1話
人間の魂を同族に渡した後、憂茨――ローランドはその光景を見るために、地上へ昇る。理由は、雨が降るからだった。
初めは天が人の魂を喪ったことを嘆いているかのようで面白かったが、何度も見ているうちにそんな風には感じられなくなっていた。
でも、その行動はすでに習慣となっていて、これと言ってやめる理由もなかったから続けている。
そんな時だった。
雨の中を能天気そうな女が、鼻歌を歌いながら楽しげに歩いてることに気が付いたのは。その女は人目など一切気にせず、自由だった。輝くような笑顔を振りまいている。
「頭がおかしいのか?」
でも、綺麗だと思った。
その日、灰色だけの世界が色鮮やかになった気がした。
――その輝く魂が欲しい、笑顔が欲しい、俺も自由が欲しい。
そう思うのに、さほど時間はかからなかった。
+++
今回の事件で、天界は悪魔であるローランド、もとい憂茨を拘束することに成功した。
上層部でどんな話し合いが行われたのかは憂茨には分からない。関係ないとは思わないが、聞く気にもなれなかったので放っておいたのだ。元々信用していない奴らから話を聞いても、時間の無駄でしかない。
今、分かっていることは守護課と狩猟課が合同で俺の身を預かっていることと、柊が監視として常に一緒にいることだけ。天界が俺を拘束しなかったのは、利用価値が非常に高いと判断したからだろう。悪魔の残滓は訓練した者にはある程度見えるが、正確性に欠ける。信憑性のある情報をてっとり早く得るには、同族の力を利用する方が早い。が、しかし。
「どうしてこういう状況になったんだ?」
「俺も聞きたい」
腕の中にいるのは、怯え、震えている女の子だった。彼女を狙ってきた下位悪魔が周囲にうじゃうじゃと集まってきている。その数は今も増え続け、見渡せる場所はほぼ黒一色になっていた。
ちぃこは泣き出すのを必死に我慢して、憂茨の首元にぎゅっとしがみ付いていた。彼はまだ幼い子供を安心させるように、小さな背を撫でる。
「ずいぶんと、信用されてるみたいだな」
「ここで泣かれでもしたら、やっかいだろ」
「子供1人泣くぐらいなんだよ。今の状況のほうがまずいだろうが」
「俺は子供に泣かれるのは好かん」
「状況見てから言ってくれる?」
「それより、逢魔時が終わる。こいつらよりもやっかいな相手が来るぞ――匂いが、濃くなってきてる」
悪魔たちの主な活動時間は、昼間ではない。夕方――逢魔時を過ぎると活発になる。彼らの紅い瞳はほとんど機能しておらず、音や匂いで攻撃対象を見極めていた。
もうすぐ太陽が沈む。それまでに、この子を連れて行かないとならない。それなのに、応援もなく目的を達成できるのか分からなかった。
――数時間前。
憂茨と柊は花蓮の手掛かりを求め、天界の協力者を館へと連れて行った。が、少女の手掛かりの代わりに得たのは、幼い子供だった。
2人の目の前にいる幼い人間の女は、大事そうにボロボロになったウサギのぬいぐるみを抱き、俺たちをじっと見ていた。
「俺たちが見えてるってことは、死んでるのか? こいつ」
「たぶん。まだこんな小せぇのに……」
「そうか」
まだ俺たちを見上げている女の子は、空いている方の手でズボンの裾を遠慮がちにつかんで言った。
「……ママ」
「俺はお前のママじゃない」
「パパになるほうだよな。憂茨は……」
「くだらないこと言ってる場合じゃないだろ」
「ママのところにいきたい。つれていって」
「お前の母親なんか知らない。連れて行けるわけないだろ」
すげなく断られ、女の子は悲しげに俯いた。やがて何かを決心したように再び顔を上げる。
「うさぎさんが、お兄ちゃんたちが連れて行ってくれるって言ってたもん」
「……うさぎ?」
「うん」
言っている意味が分からないが、子供なりに説明しているのだろう。このまま放って置く訳も行かない。このまま、逢魔時まで、1人でここにいたら、きっとこの子は悪魔に捕まってしまうだろう。
俺が逃げるとは少しも思っていないのか、不用心にも柊はぶつぶつ言いながら去って行く。それを見届け、まだ上を向き続けている女の子を抱き上げた。嫌がるどころか、子供はぎゅっと首元にしがみ付いてきた。何かに縋り付くように。
「お前、名前は?」
「な……まえは、ちぃこ」
舌足らずな言葉でぽつりとつぶやいた。この年の頃は、外に出るたびに全てが楽しくて仕方がないといった様子のはず。
たとえ幼くして死んだとしても、年を取るわけではない。どうして、この子はこんなに寂しそうなのだろう。
――お兄ちゃん――
あの子もそうだった。能天気なあの女の魂を持ってこの世に戻ってきたはずなのに、いつも寂しそうに院の隅っこに1人でいた。それが気になり、関わってしまった。もう二度と、近づいてはいけないと思っていたのに。触れれば、また壊してまうだろうから。
「どうしたの?」
「……?」
「どこか痛いの?」
「いや、どこも痛くない。大丈夫だ」
大きな栗色の瞳が憂茨を見つめていた。子供に疑われたときは、どうすればいいかは知っていたので安心させるように微笑む。すると、ちぃこは何やら納得した様子で再び男の首元に顔をうずめた。
「毛玉飛び立ったぞー。というわけで、そいつ連れて一度天界に戻るぞ」
暢気な声がする方を見てみると、だらだらと歩きながら戻ってくる柊だった。
「戻る? どうしてだ?」
「地上でダラダラしてるわけにはいかないだろ。情報くれって先に毛玉飛ばしといたから、天界に着く頃には何か分かってるだろ」
「随分懐かれてるじゃん。悪魔って子供作るの? 卵かなんかから生まれてくるイメージがあるんだけど」
くだらないことを言いながら、柊がちぃこをつついた。感触がむず痒かったのか、嫌そうに眉をひそめていた。
「柊。やめろ……このくらいの年ごろなら、一度だけ面倒を見たことがある」
「あんた、卵産むの?」
「卵は産まない。面倒見てたのは花蓮だ」
「あーっそう。名前聞けた?」
「ちぃこ、と言うそうだ」
「それ、名前って言うか呼ばれ方じゃないか?」
「呼び名がないよりかはマシだろ。」
「逢魔時までには決着つくだろ。ほら、行くぞ」
俺もそう思っていた。その時は……。