2話
陽が傾いてきた。1日がそろそろ終わりを迎える頃になっても噴水の横には、ぽつんと1匹で犬が伏せていた。そろそろ天界でも夕方が来る。家へ帰らなければ憂茨たちが心配してしまう。
それでも噴水の傍から離れることができなかった。一緒にいてあげたくて。傍に寄り添うと、犬もこわごわと擦り寄ってきた。
若桜は噴水の縁に座り、時々花蓮を見ていた。結理はすぐ戻ると席を外したわりには、全然戻ってくる気配を見せない。
「そろそろ、帰るか?」
「若桜さん、もう少し……ここにいてもいいですか?」
「構わないよ。今日は、ここで夕飯を食べて行ったらどうだろう? 夜には蝋燭がたくさん灯るから、静かでとても綺麗なんだ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、何か買って来よう。何が良い?」
「何を食べたらいいのか……」
「お勧めを持って来よう。ここにいてくれ」
若桜の背を見送った後、花蓮は思う。
長いこと悪魔に追われ、人間らしさをあまり味わったことがない。今こうして、天界で平和なひと時を送れるのは――あの時、命がけでたくさんの人が助けてくれたから。助けてもらった後も、こうして支えてもらっている。
それなら、転生するまでの間――少しの間だけでもいい、誰かの、何かの支えになりたい。
「花蓮! まだここにいたのか?」
後ろから聞こえてきたのは憂茨の声だった。
「ごめんなさい、心配かけて……」
「それはいい。連絡を貰っていたから問題ない」
「柊さんは?」
「少し遅れてる。その犬は?」
「ここで1人ぼっちでいるの。なんだか離れられなくて」
「柊の家では飼えないぞ。それに、ここにいるなら転生待ちだろう」
「うん……分かってる。でも何かしてあげたいの。私、色んな人に支えて助けてもらってる。今日も買い物に連れてってもらったり、美味しいものを教えてもらったりした。少しでも誰かに、何かに恩返しがしたくて」
「それで、その犬か?」
「本当はこの犬じゃなくてもいいのかもしれない。でも、何かしたいの。地上へ戻れるかどうかも分からないし……」
「どうしたい?」
「……柊さんには迷惑かけちゃうかもしれないけど、この犬と一緒にいたい」
蝋燭に火が灯り、優しく辺りを照らし出す。隣でじっとしていた犬が、頭をすり寄せ、指先をなめた。1人でも大丈夫だよ、とでも言うように。それでも離れる気にならなかった。
「おい、いつまで黙ってみてる気だ」
「ごめん、ごめん。まだ2人で話したいかと思って」
そう言って出てきたのは、柊だった。両手いっぱいに荷物を抱えている。その隣には結理とエリカが満足そうに立っていた。
「ごめんねぇ。ずっと犬のこと気にしてたから、ちょっと調べてきたの」
「うちは、ちょっと柊と話をしてな」
「あれは会話になってなかっただろ。一方的に話してて」
「やかましい。荷物置いて、若桜ちゃん手伝ってきて!」
「人使い荒いな……」
ぶつぶつ文句を言いながら、柊が去っていった。遠くで若桜と何か言われ、荷物をたくさん持たされている。
それからみんなで食事をした。7人と1匹で。賑やかな食事を。その時、結理から犬の飼い主は、やはりすでに転生したことを聞いた。犬の名前はゾーイ。人生という意味を持つということを。
そして、運命の日がやって来た。
日蝕の日が。
天界の者は当然、警戒はしていた。地上で何かが起こるのではないかと。
だが。
事件が起こったのは、天界だった。
空を埋め尽くすほどの黒い大軍が、押し寄せてくる。それを発見したのはゾーイだった。