4話
背後からは柊が引きつけ切れなかった黒い群衆が空を駆け、地を駆け、迫ってきていた。
逃げても、斬っても減る様子はない。むしろ増えているようだった。あの悪魔の言うように、追いかけっこなどと言う生易しいものではない。多勢に無勢、花蓮と逃げていたとき同様に数で押すつもりでいるのだろう。
足で砂を蹴散らしながら、病院へ向かっていると――背後から、下位悪魔よりも強い匂いがした。匂いは徐々に強くなっていく。もう、誰だかは分かっていた。
「その大事に抱えてるお弁当、食べた方が良いんじゃないですか?」
「お前か。柊はどうした?」
「さあ。他の者に任せてきたので、分かりません。今頃、悪魔たちの腹に収まってるかもしれないですね」
「魂の価値なら、あいつのほうが上だ。刻印を持つ者だからな。お前も行って食事をしてきたらどうだ? 今からでも遅くないだろ」
「インタリオも魅力的ですが――私には、あなたを狩る方が重要だ。裏切り者の断末魔を聞きながら、食事をしたいんです」
下位悪魔と同じ蝙蝠の様な被膜を使ってミューズリーが浮いている。その顔が醜く歪み、こちらを睥睨していた。瞳は血のように紅く輝きを放つ。
――来る。この子を奪いに。
ミューズリーの攻撃が始まった。彼は一足飛びに迫ると、真っ直ぐに迷いなく拳を叩きこんでくる。幅広の長剣を盾にして、防ぐと同時に――蹴りが飛んできた。防ぎきれず、ちぃこを抱いたまま吹き飛ばされる。
「あと、何度武器を呼べるでしょうね? そこまで劣化してると、さすがに辛いんじゃないですか?」
勝ち誇ったようにミューズリーが言った。もう何度呼べるかは、こちらにも分からない。でも、負けるわけにはいかなかった。手放すわけにはいかなかった。腕の中に抱いている小さな命を。
――守るために、戦わないと。攻撃に出ないと。
再び突っ込んできたミューズリーめがけ、長剣を投げる。長剣は彼の肩を掠めて消える。ミューズリーは好機と見て、さらに速度を上げた。ちぃこに手が迫る。
「くそっ」
一度後方に退くが――彼の手は、なお伸びてくる。身体を後ろに力を込めて倒す。その反動でミューズリーの顔を力いっぱい蹴りつけた。悪魔が地面に転がり、顔を抑えながらゆらりと、立った。
「あああああ……痛ったあ……痛いじゃないですかぁ……」
ミューズリーは周囲で様子を窺がっていた悪魔を一人掴むと、噛みつき喰らい始めた。苦しみ悶える悪魔の声が辺りに響き渡り――喰われている悪魔がこちらに、助けを求めるように手を伸ばす。やがて声はやみ、悪魔はミューズリーの腹へと納まろうとする。
――あいつを倒さないと逃げられない。そのためには……。
ぎゅっと両手でちぃこを抱き、その隙を逃さず突っ込んだ。ミューズリーが目だけで笑う。もう、こちらに武器を呼ぶ力は残っていないと思っているのだろう。
「来い、血まみれの伯爵夫人」
「――っ!?」
悪魔たちの羽音が聞こえる。闇夜が濃くなりつつある空へと消えて行った。
「狩りは、楽しかったか?」
「そこそこ。食事中に刺すなんて、卑怯だなあ……」
「――これが、裏切り者の戦い方だ」
徐々にミューズリーの体軀が砂へと変わっていく。その様子すら楽しんでいるのか、彼の顔から笑みが消えることはなかった。
「――ああ、そうだ。1つ、良い事を教えてあげますよ。彼女は――あなたの大事なお姫様は、まだ生きてる」
「そうか」
「……その子を、あなたは食べるべきですよ。お姫様を助けるために」
やっとの思いでたどり着いた病室には、機材に繋がれて生かされている小さな体があった。その隣には、憔悴しきり目の焦点も合っていない女が1人で椅子に座り込んでいた。彼女はちぃこの手を取り、ぎゅっと握りしめる。
「ママ……」
ちぃこは母親のところへ駆けて行こうとしたが、やめた。後ろを振り返り、ぎゅっと憂茨のズボンの裾を握りしめる。
「どうした? 母親の所へ行け」
「……ありがとう。怖いうさぎさんたちをやっつけてくれて」
「怖い……うさぎ?」
「うん! うさぎさん、おめめがあかいでしょ?」
「……」
一生懸命上を向いて、笑顔を作る。怖くて泣いていた女の子が笑うのを見るのは二度目だった。
一度目は、花蓮。二度目はちぃこだ。
「ありがとう。柊お兄ちゃん。憂茨お兄ちゃん」
そのまま駆けていくと、ちぃこは自分の体に戻っていった。
「憂茨お兄ちゃん、ずいぶんとボロボロじゃないか」
「怖いうさぎさんたちに囲まれてな」
「はあ? 怖いうさぎ?」
「ああ。ちぃこが持っていたうさぎ、目が赤かっただろ。目が赤いイコールうさぎ」
「子供語は俺には分かんねえわ」
「俺もさっき知った」
頭をがりがりと搔きながら、柊が大きく伸びをする。彼の身体もボロボロになり服が避けていた。
「なあ、柊……俺が、あの子を食うとは思わなかったのか?」
「思わなかったって言ったら嘘になるかな。お前、迷ってたし」
「そうだな……」
「でも、途中で決めただろ。守る《こっち》側になるって」
「そうだな」
――抱いた時の重さが、命の重さが花蓮と変わらなかったから。だから、守り切れたのだろう。
「若桜が迎えに来てる。さっさと天界に戻ろうぜ」
+++
あの日は、雪が降っていた。降り積もった白を掻き集め、花蓮はひたすら歪な形の何かを作っていた。
何度やっても思い通りにならないのが悔しいのか、何度も何度もやり直している。そのおかげで、花蓮の頭には雪が積もり始めていた。
体が冷えれば、風邪を引く。人間の子供は、壊れやすいから。花蓮が苦しむのは、どんな時でも見たくない。
「花蓮、行くぞ」
「うん。でも、あとちょっと」
「さっきから、何を作ってるんだ?」
「ないしょ」
雪が降る中で上を見上げ、花蓮が能天気に笑う。その笑顔をみて、アンヌを思い出した。でも、この子は彼女とは違う。持っている魂は同じだが、全然別の人間だ。
初めて出会った時は、院の隅っこで寂しそうに1人で遊んでいた。雨の日は本を読んでとせがみ、晴れた日には一緒に遊んでと手をひかれる。風邪を引いたときは、傍にいて欲しいと、1人が寂しいと泣いていた。
「お兄ちゃん。これ!」
ようやく気に入った形になったのか、花蓮が無邪気な顔でそれを押し付けてきた。
小さな掌の上には、ただの歪な形の雪玉。それには石ころが2つ付けられている。さらに玉の上には、小さな木の枝が2本不恰好に鬼の角のように突き刺さっていた。
「これは?」
「雪うさぎ! じょうずにできなかったけど、あげる」
「……ありがとう」
この日、ローランド――憂茨は、人間と再び繋がりを持った。胸の辺りが熱を持ち、何かが肌に食い込んでいくのが分かる。
それが何の痛みか俺は知っている。すでに1度、経験をしていたから。この痛みは、人間と再び縁をもったことへの烙印だ。
そうして憂茨は烙印の痛みに誓った。
――花蓮を1人はしない。この子を守り続けよう。この命が無くなるその日まで。
「もう、1人にはしない」
憂茨は空いている片方の手で、花蓮を抱きしめた。
彼女は嬉しそうな顔をすると、ぎゅっと首元に縋り付いて言う。
「かれんも! もう、お兄ちゃんは痛い顔しちゃダメだからね!! やくそくだよ」
花蓮はあの日の能天気女と同じように声をあげて笑った。
いかがだったでしょうか?
憂茨視点の話は今回で終わりです。
次回から、また柊視点の話に戻ります。
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