第六十一話
第六十一話、投稿しました。もうすぐ年明け、早いもので一年が終わりそうです。同じように、初投稿して一年が経とうとしています。早いものです。
「先輩と夕平は……付き合ってるんですか?」
暁の声が、重たく湿った空気と共に流れる。
空は、雲の多い微妙な天候を示していた。午後から激しく雨が降るかもしれない、という予報があったことを彼女はふと思い出す。
「……だったら、どうなの?」
「…………」
目の前には、『ある人物』が佇んでいた。
自分なんかより何をとっても上回り、多くの才能に満ち溢れている、羨み憧れるべきまさに完璧な人。
というのが、彼女────千夜川桜季に対する、暁のイメージだった。
「キツい言い方になるけど、少し彼と付き合いが長いってだけで、私は負ける気はないよ。欲しいものは欲しいって、言っちゃう人間だから」
「私は……」
そんな桜季と、今は二人だけで相対している。
緊張して心臓が跳ね続けている暁とは対照的に、静かに、落ち着いた声が耳障り良く通る。
「……私は、勝ちとか負けとか、そんなのは……」
ぎゅっとスカートの裾を握り、たどたどしく言葉を紡いだ。
「立花ちゃんだって、夕平くんのこと……好きなんでしょ? 諦めちゃうの? ……まあ、私が言うのもあれなんだけどね」
「…………」
夕平のことが好きか。
この問いは、今の暁にとっては耳が痛い言葉だった。
何度も何度も、自問した。そしてその答えはまだ出ていない。────桜季と違って。
「……ずっと前、メールで先輩が夕平のこと好きかも、って話してきてくれた時あったじゃないですか」
「結構前だよね。確か、遊園地からそう経ってなかった時かな」
「それ、最初は冗談だと思ったんですよ? まさかあの千夜川先輩がそんなわけ、って」
「あはは、そうだったの? 酷いなー」
クスクス、と二人で笑い合う。
思えばあの日から、夕平のことを意識し始めていたかもしれない。
あのバカな幼馴染みのことを、どう思うのか。
そう考えるようになったきっかけは、桜季のそのメールで。何を思って自分にその事を教えたのか、その真意は掴め切れずにいたが。
夕平と二人になる時にしばしば、その問いは耳元で囁かれているかのように蘇った。気にしない気にしないと目を背けて、聞こえないふりをしても無駄で、つい抑えきれず変なことを彼に口走ったりした。
夕平のことは好きだ。でなければ、長年一緒にいたりなんかしない。
でも、それは男だ女だの問題よりも、恋人同士の睦言の交わしあう姿を想像するよりも、もっとそれ以前の感情でもあった。
「ふふっ……でも、本気なんだって分かって、ますます驚いたのと一緒に、『寂しくなるな』って思ったんです。もし二人が付き合ったら、私との縁も遠くなって、そしたらもう気軽に遊べなくなるのかなって。寂しいなあって、ずっと……今までだって内心そう思ってました」
しかし、それも仕方ないことだとも思った。
変わらないものはない。今までのぬるま湯のようだった関係が終わることを、恐れながらもどこかで覚悟していた。
「でも、先輩は凄い人で、私なんかよりずっと素敵な人だから。だからきっと、夕平と上手くやれるだろうし……というかむしろ、夕平にはもったいないくらいかも、なんて思っちゃってましたもん」
夕平のことは好きだ。
だから、少し大げさな言い方をするなら、この先何十年と、ずっと幸せでいて欲しい。
そして、桜季なら────博識で容姿端麗な彼女と一緒なら、そうなる可能性は高い。
先輩なら、夕平を任せられる。
先輩なら、自分よりも夕平を幸せに出来るだろう。
夕平でも誰でも、どちらを選ぶと問われれば、当たり前に桜季を選ぶはずだと。
だから、寂しくなんかないし、夕平にはむしろ喜ばしいことだと思っていた。
「…………」
「……でも、やっぱり」
そう、思っていたのに。
「……見ちゃったんです、私。『あの時』のこと────」
暁は、声が震えそうになるのを必死に抑えて、ゆっくりと口を開いた。
◆◆◆
時は遡って、一時間前のこと。
今日という日の始まりは、ここからだった。
いつものように登校するのと同じ時間に、桜季は家を出た。
ただし違うところは、今日は制服姿ではないことと、手に持っている鞄が学校指定のものではなく、いつも自習しにいく時のための簡単な手提げであるということだ。
夏休みに入って数日経った今朝は、通学路であっても静かだ。
近隣の小中学校も夏休みなのだから、こんなに朝早く起きる学生も、そうはいないに決まっているのだが。
その代わり、我が物顔で鳴く蝉の声が、よく響く。
「……ちょっと、暑いかな」
空を見る。
雲の多い、どんよりとした天気だった。今はまだ堪えていても、いずれ降りだすことだろう。折りたたみ傘を入れていて正解だった、と桜季はひとり呟く。
肌を焼く日光を覆ってはいるものの、蒸し暑い季節であることは変わりない。
歩きながら、桜季は額の汗を拭った。
およそ三十分はかかる通学路を、彼女は歩いていく。家族にも告げていない『ある約束』のために、清上学園へと歩み続けた。
やがて、ある駅が見え始めた。
桜季の家から清上学園までは、電車で二駅のところにある。
この無人駅には、清上学園の最寄りの駅に届く電車が一時間に一本の間隔で通っている。だからこの時間でないと間に合わない。
もっとも、本来であればこんな時間に出かける必要もないのだが。
「あれ?」
しかし、そのホームには桜季より先に見覚えのある一人の少女が佇んでいた。
私服選びが面倒といった風に学校の制服を着て、手には鞄一つ、何をするでなく手持ち無沙汰に電車を待っている様子だ。
清上祭以来の彼女に、桜季が近寄る。
「柳月ちゃん?」
「あ……おはようございます、千夜川先輩」
声をかけると、桜季の存在に気付いたようで、少女────祈が振り向いた。
「どうしたの、こんなとこで」
今日が学校閉鎖中で、生徒どころか教員や関係者一切が学校にいないことは、祈なら当然知っているはずだが。
すると、彼女はその問いに丁寧に返す。
「学校で自習……と思っていたのですが。しばらく学校も開いてないようなので、近くの図書館で自習しようかと」
「流石、熱心だね」
「千夜川先輩は……何か、ご用事が?」
「私?」
静かに、しかし息苦しいかのようにどこか断続的な響きの語調で尋ねられた。
何かを問い詰めるような瞳でもって、じいっと見つめられる。
「ちょっと、人と約束があってね」
「そうですか……」
会話が途切れる。
二人は並んで立ち、それぞれに何か考え事をするかのように沈黙を共にした。
こういうことは、祈と一緒だとよくあった。
取り立てて不仲というわけでなく、あまり話すようなことがないというべきか。聞きたいことを聞いたら、そこで自己完結してしまう少女なのだ。
だから一度こうなると、自然に、桜季の方から口を開くことになるのだ。実際、話を振るときちんと答えてくれるため、単純に絶望的な話下手というだけではないようだが。
「柳月ちゃんって、相川くんのこと好きなんだっけ」
「……それがどうかしたのですか?」
ちらり、と桜季の意図を窺おうと視線を向ける。
「ううん、ふとそう思っただけ。でも、結構ドライだよね? お祭り、一緒じゃなかったんでしょ?」
「清上祭は、仕事がありましたし」
「でも相川くんは他の女の子と一緒だったのに、気にならなかったの?」
祈は、考え込む素振りを見せて大真面目に頷いた。
「私は、あの人に嫌われているでしょうから」
「嫌われてる?」
「疎まれている、といった方が正確でしょうか」
祈は、その言葉の内容とは裏腹に、ふふ、と珍しく笑う。
「私は、拓二さんにとって、都合の悪い人間のようなので」
「都合の良い悪いなんて気にしてちゃ、恋なんて出来ないよ?」
────いや、本当に珍しい。おかしいほどに。
あの祈が笑うなんて。桜季は、今まで見たことが────と思うと同時、打ち消すようについ最近見た彼女の笑みが追憶された。
あれは、そう、清上祭の最後────
「女の子は押していかないとね。こう、ぐいぐいって」
「そういう、ものなのでしょうか」
「……まあ私も、雑誌とかで見たくらいの知識だけど」
桜季が苦笑すると、祈はこう尋ねた。
「千夜川先輩も、そういったものを読まれるのですね」
「なんか地味に馬鹿にしてない? 私だって、漫画とかも読むよ。乱読家だから、本棚は凄いもん。極端なこと言えば、『◯に届け』の隣に二十年分の分厚い赤本置いてあったり」
「はあ……」
どうやら、祈の方は漫画には明るくないようで、よく分からないと言わんばかりに曖昧に答える。
「でも、恋愛ものは結構好きよ。感動したり共感したり出来るし」
桜季は、言葉を紡ぐ。
「まあもし、本や映画みたいな創造物への共感じゃなくて、自分の中で見つけて、確信した恋があるのなら……私は、大切にしたいって思うかな」
言葉を紡ぐ。
「その気持ちは、誰にも負けたくない……きっとそう思う」
「…………」
「いや、〝思ってる〟。だから……だからね?」
言葉を紡ぎ────そして最後に言った。
「────〝柳月ちゃんが今思ってる通りで、大体間違いないよ〟」
その言葉が合図だった。
まさに、そう言い終える寸前────先に動いたのは祈だった。
鞄の中から手を抜き、遠くへ捨て去る。
そして、機敏な動きで手の中の『もの』を桜季に突き付けた。
だが────その先に手応えはなく、その攻撃は虚しく空を切る。
「あ……っ!」
ほんの一瞬の出来事だった。
突き出した祈の細い二の腕は、流れるような動きで、とられ、受け流され、捩じ伏せられた。
まさしく『赤子の手を捻るように』、瞬きするような一瞬で、祈の身体は『もの』を持っている片腕を残して、地面に組み伏されていた。
小手返し。
相手の攻撃の勢いを引き込み、身体のバランスをタイミングよく崩させる合気道の技の一つ。
警察の逮捕術に取り入られている技術である一方、そう文面通りに簡単にはいかない(事実、現行犯逮捕などで現実に相手に極める例は少ない)、とにかく実戦経験がものを言う技であるのだが、それよりも何よりも。
「……っ……どう、して……」
極まっている関節の痛みに堪えながら、地面に這いつくばった苦しい状態でうめくようなこもった声で問う。
同時に、ゴトッ、と動かせない手に持っていたものが音を立てて滑り落ちた。
〝祈の手には少し余るほどやや大きめの、黒く二つの小さな突起が付いた『それ』は、スタンガンだった〟。
「どうして? ……今のじゃ全然不意打ちになってないからかな」
桜季の動きは、明らかに祈が動き出すより早かった。
突然の攻撃に身がすくみ、意表を突かれれば、思考が固まってろくに動けなくなる。それは誰だってそうで、桜季でも例外ではないはずだった。
だが今の祈の奇襲は、完全に読まれていた。予定通りといわんばかりの対応で、しかもきっちり小手返しなどという技をかける余裕があったこと。
それが祈には分からない。
「柳月ちゃんは、色々分かりやすいしね。目の動き、声のトーン……あと、最近知ったんだけど、〝柳月ちゃんって、緊張すると笑う癖があるのよ〟? 知ってた?」
「…………」
あの清上祭の終わり際の時も、そして先ほども。
桜季に対峙する度、祈は笑っていた。
────まるで自分の内に迫る圧迫的感情の支配から逃れようとするかの如く。
「そ、れだけ……ですか? たった、それだけで?」
信じられない心地だった。
たったそれだけでこうも見抜かれてしまうなら、最初から勝ち目はない。
というより、それほど根拠の乏しい中で、そのようなことを考えるものなのだろうか、と。
「柳月ちゃんに納得させるように、もっと言うなら────」
そんな祈の心情を読んだのか、さらに分かりやすい言葉で、諭すようにこう告げた。
「今日の天気、知ってる? 午後から雨の予報なんだけど……〝柳月ちゃん、傘、持ってないでしょ〟?」
「っ────!!」
黙したまま、はっと息を呑む祈の目が、今度こそ大きく見開かれた。
祈は、ミスを犯していた。
彼女は手に傘を持ってないどころか、鞄の中に折り畳み傘も入れていなかった。
入っていたのは、ダミーの教科書やノート、そしてスタンガンだけだった。
「迂闊……とは言わないよ。こんな重箱の隅を楊枝でほじくるようなこと」
慰めるかのように、上から桜季が話す。
「でも、それがあったから柳月ちゃんの言ってることは最初から嘘だと思ってた。言っとくけど、これが夕平くんとかなら、忘れてきたとかでも通るんだけどね。柳月ちゃんは、そんなこと絶対ないでしょ? ……本当に図書館に行くつもりだったなら、ね」
「…………」
言葉がない。
何時か、桜季に折り畳み傘について話したことがあるのを思い出した。
その時言ったことには、『折り畳み傘は教科書を濡らしてしまうので鞄に入れても意味がない』という、たわいのないことだった。
あの時の会話を考えに含んでのことだったのだろう。
結果、桜季は、一から全てを見透かしていたのだ。
「例えば相川くんなら────」
桜季は、落ちたスタンガンを器用に拾い上げて、手の中で弄ぶ。
「────ひょっとしたら、上手くいったかもしれないわね。自然に表情を隠すのも上手いし、何より、こんなミスもしなかったんじゃないかな」
そして、その先端を、そっと祈の首筋に押し当てた。
「経験の差だよ、柳月ちゃん。きみは賢いけど、経験が追い付いてない。そもそも本当はこんなことに向いてる子じゃない……でしょ?」
「…………」
「……これは、相川くんの考えじゃないよね。どうして、こんなことしたの?」
母親が悪戯をした子供を諭しているかのように、柔らかな語調。
とても仲の悪くない顔見知りから急襲を受けた直後とは思えない、落ち着き払った態度であった。
「っ……私は……」
「うん?」
一方、言ってしまえば結局、祈にはその余裕が無かった。スタンガンで襲うことだけに捉われ、その他に気を配る余裕がなかった。
それが、二人の差であり、この結果であった。
「千夜川先輩は……立花先輩を殺したりなんて……そんなこと……」
絶え絶えに言葉を発しながら、祈は必死で頭を動かし、桜季を見ようともがく。
「私は、ただ止めようと思って……たとえ、あの人が望まないことであっても、それでも私は……」
「……思い悩んでたんだね、ごめんね」
桜季は悲しげに、そっと瞳を伏せた。
一拍の間を置いて、言葉を選んでこう告げた。
「ここにいて、柳月ちゃん。……ううん、〝祈ちゃん〟。止められなかったこと、気にしなくていいからね。きみのせいなんかじゃないんだから。……ありがとうね」
「待っ……」
「行ってくるよ────だから、ばいばい」
弾ける紫電の音が、無人の駅に木霊した。
それだけで、祈はもう動かなくなって、倒れた。
口の端からは唾液が垂れ、残った電気が時折ピクリと身体を跳ねさせる。
「……さて、多分鞄に……」
電車が来る前、そして祈を椅子に座らせるよりも前に、投げ捨てられた祈の鞄を手に取る。
そして、その外ポケットをまさぐると、スマホを見つけて取り出した。
〝そのディスプレイは、『通話中』と表示されている〟。
「あったあった……もしもし」
電話の向こうからは、しばらく返事がなかった。
しかし桜季には、この通話の先の相手に心当たりがあった。
「……今の聞いてらしたんでしょう? ……〝探偵さん〟」
『っ!?』
電話口から、驚きで息が詰まったような気配が耳に届いた。
どうやら、間違いはないようだった。
『な、何だよ今の音は! い、いのりちゃんは! 無事なんだろうなっ……!』
そして、通話先の相手────探偵、細波享介が、食い掛からん勢いでまくし立ててきた。
少し煩そうにしながら、桜季はさも何事もなかったかのように答える。
「落ち着いてください、ちょっと動かなくなっちゃいましたけどちゃんと無事ですよー。別に祈ちゃんに何も害意なんてありませんから」
あっけからんと返す桜季。
しかし実際、それは本当のことだった。これ以上の危害を加えるつもりもなかった。
ただ……と顎をしゃくり、思考に耽る。
「バックアップ……もしもの時のために、祈ちゃんなら誰かに話を聞かせてると思ってたけど……やっぱり、相川くんは避けたか……本当に協調関係が乱れてるのかな」
『……? なんの話だよ!?』
「こっちの話です。……探偵さんは、祈ちゃんに信用されてるんだなあって」
一を聞いて十を知る、目から鼻へ抜ける、という言葉が相応しいこの何もかも見透かすかのような洞察力こそが、桜季の真骨頂の『一つ』だった。
「まあとにかく、どうぞこちらに。私はやることがあるので、代わりに祈ちゃんのこと見てあげてください……それじゃ」
『おい、ふざけんな! ちょっと待て────』
通話を切り、その声が届かなくなった。
「さて、問題は相川くんかな……」
鞄にそのスマホをしまって返してやる。
そして、今も倒れたままの祈に視線を移した。
「……流石に、このまま放置したらまずいよね。祈ちゃん軽いといいけど……あはは」
一人ごちり、それからかすかに苦笑した。
◆◆◆
車は、清上学園の数百メートル離れた路肩に駐車し、じっと様子をうかがうように停まっている。
『タクジ・アイカワ。目標が電車から目的地付近の駅で降車するのを確認した。黒髪を二つ結びにしたバッドガールの姿は、乗車駅から姿が確認できない』
車内で、感情に乏しい女の声が俺に向けられた。
目下、桜季を尾行中しているネブリナの人間からの連絡だった。
助手席に座るその金髪女は、どこを見ているのか分からないその目で俺を捉えたりはしない。よく見ると不自然に焦点が合っていないのが分かるだろう。
「失敗したか……いのり」
その言葉が意味することを理解して、俺は細長い息を吐いた。
桜季と俺の衝突を最初から望んではいなかったあいつのことだ、大方桜季そのものを止めて生き残りをかけた殺し合い阻止しようと考えたのだろう。そのためだけに、いのりがここまで直接的な行動に打って出るとは思わなかったが。
「無駄さ……今更お前が止められるようなもんじゃない。『流れ』はすっかり出来ちまってんだから」
不思議なことに、俺の中には小さな失望感すらあった。
もちろん、成功を願ってはいなかった。あいつのやることは、ことごとく俺の意に反する。
あわや成功すれば、桜季はもちろんのこと、舞台を整えてここまで来た俺にとっても困る事態を引き起こしていただろう。まあ無いとはいえ、もし万が一これまでの苦労が水の泡とか、想像するだけでぞっとする。
しかしそれはそれとして。『あの』いのりが失敗したという事実が、ずしりと肩にのしかかる。
改めて、心構えをしておかなくては。
まだ対面せずとも、桜季の存在感が増していくような感覚が募っていった。
『タクジお兄ちゃん、緊張してる?』
「…………」
そんな中、ピンと張りつめた神経を、まるで無邪気に指で弾いて弄んでいるかのような調子の声が掛けられた。
幼げなその少女の声自体は、可愛いだのなんだのと誉めそやされるのだろうが、生憎今この状況においては場違いはなはだしい。
『……〝とりあえず膝から降りろ、ベッキー〟。狭いぞ』
『えー』
当たり前のように俺の膝に腰かけてくるこの小さな物体のことを、俺は知っている。
弱い十歳にも満たないであろうこの少女はベッキー────〝あのフリークチームの生き残りといえば、分かりやすいだろうか〟。
拷問好きの少女で、被虐者の苦痛に泣き叫ぶ姿を嬉々として喜ぶところから、『涙好き』という二つ名を冠する。イギリスのあの事件では、トップファイブの一人を拷問し情報を吐かせ、暗躍していたりしていたのだとか。
今はその功績が認められ、後見者の監督のもと、準幹部に等しい立ち位置にまで昇進し、個人の部下も持っているという見事な大躍進ぶりらしい。
それが何故今ここにいるのかと言えば────わけを説明すれば数日前に話が遡ることになる。
『……そのまま、学校まで目標を追ってくれ。いのり、そしておそらくやって来る細波の身柄は、俺が言った通りに「処理」して、絶対に学校に近付かせるな』
まあ逆に考えれば、これで図らずも、いのり達不確定要素を今回の件から排除することが出来たわけだ。
これで、完全に邪魔者はいなくなったと思おう。
最後の下準備は、今整ったのだ。
『ねー、タクジお兄ちゃん、私とも遊んで?』
……甘えたな声音で、ベタベタと寄りかかってくるベッキーが鬱陶しい。
が、気持ちを抑え、押しこもった声は、獣の唸り声に近しい程に低かった。
『……いい加減どいてろ、お前に構ってる暇はない』
『でもー……』
『……あのな。俺が遊んでるように見えるか? 悪いが今集中してんだ、邪魔は────』
追い払おうとした手を、次の一言が目に見えない言霊を伴い制止した。
『遊んでるように、見えるよ?』
「あ……?」
幼児特有の舌足らずな口ぶりと、曇りのないその瞳が、事もなく俺を射抜く。
『〝だって、お兄ちゃん────楽しそうだもん〟』
「…………」
言われて、しまった。
俺自身、見ないふりをしていた自分の正体を、本性を────簡単にさらけ出す。
まさに今自分の顔を、鏡で見せられてしまったかのよう。
何故なら、俺は────〝それはそれは愉しげに笑っていたのだ〟。
『タクジ・アイカワ。セイジョウガクエンに一人、小鹿のように気弱そうなシャイ・ガールが姿を現した。中に入ろうとしているようだ』
「…………」
そうだ。
俺は、楽しんでいるのだ。
何を今更、取り繕う必要がある? さも善人ぶる必要がある?
暁を助ける? 夕平を救う最後のチャンス?
────〝そんなこと、今はどうだっていいだろう〟?
瞬間、身体の芯を氷の手で鷲掴みにされたような怖気が走り、怖気が走った。
そこで、我に返った。
────今、俺は……何を考えていた?
夕平や暁がどうでもいいはずがない。今のは、どうかしている。
我執以上の強い何かに、どこまでも囚われそうになった。
いや、落ち着け。落ち着け。
何のためにここまで努力してきたと思っている。呑まれるな、目的を踏み外すな。
『タクジ・アイカワ?』
『お兄ちゃん? どうしたの?』
『……いや、何でもない』
だが、しかし。
こんな局面だというのに────いや、だからこそだろうか────先ほどのキリのない底なし沼へと引っ張られていく感覚こそなくなったものの、まだ心が滾ってしかたない。
まるで、闘技場に赴く寸前の闘牛のように。
早く始めろと身体が叫ぶ。居ても立っても居られないこの高ぶりが、行き場なく熱を持つ。
今この状況に、この上なく昂揚している。
『……それは間違いなく暁だろう。そのままもう少し静観する』
俺は、自分自身をあまり乱暴な人間ではないと思っていた。
もっと理性的な性格であると思っていた。
だが違う。そんなものは所詮、表面上の一面に過ぎない。
それを今、思い知った。
ワニはチーターを喰らい、キリンやカバはライオンを殺す。
状況に応じて、本能的獰猛性は、誰であっても浮かび上がってくるものなのだ。
────俺は、ついに狂ってきたのかもしれないな。
腹の底から内臓が持ち上げられているかのような圧迫感と、内心の焦燥が手汗となって滲む。
過去から引きずった悲願を。命の掛け合いを。
繰り返し夢にまで見た相手を我が手で屠る、決定的瞬間を。
誰にも、この決着を譲りはしない。邪魔などさせない。
いのりにも、ネブリナにもそうだ。
これは、俺だけの問題なのだから。
『タクジ・アイカワ。〝目標が、暁と合流した〟』
『分かった。学園内に入り次第、すぐに俺が出る。後は、手筈通りに』
胸元の十字架のネックレスが、武者震いするかのようにかすかに揺れた。
戦いが、始まる。
初作品です。誤字脱字報告、または感想・批評等あればぜひお願いします。
【追記:六月三日】加筆修正しました。




