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 番外第二話:殺し殺されおしどり夫婦

ツンデレ、ヤンデレ、クーデレ、鬱デレ、ダルデレ――――この世には、多種多様な『デレ』が存在します。昨今の萌えは、今なお飽くなき進化を遂げています。その迅速さ、展開の広さには、感服するばかりです。起源となった数多の作品・登場人物達、そしてそれらを生み出した先人様には足を向けて寝られません。

しかし、そこで私は、また一つ新たな『デレ』を提唱したい。


――――そう、『ンデレ』を!!


()ンデレ:Google検索ヒット数、約17,900 件 (0.26 秒)。

 (コロ)デレ:Google検索ヒット数、約 990,000 件 (0.09 秒) 。

 ……日本始まってた。

『はい、ダーリン。ここの山羊の濃厚なお乳を使って出来たバターがようやくお披露目よ~。焼きたてホカホカのパンと一緒に召し上がれ~!』 


 一人の女性が、顔からこぼれ落ちるほどの笑顔を振りまいて、そう言った。

 とても自然ながら、この世の幸せをまとめて噛みしめているかのような、そんな屈託のない笑みだった。


『あ、あの。ハニー?』

『タクジくんも、どうぞ召し上がれ。何もない所だけど、これだけは唯一のウチの自慢だから、とっても美味しいわよ?』

『あ、ああ。どうもです……』


 その笑顔をおすそ分けするように、俺にも話し掛ける。

 半分居候である俺に対しても、気立ての良い人だ。おまけに彼女は顔立ちも良いし、家事も出来る。

 実際、こんな人を嫁にしている人間は、かなりの幸せ者だろうと素直に思う。


『ハニー……ちょっと待って、マイ・スイートハニー?』

『ふふふ、男の子だからね。遠慮なくいっぱい食べてね?』

『…………』


 ――――だから、俺をそんな目で見るな。


 木製の素朴なテーブルを挟んで俺の真正面に腰かける男、ここの主人であるアルマン=ペーターが、しょぼくれた犬のような目で俺を見た。


『…………』

「…………」


 その目は、こう訴えている。


 助けてくれ、と。


 とても、俺のような子供に向ける目ではない。

 不憫だ。そこらへんのお涙頂戴の映画よりも、よっぽど涙を誘う。

 

『どうしたのダーリン? 食べてくれないの……?』

『ああうん、食べたいよ。お腹も空いたし、これだけのいい朝だ。朝ご飯食べて、今日も一日頑張らないといけないし……でもね』


 彼の目の前に差し出された、朝食……『であるはず』の物を見た。



『この、紫キャベツをミキサーにかけて混ぜたような色をしてる物体は一体……』 

『ウチの自家製ジャムよ?』



 そのパンからは、何をどうやったのかナ〇ック星人の顔のような毒々しい色合いを見せ、バターは見るからに、食べた生き物を殺すための禍々しい斑の紺色が浮き出ていた。

 あまりに、あまりにも冒涜的。これは果たして食べ物と言えるのか。

 立ち昇る黒いオーラが幻視出来る気がする。


 これはあかん。食べたら死ぬ。

 もはや感覚的・本能的に伝わる危険信号が、身体全体に警報を鳴らしていた。


『たーんと召し上がれ♪ ダーリン』


 ――――ここは、スイスのとある農家。俺はそこに臨時で雇われ、数週間だけ生活を共にしていた。

 そこで暮らす夫、アルマンさんとその妻であるナタリー=ペーターさんは、俺みたいな流浪者もどきにも快く接してくれた、ごく普通の気のいい若夫婦である。


 ただ一つ、普通と違うことがあるとすれば。



『――――致死量に届くまで、お腹一杯、ね?』



 ナタリーが、自分の夫(アルマンさん)を、にこやかに殺そうとしていることだけだ。

 

 『だけ』で済ませられるもんじゃないと思うのはさておき。


 ――――これは、そんな少し変わった夫婦のお話。



⋯⋯⋯⋯⋯



『やっぱり、ここに来たばかりの君からしたら異常だよね、こんなのは』


 冴えない調子で、日課の厩舎の糞掃除をしている彼は、こう言う。

 その顔色は先程までとは打って変わって急激に良くない。

 鋤を杖に、しんどそうに糞がこびりついた干し草をかき集めていた。もっとも、それでもその仕事量は慣れた手つきで、俺よりも何倍も早かったが。


 ふと苦笑してみせ、続けた。


『結婚して数ヶ月経つけど、ずっとあんなさ。日に何度も僕を殺しにくる。まだ死にたくないんだけど、参ったもんだよ』


 そんな風に、えらくあっけからんとしてるもんだから、当然俺はそこに追及する。


『その事に、なんとも思ってないのか? 死ぬかもしれないのに?』

『ナタリーはね、僕にはもったいないくらいのお嫁さんだよ』

『……無理して言ってないか?』

『まさか! これが僕の素直な気持ち、偽りなき本心だよ!』 


 唾を飛ばすような勢いで、声を張るアルマン。


『そりゃあ、彼女は僕を殺そうとしてくるけど、でも欠点と言えばそれだけさ!』

『それだけ、ってなあ……』

『顔も良いし、家事は万能! スタイルも抜群、優しい上に顔が良い!』

『顔が良いって二回言ったぞ今』


 まあ、それらを否定する気は俺にもないがな。

 彼女のスペック自体は、全く非の打ち所がない。アルマンの言うことは、惚れた弱みだか身内びいきな目を引いても、確かに本当の事だった。


『とにかく、そんな優良物件、むしろ何か一個くらい欠点があった方が逆に安心できるってもんだよ』

「…………」


 嫁自慢か、と妬みも出来やしねえ。砂糖吐く気にもならん。

 これは真性だ。本気でそう言ってやがる。

 本気で、自分を殺そうとしている女を愛している。

 駄目だこいつ……早く何とかしないと。

 

『……何とも、思ってないのか? 自分の嫁が殺しに来るなんて。嫌われてるとは思わないのか?』

『……それは』


 少しぶしつけな質問かと思ったが、流石にそれどころじゃない事態だろう、これは。

 お世話になってる人間が、分かってて殺されるの見過ごすのは流石に夢見が悪い。

 その気になれば、すぐに警察に届けて離婚してもいいくらいのことを、彼はされている。下手すればDVだ。

 証拠もへったくれもない殺り方だ。彼が望めば、立件は容易い。

 もっとも、今までそんなことしなかったから、アルマンはナタリーと共に暮らしているのだろうが。


 するとアルマンは、寂しそうに目を伏せ、また鋤の柄に手を付いて持たれた。


『なんとも思ってないわけじゃないさ。ただ僕は……こうしてハニーと一緒にいられるだけで十分なんだ。それ以上のことなんて、望んじゃ駄目なんだよ』


 その様子がやけに自虐めいたものだったから、すぐにピンと来た。

 何か、理由がある。アルマンは、ここまでされる心当たりがあったのだ


『……アンタもしかして、ナタリーさんに何かやったのか?』

『……まあ、ちょっとね』


 それだけ言うと、アルマンは頬をピシャリと叩き、身体をぐんと起こした。


『さてっと、そろそろ働くぞタクジくん! じゃないと、いくら君でもハニーが怒って夕食抜きの刑だ。僕は、それどころじゃ済まないだろうけどね』


 果たしてそこは笑い所だったのだろうか。


 ずんずんと干し草を両手一杯山盛りに持ち、出口へ向かっていく。

 そんな時だ。


『あ、ダーリン? ちょっと死んでくれる?』


 外に出る瞬間、その死角からナタリーが飛び出し、包丁の刃先を向けて、アルマンに駆け寄った。


 すぶり、とその華奢な身体が沈みこむ。


 突然の事で、アルマンもかわしきれない。

 ただし、その刃が突き刺さったのはアルマンそのものでなく、運よく両手一杯に持っていた干し草の中。当然、その刃先は届かなかったようだ。


『あーあ、また失敗しちゃった』

『ははは、そっか。まだ僕は死なないみたいだ』

『うーん……そうね、しょうがないからまた今度にする。……それよりダーリン、ジャーミンが産気づいてるみたいなのよ。ちょっと見てくれる?』

『うん、分かった。ちょっと待ってて。――――タクジくん、他の牛達を場に放してやっておいてくれないか。やり方は前教えた通りだから!』


 それだけ言うと、彼らは一緒に歩き去っていった。

 ――――その後ろ姿だけは、仲睦まじい夫婦の絵だった。



⋯⋯⋯⋯⋯



 それから、一週間が経った。


 その間も、ナタリーはまったく殺しの手を緩めず、何度も何度もアルマンを殺そうとした。

 不仲からの喧嘩というわけではない。怒鳴ったり、殴ったりしたわけでもない。

 まるでフレンチキスをするかのような気軽さで、アルマンを殺そうとするのだ。


 俺が知ってる中では例えば、二階から植木鉢を彼の頭上に落としたりとか、ビールにありったけの睡眠薬を混入したり、軽トラで轢き掛けたりと……その回数は枚挙にいとまがない。

 幸い、それらは全て失敗に終わっているものの、何時死ぬか分かったもんじゃない。アルマンが幸運なのはいいとして、いつまでも放って置けない。


 というわけで俺は、ナタリーから直接話を聞くことに決めた。


『今日はダーリン遅くなるみたいだから、先に食べちゃおっか。アスパラガスのスープとお魚のムニエルよ』

 

 アルマンの仕事は、町外れの郊外にある牧場経営の一環で、時折山を下りて作った農産物をよそに売ったりもしている。

 その質に関しては良好で、いくつも契約している店があるとか。意外と商売上手なんだろう。

 そんなわけで、基本定時終わりだが、週に一回は夜遅く帰ってくることがあった。


『……ん、美味い』

『本当? ありがとー』 


 頬が落ちそうなくらいの美味さだ。せっかく嫁にしてるのに、滅多にこれを食べられないアルマンは損している。


『実はね、ここに働きに来てくれたタクジくんにプレゼントがあるのよ』

『プレゼント?』


 ふふふ、と嬉しそうに笑ったかと思うと、台所にふらっと行って戻ってくる。

 持ってきたお茶碗には、山盛りの白ご飯が盛られていた。


『これ、ご飯っすか……? でも、何で……』

『んふふー、驚いた? マルコさんからの貰い物なの。親戚に日本の人がいるらしくて、ちゃんと日本のコシヒカリを炊いたのよ』


 これは凄い。まさかこのスイスくんだりまで来て、こんなもの食べられるとは思いもしなかった。


『でも、炊飯器は……』

『お鍋でも出来るよ。ちょっと水っぽくなっちゃったかもだけど、はいどーぞ』


 よそられた茶碗を受け取り、箸がないからスプーンでそれを口に運んだ。


『……十分美味いっすよ、これでも』


 確かに水加減がまだ上手くいかないのか、米というよりお粥っぽかったが、それでも炊飯器なしに初めて作ったにしては十分な出来だった。


『うーん、まだまだ要練習ね。もっとふっくらさせたいのよねー……』


 いい音を立てて、缶ビールのプルトップを開けるナタリー。

 ごくごくと流し込むように飲んでいくと、俺をじっと見た。


『……タクジくんって、確か16歳よね?』

『あ、まあ……』


 実年齢ならもう三十路だがな。


『なら、飲もうよ! ビールなら大丈夫でしょ』


 そう言って、空けてないビールの缶を突き出してきた。


 念のため説明しておくと、スイスでは酒の年齢制限が日本と違い、十六歳からビールやワインを飲むことが出来る。蒸留酒やスピリッツのようなアルコール度数の高い酒は十八歳以上からとまた別なのだが……まあそれはさておき。

 そんなわけで、ここは日本じゃなくスイスだ。なんのやましいことはない、至って健全だ。


 まだ未成年な同胞諸君、羨ましいと思うならスイスに来い。無理なら諦めて二十歳になるまで待て。

 お酒は二十歳を過ぎてから。


『じゃあ、乾杯』

『はーい、カンパーイ!』


 二つの缶が、小気味のいい音を鳴らした。






 で。

 その一時間後。


『でねー? 今夜は、あの人が寝てる時にナイフでぶっすり突き刺そうと思うの! こないだは昼だったから避けられちゃったけど、流石のあの人でも寝てたら無理よねー、あひゃひゃ!』


 すっかり出来上がったのがこちら。

 ナタリーは頬を上気させ、ハイテンションで自分の夫の殺人計画を話していた。


『こないだって……あれアルマンさんがかわしたんじゃなくて、ナタリーさんが勝手にすっ転んだんでしょうに』

『はれ? そだっけ? ……んー、いいのよそんな細かいことは! 女の子にもてにゃいぞー!』


 嬉しそうに声をひっくり返させて、叫ぶ。

 ナタリー自身元々明るい性格の人だが、今日は凄いな。あの乾杯から、俺しか飲んでないんだが。

 場酔いというやつだろうか。俺に飲ませるだけ飲ませておいて、自分は缶一本しか空けてないのに。悪酔いしてるのか、それともこんな酒の弱い人だったのか?


『アルマンさんもかなりラッキーな人ですけど、ナタリーさんも相当ですよ。どっかのコントかって話です』


 アルマンはくしゃみで危険回避を地で行くくらいの人だが、ナタリーももはやギャグ漫画レベルのドジッ子ぶりを発揮していて、もはや俺からすれば安心して見ているところさえあった


『かれこれ俺、ここに暮らし始めてから数週間は経ってますけど、全く成功してるとこ見てないですよ?』

『ぐぬぬ……』

『向いてないんじゃないですか、人殺しなんて』


 今なら言える。そう思って、そのことを話してみた。

 するとナタリーは、少しいじけたように唇を尖らせ、テーブルに頬を乗せた。もっちりとその頬が柔らかく形を変える。


『でもー……私は……殺さないと……』

『……もし、理由があるなら。聞かせてくれません?』

『…………』

『アルマンさんは、ナタリーさんに何かしたのかって聞いたら、うん、とだけ言ってた。彼が、何かしたんですか?』


 もちろん、嘘だ。あの時アルマンは、俺の問いに肯定はしていなかった。

 ハッタリをかまして、さらに追及しようとした、まさにその時だった。


『……うっ!?』


 突然、ナタリーが、ばっと顔を上げた。

 目を見開き、口元を手で抑えている。


『お、おい?』


 俺が声を掛けるも、彼女は慌てて駆けていく。その拍子に、腰かけていた椅子を蹴飛ばしてしまう。


『……うっ、お、おええええ……!』


 向かっていった先は、台所。そこで胃に入っていたもの全部、ぶちまけるように吐いた。


『だ、大丈夫か!?』


 俺も慌てて駆け寄り、その背中を擦ってやる。

 酒……なわけないよな、流石に。

 とすると、これは……。


『はっ……はっ……うっぷ』

『……まさか、アンタ』


 ――――ただ僕は……こうしてハニーと一緒にいられるだけで十分なんだ。それ以上のことなんて、望んじゃ駄目なんだよ。


 ――――……アンタもしかして、ナタリーさんに何かやったのか?

 ――――……まあ、ちょっとね。


 アルマンの言葉が頭の内に蘇る。

 そして今のこの状況。全てが噛み合う。まず間違いないだろう。


『アンタ達……デキ婚だったのか』

『さ、授かり婚って言って欲しいなあ、あはは……』


 ナタリーは、力なく笑う。

 だが、否定はしなかった。


『失礼』


 まだ片手は背中を擦りながら、もう片手を彼女の腹回りに添える。

 確かに、膨らんだ腹を確認した。やや小さいが、数ヶ月といったところか。普段、ナタリーは身体のラインが出ない服しか着なかったから、全然気付かなかった。


『どう? 赤ちゃん……ちゃんといる?』

『なんだ、おめでたなら言ってくれりゃよかったのに。どうして黙ってたんですか』


 まるで気付かなかった俺も俺だが。妊娠したら酒が駄目になるという話は聞いたことがある。知ってたら一杯だけでも飲ませなかったものを。


『ごめんね。えへへ……何か怖くって。あまり人には言わないんだぁ』

『怖い?』

『うん。……このお腹の中にいる赤ちゃんの重さが、命の重みが、怖くって』


 ようやく吐くだけ吐いたのか、顔をシンクから持ち上げた。

 俺はコップに水を注ぎ、それを手渡してやる。ナタリーは小さく微笑んで、口に含んだ。


『……ありがとうね、タクジくん』

『いいっすよ。それより、赤ん坊が怖いって?』


 そこそこ落ち着いたようだったから、彼女に寄り添い、その身体をソファまで連れていきながら尋ねた。

 別に、話の内容に意味はない。少しでも気が紛れるかと思ったまでのこと。俺の言葉を受けて、ナタリーはこう答えた。


『取り繕っても仕方ないから言うけど、ダーリン……アルマンとそんな関係になったのは、お酒の勢いだったの』


 話されたのは、そんな出だしの二人の馴れ初めだった。


 二人は、昔小学校が一緒だったというだけで、元々お互いをよく知っていた訳ではなかったらしい。それも、小さい学校だったからかろうじてお互い覚えていたものの、中学高校と進学した時にはすっかり疎遠になっていた。


 大人になった時、アルマンは親の仕事を継ぎ、今のささやかな牧場主に、ナタリーは町の市役所の窓口専務になっていた。

 関わりの無い職業であるせいで、これまで会うこともなかったらしい。


 二人が出会ったのは、町のとあるバーだった。


『たまたま一緒したカウンターで話し込んじゃって、そしたら同じ小学校にいたって二人とも思い出して……それが、二年くらい前だったかなあ』

『二年前……てことは、それまでの一年強は?』

『週に一回くらい、そこで待ち合わせて……一緒に飲んでたよ。たまに、お昼にランチに行ったりとか……』

『……付き合ってたってことですか』

『つ、つきっ!?』


 俺がそう言うと、途端に挙動不審になり、手をわたわたさせた。


『つ、付き合ってはないよ! だって、ほら、告白とかしてなかったし!?』

『え、でもデートもしてたんでしょ? それなら事実上付き合ってたってことになるんじゃ』

『む、むぐぅっ……』


 ダーリンとか呼んだり子供までこさえておいて、何を今更と思う。色々手順をすっ飛ばして、デートなんて言葉一つで赤くなって。

 ……いや、だからこそ、なのかもしれない。


『でも、付き合ってたなんて感覚無かったもん……その、最後に致しちゃったことも、最初はどっちがお酒多く飲めるか勝負してただけで……それで……』


 段々、言葉尻が途切れ途切れになっていく。

 やがて、すっかりうつむいてしまっていた。


『そう思ったら、何だか赤ちゃんに申し訳なくなってきて……私達は、本当にこの子を育てられるのかなって。そんな資格、無いんじゃないかって』

『だから、アルマンを殺そうとした?』

『…………』


 いや、分かってる。流石にそれだけでは発想が飛びすぎている。それが原因ではあるが、全てではない。

 考えられることはいくつかあるが……はっきりさせるために、最後に聞いておきたいことがあった。


『……それで、結局アンタはアルマンさんが嫌いなのか? 子供なんか作っちまって、その原因のアルマンさんが殺したいほど憎いのか?』

『そ、それは違うよ!!』


 部屋中いっぱいに、ナタリーの声が響いた。


『違う……そうじゃないの。私は……』


 ポツポツと、彼女のズボンに滴が落ちる。感情が高ぶって、感極まってしまったのだろう。


『そうじゃないんだよ……』

「…………」


 俺達は、しばらく黙りこくっていた。

 気まずささえ感じる沈黙が、その場に降りた。


 そんな時だ。


 玄関の方から、扉を叩く音がした。


『おーい、ナタリーさん! 居るか!? 開けてくれー!』


 ノックの回数は多く、しかも大きい。扉を通して外から聞こえる声は、どこか剣呑だ。

 何か、緊急を知らせようとしている雰囲気は、遠くからでも伝わってきた。


『……あ、えと。何だろ。ちょっと行ってくる』

『気分、大丈夫ですか? 代わりに俺が応対しても……』


 妊娠してると知らなかったら、多分こんな気遣いはしてなかったろうな、と思いながらもそう言ってみる。

 だが、ナタリーは手を軽く振って、まだ酔ってるかのような危なげな仕草で立ち上がった。


『あはは、平気よーこれくらい』


 そのまま、意外と足取りはしっかりしていたが、一応その後ろを付いていった。その間にも、ひっきりなしに扉を叩く音が続いていた。


『はいはい、今開けまーす。そんな急かさないで~』


 ドアを開けると、そこには一人の中年男性が焦燥に駆られた顔で立っていた。

 見覚えがある。

 頭のてっぺんだけが円形につるっとハゲて、それを囲むように髪がもじゃもじゃと生えている。


『マルコさん? どうかしたんですかー?』


 ナタリーの質問に、彼は何度も口を開いては閉じを繰り返し、まごまごしている。


『あ、なんというか、話は、聞いて……ないのだね。その様子だと』

『え? 話、ですか?』

『あー、ええ、うむ。何と言ったらいいのか……』


 どうも要領を得ない。

 そんな彼の様子に、段々俺の方がイライラしてきて、少しナタリーを押し退けるようにして前に出た。


『御託も前置きも気遣いもいらない。早くその話とやらを聞かせてくれません?』

『な、なんだね君は。口の利き方がわる――――』

『いいから、早く』


 言葉少なに、睨みつけてやる。

 マルコは、何か言いたげに口を動かしていたが、それどころじゃないと考えたのか、ナタリーに向き直った。

 そして、こう告げた。


『落ち着いて聞いとくれ。――――アルマン君が、車の衝突事故で病院に搬送されたらしい』



⋯⋯⋯⋯⋯



『ごく軽度の脳震盪ですね。事故状況にしては、彼は非常に運が良い。どちらかというと疲労の方が深刻なくらいなので、栄養剤を投与して翌日まで何もなければ、すぐ退院出来ますよ』



 結論から言わせてもらうと、アルマンは大した怪我はしていなかった。

 マルコに連れられて、駆け付けた病院の医者から、温度差のある口調でこう告げられた。


 ナタリーは、すっかり気が抜けたかのように、ぺたんとその場に座り込んだ。

 無理もない。俺でさえ一瞬、何を言われたのか分からないくらい呆然としていたくらいだから。


 そうだった。アルマンの幸運を舐めていた。結婚してからずっと、妻の暗殺を避け続けていた男だ。

 いっそ漫画に出てもおかしくないくらいラッキーな男だ。心配は無用過ぎた。


 それでも、最悪の事態を考えていたせいで言葉が出ずにいると、ナタリーが突然泣き出した。

 まるで、子供のように安心して泣いていた。

 笑ってしまう。こんな人が、アルマンを殺そうとしているのだから。

 殺すはずの人間が死ななくて、安心して泣いているのだから。まったくもって、ちぐはぐもいいところだ。


 それから俺達は、アルマンのいる病室に連れてこられて、アルマンの普段通りの寝顔を見た時、ナタリーはまた号泣してしまった。

 わんわん泣いて、隣の病室にまで届くんじゃないかと思うくらい、とにかく泣いて。


 落ち着いた時には、泣きはらして目元が真っ赤になった彼女が、アルマンのそばで見舞っていた。


『…………』

『……どうですか? アルマンさんは大丈夫そうですか?』

『うん、大丈夫みたい』

『何か、飲み物いりますか』

『ううん……いいや。ありがとね』


 ナタリーは、じっと夫の寝顔を見ている。

 腰かけた丸イスから、微動だにしない。かれこれ、一時間はこうしている。視線さえ動かしていないのではないか。


『……今』

『え? ……タクジくん、何か言った?』


 そんな彼女に、尋ねかけようとする。

 そうすべきじゃないかもしれないと少し逡巡したが、結局はナタリーに言葉を掛けた。


『今、殺したりはしないんですか?』

『…………』


 そう、今なら。

 今なら間違いなく殺せる。


 ――――今夜は、あの人が寝てる時にナイフでぶっすり突き刺そうと思うの!


 奇しくもこの瞬間、彼女が言った言葉が現実味を帯び始めている。

 果物ナイフくらいなら、頼めば借りることが出来るだろう。それで意識の無いアルマンを殺すのは容易だ。その先の事を考えなければ、の話だが。


 病室に、重苦しい沈黙が訪れた。

 ナタリーが、どう返事するのかさっぱり分からない。殺す、と言うような気がするし、殺さないと言うかもしれない。

 殺す気ならば、俺は止めていた。アルマンへの情というわけではない。単純に、殺人を分かっていて見過ごすのは、俺としても都合が悪いだけの事だ。夫婦間のもつれなんて、知ったこっちゃない。単なる市民の義務だ。


『…………』


 ナタリーの返事を待った。待ち続けた。

 ゆうに十分弱の時間が流れただろうか。再度、口を開いて尋ねかけようとした。


 その時だった。


『……うん。今日は、そんな気分じゃないや』


 ナタリーは、ぽつりとそう告げた。

 殺さない、と。ずっとアルマンを殺そうとしていた彼女が、初めて、殺さないと言った。


『……そうですか』


 ふっと、無意識に息がこぼれた。


 一晩中見張るつもりだったが、止めた。

 ナタリーが、初めて殺さないと言った事の重みを信じ、俺はそれだけ言ってやって病室から出た。


『あら、アルマンさんの』


 用を足して、病室に戻ろうとすると、すれ違ったナースが声をかけてきた。


『どうですか、奥さんのご様子』


 アルマンよりも、そっちの方の状態を尋ねてきた。アルマンは全く問題ないということを言外に示していると同時に、ナタリーの騒ぎがナースにまで知れ渡っているらしいことに苦笑いを浮かべてしまう。


『大丈夫だと思います。もうだいぶ、落ち着いていたようですし』

『そうですか。私、女ですけどアルマンさんが羨ましいわあ。あんな風に想ってくれる伴侶がいるんですもの』


 確かに、そうかもしれない。 

 ナタリーは一途にアルマンを想い続けている。――――良くも悪くも。

 

 想いは、人を動かす。ナタリーのそれは、愛でなければ、憎悪でない。しかしそれと同時に、愛であり、憎悪であるのだ。


 人間は一概に、一言で言い表せるような感情を持ち合わせてはいないのだ。ある対象に好きという感情しか向けられないのならば、それは好きというプログラムが組まれたロボットでしかない。

 相反する感情を持ち、その矛盾に葛藤するからこそ、人間は人間たらしめる。


 言葉で言い表せないもどかしさこそが、人間の奥深さってことだ。


『仲のいいご夫婦ですよねー、アナタ息子さん……は年が近すぎかしら。ご親戚の方ですか?』

『……俺は、ただの居候ですよ』


 ただ一つ、俺に言えることは。


 何のことは無い。アルマンを見舞っているナタリーの後ろ姿は、夫の死を恐れる、至って普通の妻の姿だった。

 


⋯⋯⋯⋯⋯



『ん、んん……』

 

 朝、七時前。


 ベッドに横になっていたアルマンが、目を覚ました。


『こ、ここは……』

『病院っすよ』


 起きたばかりの彼に、そう声をかけてやる。

 ナタリーはというと、泣き疲れたのだろうか、あれから数十分した後に寝息を立ててしまっていた。今は、アルマンの足付近に手を敷いて、上半身を折りたたむような形で頭をそこに預けていた。


『病院……何で……?』

『アンタ、事故ったんですよ。ナタリーさん、心配してました。起きたら謝っといたほうがいいっすよ』

『事故……ああ、そうか。そうだった……帰り道、標識にぶつかっちゃって……』


 少しぼんやりしている様子の彼だったが、目の焦点は俺に合ってきている。多分、大丈夫なのだろう。


『痛みはありますか? 医者の話だと、たんこぶは出来てるみたいですけど』

『いや、うん。それ以外は大丈夫かな』

『そうっすか。この後検査もあるみたいなんで、そこで何もなければ、今日中に帰れるみたいですよ。良かったですね』

『そっか……良かった』


 ほっと安心したかのように、息を吐くアルマン。


『あ、でも今日の牧場は……』

『マルコって人が家族でやってくれるそうです。今日ばかりは安静にしておけと言伝されました』

『……何から何まで、って感じだね。絶対今日中には何とかするよ』

『それがいいっすよ。……それで、ですね。折り入って話があります』


 俺の言葉に、アルマンが首をかしげる。


 ぺこり、と頭を下げてから続けた俺の言葉に、彼はかなり驚いていたようだった。


『俺、今日限りでお二人の家から出ることにします。今まで居させていただいて、ありがとうございました。お世話になりました』 

『ええっ!? ほ、本当かい!?』

『ええ。もう準備はしてありますから、この病室でさよならです。ナタリーさんに、よろしく伝えておいてください』

『ちょ、ちょっと、ちょっと待って! 待って待って、いきなりどうしたの? 僕達が何かしたのかい!?』


 頭を上げると、狼狽した様子の彼が、こう尋ねかけた。


『確かに僕達、一日中殺し殺されてきたけど、それが気に食わなかった? それとも、仕事辛かったの?』

『ああいや、別に悪いことがあったわけじゃなくて。俺、まだ旅の途中なもんで』


 行き先は特に決まってないけども。

 目的は武者修行だったから、何時までも一つの場所に留まる気は無い。


『……本当に行っちゃうのかい? いっそ僕達の家族の一員になっちゃわない? 僕は歓迎するのに……』

『すみません、突然で』

『……せめて、ハニーにも声をかけてからでも……』

『いえ、出来るだけ後腐れ無い旅立ち方をしたいので。別れるのが辛くならないうちに』

『そっかぁ……』


 視線を落とし、何か考える素振りを見せた後、アルマンは手を差し出してきた。

 

『……分かった。いいよ。数週間だけだったけど、ありがとうね。とても助かったよ』

『……いえ、こちらこそ』


 近付いて、その手を握り返す。

 分厚くて大きい、マメの多い男の手だった。


 その握手した手の中に、そっと『ある物』を忍ばせる。


『え? タクジくん、これは……?』


 そっと手を離すと、アルマンは自分の手の中にある異物感に気付き、尋ねた。


 開かれた手の平には、俺のスマホに内蔵されていたSDカードがあった。


『それは、ある人の想いの丈がぶちまけられた音声が入ってるメモリーカードです。〝昨日、夕食中にこっそり録音してまして〟。置き土産というか、アルマンさんにプレゼントしますよ』


 それだけ言うと、アルマンははっとしたような表情を見せた。

 そう、昨日の晩、ナタリーと二人で会話して話を聞き出そうとした時、既にスマホの機能を使って録音していたのだ。


『最後に一つだけ。聞けば分かることですが、彼女は、怖いと言っていました。生まれてくる赤ん坊のことが』

『…………』

『でも、本当は違ったのかもしれないです。本当は――――貴方が死ぬことが怖かったんじゃないでしょうか。赤ん坊を置いてしまうかもしれない、貴方が』

『僕は、そんなこと――――』

『今回がそうじゃないですか。事故で、死ぬかもしれなかった』


 その一言で、アルマンの反論を封殺する。


 そう、死なない人間なんていない。

 アルマンがどれだけ幸運でも、何時かは死ぬ。それは病気かもしれないし、今のような事故かもしれない。老衰かもしれないし、ナタリーの暗殺が成功するかもしれない。


『貴方が死ぬかもしれないから、ナタリーさんは貴方を殺そうとしたんですよ。〝それが、失敗すると信じていたから〟』


 思えば、毒殺の時もジャムが変色したり、ナイフで突き刺そうとした時も、その前に死んでちょうだいと声をかけていた。本当に殺すつもりなら、いくらナタリーでもそんな分かりやすい事はしない。もっと確実で、簡単な方法はいくらでもある。


 それをしなかったのは、アルマンに死んで欲しくなかったからという一言に尽きる。

 少し奇妙ながら、ナタリーは殺人という形でアルマンに依存していたのだ。


『自分の暗殺が失敗して生きている貴方を見て、きっとナタリーさんは安心してたんだと思います。まだこの人は死なない、まだ私達を置いて行ったりしない、と。赤ん坊が怖いっていうのも、つまりはそういうことです。軽はずみで出来てしまった子供を、死なんていう軽はずみで置いてはいけないと思ったから。殺そうとしたことで、亭主である貴方が死なないのを確かめたかったんだと思います』

『…………』


 矛盾しているのかしていないのか、よく分からない想い。

 傍から見れば、常軌を逸した行動だとしても。

 一人の妻として、非常識的な振る舞いだったとしても。



 少しよく見てやれば、こんなにも普通の愛情表現だ。



『だから、自信を持ってください。自分は嫌われてるなんて思わないでください。一緒にいるだけで十分と思わずに、もっと奥さんと話して、奥さんを見てやってください。少しでもお互いがお互いの見る目を合わせれば、きっと分かることがあるだろうから』

 

 長々と、言いたいことが言えてすっきりした。

 が、同時にこれで良かったのかと自問する。


 少し出張り過ぎたような気さえする。俺の考えが全部合ってるなんて思わない。勢いに任せて、言い過ぎたかもしれないと思った。


『……と、俺は思います。あくまで一意見だから、後はお二人次第です』


 差し出がましかったでしょうけど、と言おうとすると、アルマンは目を丸くしながら、呆気にとられた様子で、呟いた。


『……君、本当に十六歳かい? まるで、年上を見ているかのようだよ』


 その言葉に、ニヤリとして口角を持ち上げた。


『まあ、だてに濃い人生送ってないんでね』

『そ、そうかい……』

『話はそれだけです。それじゃ、お世話になりました。お大事に』


 そう言い置いて、立ち去ろうと病室のドアに手を掛けた。

 

『あ、待って』


 声をかけられて、振り返る。


『……ありがとう、タクジくん』

『どういたしまして』


 ナタリーの頭に手を置いて、優しく撫でているアルマンの姿が、最後にちらりと映った。



⋯⋯⋯⋯⋯



 これは、とある農場を営む夫婦の会話。

 


『はーいダーリン! ここの牛から取れたお乳を発酵させて出来た濃厚チーズがようやくお披露目よ~。カリカリベーコンと合わせてどうぞ召し上がれ~!』

『あ、あの。ハニー? ハニー……マイ・スイートハニー?』

『どうしたのダーリン、食べてくれないの……?』

『ああうん、食べたいよ。お腹も空いたし、これだけのいい朝だ。朝ご飯食べて、今日も一日頑張らないといけないし……でもね? このトマトと赤ピーマンを一緒にミキサーにかけて混ぜたような色をしている液体は一体……』

『ウチの特製ブレンドコーヒーよ?』

『……オーマイゴッド』

『たーんと召し上がれ、ダーリン♪――――致死量に届くまで、お腹一杯、ね?』



 一見、とても正常とは思えない、危ういバランスの元にある夫婦の日常。



『……あれ? これは?』

『え? これ? マルコさんからまた貰っちゃったのよー』



 しかし、それでも。



『美味しそうだね、これって……ジャパニーズライス?』

『そうなのよー、しかも聞いて! 水加減もばっちり、ちゃんとふっくら出来たの。ずっと練習したんだから~!』

『へー、凄いな。ありがとう』

『でも、錠剤は形が違って目立つし、白くて毒仕込むと変色して丸わかりで。そのせいでこれには毒が仕込めなかったのよね――――』



 愛はここにも、確かに存在する。



『――――だから、安心して美味しく召し上がれ♪』


 




初作品です。誤字脱字報告、または感想・批評等あればぜひお願いします。

【追記:八月十九日】加筆修正しました。

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