2話
その日、柊は腕がじくじく痛み、起きた。こんなに傷が痛むのは初めてだ。
嫌な気分になる夢だったことは確かだが、断片的にしか内容が思い出せない。しかも断片的と言っても、ものすごくピンポイントだが。
あの声はいったい誰だったんだろう。夢の中で、誰かが優しげな声で囁いていた。
――よく聞け、私のインタリオ――
とても冷たくて、何の感情もなく放たれた言葉。女性の、声で。その言葉の意味は分からない。本当に。
「インタリオってなんだよ……」
分からないことは考えていても仕方ない。思い出せる時まで、放っておこう。
そう決心した柊は、もぞもぞと出かける支度をするためにベッドから這い出した。
今日は非番だというのに、上司に呼び出されている。寝る以外に特に予定はなかったけれど、さすがに行かないとまずい。
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「守護課に左遷だ」
「――はぁ!? 何言ってんの?」
糸よりも細い目で、のんびりと涼しい顔でお茶をすすっている上司である柳李皇に食ってかかった。わざわざ非番の日に呼び出すくらいだから、大事なことがあるのだろうとは思っていた。でも、これは……予想外すぎた。
「もう一度だけ言うか。守護課にいけ。お前との縁もこれまでだ」
「理由は?」
湯気に曇ったメガネをふきながら、上司はもう一度キッパリと事実だけを淡々と告げた。
「いい加減、気付かないか? お前は魂を無傷で断罪領域まで送らなければならないのに、一度も無傷で送ったことがない。しかも、魂を連れに行ったはずなのに、物をよく壊す。課としてもいい加減にして欲しい。それが本音だ。でも、退職にはならない。お前にもうってつけの部署が一つだけ残っていてね。そこへ行ってもらう事になった。以上だ」
「…………」
「ほら、速く荷物をまとめて出て行け」
「でも、オレは狩猟課の中でも、魂捕獲率一位だぞ!」
「傷者にしている確立も、課どころか局の中でダントツ一位だろうね。どうだ? 試しに一度、統計でも取ってみようか? さぁ、異動だ。送別会はいつか連絡する。とっとと行け、バカ者が」
李皇の三白眼に睨みつけられながら、ごそごそと机の上の荷物を整理する。彼の茶色の瞳が、一刻も早く出て行ってほしいと言っているようだった。
ここ――天界には、多くの魂が生活している。その多くは、転生待ちだ。でも、その中でも不干渉の運命による死――運命、寿命ではない死を体験したものは、転生の空きがないために仕事を与えられていた。
柊もその一人だった。自分の死に関して、何かがあったことは確かだが、ごっそり抜けおちてしまっているので分からない。追究しようにも、自分の死は秘匿扱いされており、調査書を見ることもできなかった。
――インタリオ――
夢の中で聞いたこの言葉が、自らの死に関係している可能性は高かった。それを調べるには、天界の公的機関にいる必要があるのだ。
「今までお世話になりました」
ぺこりと一礼すると、李皇からは「お世話しました」とだけ短く返答があっただけだった。
そうしてやってきた左遷先、守護課。ここは、柊がもともと在籍していた狩猟課とは目的が少々異なる。
狩猟課は、魂を展開へ連れて行くことを目的に下界へ派遣される。対して、守護課は守護霊のように魂を守ることを目的として下界へ派遣されていた。
「失礼しまーす」
がららと扉が開け、中へ入る。内部はゴミ屋敷かと思うほど、物であふれていた。
何故か窓際に飾られているトーテムポール、巨大なドリームキャッチャーにインディアンの巨像。植物もいたるところにあり、あまつさえ犬、猫がうろついている。
モモンガ、ムササビまで飛び交っていてもう何を言っていいか分からないほどだった。荷物をどこに置いていいかすら分からない。
あまり物を持たない主義の柊にとっては苦痛、の一言だった。
「郷に入り手は郷に従えだよ。人間、慣れる生き物だからね」
「それでも、これはひどいと思うぞ。若桜」
長い黒髪を搔きあげながら、楽しげに同僚が言った。
「ほーら、みんな。こっちに来て、柊に挨拶するんだよ」
優しく周りに言葉をかけると、ごみ溜めの中からバラバラと動物たちが集まってきた。集まって来ただけならよかったのだが、突如目の前が真っ暗になる。モモンガが顔面に飛来してきたのだった。爪がこめかみに刺さって痛かった。
黙って立っていると、若桜がモモンガを優しく抱き上げながら言う。
「黒犬がポチ、こっちの白犬がタマで三毛猫がジャイアン。モモンガがUFO。あそこにいる狐二匹のうち糸目がテンコ、目がぱっちりしてるほうがマル。あそこにいるラバがデンデン虫だ」
「ラバにデンデン虫っておかしいだろ……」
頭の上にモモンガを乗せながら、三毛猫ことジャイアンの頭を撫でている。今日も守護課は平和そうだった。狩猟課はいつもバタバタしていて、閑散としている。真逆の部署に飛ばされてしまい、慣れるのには時間がかかりそうだった。
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「やっと、二人きりになれましたね。私はあなたの上司に当たる沼田菫路です。さっそく、仕事の話をさせてください」
「仕事!? この部署、仕事なんてあったんですか?」
「なかなか失礼な言い草ですね。仕事くらいありますよ」
バサリと書類を机に置かれた。まずは目を通せという事だろう。
「イン、タリオ……」
――よく聞け、私のインタリオ――
夢の中で言われた言葉。何も思い出せないが、相変わらずこの言葉だけは覚えている。
「やっぱりそこに反応しましたか。インタリオの話は追々するとして……まずは、書類にある少女を守ってください。
彼女の名前は、西院花蓮。この子を守り、かつ天界へ生きたまま連れてきて欲しい」
「生きたまま……って無理があるんじゃ……」
「そう、ここはいわゆる死後の世界。生きたまま足を踏み入れることはできない。が、今回は特例です。インタリオは貴重な存在ですから」
「この宝石が、そこまで貴重な物なんですか? インタリオってなんですか?」
「インタリオはただの宝石ですよ」
はぐらかされた。今のお前に教えることはできない、ということか。
「この一件、悪魔が絡んでいるので早急に動いて頂きたい。今回、あなたには対悪魔用武器を使用していただきます」
「本当にそんなものがあるんですか?」
「聞いたことはあっても、実物は見たことがないでしょう。これも貴重な物ですから。1人に1つしか支給できないし、使用して以降の回収もできないものですから」
「はぁ……」
「彼女に喰べられないように気を付けてください」
机の上に何の装飾も施されていない、古い木箱が置かれた。開かれた蓋の下から現れたのは、拳銃だった。筒の部分には、細かい蔦のような彫り物の装飾が施され、持ち手の部分には血を溶かし込んだように真っ赤な宝石がつけられていた。
その宝石にはインタリオという透かし彫りの細工がされている。
「これ……」
「インタリオです。その銃の魂と言ってもいいでしょうね。使いこなせれば威力は絶大。それができない場合は、魂の一欠けらも残さず、使い手は消滅する」
「持ち主を喰う武器、か。噂通りですね。
あ、でも……悪魔が絡んでいるなら、狩猟課に任せるのが良いはずでは? 守護課よりも狩猟課のほうがはるかに人数も多い。悪魔のレベルにもよりますが、対応できる者もいるはずです」
「あなたじゃないとダメなんですよ。彼女が――陽気な未亡人が選んだので。他の者では対応できない」
視線を再び銃に戻すと、妖しくルビーが光り輝いた。早く、お前が喰いたいとでも言うように。
「最後のインタリオを、守ってください」
――最初のインタリオである、あなたが。
守護部を後にするとき、菫路が小さな声で呟いたのが聞こえた気がした。