■■ 1. それは夢で無かった
「お兄ちゃん、調子悪そうだけど大丈夫?」
翌日の朝、洗面台を目の前に妹と並んで歯を磨いているとパジャマ姿の美雪に心配された。
「いや、少し寝不足なだけだから」
「またゲームやってたんでしょ。夜はもう少し音量低くしてよね。ゲーム中の会話が漏れててちょっと気になったよ」
「ごめん。今度から気を付ける」
ちなみにそれ、ゲームの音声ではなくて肉声なんですけどね。
ぼくたちは顔を洗うと一旦自分の部屋に戻る。
ぼくたちの部屋は二階にあり、美雪は隣の部屋だ。
学校に行く支度を終えて一階のダイニングに入ると父さんが新聞を読んでいた。
すでに美雪は自分の席に着いている。女の子ってもっと身だしなみに時間がかかるものじゃないのかな。
「うむ、おはよう健太郎。今日もすがすがしい朝のようだな」
「おはよう父さん」
「さ、二人とも速くごはん食べてね」
母さんは焼きたてのベーコンエッグをみんなのお皿に切り分けていた。
『ほほう、こいつは旨そうだな。玉子に干し肉にパンを焼いた物か。コップの中のはもろこしの煮込みか。またいい匂いさせてやがる』
ぼくの頭の中に響くのは、昨日の昼から何の断り無く同居しているカミラの声だった。
『それでもやっぱり昨日のギュウドンは最高だったぜ。また食わせてくれよ』
〈判ったからこっちに出て来ないでよ〉
ぼくは小さくため息をついた。
昨日の夜、腹が減ったと騒ぐカミラに応えるべく、ぼくは近所の『牛丼の大吉屋』に出かけた。
買ってきたのは特盛りを二個。あの体格ならそれくらい食べるだろうと思ったからだ。
「とりあえずこれ食べて。お腹には貯まると思うよ」
「これは何だ?」
「牛丼。牛の肉を煮込んだ物を白米って穀物の上に乗せた物」
「牛の煮込みだと? そんな物食えるのか」
最初は怪訝な表情でお持ち帰りパックを凝視していたカミラだが、匂いをかぐとフォークで一口分つまみ上げて口の中に入れた。
それからがすごかった。
カミラは特盛り牛丼をまるで飲むように数口でたいらげ、すぐさま二個目の特盛りに手を着ける。
二つの容器が空になるまで五分かかってない。
ぼくが差し出した麦茶のペットボトルをラッパ飲みすると、満面の笑顔でプハーと息を吐く。
「いやーすげー、なんだこの旨さは! これが牛の煮込みだと、信じられねえ」
ぼくはあなたの食いっぷりが信じられません。
「王都でもまともな食堂じゃ牛の煮込みなんざださねえんだ。店の品格が落ちるからな」
「そうなの? でも牛は居るし食べるんだね」
「もちろん居るぞ。食用と言うより乳をしぼったり農家が開墾に使って居る。その牛から乳が出なくなったり働けなくなったら落として食べるんだが、大抵は干して保存食にするか、貧民街での炊き出し用にだ。ろくな食べ物じゃねえ。
それに比べたら、いや比べられねえがこいつは旨い。柔らかいし丸ネギと穀物との相性もバッチリだ。なあケンタ、もっと食えないかこれ」
「もうお店しまっちゃったよ」
「そっか……残念だな。今度は俺もその店に連れてってくれよ」
「うん、その服装が何とかなったらね」
さすがに世紀末救世主姿の女性を連れて行ったら、いくら牛丼屋でも大騒ぎになるだろう。
結局その直後に時間切れと言うことで、カミラはぼくの頭の中に戻った。
満腹には遠かったようだけど、それからぼくに語りかけることも無くそのまま就寝したのだ。
そして朝起きてみると。
『おはようケンタ。今日は魔王討伐の計画を練ろうぜ』
頭の中に鳴り響くカミラの声。
どうしてこういうときに限って夢落ちにならないのだろう。そう思いながら身体を起こすとため息をついた。
§
ぼくと美雪は食事を済ませると学校に向かう。
ぼくはわりに近所にある共学の私立高校、美雪は電車で二駅ほど離れた私立女子中学に通っている。
「それじゃお兄ちゃん。帰りに新刊よろしくね」
「判ったけどあの店、今日は営業しているかな」
「商店街通りの端っこにアニメストアできたらしいよ。取り扱っている種類も多いしポイントカードもあるんだって。一度行ってみれば」
美雪はそれだけ言うと足早に駅に向かった。
そんだけ詳しければ自分で買いに行けばいいのにと思いつつ、ぼくも学校に向かう。
『おいケンタ、どこに行くんだよ』
「朝も説明したでしょ、学校に行くんだよ」
『その歳になって学校とは、実はおまえの家、貴族か金持ちの商人か?』
「いや、うちは中流の家庭だと思うよ。父さんは会社を経営しているけど小さな規模だし、母さんは専業主婦だけど週に二、三回はスーパーにパートに出ているから」
ここで何となくぼくの近くを通り過ぎる人が、どこか驚いて居るのに気がついた。
確かにカミラの声は周りに聞こえないんだし、これじゃ独り言だよね。
『そっか。あっちの世界では学校と言えば王族や貴族の社交場みたいなところか、騎士や魔術師の専門課程のやつ。それに孤児院くらいなもんだな』
〈孤児院?〉
『こっちには無いのか? 戦乱やバケモノにやられて親を亡くしたこどもを預かる施設だよ。大抵は教会が募金で行っているけどそれも一〇才まで、孤児院をでるまでにせめて読み書きと計算ができるようにって教えてくれるんだけど、そんなのを真面目に受けるやつは少なくてさ。院長はいつも悲しそうにしていたな』
その言い方からカミラは孤児院に居たのではないかと思ったけど聞かなかった。
さて、とぼとぼと歩いていると段々生徒の数が増えてくる。
ややあって『私立一ノ瀬高校』の校門が見えてきた。
校門に立つ教師と風紀委員にあいさつしながら学校に入っていく生徒たち。ちょうど登校のピーク時間だ。
『こどもたちが同じ格好をしている』
〈これは学校の制服だよ。男子も女子もブレザーって形態なんだ。学校ごとに少しずつ違うんだよ〉
『すると同じ格好はみんな同じ学校に行くのか。こりゃ驚いた。ずいぶんと通うこどもが多いんだな』
〈これでも以前より減ったんだってさ〉
創立当時は男子校だった物を、一二年前にこどもの数が減ったため共学になったと言う。そのため女子用の施設が足りないようだ。
生徒の男女比は六対四で男子が多い。
『こどもがこれだけ多く学校に来られるってことは、この世界が平和なんだな』
平和か。他の国ではどうか判らないけど、日本は平和なのだろうと思う。
〈だからこの世界には魔王もモンスターも居ないんだよ〉
『うぬぬ。だとするとあの女神はどうしてここに俺を呼んだんだ』
〈さすがにそれはぼくにも判らないや〉
カミラはそこで黙ってしまった。
2. 朝の教室にて に続く