうとはしないだろう。彼らは血の繋がった家族であるアウラローゼよりも、ジェムナグランという国の平和を取るだろう。無辜の民の平和を選ぶだろう。


だが、今のこの場においてそれを言う気はない。今ここでアウラローゼは死ぬ気なんてこれっぽっちもないのだ。どんな詭弁であろうと、使えるものは使ってみせる。説得力が皆無である訳でもないのだから、少しはユーゼフの心に響いてくれれば御の字だ。


アウラローゼの命を取らずとも、フィルエステルとの婚約を破棄するとアウラローゼがここで誓うことで納得してくれればいい。それがフィルエステルの心を踏み躙る行為なのだとしても。それでもアウラローゼは死にたくないのだ。絵物語の姫君のように、恋に殉じるなんて真似はできなかった。それでもフィルエステルは、こんな自分のことを、いつかのように好きだと言ってくれるだろうか。

そう考えるアウラローゼを後目に、ユーゼフは笑顔を崩さず、あっさりと頷いた。


「んー、まあ、そうなる可能性も、皆無って訳じゃないんでしょう。解ってますよ。でもね、アウラローゼ姫。俺達はむしろ、それが狙いです」

「……なんですって?」


ユーゼフがさらりと告げた言葉に、アウラローゼは薔薇色の瞳を見開いた。そんなアウラローゼに対し、ユーゼフはからからとまた笑った。


「戦場においてフィルエステル殿下は武勲を立てられることでしょうね。そうなれば虚弱体質でいらっしゃるヴェリスバルト殿下よりも、フィルエステル殿下を玉座にと望む声は今とは比べ物にならないほど大きなものになります。そして俺達の“黒鉄王子”が玉座に就かれる。最高のシナリオでしょう? だからこそ、俺達の“黒鉄王子”を錆びつかせる“鉄錆姫”は不要なんです。不要なら不要なりに、少しは役に立ってもらおうと思いまして」


だからここで死んでくれと、ユーゼフはそう言いたいらしい。ユーゼフのにこやかな笑顔に、アウラローゼは敢えてにっこりと深く微笑み返した。大輪の薔薇が、その幾重にも重なる花弁をほころばさせるかのような美しい笑みに、ユーゼフは瞳を瞬かせる。まさかここでアウラローゼがこんな風に笑い返してくるとは思ってもみなかったらしい。

ざまあみなさい、と思いながら、アウラローゼはその薔薇色の瞳を、無言を保ちながら佇んでいるミラへと向けた。


「ユーゼフ。貴方の言い分は解ったわ。それで? ミラは、どうして? 貴女もユーゼフと同じ口かしら?」


ミラもまた、フィルエステルを王位に就かせたいがために、同じ目的を持つユーゼフに協力したのか。

アウラローゼの知る限り、ミラは生まれも育ちもジェムナグランであるはずだ。ユーゼフのようにフィルエステルを玉座にと望む理由があるとは思えない。だが、オルタニアに来て以来、フィルエステルの人たらしぶりを散々見せつけられてきたアウラローゼとしては、ミラが彼に心奪われたからこそユーゼフと行動を起こしたのだと言われても、まあ理解できない訳でもない。納得は決してしないが。


私のミラに何してくれるのかしらあの王子様は、と内心で吐き捨てていると、ミラは一歩前と踏み出し、しゃがみ込んでいた体勢から立ち上がったユーゼフの隣を通り過ぎて、アウラローゼの前に跪いた。


「いいえ、それは違います。私がユーゼフ様に協力したのは、ただの利害の一致です」

「利害の一致?」


それはどういう意味だと首を傾げてみせると、無言でミラは頷いた。

アウラローゼは柳眉を顰めてミラの感情の窺わせない無表情を見つめる。ユーゼフの望みはフィルエステルを玉座に座らせることだ。そのために邪魔になるアウラローゼを排するために、この計画を仕組んだことはもう解っている。ミラにとって、フィルエステルが玉座に座るかどうかはきっと重要ではないのだろう。だとしたら、彼女にとって利となるのは。


「私の望みは、姫様。貴女への復讐です」


いつも通りの淡々としたミラの声音は、その時アウラローゼにとって、真冬の凍てつく風よりも冷たいもののように感じた。


「ふく、しゅう?」


自分の声音が情けなくも震えるのを、他人事のように聞いた。ユーゼフに何を言われても虚勢を張り続けていたというのに、その虚勢が、音を立てて壊されていく。呆然と呟くアウラローゼを、ミラの青い瞳が、凪いだ湖の水面のように静かに見つめる。


「私の名前はミラ・ヴェリス。ですがヴェリス家に引き取られる前は、ミランディリア・オルハンと名乗っておりました」

「ミランディリア・オルハン……?」


それは、誰のことだ。聞き覚えのない名前だった。ミラが何を言いたいのか解らず、解りたいとも思えず、ただミラの言葉を反芻するばかりのアウラローゼに、ミラは静かに語りかける。


「オルハン家はヴェリス家の側近です。いいえ、側近だったと言うべきでしょうか。私の実の祖父は、先の大戦において一度命を落とし――“鉄血女王”の手によって【蘇生】させられました。さて、姫様。“鉄血女王”によって【蘇生】された者の末路をご存知ですか?」

「……そのまま新たな人生を平穏に歩み、本来の天寿を全うすると話には聞いているわね」


強制的に死者の国より連れ戻された者達は皆、相応の報酬を与えられ、その余生を平穏無事に過ごせるよう取り計らわれている。少なくとも、アウラローゼはそう教えられていた。

けれどミラは、そこで初めて皮肉げにその唇を歪めてみせた。それは初めて見るミラの表情だった。アウラローゼの言葉は、頑是ない子供が口にする夢物語にすぎないとでも言いたげに、ミラと呼ばれていたはずの女は笑う。


「ええ、話にはそうなっております。ですが実際は、ほとんどが自ら再び命を絶っているのです」

「ッ!」


息を呑むアウラローゼを置き去りに、とうとうとミラは続ける。いいや、きっとミラと呼ぶのは相応しくないのだろう。今の彼女は、ミラ・ヴェリスというアウラローゼの侍女ではなく、ミランディア・オルハンという、一人の復讐に燃える女だった。


「【蘇生】された私の祖父は、戦場から帰還してから、徐々に狂っていきました。心身に刻み込まれた“死”の記憶に苦しみ、ついには妻である私の祖母を殺し、息子とその嫁である私の両親を殺し、そして孫である私のことも殺そうとしました。今度こそ天に帰るのだと。家族皆で帰ろうと。私はすんでのところでヴェリス家の現当主……私の元後見人によって助けられました。ヴェリス家の武勲は【蘇生】された祖父の働きによるものが大きかったため、私はそのままヴェリス家に引き取られました。オルハン家の惨劇は醜聞として秘匿され、そのまま家は取り潰しとなり、その惨劇の中でミランディリア・オルハンという一人娘は死に、私はミラ・ヴェリスとして生きることになりました」


とうとうと語られる“ミラ”の話に、アルらローゼは口を挟むことなどできなかった。ただ黙って聞いていることしかできなかった。

どんな慰めも、謝罪も、今の彼女には届かないに違いないことが、痛いほどよく解ってしまったから。


「私は何もかも失いました。名前も、家族も、帰るべき家も。責められるべきは祖父なのかもしれません。ですが祖父は優しかった。悲しいほどに優しいおじいさまでした。だったら私は、“鉄血女王”を……マリアローズ女王を憎むことしかできないではないですか。そして彼女はもういない。だから私は、彼の女王の生まれ変わりとされる“鉄錆姫”に復讐しようと誓ったのです」


泣き出しそうに、“ミラ”の顔が歪む。姉のようにも思っていた彼女のそんな表情を見るのは初めてだった。けれど、そんな顔をしないで欲しいと言う権利は、きっとアウラローゼにはない。私のせいじゃないのに、と訴える気にもならなかった。

ただ黙って彼女の言葉を聞き続けることだけが、何も知らずにいた、知ろうともしなかったアウラローゼにできる、名前も家族も帰るべき家も奪われた女への贖罪だった。


アウラローゼに責任があるかどうかなど、きっと今の“ミラ”には関係ないのだ。アウラローゼが本当に鉄血女王の生まれ変わりであろうとなかろうと、彼の女王の血に連なる者として、ジェムナグランの王族として、アウラローゼには“ミラ”に償うべき理由がある。

それが解るからこそ沈黙するしかないアウラローゼの目の前で、“ミラ”はその両手で自らの顔を覆った。涙に濡れている訳でもないその顔を恥じるように、そのまま彼女は続ける。


「八つ当たりなのでしょう。理不尽なのでしょう。ですがその誓いが、願いがなければ、私は生きていかれませんでした。私の心はずっと錆びついていたのです。“緑青の侍女”という名は、私にお似合いなのです。そしてようやく、その錆をようやく消し去る日が参りました」


そうしてその両手を顔から下ろした“ミラ”の表情は、いつもの無表情に戻っていた。

アウラローゼは、音もなく立ち上がる彼女を、ただ無言のまま見つめることしかできないでいる。

そんな二人のやりとりを黙って見つめていたユーゼフが、笑みを浮かべて“ミラ”の隣に再び並ぶ。


「ミラさんに計画を聞かれた時は殺すしかないかと思ったんですけどね。聞いたらなかなかの事情をお持ちのようで、だったらってことで手を組んだんですよ。ミラさんのおかげで、あっさりと貴女を城から連れ出すことができました。礼を言いますよ、ミラさん」

「貴方のためにしたことではないことで礼を言われるのは心外です」

「はいはい、そうっすね。んじゃ、そろそろいいですか?」


問いかけの形を取っていながらも、その質問は、既に質問の意味を成していなかった。ユーゼフは“ミラ”の答えも、アウラローゼの答えも待たず、その腰に下げていた剣をすらりと抜き放つ。ぎくりと身体を強張らせるアウラローゼを見下ろして、彼は、申し訳なさそうな笑顔で笑った。


「すみませんね、アウラローゼ姫。多分俺もすぐにそっちに行くことになるでしょうけど、お会いできるのはこれが最後だと思います。きっと俺達は、同じ場所には行けませんから」


それは、この計画がいずれ表沙汰になり、自らが極刑に晒されることなど、ユーゼフにとっては覚悟の上であることを意味していた。

この青年にそこまでさせるフィルエステルの魅力が、アウラローゼには解らない。いいや、本当は解っている。ただ認めたくないだけだ。あの抗いがたい魅力を持つ青年に、どうしようもなく惹かれていく自分に気付きたくなかっただけだ。

そのことを、今更、こんな時になって痛いほど強く思い知らされる。


――守ってくれるって言ったくせに。


そう内心で、ぼんやりと呟くアウラローゼの目の前で、ユーゼフが静かに剣を構える。その切っ先が向けられた先にあるのは、アウラローゼの左胸。心臓の位置だ。


「貴女が“鉄錆姫”でなかったら、フィルエステル殿下に王位継承権を捨てさせるほどの姫君でなかったら、俺は、フィルエステル殿下と貴女の婚姻を諸手を上げて祝福したんでしょうね。貴女は確かに、殿下にお似合いだった」


さようなら、と、ユーゼフの唇が動くのを、どこか遠くから見つめているような感覚をアウラローゼは覚えた。視界の端で、“ミラ”と呼ばれる女が、そっとその青い目を伏せるのを、確かに見たような気がした。


『お前は三度死ぬだろう。一度目は誰かのために。二度目は国のために。三度目は自分のために』


アウラローゼに【祝福】を与えたエルフの青年、【鳥待ちの魚】はそう言っていた。ならばこれが一度目の死なのだろうか。誰かのために迎える死がこれだというのならば、この場合はフィルエステルのための死か。だとしたら。



「――――冗談じゃないわ!」



アウラローゼは怒りにその薔薇色の瞳を燃え上がらせて、思い切り地面を蹴り、ユーゼフに体当たりをした。上半身を早い段階で起こしていたことが功を奏した。さすが私、と唇に笑みを刷くアウラローゼとは対照的に、まさかアウラローゼがここで反撃をしてくるとは思っていなかったらしいユーゼフがたたらを踏んで後退る。それをいいことに、後ろ手に縛られながらもなんとかバランスを取って、アウラローゼは立ち上がった。


「フィル様のため? その忠義心、大いに結構。でもね、よく考えてごらんなさい。もしも私がここで死んだとしても、フィル様は決して喜ばないわ。むしろあの様子じゃ、世を儚んで私の後を追うんじゃないかしらね」


アウラローゼの凄絶なまでの迫力に気圧されたように硬直するユーゼフを見つめ、フンッとアウラローゼは鮮やかに彼を鼻で笑う。


そうだとも。アウラローゼがオルタニアに来て以来、フィルエステルがアウラローゼに注いでくれた愛情は、確かに本物だった。そのことを今更アウラローゼは疑わない。でなければこの自分が、こんなにも自信たっぷりでいられるはずがない。


“ミラ”とて言っていたではないか。アウラローゼは変わったと。もういい。認めようではないか。敗北宣言になろうとも知ったことか。確かに自分は変わったのだとアウラローゼは笑って頷いてみせる。

アウラローゼは変わった。フィルエステルが向けてくれる感情によって、確かに自分は変わったのだ。それこそ、枯れかけていた薔薇が、惜しげもなく与えられる清水によってその息を見事に吹き返すように。


だからこそ、その想いにアウラローゼは報いたい。こんなところで命を落とすような真似など、誰が許すものか。


「私は、フィル様のためには死なない。他ならぬ私自身のために、私はフィル様と共に生きてみせるわ!」


他ならぬ、フィルエステル自身が、そう望んでくれるに違いないからこそ。

そう言い切るアウラローゼに、ユーゼフは悔しそうに顔を歪め、再び剣を構え直す。


「流石鉄血女王の生まれ変わりと言われるだけありますね。この状況でそんな口が利けるなんて、とんだはねっかえりだ。でも、何としても俺は――――ッ!?」


ユーゼフの台詞が不自然に途切れた。アウラローゼもまた、はっと息を呑む。それも当然だ。それまで空恐ろしいほどに無言を貫いていた“ミラ”が、突然拍手を始めたからだ。

ぱちぱちぱち。ぱちぱちぱち。その音は奇妙なまでに大きく部屋の中に響く。


「それでこそ、私の姫様です」


そう“ミラ”が言い切るが早いか、扉の向こうが、にわかに騒がしくなる。その喧騒は徐々に大きくなり、どんどん近付いてくる。一体何が、と唖然とするアウラローゼとユーゼフを置き去りに、“ミラ”がすたすたと扉へと歩み寄り、ためらうことなくそれを開け放つ。


「ようやくいらしたようですね」

「ミラ……?」

「ミラさん!?」


どういうことだと呆然と首を傾げるアウラローゼと、怒鳴りつけるように叫ぶユーゼフの声に、“ミラ”は答えなかった。その代わりとばかりに、一歩扉の前からずれた場所に立って一礼する。その礼を向けられたのは、アウラローゼでも、ましてやユーゼフでもない。焦りを隠しもしない大きな足音と共に駆け込んできた、一人の青年に対して向けられたものだった。



「――――アウラ!!」



その声に、アウラローゼはどうしようもない歓喜が胸を満たすのを感じた。


「フィル、さま」


アウラローゼの囁くような小さな呼び声に対し、部屋に乱入してきた青年の――フィルエステルの黒蛋白石の瞳が安堵に緩む。だがそれは一瞬のことで、すぐにその瞳は怒りに煌き、アウラローゼをその片腕に抱き込んだフィルエステルは、腰の剣を抜き払い、呆然と佇むユーゼフの前に立ちふさがった。


「……どうして、殿下が」

「ミラのおかげだよ」


呆然と呟くユーゼフに対し、いつもの柔和な微笑はどこにかなぐり捨てたのか、厳しく険しい表情を浮かべたフィルエステルは、片手で剣を構えて言い放つ。


「ミラが事前に私にお前の計画を教えてくれた。遅かれ早かれ、お前がアウラを害そうとするだろうとね。いくらアウラの侍女の言うことだとはいえ、私は、ユーゼフ。お前のことを信じたかった。今回の計画について、いつ実行に移すかをお前はミラに伝えていなかったそうだね? だからこそ計画倒れしてくれるのではないかと願ったよ。アウラの人となりを知ったお前なら、私の本意を忠実に守ってくれるのではないかと思ったのだけれど。おかげで危ないところだった。まさかこんなにも早く実行するとは思ってもいなかったよ」


深い後悔が滲む声音だった。開け放たれた扉の向こうでは喧騒が続いている。おそらくはフィルエステルが連れてきた騎士達が、今回アウラローゼを狙った騎士達と一戦交えているのだろう。フィルエステルの余裕ぶりを見るに、相応の数の精鋭を連れてきたと見ていいはずだ、と、アウラローゼはフィルエステルの顔を見上げながら、奇妙なまでに冷静にそう思った。

アウラローゼの視線に気付いたのか、フィルエステルはすぐさま自らの剣でアウラローゼを縛めていた縄を剣で断つ。だが、その腕から解放することはなかった。フィルエステルの黒蛋白石の瞳は、怜悧な光を宿してユーゼフを見据えている。その視線を受けて、ユーゼフは自らの剣を鞘に収め、ためらうことなくその場に跪いた。


「抵抗は?」

「しませんよ。フィルエステル殿下。貴方に向かって、俺が剣を向けられるはずがない」


場違いなまでに穏やかなやり取りだった。そのまま部屋に入ってきた騎士達に捕らえられ、ユーゼフは部屋から連れ出されていった。あまりにもあっけない幕切れだった。


ここまでのやり取りをずっと、フィルエステルの腕の中で呆然としながら訊いていたアウラローゼは、そこでようやくぎこちなく首を動かして“ミラ”の方を見遣った。彼女の青い瞳とばっちりと目が合ったかと思うと、彼女は深く一礼してみせる。

思わず彼女に声を掛けようとしたものの、それよりも先にフィルエステルに思い切り抱き締められたことでアウラローゼは完全に言葉を失ってしまった。


かあっと顔に血が上ってくるのを感じる。誰の目から見ても今の自分の顔は真っ赤になっているに違いないことが解ってしまって、アウラローゼは一人で焦った。

そんなアウラローゼを強く抱き締めたまま、その耳元で小さくフィルエステルは囁いた。


「……ごめん」


先程ユーゼフに向けたものよりも、もっとずっと深く暗い後悔が入り混じる声だった。フィルエステルの腕の中から手を伸ばし、アウラローゼはフィルエステルの黒髪に触れる。びくりと身体を震わせる自分よりも長身の青年に思わず笑ってしまいながら、アウラローゼは首を傾げた。


「どうして謝るの?」

「君を守ると言ったのに、守れなかった」

「守ってくれたじゃない」

「え?」


アウラローゼの言葉に、フィルエステルはその腕の力を弱め、アウラローゼの顔を覗き込んできた。黒蛋白石の瞳がきょとりと瞬いている。その通った鼻筋をついとなぞり、アウラローゼは悪戯げに笑った。


「私のことを助けに来てくれる人なんて、誰もいないと思っていたわ。けれど貴方は来てくれた。貴方は私の心を、確かに守ってくれたのよ。せいぜい誇りなさいな」


どうせ死んでも生き返る鉄錆姫を、わざわざこうして助けに来てくれる存在がいるなんて、正直なところ、アウラローゼは考えたこともなかった。アウラローゼの立場を考えて救助しようとする者はもちろんいるだろうが、アウラローゼの存在そのものを想って助けに来てくれる『王子様』の存在がいてくれたなんて、考えたことも無かったのだ。

だから嬉しかった。認めるのは今でもやっぱり少し悔しいけれど、アウラローゼは今ここにこうしてフィルエステルがいてくれることが、とても嬉しく思えてならないのだ。

だからこそにっこりと心からの強気な笑みを浮かべることができるアウラローゼに対し、フィルエステルはその整った眉尻を下げ、そして今にも泣き出しそうに笑った。


「困ったな。私はどうしたら君に勝てるんだろう。一生勝てる気がしないよ」

「あら、光栄だわ」


くすくすと笑いながらアウラローゼは背伸びをして、わざとぐしゃぐしゃとフィルエステルの髪をかき混ぜた。くすぐったそうに笑うフィルエステルのその表情に思わず見惚れ、そして遅れてこんなことをしている場合ではないとアウラローゼは視線をずらす。


「ミラ、ありがとう。貴女のおかげ、で」


アウラローゼが最後まで言葉を紡ぐことは叶わなかった。それよりも先に身体が動いた。衝動の命ずるままに、アウラローゼはフィルエステルを突き飛ばす。


「ッアウラ!」


そして次の瞬間には、冷たいとも熱いとも思える痛みがアウラローゼを貫いた。アウラローゼに突き飛ばされたフィルエステルが顔色を変えて、アウラローゼに手を伸ばし、その傾ぐ華奢な身体を抱き止めた。


それから一拍置いて、カラン、と。

ミラの手から、血に染まったナイフが滑り落ちる。そのまま彼女はよろよろとふらつきながら後退り、そしてぺたんと座り込んだ。


ミラの青い瞳は、じっとアウラローゼを見つめている。

アウラローゼは、フィルエステルの腕の中からその青い瞳を見つめ返して、なんとか笑みを浮かべてみせた。


「み、ら」

「――――姫様?」


何が起きたのか解らないとでも言いたげにミラはアウラローゼを凝視している。こんな時でもフィルエステルの腕は優しくて、その腕に甘えて全身を預けながら、ミラによってナイフで腹を貫かれたアウラローゼは、彼女に問いかけた。


「あなた、の、望み、は、これだった、の、かし、ら?」


以前、ミラはこう言った。自分の望みは、アウラローゼにしか叶えられないと。そして、彼女はこうも言った。自分はアウラローゼに対して、嘘は吐かないと。だとしたら先程語られた“ミランディリア・オルハン”の物語は、真実であるということだ。ミラの望みは、アウラローゼへの復讐であるということだ。

ミラのナイフの切っ先は、アウラローゼではなくフィルエステルへと向けられていた。彼女の狙いはアウラローゼ自身ではなく、フィルエステルであったのだ。それが解っていながら望みはこれかと問いかけた私は意地悪かしら、とぼんやりと思うアウラローゼを見つめたまま、ミラは何度もかぶりを振る。


「あ、あ、ああ、姫様、姫様! ちが、違うのです、わたし、私は、貴女様に死んでほしくなくて、でも憎くてどうしようもなくて、だからせめて私と思いを味わってほしくて……! 嫌です姫様、ごめんなさい、私、わたし、わたしは――――!!」


普段の冷静さなど欠片も窺い知れない、幼い少女のような悲鳴に、アウラローゼはぼんやりと「そういうことなの」と不思議と納得した。

ミラは待っていたのだ。いずれアウラローゼにとって、自分よりも大切な存在ができる日を。その存在をアウラローゼから奪うことで、彼女は復讐を完遂させようとしたのだ。

流石私の侍女ね、とアウラローゼは思わず笑い、そして咳き込んだ。鮮やかな赤が葡萄色の衣装を汚すけれど、そんなことは今となっては些末だった。


ミラの取った復讐の手段は正しい。大切なものがとても少ないアウラローゼにとって、それらは何よりも失い難いものだ。だからこそこうして身を挺してまで庇ってしまった。

そのことでミラとフィルエステルを深く傷付けることになってしまったことを、らしくもなくアウラローゼは申し訳なく思った。


「ッ連れていけ!」


泣き叫ぶミラの声を聞き付けてやってきた騎士達に向けて、フィルエステルが怒鳴る。引き摺られるように連れていかれるミラの姿を霞む視界の中で見送り、アウラローゼはいつになく焦った表情を浮かべて自分を抱き上げながら見下ろしているフィルエステルへと目を向けた。


「フィル、様。だいじょ、ぶ?」

「私のことより自分のことを心配すべきだろう!」


あら。この私に向かってそんな口を利くの?

アウラローゼはそう言いたかったけれど、唇は震えるばかりで、言葉にも、音にすらもならなかった。フィルエステルが部下である騎士達に、医官を呼べと怒鳴りつけている。普段の温和な王子様らしからぬ様子がなんだかおもしろくて、アウラローゼはミラによって貫かれた傷の痛みも忘れて笑った。

それがきっかけになったのか、アウラローゼの意識は、深い闇の底へと引き摺りこまれていく。何もかもが遠退いていくような感覚がした。


「アウラ、アウラ! 目を開けるんだ!」


フィルエステルが呼んでいる。フィルエステルが泣いている。その声に答えたい。その涙を拭ってあげたい。そう思うのに、アウラローゼの身体は、もうちっともアウラローゼの自由にはならない。


「駄目、駄目だ! 死なないでくれアウラ!」


必死の声音に対し、アウラローゼは内心で懸命に言葉を紡ぐ。大丈夫だからと。ちゃんと、生き返ってみせると。アウラローゼに与えられた【祝福】は【蘇生】。一度目は誰かのために死ぬというのならば、この死はきっとフィルエステルと、そしてミラのための死なのだろう。だから生き返ることができる。そうアウラローゼは確信していた。

そして同時に、勘違いしないでほしいとも思った。今から迎えようとしている死は、フィルエステルとミラの『ため』の死なのだろうけれど、だからといって彼らの『せい』である訳ではない。何も知らなかった、知ろうともしなかったアウラローゼ自身のせいなのだから。


――フィル様と共に生きると、あんなにもはっきり啖呵を切ったのにね。


それなのにこうして一度目の命を落とそうとしている自分を情けなく思う。せめてもの抵抗に、最後の力を振り絞って鉛のように重い瞼を無理矢理持ち上げても、アウラローゼの瞳には、もうほとんど何も映らない。ただ、ぽろぽろと降り注いでくる雫の熱さと、きらめく黒蛋白石の瞳の色だけがやけに鮮明だった。

そして、アウラローゼは大輪の薔薇のように微笑んだ。


「ふぃ、る、さま」

「アウラ!」

「わ、たし、ちゃんと、いきか、え、るから」


だから、待っていてくれる?

そう問いかけたいのにもう言葉にならなかった。もう瞼を開けていられない。そのまま目を閉じるアウラローゼの身体を掻き抱き、フィルエステルは絶叫した。



「駄目なんだ! だって君は、君はもう、私のために一度死んでいるのに!」


――――ああ、そう、だったの。



そして、アウラローゼは思い出す。そう、そうだった。どうして忘れていたのだろう。自分は、アウラローゼ・ジェムナグランは、もう既に、一度、死んでいたのだ。

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