2話
ちぃこを連れて、情報を求めて天界へとたどり着いた途端、驚くことを聞かされた。彼女はまだ死んではおらず、病院に入院しているという。原因不明の病で意識不明の重体となっているようだった。
「なあ、憂茨あれは、大丈夫なのか……?」
「母親に会いたいと言ったのは、あの子だ。問題ないだろう」
「でもさ……母娘とは思えない状態だぞ?」
「書類上は母親だろ。同僚の調査を少しは信じろ」
「エリカは調査部でも随一の仕事するけど……お前、ちょっと行って何とかしてこいよ。会わせてやろうって言い出したのおまえだろ」
肉親同士とは思えないような状態だった。ちぃこは、俯きながらジュースを飲んでいる。だが、母親のほうは非常に優しい顔つきで、微笑みながらちぃこを見つめていた。
やがて、母親が椅子を立ってこちらへと近づいてくる。優しい表情はなりをひそめ、悲しそうな顔をしている。
「千鶴子に会わせてくださって、ありがとうございます」
母親は丁寧に頭を下げた。柊に向かって。
「会わせようと言い出したのは、俺じゃなくて彼です。お礼なら、憂茨に」
女は驚いた顔でこちらを見ている。悪魔がこんなことをするとは思っていなかったのだろう。資料課へ行った時も同じ反応をされた。当たり前だ。天界とは違い、魔界に棲む悪魔たちは魂を狩り、力を得るためだけに人を輪廻の輪から外す。
「あの……」
「……それ以上近づくな。おい、ちぃこ。お前のもう1人の母親のところに行くぞ」
ちぃこを抱き上げ、部屋を後にしようとする。それを呼び止める声がした。振り向くと、また女が近づいてくる。震える体で、震える手で、自分の娘の髪に触れていた。
「ちぃこ。どうか、幸せに」
――どうか、幸せに。
ずっと、ずっと何世紀も能天気女の――アンヌの魂だけを守り続けていた。遠くから、ただ幸せを祈っていた日々。
何度目かの転生の時、アンヌが花蓮と名付けられた。今回も彼女の幸せをただ願いながら、守るのだろうと思っていた。
同族たちから、恐ろしい悪魔のような人間たちから。でも、変わらない日々が変化した。彼女の父親が、娘の魂を報酬に自らの願いをかなえるために悪魔と契約したから。
力を得るために魂を狩ることをやめ、ひっそりと生きてきた。
永い永い時の中で、感じ始めた自分の体の劣化。そろそろ、無に還る時が来たのだろう。
盾になれるかは分からない。花蓮を守り切れるか分からない。
でも、無力な能天気女の魂を――花蓮を守るには、それしかなかった。
あの子の生のためなら、なんでもしよう。
あの子の盾となるためなら、どんなことでもしよう。
永遠にも思える時間の中で、世界から疎まれた自分には、それしかないから。
「入院してる病院までは、すぐ近くだな。逢魔時までには、まだ時間がある」
「ああ。その紙は、地図か?」
「若桜がな、持たせてくれた」
「そうか」
地上に戻るまでの間に腕の中で眠ってしまったちぃこを見て、別れの時が近づいてきているのを実感していた。
街中を歩きながら、思い出すのは花蓮のことだけ。こうやってゆっくり歩いてみたいと言っていた。
まだ頭上に差す陽が、アスファルトに色濃く影を落としていた。それが、ふいに見たことのある大きな形の影が遮る。
「なん、で……」
ここに悪魔が。逃げなければ。今、子供を抱えて戦うことはできない。守り切れるか、分からない。
「柊!」
「何でこんな時間に。夕方までには時間あるぞ」
「いいから、ここじゃまずい。ほかの人間が巻き込まれる」
「あ、ああ……こっちだ」
人気のないところを求めて、走り回る。頭上からは、悪魔たちが鳴き交わす声が聞こえている。
柊が銃を撃ち、何匹か砂に還す音がした。ちぃこは恐ろしくて声も出ないのか、俺の首元にしがみ付いたまま声を殺している。
「ギイイィィィィ」
「来い、血塗れの伯爵夫人」
円陣が瞬時に広がり、中央から銀色の輝きを放つ長剣が出現する。それを手に取ると、憂茨は剣を一閃させた。
一匹の悪魔を砂へと還すが、背後に控えていた悪魔が目の前に飛び込んできた。振りかざされた大きな鉤爪を何とか防ぐが、反動で長剣が地に転がった。
「――間に合わない。憂茨っ」
目の前に出現した悪魔が、再び大きな鉤爪を振りかざす。背後に飛ぶが、避けきれずに腕の肉が避けた。
腕にできた傷は、以前のようには塞がらず、だらだらと鮮血を流し続ける。
「憂茨。大丈夫か?」
近場にいる悪魔たちを撃退して、柊が駆けつけてくるのが見えた。
「ちぃこ、ちぃこ。大丈夫か?」
「うん。でも……お兄ちゃんが……」
俺の腕を見て、ちぃこの顔が引きつっていた。
「憂茨っ、何で傷が塞がらない? 調子悪いのか?」
「まだ、出てくるぞ」
匂いと足音がする。ゆっくりとこちらへと近づいてくる音。下位悪魔よりもクラスが上の悪魔だ。感じる気配が強まっていく。
「――調子が悪いとか良いとかの問題じゃないですよ。ねぇ、ローランドさん」
「誰だ」
「あんたは知らないだろうけど、こっちでは有名だからね。バカな悪魔だったって」
「質問に答えろ」
男はにやりと笑うと、帽子を脱いで仰々しくお辞儀をした。
「どうも。僕はミューズリー。今日、その子の魂を喰って、下位からクラスアップする予定です」
「それは残念だな。この子は、渡さない」
「へぇ。もう、傷も塞げないほど魂が劣化してるのにローランドさん――いや、憂茨さんは頑張りますね」
「大きなお世話だ」
「食べれば、少しでも力が戻るし劣化も多少抑えられる。インタリオほどではないですが……幼い子供の魂だったら、その辺よりはマシでしょう」
花蓮を助けだす――。
今の体でそれができるかは分からない。傷すら塞がらないのに。このまま劣化が進めば、武器の召喚すら難しくなるだろう。それは分かっていた。
小さな体で、強くもない力で縋り付いていた。自分を守ってくれると、絶対の信頼を寄せてくる目。
その目が、花蓮が自分を見る目に似ていた。一緒にいてくれる、守ってくれると言ってるようで。
「柊、逃げるぞ」
「逃げられんのか? お前、死にそうになってるって言われてるんだぞ」
「逃げられる。逢魔時までには、もう少しだけ時間があるし、匂いがまだ弱い」
「あ?」
「匂いがまだ弱いってことは、こちら側にはまだ完全に出てきてないってことだ。攻撃をしたくてもできない」
目の前で不気味な笑顔を浮かべている男が、それを肯定した。
「行くぞ」
走り始めた俺たちの後ろで声がした。
――鬼ごっこの始まりだ。
太陽が沈むまで、あと1時間。
背後から、大量の悪魔が鳴き交わす声と気配がした。それなのに、負った傷は塞がらない。心に生まれた迷いも消すことはできなかった。