3話
異動した初日に地上に派遣された。今日は非番だったはずなのに。
少々不機嫌になりながら、新しく上司となった沼田菫路の指示通りに、柊は教会の前に来ていた。
教会はすでに崩壊しており、誰かがいるとは思えない状態になっていた。しかも、周囲には砂漠地帯でもないのに砂が大量に落ちている。それも異常なほどの量で、砂には足跡がついていた。誰かが出血した後も見られた。
柊がさらによく観察しようとしたとき、突然焼けるような痛みが腕の傷に広がる。誰がいつどこで何をしてつけたのかは分からない。天界にいた時にはすでにあったから。ほかの魂の傷跡のようにいくら時間がたっても、これだけは消えなかった。さながら、誰かに刻印を押されたかのような感じだ。
突然、どこからか圧力が生じた。何かが爆発寸前の様な重い気配。
嫌な予感がした。何かが無力な者に襲い掛かり、引き裂く様な。かつて、自分も何かから逃げて――そして、掴まった。黒い、何かに。
刻印にも似た腕の傷が、近くで何かの圧力が感じられるたびにどんどん熱を持っていく。逃れたい衝動を抑え、柊は圧力が感じられる方へと急いで向かった。何かに導かれるように。
できる限りの速度で木の根を飛び越え、石に足を取られても走り続ける。
速く、速く、もっと速く。でないと、取り返しのつかないことになる。
焦燥感が増していく中、やっとの思いで森を抜けた先――山小屋の近くで一組の男女が何かに襲われていた。
世の全てを憎むように怒りに燃えた瞳は赤々と輝き、獲物が増えたことに対する歓喜の声が上がる。傷つけることしか知らない手には、鉤爪がついていた。
思わず身が竦む。せり上がってくるのは、無力感。逃げなければ、自分もあれに囚われる。掴まったら、もう二度と逃げられない。
「ダメ、逃げて!」
遠くから声がした。本能に従い、後方に飛ぶ。先ほどまでいた場所に、悪魔が頭から突っ込んできた。ぎいぃと耳障りな鳴き声を立てて、再びそれは上昇した。
「なんだよ、これ……結構やばいじゃん」
「逃げて!」
声の方を向くと、女のほうがこちらに向かって叫んでいた。長い明るめの茶色い髪、自分と同じ若葉色の瞳。今回の守護対象、西院花蓮だった。
不意に彼女の頭上が陰る。悪魔だった。それが奇声を発しながら急降下し、花蓮を襲おうとする。
今の状態はまずい。彼女を、守らないと。
柊は、腰に佩いた拳銃を抜き、トリガーを弾いた。
――その瞬間、声が聞こえた。
女の声だ。夢の中で、何度となく聞いた抑揚のない声。それが問いかけてきた。
『私を使役する者よ。強く結ばれた者よ。貴様の願いはなんだ?』
「そんなんいくらでも後で答えてやる! 今は、黙って俺に仕えろ!!」
『承知した。私に相応しくない時は、魂の一片も残さず、喰らい殺してくれよう』
女の声が気配が消えると同時に、バンという大きな音と共に弾丸が発射された。弾丸は一匹の悪魔を貫き、砂へと還した。
「憂茨!」
「……ダメだ。こちらだけで手一杯だ!!」
男が、悪魔から花蓮を守りながら怒鳴る。彼女はなおも自分の盾となっている男に何か伝えている。が、数の暴力にさらされている今、他人にかまっている余裕はどこにもない。
男の金色の瞳が目の前に迫り続ける悪魔を睨みつける。気合と共に長剣を一閃させ、あっという間に二匹、三匹と砂へと還していった。
男は流れるような動作で、向かってくる化け物を次々に砂へと還し続けていた。白い肌から鮮血を滴らせながら、迎撃を続け――徐々に、花蓮との距離が開いていった。
その隙を逃さず、大きな鉤爪が少女に迫っていく。全速力で悪魔の間を縫って駆けつけた柊が、背後に少女を突き飛ばした。
「もう一発っ!」
照準を紅い瞳にあてようと、銃を構えようとする。が、身体が鉛のように重く、腕が上がらない。
銃で撃つことを諦め、避けようとするができなかった。動くよりも早く、悪魔が目の前に迫り、吹き飛ばされた。
何で、身体が動かない。今、動かないと全滅する。数が多すぎて、あの男1人では捌き切れない。
自分の体の重さに意識を捕らわれている間に、再び黒い影が接近してくる。鋭い鉤爪が肉を切り裂き、鮮血が流れ出す。
痛みに目の前がチカチカしながらも、柊は第二、第三の悪魔の攻撃をなんとか交わす。それを何度か繰り返すうち、壁際に追い詰められていた。視線だけで何とか使えそうな物を探すが、見つからなかった。
もう一度、もう一度だけでいい。悪魔を殺す力を。
願いを込めて、トリガーを弾き――悪魔を砂へと還した。
それがきっかけとなったのかは分からないが、悪魔たちは遥か頭上でぎぃぎぃと鳴き交わすと、退却していった。
「助かったぁ」
「ごめんなさい、ごめんなさい。巻き込んでしまってごめんなさい」
泣きながら少女が謝ってくる。その後ろには、男が立っていた。彼の手に長剣はなかった。金色の瞳が眇められ、問いかけてくる。
「何者だ? 人間じゃないだろ。アレが見えて、戦えるってことは」
「まあ、完全な人間じゃないけど……あんたこそ、何者だよ」
「言う必要はない」
「じゃあ、俺もあんたに言う必要はないな。用事があるのは、この子だし」
ぽん、と頭に手を置くと少女が――花蓮が驚いた顔をした。
「わた、しに?」
「そう。あんたを守りに来た。上からの命令で」
戸惑い、花蓮は後ろを振り向いて憂茨を見る。彼は怪訝そうな顔をして、柊を睨みつけた。
「そう睨むなよ。俺は――」
「おい、一応礼だけは言っといてやる。花蓮、行くぞ」
男が少女の手を引いて去ろうとする。それを押しとどめながら言った。
「ごあいさつだな。もう少し話聞いてってくれると嬉しいんだけど」
「親切の押し売りはいらない。護衛なら間に合ってるからな」
「そうは見えなかったけど……」
ぐぐぐっと手に力を込め、男を睨みつける。間に挟まれた少女は、どうしたらいいのか分からずに狼狽していた。
やがて決意を固めたように大きな声で憂茨に向かって告げる。
「話だけでも聞こう。助けてもらったのよ? それに、怪我の治療もしたいし」
「でも」
「でももだってもないよ。腕、出してください。治しますから」
彼女はインタリオを取り出し、柊の腕に当てた。深い緑色の宝石が当たっている場所から、ほんのりと暖かさを感じる。それと同時に、流れ続けていた血は止まり、跡形もなく傷は消えていた。
こんな力を持つ宝石なら、悪魔だけではなく人間も欲しがるだろう。そして、天界も。
「用事を言え。花蓮に危害を加えるために来たんだったら、殺す」
助けたのに先ほどから敵意剝き出しで憂茨が突っかかってきた。さすがに柊も我慢の限界を超えた。
「あんたなんなんだよ、さっきから。お前に微塵も興味ないんだよ」
「こっちだってあんたに微塵も興味はない。さっさと用事を言え」
「あ、そうか。まだ言ってなかったか。俺は東郷柊って言って、西院花蓮を天界に連れて行くために来た」
「え?」
「あ、連れて行くって言っても死後とかじゃなくて今。あんたを守れって――うえ!?」
明確な殺意を持って、無言でナイフの刃を首元に当てられる。憂茨だった。
「違う、違うって。守れって言われてきたんだよ。危害を加えるつもりはない。そんなことするつもりだったら、初めからあんたら助けたりしないし」
「そうだな。気が立ってるみたいだ」
「気が立ちすぎだろ……。それより、あんたの方は治療してもらわなくて大丈夫なのか? 血が結構出てるし、胸元の傷跡も痛そうだし」
「俺のは勝手に治る」
「あ、そう。あんたも人間じゃないみたいだし、別に驚かないよ」
そうして、一通り事の次第を話す。納得してもらえたのかどうかは分からないが、憂茨も大人しくなり、花蓮も話を聞いてくれた。
彼女は始終落ち着かない様子で、ペンダントをいじっている。これは、長年の癖なのだろう。
お互いの素性が分かり、ほっとしたのもつかの間。
突如、再び黒い影が接近し――あっと言う間に、宝石を悪魔が奪う。完全に油断していて、反応することもできなかった。
悪魔が頭上で、勝ち誇ったように鳴き、飛び去っていった。