3話
その日は、いつも通りに起きて、顔を洗って、出かける支度をして、仕事をして、また家に戻って、ゾーイと遊んで、寝るだけのはずだった。
柊の日常は一斉放送で知らされた緊急出動のほうで、一瞬で消え去った。
外へと出て、すぐに頭上を見た。そこに広がるのは、青い空と雲などではなく――どこまでもどこまでも続く様な黒だった。
悪魔たちはバラバラと至る所にいた。所々で悲鳴と助けを求める声が上がる。悪魔の歓喜の声がそれを遮っていた。
憂茨が駆け出し、目の前の悪魔を退ける。助けられた人はお礼を言う暇もなく走り去っていった。
「すぐに花蓮さんの居場所を把握してください。彼らの目的は、そこでしょうから」
振り返ると、厳しい顔をした菫路と李皇がいた。
「どうして――」
「当然、警戒はしていたさ。何か起こるのは、地上だと思っていたから後手に回った。まさか、天界まで侵攻してくるとは」
いつも偉そうな李皇が苦虫を噛み潰したかのような表情で言った。
菫路もその横で表情をこわばらせている。
「いつまでぼうっとしてる! さっさと行け!」
「柊!」
李皇に怒鳴られ、憂茨に呼ばれて走り出す。だが、今彼らの行く手を遮るのは悪魔だけではなかった。助けを待つ転生待ちをしている人々だった。彼らは押し合いながら、我先にと化け物たちから逃げ回っている。
「この時間なら、広場にいるはずだ。ゾーイと一緒に」
ゾーイと家族になってから、花蓮の日課だった。広場へと赴き、噴水の縁に座りながらのんびりとお茶を飲むのは。今もそこにいるとしたら。あそこには悪魔の手を遮るものはなく、隠れる場所もない。多くの人が集まることから、身動きもとりにくいはずだ。
――どうか、どうか。無事でいて欲しい。
そう願いながら、憂茨と広場を目指して走り続けた。
世界が変わった気がした。
たった数時間――数秒で。
それでも走り続けた。助けを求める人を人に押し付け、悪魔と闘っている者の助力もせずに。
人を悪魔たちから守りたいと思っていたのに。何もできずにいる。
足がもつれても走った。
転んでも走った。
悪魔を砂へと返しながら走った。
花蓮の無事だけを祈って。多くの人々の無事を願って。
やっとの思いで広場へたどり着く頃には、2人共消耗しきっていた。そして、目にしたのは紅い紅い血溜まりだった。
「花蓮っ! 花蓮。どこだ!?」
「憂茨、あそこだ。あそこに悪魔が集まってる。行くぞ!」
「でも、どこかに――」
「あそこにいるかもしれない!」
群がる黒い群れの中心から悲鳴が聞こえた。誰かが助けを求めている。例え花蓮じゃなくても、見捨てることはできなかった。
2人で悪魔を押しのけ、砂へと還していく。悲鳴じみた鳴き声が耳についた。力が続く限り暴れ続け、ようやく輪の中心へとついたころには悲鳴は収まっていた。
輪の中心に近づこうとしたとき――悪魔たちが突然攻撃をやめ、逃げ出すように散開していく。
そこにいたのは、消えかけている少女だった。腹から血を流しながら、怯えて泣いている。
「助けて……たす――」
彼女は泡となって消えた。名にも残さず、跡形もなく。
「くそ――あいつら……っ!」
「なぁ、おい……お前、また傷が塞がらなくなってるのか?」
「何言ってる? 今はそんなこと――……」
そのまま憂茨の一切の行動が止まった。俺の後ろを見たまま。後ろからはぽつりとつぶやきが聞こえた。
――嘘つき。
怖くて後ろを振り向けなかった。でも、次の瞬間。さっと何かが横を通る。花蓮だった。
彼女は憂茨に抱きつくと、無事でよかったと何度も繰り返した。そのあとは、ひたすら謝り続けている。ごめんなさい、と。
花蓮を先頭に、できるだけ悪魔たちを避けながら、多くの人たちが避難しているという洞窟へと辿り着いた。
洞窟へたどり着いたとき、目を疑った。リューリエがいたからだ。彼女は優雅に岩場に腰を掛け、退屈そうに何かを待っている。
やがて女悪魔が立ち上がると、大きな声で言った。
「いるのは分かってるのよ。さっさと出てきなさい。別れを惜しむ時間はあげたでしょ」
何の事だ? 何を話しているんだ、あの2人は。憂茨も不審そうな顔をして、花蓮を見ていた。
花蓮は決心したように立ち上がると、俺たちが止めるのも聞かずにリューリエの所へと向かおうとする。
「どういうことだ?」
腕を摑まれた彼女は振り返りもせずに言った。
「私が行かないと、洞窟の中にいる人たちが殺される。天界の人たちが傷つけられるの……」
声が震えていた。泣き出しそうに、恐怖に負けそうな自分を叱咤するように。憂茨の手を払い歩き出した。
「行かないと。私が行けば、彼らはもう天界へは手を出さない。天界の人たちに助けられたの。だったら、この命は天界のために使うわ」
前へと進んでいく。震える足で、一歩一歩。確実に。
「憂茨。どうか――どうか幸せになって」
狂ったような女の嗤い声が木霊する。勝ち誇っているのだ。憂茨の目の前で、再び花蓮を奪ったことを。天界に大打撃を与えたことを。
ひとしきり、嗤った後にリューリエがかつて片腕があった場所を撫でながら言う。
「まぁ、予定とは違ったけど――用事があるのは器じゃないから」
――刻印を持つ者。そのためだけに、あの悪魔は天界まで侵攻してきた。
俺もあいつの刻印を持つ者だ。それなら、花蓮を取り戻すのに、俺自身を材料にできるはず。闘えない花蓮よりも、俺があちら側へ行ったほうが生き残れる可能性が僅かでもあるはずだ。
「花蓮を返せ。俺が一緒に行く」
「何言ってるの? あなたなんかにもう興味はないわよ。天界の汚い手で触れられたあなたにもう価値はない」
リューリエは、汚物を見るような目でこちらを見る。そして消えた。初めからなかったかのように、花蓮と共に。
下位悪魔たちも同様に、次々に消えていった。
+++
洞窟から、人の気配がした。何人もの人が、動いている。ぽっかりと開いている穴の中から、犬が這い出てきた。
「ゾーイ……」
毛皮にべっとりと真っ赤な血がついている。ゾーイは憂茨のズボンのすそを摑むと激しく引っ張った。速く来てほしい、速く速くとせかすように。
人を外へと出した後、中へと入る。錆びた鉄の様な匂いで充満していた。洞窟へと逃げ込んだ人々は、全員が怪我をしていた。きっと、そのせいだろう。
それが理由じゃないといけないんだ。どんな時も、奪われていい命があったらいけないんだ。
ゾーイが伏せる。至る所から血を流し、倒れている花蓮に。血を止めようとしたのか、大量に血を吸い込んだ布が落ちていた。
「嘘だろ……だって、さっき――生きてた」
憂茨が泣いていた。声にならない声で。何度も大事な人の名前を呼んでいた。
もう、息を吹き返すことのない少女の体を抱いて。




