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――愛する主よ、私に力をお与えください。
帰る道を失った時、心が暗闇に囚われる時、
心を鎮め道を切り開く力をお与えください。
私たちが行く道の先に希望をお与えください――
扉が、何度も何度もガンガンと叩かれる。その音はどんどん激しくなり、大人だけではなく子供たちが何事かと起き出してきた。
嫌な気配がする。それは、眷属の気配。その扉を、開いたらいけない。開けたら最後、もう後には戻れない。
「今、開けますので……」
院長が扉を開けた瞬間、赤々と燃える火が飛び込んできた。人が焦げる臭いがあがる。次いで響き始めたのは、悲鳴と哄笑と絶鳴。火は木製の家具に移り、灯りがいらないほど院内を明るく照らす。リノリウムに転がる黒くなった体、紅い水溜り。
――早く、いかないと。逃げないと。早く、速く。
襲撃者の視線を避けて、憂茨は真っ先に花蓮の所へ向かった。彼には襲撃者に心当たりがあったから。
誰かの断末魔と狂ったようなに笑う声が、どこからか聞こえた。徐々に自分たちのほうに近づいてくる。
今、施設を襲っているのは人間じゃない。
あの子の持つ、輝く宝石を狙ってここまで追ってきた、悪魔だ。彼女を――花蓮を守らないと。ここで死ぬわけにはいかない。
近くで誰かの断末魔が響き渡った。狂ったような笑い声が聞こえた。そして、また誰かが命を落とした。再び笑い声が聞こえた。
繰り返し、繰り返し、何度も何度も。
圧力――彼らだけが持つ特有の力――魔力が膨れ上がるのと共に、命がいくつも喪われていく。
親を喪い、助けを求め、院にやっとの思いでたどり着いた彼の、彼女の、大事な命が。自分が命を投げ出せば、何人かは救えるかもしれない。同じ、眷属同士の力をぶつけ合えば。でも、今はそれはできない。花蓮を助けないとならないから。
――早く花蓮を連れださないと。
「花蓮、花蓮。どこにいる?」
「……お兄、ちゃん」
ベッドの下から、ウサギのぬいぐるみを抱いて幼い子供が出てきた。女の子は、大きな緑色の瞳に大粒の涙を浮かべて、がたがたと震えている。
「ペンダントは? 持ってるか?」
「つけてる。いつも、もってる……」
「ならいい。あれは大事な物だから、失くしたらダメだ」
「うん」
「花蓮、ゲームをしようか。いつもやってるやつ」
「いるばしょどこだ?」
「そう。目を瞑って、今自分がいる所をあてるやつ。今日は花蓮からからな。良いって言うまで、目を開けるなよ」
「わかった……」
花蓮を抱いて、部屋を出た。近くで話し声がする。女の声だ。緩やかに、歌うように、惨劇を楽しむように。廊下の曲がり角の先を窺がうと、副院長の腕が転がっていた。
「この辺からだ。気配がする。インタリオの気配が。どこにいる? どこに隠した?」
「やめ……」
「どこに隠した。言えば、助けてあげるわ」
「何も隠していない。ここには、何もない……」
「はあ? 確かにここにあるわよ。あれは私たちにとって、宝石みたいなものよ。特にあのインタリオは素晴らしいわ。みんなで山分けしても、受けられる恩恵は絶大……」
「なん、の話を――」
「言いなさいよ、このクズが! なんの力も持たないクズ石《人間》が!!」
「ひぃっ……あっ、やめ――あああああああああああああぁぁぁぁぁ」
何かが、血溜まりにびちゃりと音を立てて転がる。
光を失った瞳が、恨めしそうに瞬きひとつせず、こちらを見つめていた。